朝井リョウ『武道館』

 

 朝井リョウ『武道館』。

 一気呵成。

いちご同盟』以来ではないか、ここまで一気に読み終えた小説は。

 実は、私は小説を読むのが苦手だ。

 というのは、初めて小説を読んだのは大学生のときで、それまで読書をしたことがなかった(それを誇りに感じていた時期があった)。

 そのため、読書訓練をせずに、やって来たもんで、だから、ほかの読書家に比べて、小説を読むのが遅かったり、感性が鈍かったりする。登場人物を取り違えて読んでしまうこともしばしばある。

 そんなもんだから、私は一気呵成に小説を読むことがめったにない。

 しかし、『武道館』はあまりの面白さに一気に読んだ。

 まあ、『武道館』はアイドルが主人公だから、坂道シリーズ好きの自分にとっては、とても読みやすい題材だったのだが。

 ともあれ、朝井リョウはすごい。

 アイドルを主人公に置くことで、物語はライブとか握手会とかスキャンダルなど、そういうことに触れるだろうなと予期していたが、それらが使い古されたちゃちい物語になることなく、文学的な要素をきちんと残している。さすが直木賞作家。

 

『武道館』で一番感銘したセリフがある。

 それが以下(この言葉について詳らかにすると、小説のネタバレになってしまうため、多くは語らないことにする)

 

 正しい選択なんてこの世にない。たぶん、正しかった選択、しか、ないんだよ。

 

 何かを選んで選んで選び続けて、それを一個ずつ、正しかった選択にしていくしかないんだよ

 

 これはアイドルメンバーの碧という子のセリフ。

 

 

 人の生き方は良い悪いではない

 目の前の分かれ道の選択に悩みこそすれど

 それを不正解と言ってしまう選択こそ 最も不正解なのだ

 

 

 amazarashiの『ナモナキヒト』とダブる。

 

 私たちは今までいろんな選択をしてきた。

 そして、その選択が正しかったか間違っているかなんて正直わからない。

 なぜなら、碧が言うように、「正しい選択なんてこの世にない。たぶん、正しかった選択、しか、ないんだよ。」だからだ。

 つまり、選び続けてきた結果を、後で振り返ったとき、それが「正しかった」と言えるようであれば、それでいい、といった清々しさを感じさせるくらいのことを言っているのだ。

 だから、一番ダメなのは、その選択を「正しくなかった」と悲観することだろう。

 それこそ「不正解」だ。

 

 人はあらゆる場面で選択を強いられる。

 その数多くの選択で選び取った結果で「今」である。

 過去は変えられない。

「今」を享受するしかない。

 そして、そんな「今」を楽しむためには、過去での選択たちを「正しかった」と認める必要がある。

 私の場合、浪人してしまった過去を「正しかった」と認めることだろうか。

 浪人したことで出会えた人もいるし、経験できたこともある。

 そのおかげで今の自分がいるなら、それでもいいのかもしれない。

 

 これこそ、もしかしたらよりよく生きるための思考法なのかもしれないな、と。

 

 

鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』

 2018年に滋賀県内で起きた実母殺害事件。

 被告は母親から教育虐待を受けていたことが明らかになり、その実態は想像を絶するひどいものだった。

 被告は母親から地元の国公立大医学部医学科に入学することを強く求められ、国立大学医学部看護学科に合格するまで、9年間にわたる浪人生活を余儀なくされた。その間、母親から携帯電話を取り上げられるなどして過度の束縛を受けていたという。

 また、看護師としての就職内定が出たにも関わらず、母親からは助産師学校に進学するよう要求され、被告がそれを拒むと、母親は激昂し、夜通し叱責したという。

 そして被告は母親を殺害し、「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と、被告はTwitterでツイートした。

 

 新潟青陵大学大学院教授、社会心理学者の碓井真史さんは上記の事件に関して、次のように語っている。

 

 勉強も学歴も良い就職も大切です。でも一番大切なのは、子供の幸せです。そんなことは親もわかっているのでしょうが、何が子供の幸せなのか、意見が食い違います。

 

 努力は大切であり、努力は報われます。けれども、努力すればみんながスポーツ選手になれたり、医学部に合格できたりするわけではありません。能力差と個性があります。スポーツでも芸術でも勉強でも、好きで得意な子は親に言われなくてもやります。無理強いは、しばしば逆効果です。

 

 誰かに相談するというSOSだけでなく、子供の時に不登校でもプチ家出でも、反抗でも、どんな形でもSOSが出せていればと思うと残念です。一生懸命子育てすることは良いことです。一生懸命に花の世話を焼くように。ただ、育てた結果どんな花を咲かせるのか、それはもう親が決められることではありません。

 

 医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態(47NEWS) - Yahoo!ニュース

 

 ボクの人生の主人公はボクじゃない。ボクは“RPG母さん”の2周目だ

 

暗殺教室」の渚くんの言葉。

 渚くんの母親はレールを敷き、そこに息子を走らせようとするタイプのひとだった。

 漫画を見てもらったらわかるが、渚くんの母親はやりすぎなくらいに息子を束縛する。

 そこまでではないにしても、親の束縛に苦しむ子どもたちは多くいると思う。

 だったら、その束縛から逃げろ、と言われるのかもしれないが、「親の期待」に応えようとしてしまう子どもも多くいる。

 

 鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』で、「親の期待」に応える理由をこう述べている。

 

・「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

・「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」

・「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」

・「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」

・「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」

 

 だが、そもそも「親を大切にすること」と「期待に応えること」は違う。

 たとえば、娘が女性が好きで、男性と結婚する願望がないとする。娘が母親にそのことを告げると、母親はショックを受け、「絶対に普通の結婚をさせる」という。

 この場合、「親の期待に応える」ことは、親の願望通り、男性と結婚するということなのだが、娘がLGBTである以上、その期待に応えることはもはや無理な相談だ。だからといって、娘が親を大切にしていないかというとそうではない。親に対して今まで育ててくれたことへの感謝の気持ちもあるはずで、その気持ちと「男性と結婚させようとする母親」に失望する気持ちは矛盾しないはずだ。

 この例の場合、娘が母親に自信がLGBTであることを打ち明けているが、もし逆に「親に嫌われたらどうしよう」と不安に思い、自信の性質について話さなかったらどうなるだろう? きっと、娘はもっと心苦しい道を歩まされていただろう。女性が好きなのに、「結婚はまだなの?」とか、男性と結婚させようとしたりとか。

 

①「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

 とにかく両親を怒らせまいと抵抗しなかったり、面倒くさいからといって黙って受け容れていたりすると、のちのち、大きな苦しみと後悔に苛まれることになる。

 親は「なんでも言うことを聞く良い子」(良い子ではないんだろうね)とか「自分の意見がなさそうだから私が決めないと」と、どんどんエスカレートしていく。

 だから、まず、何か嫌だとか、違うと思ったら、それを口に出す。

(そういう意味で、反抗期というのはとても貴重な時期なのだ。ちなみに私には反抗期がない。)

 親子関係の悪化が懸念されるかもしれないが、結局のところ、お互い「落としどころ」を見つけられたらそれでいいのだ。

(親子関係以外にも友人関係、職場関係でもそうだが、「どうしても合わない人」というのはいて、そういう人とは、「なんとかやっていく方法」を考えるのだ)

 

 日本は「みんな仲良く」同じ格好をする国だ。

 同調圧力という言葉が嫌なほどに似合うのが日本という国だ。

 親子関係を崩したくないあまりに「仲よくすることが一番正しい」と思い込んでしまっている。

 でも、親に対し、異議があるときは、ぶつかるべきなのだ。

 親に従い、親と仲良くすることが、「自分の希望」よりも大切なことなのだとみんな思いがちだ。そう思ってしまう原因は「同調圧力」だ。

 価値観が多様化しつつある、現在、人それぞれが大切にすることが違ってきている。

 そして、それを親に伝えなければならない。

 「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

 そう思うあまり、「親の期待」の無条件で従うことはない。

 反抗してもいい。

 親を大切にする気持ちと親の期待に沿うことは違うのだから。

 

②「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」

 子育てとは「子どもを健康的に自立させること」だと筆者は述べる。

 目指すのは親から「健康的に自立すること」

 不幸な事故や病気を除けば、普通は親が先に死ぬ。

 どんなに子どもを大切に守っていても、必ず、守り切れないときがくる。

 その時、「ずっと親に頼ってきて、自分一人では何も決められない」という子どもを残して親が死んでしまうことほど悲劇はない。

(これ、マジ)

 だが、世の中には、進学も就職も結婚も全部親のアドバイスに従って、子どもが生まれたら教育方針や行く学校まで親の意見に従ってしまう人がいる。

 子どものころから「自分の頭で考える」という訓練を受けなかった結果だ。

 また、子どもに「自分の頭で考える」ということを許さなかった親の結果だ。

(私自身、親から「お前にはこれが向いている」「これが向いていない」と言われ、選択肢を取捨選択されてきた。実際、自分が今教師であるのは、親から「お前は会社員には向いていない。教師なら一匹狼でも許されるから教師になるべき」と言われたからだ。当時はマジで自分の頭で考えるということをしていなかったので、それを鵜呑みにしてしまった。今では後悔しているのだが、結果的に教員になれてよかったと思える節はある)

 

「他人」と「他者」は違う。

 前者は「あなたとまったく関係のない人」のこと。

 後者は「あなたにとって、受け容れるのは難しいけれど、受け容れなければいけない人」であり、同時に「受け容れたいけれど、受け容れたくない人」のこと。

 たとえば、母親があの子と遊んじゃいけません、という。しかし、あの子は自分にとって親友である。この際、母親は「他者」になる。「受け容れたいけど、受け容れたくない人」。このどっちつかずの状態に耐え、手探りで試行錯誤しながら生きていくことが「大人になる」ということだ。

 

 親の言うことを「全部受け容れる」という時期のあと、「全部受け容れない」という時期と「やっぱり受け容れる」という時期を繰り返しながら、子どもはゆっくりと自我を育てていく。やがて子は親にとって「他者」になっていく。

 これが「健康的な自立」なのだ。

 いつまでも親の言うことをなんでも聞く聞き分けのいい子は「他者」になりきれていないのだ。それでは子どもは、親が年老いても自分で物事を判断できなくなってしまうという悲劇の一途をたどることになる。

(また、近年、毒親と呼ばれる親がいる。虐待とかももちろんそうだが、一番上に書いた肉体的な虐待ではなく教育虐待とかする親も毒親だ。また、過保護、過干渉の親もそのように呼ばれる。「おまえはくずだ」と言い放つ毒親もいる。そういった親のもとに育った子はえてして自己肯定感の低い人間に育ってしまう。そんな親から逃げてしまいましょう、というのが筆者の意見だ。

 ……まだ未読だが、毒親をテーマに熱かった武田綾乃さんの『愛されなくても別に』を購入した。ぜひ早く読んでみたい)

 

③「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」

 親からの押し付けが嫌なら、自分自身で自分の人生を切り拓きたいなら、なるべく早めに「自分の目標」を見つけた方がいい。

 そう筆者は提言している。

「自分の目標」が明確なら、「親の希望」に対して冷静に対応できる。

 俗に言われる優等生は、親の期待、要求、顔色を優先して、自分の希望を考えないことが多い。また、自分の希望を見つけたといっても、実はそれが「親の希望」だったというケースもある。

 

 人生の目標を見出せ、といってもなかなか難しい。

 なら、逆に「何をしたくないか?」を考えるというやり方もある。

「警察官と消防士、どっちにになりたくないか?」

 →警察官になりたくない

「消防士と教師、どっちになりたくないか?」

 →消防士になりたくない

 ……という具合に。

 

 大切なのは「考えること」と「悩むこと」をきちんと区別することだ。

 考えれば、やるべきことを見出す。

 しかし、悩めば、ただ時間だけが過ぎていくだけだ。

「考えること」「悩むこと」それらを区別することが大事だ。

 考えて、やるべきことを見出したら、まず動きだしてみる。

 自信がない、とか言っている暇はない。

 そもそも自信の根拠など存在しないのだ。

 誰かは「君は○○に向いている」というし、誰かは「君は○○に向いていない」という。

 他人の評価など曖昧なんだし、結局、選択するのは自分自身で、自信の有無関係なく、動きださなければ何も変わらないだろう。

 

 とにかく「考えること」が何よりも大切。

 問題なのは、自分の頭を使わずに、親の考えをそのまま自分の考えだと思い込んでしまうことだ。また、親に任せて、自分が考えることを放棄してしまうことだ。

 

 だからこそ、「自分は本当は何がしたいんだろう?」と考える訓練は必要なのだろう。

 

④「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」 

 筆者がインタビューしたひとのなかにこんなことを言った中学生がいた。

「母親が『自分は若いうちに結婚して専業主婦になったので、人生がつまらなくなった。だから、あなたには、結婚は後回しにして、できる限り仕事をして自分の人生を持ってほしい』と私にいます。別に結婚してもつまらなくないかもしれないと思うけれど、早く結婚したら失望されそうな気がする」

 こういったふうに親が子の生き方を束縛するようなケースは多くある。

 なぜ母親はそんなことを言ったのか?

 それは、言いたいからだ。

 若いうちに結婚しても人生はつまらなくなるとは限らない。

 しかし、若いうちに結婚したら人生はつまらなくなる、と言いたいのだ。

 どんなに不確定な情報だとしても、感情が高ぶると人に伝えたくなるってことはあるのだ。

 母親が伝えたいことは「人生つまらなくなった」ということ。つまり、「私の人生はつまらない」と伝えたいのだ。

(そんな母親にはじゃあ人生を面白くするために趣味をつくればいい、とアドバイスをすればいいのかもしれないが、子からするとなかなか言い出しにくいよね)

 また、世間体を気にする親の場合、自分の息子・娘がいい大学に進学したら、それを自分のステータスとして自慢することだってある。子どもにとってはいい迷惑だろう。

 親の人生は親のものだし、子どもの人生は子どものもの。

 自分を否定する親の期待に絶対に応えてはいけない。

 親が失敗したからといって子が同じ失敗するとは限らない。

(そもそも時代が変わっているからね)

 そして、やってみてそれが失敗したかどうかは、自分で判断していく必要がある。

 

⑤「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」

 「世間」と「社会」は違う。

 前者は、あなたと関係のある人たちのこと。→学校、塾、近所の人たち

 後者は、あなたと関係のない人たちのこと。→同じバスや電車に乗り合わせている人たち

 日本では、その線引きがはっきりしている。 

 顕著なエピソードがある。

 これは『COOL JAPAN』に出演した外国人の証言。

 駅でベビーカーを抱えている女性がいても、周りの人たちが助けようとしなかったという。

 これは「日本人が冷たい」というより、相手が「知らない人」だからだ。

 もし「知り合い」なら助けるだろう。なぜなら「世間」に属する人だから。

 しかし、ベビーカーを抱えた女性は「社会」に属する人。あなたの知らない人、だ。

 日本人は「世間」の人たちをとても大切にして、「社会」の人たちは無視をする。

(海外では「世間」というものがない。あるのは「社会」だけ、だそうだ)

 

「世間」には5つのルールがある。

 一つめは「年上がえらい」こと。

 二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。

 三つめは「贈り物が大切」だということ。

 四つめは「ミステリアス」ということ。(小学生はランドセルとか就活生はスーツとかいう「謎ルール」。)

 五つ目は「仲間外れを作る」ということ。

(それぞれの具体例は割愛する)

「世間」があるからこそ、「みんな仲良く」とか「同調圧力」とかが生まれた。

 さらには日本では親と子供が別々ではなく、ひとつに見られている。

 これは有名人の子どもが事件を起こした際に、その親が謝罪をする風潮があるということからわかることだろう。

 

 以上のような日本特有のルールがあるから、子どもは親の期待に応えないと罪悪感を抱えてしまう。

 親は年上だから無条件でえらいものだから、言うことを聞かないといけない、という意識。親の言葉に逆らうと、大切なまとまりを壊してしまったような気持ちになる。

 これが「罪悪感」の正体だ。

 このとき、子どもは親の付属物になっている可能性が高い。

「個人」ではなく、家族の付属物にされている可能性が高い。

「罪悪感」が強ければ強いほど、家族は「世間」になっている。

 これは個人の問題というより、日本の文化そのものとつながっている。

 だから、罪悪感から逃れるのはなかなか難しいことなのだ。

 

 では、この罪悪感とどう戦うか?

 その方法は家族が「世間」になっているということを考えれば見えてくる。

 世間のルールをもう一度書く。

 一つめの「年上がえらい」こと。

 二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。

 三つめは「贈り物が大切」だということ。

 四つめは「ミステリアス」ということ。

 五つ目は「仲間外れを作る」ということ。

 

「年上がえらい」ことについて。

 親が「親の言うことを聞け、親だから」と言うとする。

 そのとき「親のアドバイス」と「親を大切にすること」を分けるという方法をとればいいのだ。

 

「同じ時間を過ごすことが大切」だということについて。

 親は「他者」になり、それぞれが自分の目的をもって別々の時間を過ごすことが「健康的に自立する」ことだから、そんなルールに縛られる必要はないのだ。

 同じ時間を過ごすことが親子の証明ではない。

 

「贈り物が大切」だということ。

 親にいろんなものをもらってばかりでは自立できない、ということだ。

 とにかくお金を稼ぎまくって、親に頼らないでよくなるまで頑張る。

 親は贈り物をすることで、子を「世間」の一員につなぎとめようとするのだから。

 

「ミステリアス」ということ。

 家庭内にある謎ルール。

 私の家の場合、毎日食卓で曜日ごとに決まったテレビ番組を見ながらご飯を食べるというルールがある。

 絶対に家族いっしょにご飯を食べないといけないし、テレビも絶対につけないといけない。

 別に食事の時間が異なってもいいだろうし、見たい番組がなければテレビを消してもいいはずだが、それらは基本的に許されない。

 もう私の家の謎ルールはそんなに悪いものではないが、家庭によっては子を不幸にさせるようなルールもあることだろう。

 それについては早めに異議を呈さないといけないかもしれない。

 

「仲間外れを作る」ということ。

 家族内で「○○さんはダメよね」と言い出したら、アウト。

 筆者は部屋に逃げ込みましょうとまで言っている。

 誰かを排斥することで、家族の絆を強められないなら、強めない方がいい。

(日本的だが、誰かをスケープゴートにすることで、団結力を固めようとする風潮がある。それを私は現職で見てしまっている。なんとも……)

 

 筆者は次のようなことを言う。

 

 

あなたと親は、ゆっくりと互いに「他者」に成長していく。

 あなたはあなたの人生を幸せに生き、親は親の人生を幸せに生きる。

「愛情がルール」の場合でも、「人情がルール」の場合でも、やがて「健康的に自立すること」を目指すのです。

 

 

 

 最後に――

 親の「付属物」として扱われることは楽だと思う。

 でも自分は誰の人生を生きているのか?

 自分の人生を生きているはずだ。

 親の言いなりになって、親がするなと言ったことはしないし、親がしろと言ったことはする。そんな生き方で果たしていいのか?

 親が死んだあとはどうやって生きるのか?

 これは今の主体性を失っている子どもたちへの警鐘であり、まぎれもない、私自身への警句である。

 

 はやく「個人」にならないといけない。

 

 

お悧巧さんの憂鬱

 太宰治の作品でいちばん好きなのは『葉桜と魔笛』だ。

 ミステリー仕掛けの、切ない物語。

 

 好きなセリフがある。

 

「姉さん、あの緑のリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛てて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」

 

 妹のセリフ。

 なんと悲しいセリフだろうか。

 

「姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎだ。」

 

 ここ。

 すごくきつい。

 

 女でもない、病気でもない自分がいうのは少し憚れるのだが、私自身も後悔していることがあって、それはクソまじめに生きすぎたということだ。

 勉強なんてほどほどでよかったはずなのに、勉強ばかりしていたこと。

 浪人せずに現役で大学に行けばよかったのに、身の丈に合わない大学を受験したこと。

 人に言われたことを反抗することなくこなしてきたこと。

 

 勉強さえしておけば、世間的に認められる。

 勉強は生き抜くための免罪符。

 人の言うことを聞いておけば間違いない。

 そう思っていた。

 でも、勉強ばかりしていたところで、はたからみれば「お利巧さん」かもしれないが、「生きる喜び」を得たかどうかというと得ていない気がする。

 同じく人の言われたことを聞いていたところで、それが自分の幸せにつながるかどうかはわからない。

 ほんと可哀そうなんだよ、自分の「手」「指先」「髪」、とどのつまり「身体」が「生きる喜び」を知らないことが。

 

 ほんと、行儀のいい、お利巧さんにはなるべきではなかった。

 そう小さいときの自分に伝えたい。

 

 

 せっかく太宰治『葉桜と魔笛』を引用したのだから、ついでに『女性徒』についても言及しようと思う。

 

本なんか読むの止めてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。自分を可愛がって、慰めているだけなのさ。

 

 これは主人公がとある先生に対して思っていることを叙述している場面なのだが、本を読んだだけで世界を知った気でいる教師を揶揄していて、なんだか私自身も揶揄されている対象に入っているかのように思えて、つらい。

 

 言ってしまえば、私は「生きる喜び」をあまり感じられていない種の人間だ。

 わりと読書によって知見を得ているので、生徒に対して何を語っても薄っぺらいように思えてならない。

 

 ああ、そうさ。たとえ生活に目標を持て、みたいなことを言ったとて、自分の実情を照らし合わせると、それは矛盾でしかない。

 

 ※

 

 太宰治トカトントン』ではないが、太宰の織りなす鋭い文章がふいに思い出され、しんどくなることがある。そこに書かれていることが自分のことのように思えてくるから。そこに書かれていることが自分の射程になくなるようになれば、きっとうまく生きられるはず。

 

石井志昂『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』

 本書は子育てに関する書である。

不登校」というワードだけで購入してしまったのだが、教員の身である私にもなるほどなと思う部分は多くあったので結果的に買ってよかったかなと思う。

 

 本書に登場する子どもというのは基本的に小学生・中学生あたりを指していることをはじめに断っておく。

 

1.雑談を聞くということ

 よく子どもって話をしたがる。

 その話の内容はけっこうたわいのないものだったりする。

 じつは、そのたわいのない、なんでもない話をし、それを聞いてくれるひとがいることで、その子どもの中に無条件の自己肯定感がはぐくまれるのではないか? と筆者は考えている。

 たわいのない、なんでもない話。つまり、雑談。

 雑談は、相手に何も求めない時間で、そういう時間をシェアすることで、「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを、子どもたちは受け取ることができる。

 ふだんから雑談ができる関係ができあがっていることで、「どうしたの?」と聞きやすいし、子どもの方から歩み寄ってくれる可能性も高い。

 本書では親子関係にフォーカスして書かれてあったが、これは教師と生徒(児童)の関係とも同じだろう。

 雑談を聞いてやる、というのはとても大切な行為だ。

 ゲームの話をしてきたら、「ゲームもいいけど、勉強はしっかりしなさい」と返すのではなく、「○○ってキャラクターがいるゲームだよね」といったふうに興味をもって返事をしてあげる。

 子どもがしたいのは「今」の話であるそうだ。

 だから、子どもに「ゲームばかりしているとろくな大人になれない」といった将来の話をしてはいけないのだ。

 

 子どもが話し始めたら、先に立って話を先導しようとせず、あとをついていくように話を聞いてあげてください。

 

 それが筆者の思いである。

 

2.傾聴の大切さ

 以前のブログでも書いたのだが、「傾聴」というのはとても大切なことだ。

 聴き手に徹する。子どもの話をコントロールせず、保護者の方が期待する結論に結びつけようとしたりするのはやめる。言いたくなる気持ちを抑えて、たくさん聞く。

 話をきちんと聞いてもらう前に、問題を勝手に決めつけて、求めてもいない情報を提供されたら、誰でも嫌なものだ。そういう気持ちは子どもでもない大人でもわかることだ。

 

 また、子どもが不安を抱えているとき、「気にするな」「仕方がない」という言葉は言わない方がいいそうだ。そう言われた子どもは自分が否定されたような気持になる。

 だからまずは子どもの不安や葛藤にはできれば共感を示してあげる。

 難しいなら共感するふりでもいい。

 オウム返しでもいい。

 人間誰だって自分という人間しか生きていない。

 人の気持ちを完全に理解することなどできないのだから。

(前にブログで「子どもの気持ちを理解する」と書いておきながら、やっぱり「理解できないから、理解している振りをする」と開き直ったように書くのはどうかと思うが)

 しかし、だからといって理解できないと突っぱねてはいけない。

 理解している振りを続けることで、ほんとうに理解できるようになるかもしれない。

 

 理解できるか、できないかは別にしても、私は共感を示し続けたい。

 

3.ワンクッション

 子どもにアドバイスをするときに、難しいのはタイミングだ。

 ここからは少し子育ての話になる。

 子育て経験のないため、私は書かれている内容をできるだけそのまま陳述する。

 

 子どもの話を聞いたうえで、「親としてできることがあるな」と思ったら、すぐに子どもに提案するのではなく、家族やご自身の友人など誰かに話して、ワンクッション置くのが言い。ひと呼吸を置く理由としては、子どもの性格や特性を理解しているがゆえに、「この子にはこっちの道がいいだろう」という親自身が思い描いている道をどうしても押し付けることになりうるからだそうだ。

 

(子育てに関する話ではあったが、教育現場でも使えそうだ。

 生徒と接するなかで、あの生徒はこういう性格だとわかった気になることがある。だから、その生徒から悩みを告白されたら、「君はこういう性格だからこうしたらいい」としたり顔でいいかねない。しかし、これじゃあ教師の思い描く道を押し付けることになる。だから、ほかの教師と話し合ったり、保護者と話し合ったりする中で、その生徒の悩みを一度俯瞰的に見てみて、それから生徒と話をするといった「ワンクッション」が大事になる。)

 

 また、そのワンクッションを置いたがために、その間に子どもが悩みを解決してしまったら、親として(また、教師として)はがかっかりするが、本人の気持ちを汲んだ方がいい。まず子どもが悩みを解決したことを喜ぼう、というわけだ。

 

4.共感的姿勢

 子どもが愚痴をいいにきたらそれは信頼されている証なんだろう。

 親としても、教員としても。

「学校だるいよね」という愚痴に対し、親は「そんなこといわない」と注意してしまいかねないが、やはりここでも共感が大事になってくるから、「だるいよね」と返しておけばいいそうだ。

 教員の場合、「学校、めんどくさい」といわれたら、手放しに「めんどくさいよね」とは言い辛いし、「すこし休んでもいいんだよ」とも言い辛い。だからといって「もう少し頑張ってみようか」なんていってもだめ。(もう少しってどれくらい? 十分に頑張ったよ。という子どもたちは心の中で嘆くことだろう)

 やはり、私が思うに教員でも別に「学校、めんどくさいよね」と返してもいいと思う。しっかり生徒の心に寄り添うことができていればそれでいいと思う。

 何度もいうが「共感」が大事であり、「アドバイス」はまったく重要ではない。生徒の方から求められたら、経験的に語れることがあれば語ればいいだろうが、そうでない限り、「私はこうして乗り越えた」といってもまったく効果がない。

 

 また、私は今の高校に勤務する前は「学校は行くものだ」という固定観念があったが、実際、勤務してからそうではないことを知った。

 それがダメなことだとはじめは感じていたが、その休みがガス抜きになっているなら別にいいのではないか?と思うようになった。

 一日くらい授業をさぼったって、別にいいと思う。

 皆勤賞なんて言葉があるように毎日行くことが偉いとか、仕事に就いてから休まずに働くことこそが美徳だとか、そういう風潮があるみたいだが、精神的な疲弊を感じ、メンタルがもたないとなると元も子もない。

 休め。

 気分転換しろ。

 ユニバでも行け。

 とは思う。

 それがまだ認められていない考え方ではあるが。

 

5.学校に行きたくない子どもたち

 不登校とは「心がオーバーヒートした状態」のことで、モーターのスイッチが切れるように身体が動かなくなる、つまり安全装置が作動している状態であるそうだ。

 不登校の定義が「年間30日以上学校を休む」であるそうだ。月換算すれば3,4日休むとそれに該当する。

 それを踏まえたうえで、文科省の調査を見ると、小・中・高における不登校児童生徒数は年々増えているそうだ。

 2019年度では23万1372人と過去を更新した。

 また、2020年度以降の数字はでていないが、コロナ禍により不登校児童生徒の数はまた増加したのではないかと思う。

 

 学校に来たくない理由はいろいろある。

 文科省の調査によると、以下の理由があがっている。

「友人との関係」(53.7%)

「生活のリズムの乱れ」(34.7%)

「勉強がわからない」(31.6%)

「先生との関係」(26.6%)

 私の勤務している学校でも不登校の理由は圧倒的に人間関係だ。

 社会人でもそれが理由で辞めているのだから理解できないことではないだろう。

 

 とくに今の時代、人との付き合いというのはとても微妙なものになっている。

 SNSでのやりとりのなかにも緊張がある。

 SNSは四六時中ひととつながりを持つわけだから、心身疲弊してもおかしくない。

 さらにSNS上でいじめが横行することだってある。

 SNS上でのいじめは見えにくい。

 だからこそ、子どもとの一対一の話合いというのは大切になると思う。

 目に見えていじめられているというなら、その子どもと話し合う必然性が生まれるが、見えていないいじめを受けているとなると、話合いの場を設ける必然性は生まれない。だって、いじめが起きていることに気づかないから。

 だからこそ、直感的でもいいので、最近元気ないな、といった子どもの微々たる変化に気づけるようにならないといけないんだろうな。

 

6.逃げてもいいと思う

 一時期ツイッターで話題になっていた新聞の投書。

 投稿者は13歳の女の子。

 

 逃げて怒られるのは

 人間くらい

 ほかの生き物たちは

 本能で逃げないと

 生きていけないのに

 どうして人は

 

「逃げてはいけない」

 

 なんて答えに

 たどりついたのだろう

 

 

 この投稿者の子がどういう背景があって、この投書を送ったのかはわからない。

 しかし、思春期真っただ中、人間関係や家族間でのトラブルなどから、いろいろが嫌になり、逃げだしたくなったが、大人から「逃げてはいけない」と言われた……そんなストーリーをまことに勝手ながら考えた。

 

 動物は危険を察知すると、本能的にそれを避ける、逃げると言った行動に出る。

 苦しいのにその場から離れられないというのが一番危険だからだ。

 学校が嫌で逃げたいと思うのは学校が危険だと心が思っているからで、だから、学校に行かないというのはある種動物的本能に従った合理的行動である。

 そういった意味でも学校に行かないという選択肢はあるべきなのだ。

 そして、学校から距離をいったん置くことで気持ちの整理をし、心を回復させる。

(気持ちの整理がつくというのは、学校や不登校、いじめといった言葉を聞いても、心にさざ波が立たなくなるということ。自分と他人を比較しなくなる、焦らなくなる、学校に行っていないことに罪悪感を持たなくなる、ともいえる。)

 

7.健全な不登校

 次の動画を見てほしい。

 

 

 けっきょく、子どもが不登校になって、それを理解してくれる親が必要なのかもしれない。(親ガチャという言葉が最近トレンドだそうだが)

 不登校不登校でも某ユーチューバーのように勉強もせずにサボるのはよくないと思うが、不登校期間中だからこそできることがないかを探すということはとても重要なことだと思う。

 また、勉強がつらくなって不登校になってしまった子には「今は勉強に集中できる状況ではないから勉強はいったん置いておこう」といった感じで、いったん勉強との距離を置くのも有効だ。勉強から離れて、学びの面白さに気づくことだってあるかもしれない。

伊予原新『月まで三キロ』の中に収録されている「アンモナイトの探し方」を読むと深く理解できる。受験勉強にストレスを感じ、円形脱毛症を患った小学生六年生の朋樹がしばらく環境を変える意味で田舎で過ごし、そこで化石を掘るおじさんと出会う。そんな話だ。勉強から距離を置きながら、化石を掘ることの面白さに気づくというのだが、これは暗に学校や塾で押し付けられるような勉強を批判し、ほんとうの学びというのはこういうものだよと教えているのではないかと思った。)

 

 かの有名な棋士羽生善治さんはこう語る。

「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」

 

8.学びについて

 私の勤務している学校の生徒はわりと自己肯定感が低い子が多い。

 その理由として今まで褒められたい経験が少ないからだそうだ。

 勉強でも素行面でも。

 学校教育では自分が勉強ができないとそれが点数化されてしまう。

 結果、自己肯定感が下がる。勉強したくなくなる。

 この悪循環。

 しかし、もしそういった子でも特定の何か学びたいと思えるものがあれば、その子にとって学びは楽しいものだと思えるようになるかもしれない。

 本書では子どもたちに必要な能力は「世の中にどのような問題があるのかを見つける力、その問題をどうすれば解決していけるかを探索する力、あるいは生き方を自分で上手に探せる力」だと書かれている。

 それは今の学校教育における学力とはまた違う力である。

 世の中のことを見通し、問題を発見し、解決する力というのはただ字がびっしりつまった教科書と対峙していても身につかない能力だと思う。

 異国で異文化に触れるとか、自然に触れるとか、そういった非日常との会合がそういった能力を涵養するのだと思う。

(私だって、学びに対してあまりモチベーションは持っていなかったのだが、今勤務している学校では、自分が高校生のときには考えられないような出来事が起こっている。私が学生時代には考えていなかったような、いろんな悩みを抱えた生徒がいる。自分の狭量な世界観が一気に転換した。それにより「学び」に対するモチベーションが上がった。子どもたちの心の問題について考えたい、という学び。

 私自身、学びに対する姿勢を身につけるのが遅すぎると感じたのだが、さっきの羽生さんの「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」を知って、それでもいいんだと思えるようになった。)

 

9.最後に

 私自身、不登校経験がない。

 だから、今から述べることは正直不登校経験のあるひとを怒らせることになるかもしれない。それを承知のうえ書かせていただく。

 

 不登校経験は、今後自分が生きていくための大きな基盤になると思う。

 

 不登校経験があったからこそ、といえる何かを手に入れることができるかもしれない。

 

 こういった言葉は不登校経験があるひとがいうべきだ。

 わかっている。

 しかし、わかってほしいのは私自身不登校をべつにおかしいことだと感じていないということだ。

 芸能人のなかでもかつて不登校だったと告白するひとがいるように、学校に行けなかったからといって、人生が詰んでしまうわけではない。

 学校に毎日行って、勉強をいっぱいして、いい大学に行ったにもかかわらず、いろいろあってフリーターをしているひとだっている。

 むしろ、私的には順風満帆な人生を送っているひとほど危険だとさえ思っている。

 私自身、挫折経験というのがあまりにない。

 だから、少しでもつらいと感じてしまうと、すぐに心がぽきっと折れてしまう。

 面接で語る内容もまったくといっていいほどない。

 だから、教員採用試験何回も落ちている。

 

 ね?

 

 人より多くつらい経験、挫折経験をしているひとほど、今後強くなるだろうし、人にやさしくなれるだろう。

 

 

 

 

しろやぎ秋吾『10代のつらい経験、私たちはこう乗り越えました』

 これは作者であるしろやぎ秋吾さんがSNSで『10代のつらい経験、私たちはこう乗り越えました』と、エピソードを募り、それを漫画化した作品です。

 

 本書がいいところは、数あるエピソードを通して、「10代の○○の悩みについてはこう解決すべきだ」といったふうなことを書いていないところだ。

 また、本書のタイトルと相違して、その悩みを乗り越えることができなかったというエピソードもある。

 作者自身も言っているのだが、本書は実際のエピソードを通して、10代という多感な年ごろの子の悩みについて、どう考えたか? ということがキーになってくる。

 私自身、10代の子を相手とする職業に就いている身として、いろいろ考えないといけないと思っている。

 実は、けっこういろんな生徒の悩みについて聞いてみたりしている。

 しかし、その悩みを解決する言葉なんて全然浮かんでこない。

 だから、私はその子の悩みをしっかり聞くということを徹底している。話を聞き、共感的姿勢を示す。解決策はない。

 それでいいのか? と自分でも思う。

 でも、今の自分にはそれしかない。

 実際、そういった悩みを持った子の話を聞いてあげることで、すっきりしたと言ってくれることがある。

 だから、自分は子どもたちの声を聞くことはこれからも徹底したい。

 これが自分の教育の軸。

 

……と、まあ、自分語りはこれくらいにして。

 

 本書を読んで、特に印象深かったのは、エピソード8。

「実の親に会いに行こうとした話」

 

 小さい頃に虐待・ネグレクトにあって、里親の元で暮らすようになった女の子(高校生。以降Aさん)の話。

 Aさんの里親はとてもやさしく、「家族だから」と言って、契約がきれても(里親の契約は子が18歳になると切れる)、いっしょに暮らそうと提案してくれた。

 しかし、Aさんは「他人にお金を出させている」という罪悪感があり、自分の大学の学費だけは誰の負担にもならないように給付型の奨学金を申し込んだ。その際に、Aさんが社会的養護を受けた身である証明書が必要となり、児童相談所に行き、その書類を受け取ると、そこに実母の住所が書かれてあった。

 好奇心から、Aさんはその住所に足を運ぶ。

 そこには無邪気に遊ぶ5歳くらいの男の子がいて、洗濯物も干してあり、カーテンも開いている。この様子から、実母は再婚してうまくいっているのがわかったAさんは、実母の姿を見ないまま、帰ることにした。

 帰りのバスでAさんは「私だって愛されたかった」と泣く。

 その夜、里親はAさんをやさしく抱きしめた。

 

……

 

「私だって愛されたかった」という言葉に強く胸をうたれた。

 

 ほんとうの家族のぬくもりをAさんは得たかった。

 里親はたしかにやさしいけど、ほんとうの家族にはまさらないのだろう。

 里親側の心情が描かれていないが、きっと何らかの事情で子どもが産めずにAさんを迎え入れたのだろう。Aさんを「家族」として。Aさんは里親にやさしくされ、感謝の気持ちももちつつも、罪悪感があって、ほんとうの家族の愛情を受けなかったことを悲しむ。

 どちらも報われないように思える。

 それがせつなくて、つらい。

 親を忌み嫌う10代がいる中で、実の親から愛情を受けていないことを悲しむ10代もいる。

 今まで頭で理解していても、どこか浮世離れしているような感覚でいたけど、教師になって、子どもたちの生育環境や背景を知るようになり、自分の育った環境がいかに恵まれているかを知ったと同時に、そんな自分に何ができるのだろう? と思うようになった。それは自責の念にも似ている、そんな思い。

 

 だから、まず自分はいろんな背景をもった子がいることを知ろうと思った。

 その子たちのもつ背景がリアルであって、自分の生育環境は参照にならないものだと理解し、私は子どもたちと接しないといけないと思った。

 

 だから、真の意味で共感はできない。

 たとえば、虐待・ネグレクトのつらさを安易に〈わかる〉と言ってはいけない気がする。

 

 でも、理解しようと思う。

 絶対に。

 

 そんなことを考えた。

 

桐光学園+ちくまプリマー新書編集部『学ぶということ』

 内田樹岩井克人斎藤環湯浅誠鹿島茂・美馬達哉・池上彰(敬称略)の7人が「学ぶということはどういうことか?」という問いについて答えてくれた本である。

 3人だけご紹介する。

 

①生きる力を高める 内田樹

 グローバル化によって海外進出を視野に入れなければならない、という昨今の風潮。

 よく考えると、それは残酷な風潮であることに気づいたのは、内田樹氏の以下の言葉である。

 

 グローバル人材育成教育というのは「そんな人間は要らない」ということです。

 

 その理由として、内田氏は、「あなたがいなくなったら、とても困ります」と言う人がひしめいていたら海外になんか簡単に出れないから、と述べている。

 海外進出と軽々しく言うが、そもそも日本で生まれ育って、そこには家族がいて、友だちがいて、恋人がいて、尊敬する人がいて、後輩がいる。そういった濃厚な人間関係を構築したにも関わらず、海外進出を強要されるのは、たしかに残酷な構図に見える。

 

 子どもたちにはできることなら周囲の人から「あなたがいなくては生きていけない」と言われるような人になって欲しいと願っています。

 

 内田氏はそう言う。

「あなたがいないとはいけない」というのは、「あなたでないといけない」という意味であろう。

 このことから、内田氏は人間同士のつながりを重要視していることがわかる。

 

 また、内田氏は「生きる力」を「いま持っている自分の能力を高める方向がわかる力」と定義し、それを高めるためには「出会い」しかないと述べている。

 

 本当に生きる力が強い人は、会うべき人に出会うべきときに必ず出会う。あることを知りたいと強く願っているときに、まさにその知識を持っている人に出会う。ある場所に行きたいなと強く思っているときに、ちょうどその場所に用事があって行く人に出会って、一緒に行くことになる。そういうふうに、縁、他者の支援を自分のまわりに惹きつける力が生命力です。

 

 きっと、いろんなことに首をつっこみ、トラブルに巻き込むくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

斎藤環「つながることと認められること」

 

 つながることへの価値がはるかに高くなった昨今。

 就職活動で何よりも大切なのが「コミュニケーション能力」だと言われている。

 

 コミュニケーションがある人はもてはやされ、コミュニケーションがない人は負の烙印を押されることになる。

 

 しかし、日本でいう「コミュニケーション能力」と欧米でいう「コミュニケーション能力」は異なっている。

 前者は、空気を読む能力・人をいじる能力・笑いをとる能力。

 後者は、ディベート能力・論理的に相手を説得する能力。

 

 だから、世間一般で考えられているコミュニケーション能力が海外に通じないことだってある。

(いわゆるウェイ系がコミュ力の塊であるかどうか再考する必要がある。)

 

 つまりは、コミュニケーション能力について一度その真の価値なるものを正確に理解する必要があるだろう。

 

 もう一つ、キャラについて。

 家でのキャラ、塾でのキャラ、学校でのキャラ…。

 いろんなキャラが私たちの中に存在する。

(そういったキャラすべてが「自分」だという話は前にした)

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 そういったキャラを嫌だと思わずにしっかり「演技」をすればよい。

 日本においては「空気」がその場を支配する。

 つまり、教室内における「空気」の支配を受け、また、カーストなどによって押し付けられた「キャラ」というのは、価値がない。しかし、そういうキャラを「演技」しているんだと自覚することができたら、被害は最小限に抑えることができる。

(たとえば、いじられキャラを押し付けられていたとしても、自分はただそれを演技していると自覚していれば、感情的にならずに済むということだ。しかし、斎藤氏はあくまでそうすることで「被害は最小限に抑えることができる」ということであって、推奨しているわけではない。いじられキャラが嫌で反発してもいい。しかし、教室の空気が支配しているという状況下でその反発がいい方向に進むかどうかと考えると、残念なことにそうはならないだろう。私自身、最近、何においても「演じている」という感覚をもっていて、それが感情的にならないいい方法だと実感した。教師をしている中で、生徒を叱るときは「自分は教師として叱っている」と自分を客観視し、暴言めいたことを言われたときは「これは別に教師としての自分に吐かれている暴言だな」と思ったりしているし、案外、心を平穏にさせる武器として「演技」は非常に有効なのかもしれない)

 

鹿島茂「考える方法」

 

 答えのない問いについて考える力がこれから必要になってくる。

 そんなこと耳にタコができるくらいに聞いた言葉だ。

 

 そもそもひと昔前までは「直系家族」という「親・子・孫」の縦型の家族形態(いわゆるサザエさん型)が主だった。しかし、昨今では「核家族」といった「両親・子」という家族の最小にして最大の単位の家族形態(いわゆるドラえもん型)が主である。

 前者では親の権威が強いために子はそれに従っていけばよかった。

「この学校があなたに一番向いている」
「この会社がいいからはいりなさい」とか。

 後者ではそういったことがなく、子どもが自分の頭で考えねばならなくなった。(その核家族類型の思考法が産んだ物語の典型が『ロビンソン・クルーソー』であるそうだ。)

 しかし、長い間、直系家族でやってきた日本人は、いざ「自分の頭で考えろ」と言われても、無理な話なのだ。

 

 教育現場でも「答えのない問い」について考えさせようという風潮を出しながらも、結局、受験で課される試験が「答えのある問い」である以上、そういった答えのない問いについて考えさせる学習よりは従来のやり方の方が受験をする際は重要だし、生徒たちもそう思ってしまっている。

 

 だからこそ、「すべてを疑え」ということなのだ。

 これは学生のうちでも社会人になってからでもいい。

 

 たとえば、今の教育がおかしいというなら、どこがおかしいかを列挙し、その改善策について考える。この「疑い」から「解決策」までのレールを敷くという作業はなかなか大変かもしれないが、これからの社会かならず必要となる。

 

 

 

池澤夏樹『スティル・ライフ』の冒頭

 池澤夏樹の『スティル・ライフ』という小説。

 冒頭が美しい。

 

 

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

 

 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。

 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。

 たとえば、星を見るとかして。

 

 

 この小説自体はけっこう前に読んで、文章の流麗さには目をひくものがあったが、肝心な内容の方はあまり覚えていない。

 やけに哲学的だったのは憶えている。

 物語に起伏はない。

 まあ、純文学とはそういうものである。

 

 とはいえ、前に引用した冒頭は美しい。

 この小説は芥川賞受賞作であり、選考委員の開高健からは「冒頭にたいそう突ッ張った文体の宣言文があり、つづく本文に水と油みたいな効果をあたえている。この部分は私にはまったく余計なものと感じられる。」と苦言を呈され、三浦哲郎からは「冒頭の前説を切り捨てる勇気が持てさえしたら、今後が楽しみな新作家だと思う。」と暗に冒頭部は不要だと言われている。

 しかし、私はこの冒頭が好きだ。

 たとえ、それが物語に水を差すようなものであっても。

 

 世界というの理不尽なものだ。

 世界が自分を救ってくれるなどという妄念は早めに取り払った方がいいということなのだろう。なぜなら世界というのは我々がリアルに生きている「外の世界」以外にも自分の中にある「内の世界」がある。

 その「内の世界」なら自分次第でうまく生きられるものなのかもしれない。

 文学的な考え方ではないが、言ってしまえばポジティブ思考をすることで、「内の世界」を楽しいものにさせることができるかもしれない。

 しかし、「外の世界」と「内の世界」の間に大きな溝ができてしまっては都合が悪い。

 その乖離によって非行に走る人は後を絶たないことは歴史が証明している。

 だから、その防止策として、「外の世界」と「内の世界」の調和をはかるというのだ。

 その方法として挙げられているのが「星を見る」。

 なんとも詩的で美しい。

 最高だ。

 

 私は自然を見るのが好きだ。

 自分の中にあった靄がすっかり晴れ、心が軽くなるような感覚を得る。

 それがもしかすると「外の世界」と「内の世界」の調和の瞬間だったのかもしれない。