傲慢な悩み
俺は比較的恵まれた家庭で生まれ、両親は仲が良く、何かしたいと言えばさせてくれるような環境の中で育ってきた。
だから、母子家庭や貧困家庭、両親が不仲といった家庭で育った子の悩みや、家族内にケアを必要とする人がいてそのケアをしなければならないヤングケアラーや両親が高学歴であるがゆえにいい大学へ進学することを期待されている子、教育虐待を受けている子などの悩みを、俺は心から理解することはできない。
もし仮にそういった子たちから悩みを告白された際に、俺はどんな言葉をかければいいのだろうか?
かわいそう、なんて言葉は上から目線だし。
大変だね、なんて対岸の火事だと捉えられかねない無責任な言葉だし。
わかるよ、なんて口が裂けても言えない。その子の悩みをほんとうに理解できるのはその子か同じ境遇で育ってきた人だけだ。俺のような環境で育った人間に「わかる」はずがない、
でも、俺は誰かの助けになりたいと思っている。
教師という仕事を通して、子どもたちの心に寄り添っていきたいと思っている。
だからこそ悩むのだ。
子どもたちの悩みが、俺が生きてきて抱えてこなかった悩みであることに。
足枷をはめられ不自由を強いられる中、苦しみ喘ぎながら歩く、そんな経験がない自分に、苦境の真っただ中にいる子どもに何と言葉をかければいいのだろう?
俺が吐いた言葉はすべて、「お前に何がわかるんだよ」という言葉によって潰されてしまう。気がつけば、その子の抱える悩みと同種の悩みを抱える人が横からすっと現れて「わかるよ!」と言い、その子の悩みを解決している。
じゃあ、いらないじゃん俺。
よくインフルエンサーが「自分の好きなことをしよう」と言う。
だが、家庭環境が束縛となって自分の好きなことができない人だっている。
だから、適当なことを言うな、といつも思っている。憤慨している。
それくらいのことしかできないね、俺。
いつか、この自分の傲慢な悩みを解決できる日が来るまで
To Be Continued
内田和俊『10代の「めんどい」が楽になる本』
昔はよかった、という言葉をよく聞く。
私自身、そう思っているところもある。
まず人付き合いに関して、スマホの普及から、人との距離が遠くなったように思う。
月並みな意見だけど。
SNSの普及により、ひとは承認欲求モンスターと化し、現実世界を生きているのかネットワーク上の世界を生きているのかその境界があいまいになっているのではないか。
それに加えてネットワーク上の顔の見えないひとたちがあれこれと物申すことができるため、ちょっとしたことでも炎上にしたてあげようとする風潮がある。
小室圭さんの件だってそうだ。
髪を後ろに束ねようが、ワイヤレスイヤホンをしていようが、ポケットに手をつっこもうが、別にいいだろうが、と思う。皇室の人間としてふさわしくない、となぜ無関係の人間がはやし立てることができるのか?
ということで、とにかく、自分とは無関係なものになんでもかんでも首を突っ込むことができ、それについて好き勝手意見を言うことができる世の中になった結果、そういった炎上を怖れ、人同士に距離感を生じさせた。
まさにソーシャル・ディスタンス。
教師も、ここ最近のデジタルチルドレンである生徒たちを怖れている気がする。
厳しい指導をした結果、その生徒が自殺をするといったケースもあるし、知らない間に録音されていて、これは行き過ぎた指導ではないかと訴えられることもある。
私は、そういった現代の状況から、昔はよかったと思う。
ガラケーが普及していた時代が、ひととひととの距離がちょうどよかったような。
と、考えるのも、もちろん記憶が美化されている。
当時は、当時でメールを送ったけど返信がないことに対し、不安感を覚えるような子どもが多くいた。メールからLINEが主流になった今もそれは変わっていない。
また、もっと時代を遡る。
昭和のことは知らないので、今回紹介する著書『10代の「めんどい」が楽になる本』の著者、内田和俊さんの話を拝借すると、次の通りであるらしい。
価値観や行動規範に関する選択肢が少なく、非常に息苦しく窮屈でした。特に性別と中高生の振る舞いに関する決めつけには、ひどいものがありました。
今でこそ性差やLGBTへの理解であったり、外国にルーツを持つ人への理解だったりが求められているが、ようやくそういった問題が明るみになって問題視されている。昔は男尊女卑は当たり前で、男は男らしく、女は女らしくといった性的マイノリティの根本を否定するような考えが横行し、外国人への偏見(日本人の名前なのに見た目が黒人であることへの違和感とか)はすごいものだったのだろう。そして当時はそれらを問題と考えていなかった。
そういった昭和の価値観、規範意識を考えると、今はマイノリティの声が届くようになって、そういったひとにとっては優しい世界になりつつあるのかもしれない。
(ちなみに私の勤務している高校の先生の話では、昭和の高校で、体育の先生は体育教官室で酒を飲みながら生徒にあれこれ指示をしていたのだという。今では考えられない振る舞いだ。そういった今では考えられないようなことが昭和では横行していた。体罰は当たり前だし、いじめもあった。だが、体罰を受けるのはたるんでいるからだ、とかいじめられている方に問題があるとか、そういった被害者を責めるような言葉が行きかっていただろうに。これはあくまで推論だが)
今の時代は、様々な分野で、固定観念の枠が壊され、価値観や行動規範の押し付けも、ずいぶんと緩くなった。
内田さんは語る。
たしかにそのおかげで今までは「何だそれ?」と思わていたようなものが社会で認められつつある。
一昔前ならアニメオタクは迫害対象であったのが、今では一般ピーポーでもアニメ好きはいるし、むしろそれを肯定する風潮もある(最近、テレビでは鬼滅を持ち上げているし、声優さんだっていろんな番組に出演している)。
ユーチューバーなんて職業ができたのも、時代の流れのおかげだ。
言ってしまえば、未開拓の分野を切り開くことができれば、ヒカキンのような億万長者になることも夢ではない時代になっている。(先行者利益ってやつ)
ようは、選択肢が増えたのである。
一昔に比べ、なくなった職業もあるが、増えた職業もある(というか増えた方が多いんじゃないかな?)。
また、生き方も多様になった。
従来は小学校、中学校、高校、大学といったふうに進学するのが当たり前で、その流れに乗れなかった不登校生徒は憂き目にあっていたが、今では通信制の高校という選択肢もありだし、フリースクールに行くのも全然OKな時代だ。
社会のレールからはみ出てしまった者が、損をする時代は終わった。
むしろ社会のレールに乗り続けることに疑義を呈する人がこれからの社会を切り拓いていくのだと思う。
(もちろん、そんなひと一握りの人間である)
本書は、そんなマイノリティに属する子どもたちに寄り添う内容になっている。
内田さんはこう言います。
仮に今、あなたが何らかの少数派に属していたとしても、何も恥ずかしいことなんかありません。法に触れるような悪いことをしているわけでもありません。堂々と生きていいんです。
そして今後、もしあなたが、自分の努力ではどうにもならない事情によって少数派に属することになってしまったとしても、それによって、あなたの価値が低下するわけではありません。
負い目を感じることもないし、ビクビクしながら生活する必要もありません。
自分の努力でどうにかできる勉強やスポーツや趣味に、正々堂々と打ち込めばいいのです。
ということで、今回は本書の内容を徒然草的に紹介する。
1.性格について
性格に三つの要素がある。
「思考」「気分や感情」「行動」の3つ。
たとえば、近所で野良猫にエサをあげているおばさんを見かけたとする。
それを慈悲深い(思考)と思い、ほっこりする(気分や感情)ひともいれば、無責任だ(思考)と思い、怒る(気分や感情)ひともいる。さらに怒ったあと、何もしない(行動)ひともいれば、わざわざそのおばさんに抗議しにく(行動)ひともいるだろう。
3つの要素にはひとそれぞれ異なる組み合わせやパターンがあり、それを私たちは性格と呼んでいる。この3つの要素は連動するものだ。どれか一つが何らかのきっかけでプラスの方向に向かうと、残り二つもプラスに向かい、一方で、どれかひとつでもマイナスの方向に進めば、残り二つもマイナスの方向に向かう。
3つの要素である「思考」「気分や感情」「行動」を2つのカテゴリーに分類する。
①自分の意志で変えられるもの
②自分の意志では変えられないもの
①は「思考」「行動」で、②は「気分や感情」だ。
うれしい、楽しい、哀しいという感情は自分ではコントロールできないことから、「気分や感情」が②に該当するのは理解できるだろう。
しかし、さっきも述べたがこの3つの要素は連動する。
つまり、自分の意志で変えられる「思考」「行動」をプラスに変えていけば、「気分や感情」もプラス方向に向かわせることができるということだ。
だから、自分の意志で変えられない「気分や感情」をどうこうするのではなく、「思考」「行動」に意識を向けることで、生きやすくすればいいのだ。
2020年のセンター試験の国語の一問目で「レジリエンス」がテーマの文章が出題された。河野哲也『境界の現象学』が出典である。そこにはこうある。
レジリエンスとは、自己のニーズを充足し、生活の基本的条件を維持するために、個人が持たねばならない最低限の回復力である。/生命の自己維持活動は自発的であり、生命自身の能動性や自律性が要求される。したがってケアする者がなすべきは、さまざまに変化する環境に対応しながら自分のニーズを満たせる力を獲得してもらうように、本人を支援することである。
嫌なことがあれば、つらいと感じ、心は削られる。
そのダメージを受けた心は、やがて修復し、もとの状態に戻る。
その恢復する力こそ「レジリエンス」なのだ。
内田さんは「レジリエンス」はやり方次第で高めることができると言う。
「コントロール可能な『思考』か『行動』をプラス方向に変えることで、間接的に『気分や感情』もプラス方向に変えることができ、その結果としてレジリエンスが高まる」
そう述べている。
2.人それぞれ
内田さんは性格を構成する3要素のひとつである「思考」を「人生脚本」と呼んだ。人生脚本とは「自分はこういう人間であり、他人や社会とはこういう性質のものであり、自分の人生や人間関係は今後、こんなふうになっていくだろうという人生の予言書」のようなものだと言っている。当然、その人生脚本は人それぞれ異なっている。
だが、多くの人たちが、脚本は自分のものしか存在せず、その脚本が全国共通、万人に共通だと思い込んでいて、これが衝突やイライラの原因になっている。
まず、人それぞれ異なった人生脚本を持っていることを理解すべきである。自分の価値基準を絶対視したり、万人に共通するものだと思い込むことは、こりかたまった一方通行の考え方だ。その本人だけでなく、その人と接する周囲の人たちまで、息苦しさを感じてしまうのだ。
内田さんも紹介しているのだが、志茂田景樹さんのツイート
たとえば自分が入院したことを知って、ある友はすぐ駆けつけ、ある友は数日経って見舞いに訪れ、ある友はメールでまず見舞い、病状が落ち着いた頃、顔を見せる。友情の暑い薄いではない。人それぞれに友情の表しようが違うだけに過ぎない。それを誤解すると、いい友を失うことがある。
— 志茂田景樹 (@kagekineko) November 18, 2013
みんなが違う考え方や独自の表現方法を持っている。それは「正しい」とか「正しくない」とかではない。
とにかく大事なのは「人それぞれ」だということを理解すること。
自分と同じ考えであることを他人に求めるから不幸になるのだ。
人それぞれ、というのを魔法の言葉のように持つべきなんだろう。
(だからこそ、本を読む必要はあると思う。小説でもいいし、ノンフィクションでもいい。そこに登場するあらゆるひとの主義主張なんかに触れ、こういった考えもあるんだとか、こういった性格のひともいるんだと発見できるいい機会になると思う)
3.目標って
まず「目的」と「目標」の違いについて。
目的とは、漠然としていて、抽象的なものだと言える。
たとえば、ビックになりたい、とか。
目標とは、目的であるゴールまでの道のりに点在するマイルストーンのようなものだ。
ビックになりたいという目標のために、「一芸を磨く」とか「芸能界に入る」とか、そういった明確で具体的なものだ。
いわゆる、目標というのは目的を達成するための手段である。
目的を「自分軸」と言うこともできる。
目的は人生の目指すべき方向である。
対して、目標はその目的に進むための中間地点のようなものだから、自分軸がぶれない限りは別に目標がころころと変わっても構わない。
なんだったら、目的さえ明確であれば、中高生の段階で目標がなくたって大丈夫なんだ。
(日向坂46の『青春の馬』にて、「夢が叶うか 叶わないかは ずっと先のことだ」という歌詞がある。ここでは「夢」=「目的」という意味なんだろう。自分の夢というのはずっと先にあって、だから今はただ何も考えずに我武者羅に突き進めばいい、という熱いメッセージ。)
4.サードプレイスを見つける
サードプレイスということばがある。
サードがあるから「ファースト」「セカンド」もあるのだが。
ファーストプレイスは自宅。
セカンドプレイスは学校(大人なら職場)
で、サードプレイス、それは「様々なプレッシャーから解放され、創造的な交流が発生する場」のこと。アメリカの社会学者、オルデンバーグが提唱した概念だ。
サードプレイスの特徴は「インフォーマルでパブリックな集いの場」。
インフォーマルというのは「堅苦しくない」ということ。
パブリックとは「公的」、つまり、ひとりではなく他者との交わりが発生するという意味。
つまり、「インフォーマルでパブリックな集いの場」というのは「誰からも強制されず、自分の意志で参加できる場所」のことである。
話は急に変わるが、最近、小野寺史宜『ひと』を読んだ。
主人公の柏木聖輔は高校生のときに父親を亡くし、大学生のときに母親を亡くした。
いわゆるファーストプレイスを失ったわけだ。
母親の死により、大学を辞めることを余儀なくされ、これによりセカンドプレイスも失ってしまった。
彼は孤独になった。
そこで惣菜屋さんで働くことになって、さまざまなひとと出会う。職場のひとのほか、お客さんや、大学生時代の友人、高校生時代の友人。
そして、そういったいろんな人との出会いや触れ合いの中で、主人公は成長する。
最後の方で主人公はこんな結論を得た。
大切なのはものじゃない。形がない何かでもない。人だ。人材に代わりはいても、人に代わりはいない。
この文章を読んで、この小説は人の「孤独」を癒すのは「人」なのだと理解した。
本書に戻るが、人は人によって癒されるが、別にその人の数はさほど重要ではないそうだ。一人でも味方になってくれる人がいれば、それでいいみたいだ。
(友だちの多さと幸福度は比例しない)
4.自信のつけ方
自信をつけるためには約束を守る必要がある。
誰との約束?
それは「自分」との約束だ。
他人と約束すれば、それを守らなければ信用を失ってしまうし、迷惑をかけてしまうが、自分との約束は破ったとしても誰にも迷惑をかけないし、誰に何も文句言われない。だから、自分との約束を軽んじている人はけっこう多い。
だが、他人との約束を破ることで信用を損ね、好感度が下がり、評価も下がるように、自分との約束も守らなければ、自己信頼や自己評価は下がってしまう。
自分との約束を破るという行為は、自分自身への背任であり、裏切りである。
逆に自分との約束をきっちりと守っていれば、自己嫌悪せずに済み、自信もつくのではないか?
そういうふうに内田さんは言う。
また、自分との約束を破ってしまったとき、フォローも大事だ。
他人との約束を破ったら、おごったりしてフォローするみたいに、自分との約束を破ってしまったら、漫画やゲームを我慢して、課題に取り組むとか、そういった方面でのフォローをしよう。
そういうふうに内田さんは言う。
この話は、本書を読んでいて、特になるほどなと思ったところである。
5.まとめ
ちょっとここ最近、こういった子どもの心に関する本を読んでいる。
それも手軽に読めるような本。
本書はまんがも載っていて、非常にわかりやすい文体で書かれている。
まさに中高生向けといった本。
(そういった読みやすい本はいつもkindleで購入している。)
こういった本を読むのはやはり私のような大人ではなく中高生なんだと思う。
10代の子たちはあらゆることに悩みはするが、私が思うに、その悩みを解決してくれるのは「言葉」だろう。
たとえば、話が合わないことにイライラする人がいるが、本書にあった「多くの人たちが、脚本は自分のものしか存在せず、その脚本が全国共通、万人に共通だと思い込んでいる」という記述は、イライラを軽減させる効力があると思う。
本を読んで「そうだったのか!」と思える記述に出会うことで、人は生きやすくなると思う。
生きやすくなるための方法を知ることができるし、自分の悩みや苦しみを言語化してくれるような文章に出会うことができる。
だから、私は10代の子はいろんな本を読むべきだと思う。
嫌味に費やすほど人生長くない
ゲーム実況者のレトルトさんの動画をよく見るんだけど、主人公モデル(八神という)がキムタクのゲーム「LOST JUDGMENT」にて、ぐっときたセリフがあった。
いろんな事情があって(人間関係)バスケ部を辞めたいという女子高生。でも、彼女は逃げて辞めることに後ろめたい気持ちがった。そんな彼女に八神が言った言葉。
世の中には不公平がいっぱいあってそれを居心地がいいと思ってる連中が山ほどいるんだ。人を見下すことでしか笑えない連中がね。そんなにいちいち向き合っていくなんて俺は時間の無駄だと思う。そういうときはさ、やっぱり逃げていいんだよ。
女子高生は「八神さんは強い人だからそんなことを言えるんです」と言う。
そして、八神はこう言う。
じゃあさ「逃げる」って言い方を変えてみようか。
バスケは部活でなくたってできるし、場合によっちゃ学校に通うことはだって絶対に必要なもんじゃない。どうしても諦められない夢ならどこかに他にも必ず道がある。その道を探すことをさなにも「逃げる」なんて言い方をしなくてもいいと思うよ。
いいこと言うね。
ずっと真夜中でいいのにの「あいつら全員同窓会」にもあるじゃん、こんなフレーズ。
嫌味に費やすほど人生長くないの
外部のうるさい言葉に対してまともに受け止めていられるほど人生は長くない。だから、そんな環境から逃げ出してしまえばいい。自分のやりたいことが決まっていたら次の場所はすぐに決まるものだと思う。
私は今教師をやっているが、ほんま無理ってなったら辞めてやろうとか思っている。
今のところそんな気持ちはないけど。
そもそもまだ教諭ですらないんだけど。
瀬尾まい子『図書館の神様』
なんか先入観でこの小説を図書館司書のおばさんが中学生の男の子に文学を通して人生の教訓を垂れる話だと思ってたけど、全然違ってた。
主人公は若い女性教師(常勤講師)で文学に興味がないのに文芸部の顧問をもたされて不満に思っている。文芸部にいたのはもともとサッカーをしていたという垣内という男子高校生。
なんとも主人公が厚かましい感じがして嫌だった。
文学に没頭する垣内くんに
「ねえ、スポーツしないの?」
「何か運動しないの?」
「図書室でこんなことしてないで、野球とかバスケとかしたくないの?」
「野球とかサッカーとかバスケとか。そういうのやりたくなんないの?」
「サッカー部だったのに、どうして文芸部になっちゃったの? どうしてサッカー続けなかったのよ」
「普通、中学でしてたんなら高校でもサッカー続けるでしょう? 中学の三年間なんてウォーミングアップじゃない。運動って高校からが面白くなるのに、わざわざ文系のクラブに入るなんておかしすぎるよ」
とかいう質問攻め。
なんだろ、こういう質問やめとこうぜって読みながら思った。
本人は好きで文芸部に入っているんだから、「運動部に入らない理由」なんか聞くなよって思った。
さらにこの主人公、教員採用試験で、面接では首を傾げて考えている振りをしていたとか、集団討論でほかのひとの意見に賛同する以外のことはしていないとか、文字授業では十分間という制限なのに三分で終わったとか、それなのに試験は合格したという。
いや、ありえねえって。
この主人公が合格した理由は松井という講師(熱血教師)から
「結局、お前みたいな色のないやつが受かるんだよな。教師集団の中では、お前みたいなやつのほうが、熱血なやつよりずっと扱いやすいから」
と言っている。
にしても、ありえねえって。
とまあ、フィクション相手に怒っても仕方ない。
瀬尾まい子さんはなかなか教員採用試験に受からず9年間講師務めをしていることから、教員採用試験がそう簡単ではないことを知っているはずだから。主人公を試験に受からせたのは松井のセリフを持ってこさせたかったからだろう。
あと、主人公が垣内くんに「ぶっ殺すわよ」と冗談めかして言っているんだけど、うーん、どうなん? 関係性ができているとはいえ……
と、まあ、前座はおいておいて
今回は、垣内くんの文学観を述べたいと思っていた。
共感を覚えたセリフを引用する。
「文学を通せば、何年も前に生きてた人と同じものを見れるんだ。見ず知らずの女の人に恋することだってできる。自分の中のものを切り出してくることだってできる。とにかくそこにいながらにして、たいていのことができてしまう。のび太はタイムマシーンに乗って時代を超えて、どこでもドアで世界を回る。マゼランは船で、ライト兄弟は飛行機で新しい世界に飛んでいく。僕は本を開いてそれをする」
誰だって自分の人生しか生きられない。
しかし、文学によって自分は主人公の人生を体験することができる。
マンガだと絵があるため、自分を主人公に投影するのは難しいが、小説ならそれができる。文字を読み、想像することで、自分は主人公と同じ世界を生きることができる。
いろんなジャンルがある。
ラブストーリー
ファンタジー
近未来
いろんな世界を体験できる。
垣内くんの言いたいことがすごくわかる。
読書というのは閉ざされた活動と思いきや実はかなり開かれた活動なのかもしれない。
言葉と思考の乖離 村上春樹『螢』から
村上春樹『螢』という小説の中で、名前のない〈僕〉の恋人(元恋人といったほうが正確か)が言ったセリフ。
「うまくしゃべれないのよ」
「ここのところずっとそうなの。本当にうまくしゃべれないのよ。何かをしゃべろうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、まるで逆だったりね。それで、それを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうの。そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつにわかれていてね、追いかけっこしてるみたいな、そんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるまわりながら追いかけっこしているのよ。それでちゃんとした言葉って、いつももう一人の私の方が抱えていて、私は絶対に追いつけないの」
村上春樹の小説はなんか夢みたいでストーリーが面白いというより引き込まれる。
物語の世界に引き込む力がすごい。
その力の一端を担っているのが登場人物の象徴的なセリフなんだと思う。
恋人のセリフはなかなか共感できるものだ。
言葉と思考の乖離。
それを「まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるまわりながら追いかけっこしているのよ。それでちゃんとした言葉って、いつももう一人の私の方が抱えていて、私は絶対に追いつけないの」と表現しているのは、ほんとすごいなって思う。
『螢』は『ノルウェイの森』の原型となる小説である。
『ノルウェイの森』は読んだことあるのだが……、そんなセリフあったっけ?
あった。
直子のセリフ。
「うまくしゃべることができないの」
「ここのところずっとそういうのがつづいているのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私の方が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」
少しの違いはあるが、ほぼ同じセリフがある。
『ノルウェイの森』を初めて読んだのが、四年前くらい。
だが、セリフはまったく印象に残っていない。
『螢』を読んだのはつい最近。
すごく印象に残った。
言葉と思考の乖離について、
私自身、すごく共感したのだが、自分は昔よくうまくしゃべることができなかったと過去を振り返ってのことなのだ。
正直、今は言葉と思考の乖離などない。
むしろ、『ノルウェイの森』を初めて読んだ四年前のときの自分にとってはすごく身近な問題であったはずだ。しかし、印象にまったく残っていない。
もしかすると、当時の自分は「言葉と思考の乖離」について、まったく自分の問題だと思っていなかったのだろう。
そんなことを考えさせてくれるのが、小説。
桑原朱美『保健室から見える親が知らない子どもたち』
Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラム)の略称で、別名「脳と心の取扱説明書」と呼ばれる最新の心理学であるそうだ。
「人間が苦しんだり、喜んだり、立ち直ったりする本質的なしくみ」「人間が変化し成長していく原理原則」など、脳の科学に基づく心理療法によって、筆者は保健室でいろんな生徒に対応してきたそうだ。
NLPについて学んできた筆者は今まで生徒対応がうまくいかない理由を理解した。
それは、「手法」で人を変えようとしていたから、という理由だ。また、感情や行動にばかり着目してしまい、相手の感情をなんとかしてあげようと考えてしまっていたこと、子どもたちが起こしている「現象」をも「問題」としてとらえ、問題を消そうとしていたということにも気づいたそうだ。
人間の「ことば」「思考」「行動」のかかわりを深く理解することなく、手法に頼ろうとしてしまってはいけないというのは筆者の大きな反省であった。
では、どうすればいいのか?
今から紹介していこうと思う。
(はじめにことわっておくと、筆者は中学校の保健室で生徒の対応にあたっていた。)
1.ケースで考える
CASE1 成績が悪いから受験できる高校がない
「進学できる高校がない」
A君は言った。
その理由は「今までもそうだったけど、ずっとこのまま」だからそうだ。
ここで大きな勘違いをしている。
それは時間の流れを「過去→現在→未来」ととらえてしまっているということだ。
人生経験の少ない子どもたちは、過去と今をもとに未来を考える。うまくいかなかった体験や認めてもらえなかった経験という、過去の延長で未来を見ているので希望を持てないのだ。そして、今の状態が、これからもずっと続くんだという勘違いをしている。
「先に未来を見る」という考え方がある。
筆者は子どもたちに未来を想像させるというやり方を用いている。
それを「back one step」と呼んでいる。
①まず、未来でどんなことを達成しているか自由に想像させる。
②次に、未来から一歩ずつ下がって、達成した未来に行くまでのストーリーや行動を体感的に確かめる。
こういったワーク。
ワクワクする未来を脳にインプットすることで、未来に希望を持たせる。
そうすれば、きっと「今までずっとできなかったから」というネガティブ思考から離れ、前向きになってくれることだろう。
(こんなにうまくいことはなくとも、「過去や現在」にとらわれて、未来を悲観的に考えてしまう子は多くいる。「過去や現在」と「未来」は関係ない、と思わせることが必要だろう。)
CASE2 自分を多重人格だと思い込んでしまう
「私、多重人格かも」
Bさんは言った。
その理由は「学校では真面目だとか素直とか言われているけど、家ではだらしなくて親に暴言も吐く」からだそうだ。
ようは、Bさんは学校での自分と家での自分の性格の乖離ゆえ、多重人格だと思ってしまったのだ。
これは前にブログでも書いた「分人主義」に通じるところがある。
ほんとうの自分はいない。
学校で見せる真面目・素直な自分と家で見せるだらしなくて暴力的な自分も「自分」。
どれがほんとうとかうそとかなくて、どっちも「自分」。
だから、どの自分はダメとかもない。
だって、それも「自分」を構成する大切な自分なのだから。
とはいえ、けっこうな子どもが「欠点がある自分は、愛されない」と考えてしまっている。「この欠点があるからダメなんだ。こんな欠点を人が知ったら、誰も受け容れなくなってしまう。だから自分の欠点の姿を見せてはいけない、見せないように生きなくては」そう考えている子が多い。あまりに生きづらい。
欠点というのは隠そうとすればするほど、まわりからは見えてしまうものだ。
むしろ、欠点なんてひけらかした方が心的にもラクだし、欠点があるから人間らしいと思えるものなのだ。
CASE3 この欠点を直したい!
「声がでかくてうるさいと注意された。この欠点を直したい」
C君は言う。
短所を長所に言い換えるというやり方がある。
有名な話だが、リフレーミングという。
しかし、あまり知られていないがリフレーミングには二つの種類がある。
前者は、「物事にはほかにどんなプラスの意味があるだろうか?」という視点でフレームを見直すこと。
後者は、特性や特徴は「ほかにどんな状況なら役立つか」という視点でフレームを見直すこと。
C君の悩みを解決するためには後者の「状況のリフレーミング」が有効だ。
「授業中はうるさいと言われているのかもしれないけど、部活や体育大会ではちゃんとプラスにできている」
そういった言葉かけをする。
欠点とか長所とか短所とか、そもそも存在しなくて、「特徴」と言い換えることができる。どの場面で使えばプラスになって、どの場面で使えばマイナスになるかを考えて使い分ければ、悩む必要なんてないのだ。
CASE4 夢がない自分にダメだし
「夢がない」
D君は言う。
・祖父に、将来の夢を聞かれて、今特にない、と答えたら、最近の子どもはどうしようもないと言われた。
・将来の職業をすでに決めている子もいるのに、自分にはそういう夢がない。
・将来の夢はこれ、と言えない自分はダメな奴なのかと考えるとおなかが痛くなった。
筆者とD君の会話を再現しよう。
(※本書では「D君」ではなく、「E君」と表記している。しかし、こちらの都合上、「D君」と書くことにする)
「D君、君の言う〈夢がある〉って、なりたい職業が決まっているっていう意味なの?」
「違うんですか? クラスのKさんは、看護師になりたいって言っていました。Y君はシステムエンジニア、H君は保育士、Oさんはミュージシャン……」
「なるほど、そんなふうに話している友だちがいると、そう感じるよね。じゃ、もし、システムエンジニアという仕事がこの世の中からなくなったら、Y君はもう夢そのものがなくなっちゃうってことなの?」
「そのときは、別の職業を探すんじゃないかな」
「でも、夢だと思っていた職業がなくなったとしたら、夢をなくした人生を生きていくってこと?」
筆者が伝えたかったことは「夢=職業」ではないということだ。職業は手段ではない。その手段を使って何がしたいのか、どんな人生、どんな未来をつくりたいのかという目的こそが大切だ。
会話中に出てきたY君はシステムエンジニアになりたいと言っていたが、その理由は「自分が作ったものを人が使ってくれて、役立つのがうれしい」からだ。
ならば、システムエンジニアという職業がこの世からなくなったとしても、その目的が明確なら、別の職業でその目的を果たすことができる。
そういったふうに考えれば、仕事に対する考え方も変わるのではないか。
CASE5 先生、絆創膏! と言って来室
「先生! けが!」
と言って来室するE子さん。
「先生! トイレ!」と言えば、「先生、トイレに行ってもいいですか?」
「先生! 見えへん!」と言えば、「先生、黒板が見えないので少しどいてもらっていいですか?」
そういった意味のことを言おうとしている。
だから、「先生!けが!」というのは「先生! けがをしたので絆創膏ください!」って意味なのだ。
筆者は「先生! けが!」と言ったE子さんにこう言った。
「先生は、けがという名前ではありません。けががどうしたの? けがをさせたの? 自分がした? それとも、させてほしい?(笑)」
ちゃんと必要なことを言わせるために、あえて察することをせずに、何をしてほしいのか具体的に説明させているのだ。
察してあげるというのは優しいことではない。
なんでもかんでも察してあげてしまったら、その子のためにならない。
言語化しなくても、察して動いてくれる人がいると、学校でも単語でものを伝えたり、態度や表情だけで相手に自分の要求を察してもらおうとするパターンを身につけさせてしまう。これじゃあ、社会に出てから大変です。
「○○さん、印刷!」なんてものの頼み方はしないだろう。
自分のことをことばで表現させる、というのはとても大切なことなのだ。
CASE6 あの子は私のことが嫌いなんだ、という妄想
「H子ちゃんに挨拶をしたら無視された。私のこと嫌いなのかな」
Gさんは言った。
どうやら、Gさんが勉強できないからH子ちゃんは馬鹿にしているのではないかと思っているらしい。
しかし、話を聞くと、実際に、H子ちゃんからGさんは勉強ができないから馬鹿にしているという話は聞いたことがない。
こういった「悩みのパターン」はけっこうあるものらしい。
子どもたちの悩みの多くは「事実」そのものより、その事実をマイナスに解釈したことによって起きている。こうした場面で、感情を受け止めるだけでは、当の本人は、自分を被害者の立場に置き続けてしまうことがあり、次の行動につなげることはできない。
ただし、そういった子に「思い込みよ」という声かけはしてはならない。
「確認質問」といった、話の内容を確認するための質問を行っていくことで、子どもたちの思い込みを排除するやり方をとるべきだ、と筆者は言う。
被害妄想という言葉がある。
被害妄想の子は「メンタルが弱い」などといわれる。
しかし、「メンタルが弱いのではなく、メンタルにマイナスの影響を与えてしまう言語パターン、思考パターンをしているだけ」と筆者は言う。ストレスを引き起こす出来事は外側にあるが、それによって、どれくらいのストレスをどのくらいの期間引きずるかは、そのひとの言語パターンや思考パターンが決めているのだという。
悩みの原因が、事実ではなく、事実をどうとらえたかという解釈が問題であるなら、事実と解釈が頭の中でごちゃごちゃになっているということだから、それを整理させてあげればいいのだ。
CASE7 LINEが既読になっているのに返事が来ない
「既読スルーに傷つく」
そういった子は多い。
無視されている感じがするのだろう。
だから、既読がついているのに返信がないのを不安に思ってしまう。
私は嫌われているの? とか思ってしまう。
既読スルーが嫌な子たちは「友だちなら、読んだらすぐに返信するべきである」
と考えているみたいだ。これはいわば「X=Y(こういうときはこうするものだという自分ルール)」が強くあるということだ。
「既読になったらすぐに返事が来る人=私を受け容れてくれる人」
そういった無意識のX=Yが成り立ってしまっている。
対して、既読スルーを気にしないひとは、「人には人の都合があり、返事の速さと人間関係は関係ない」と考えている。
既読スルーに不安を覚える子に、大人はどう対応できるか?
それは「出来事を変えることはできないけれど、解釈は変えることができる」ということを子どもたちに教えてあげることだ。
2.生きづらさを抱える子どもたちの共通点
(本書は11個あるが、いくつか割愛している)
特徴① 他人軸の子どもたちが使う独特の不幸文法
・~してくれない
・どうせ自分なんて!
・~のせいで
・~してあげたいのに!
・みんなが! いつも!(+マイナスな表現)
・自分は○○な子(マイナスな表現)
・~だから…できない / ~だから…になる
事実を話しているのか、解釈を話しているのかを、確認しながら整理してあげることが必要だ。
特徴② 人の意見=自分の価値という思考
他人軸の子どもは、〈誰かの評価(意見)=自分の価値〉と考えてしまう。
親や先生に「お前は○○だ」と言われたら、そうだと思い込んでしまう。
誰かの意見は、その子のある一面を見て言っているだけで、それはその人の意見であり、その人の感じた勝手なイメージなのだ。しかし、それを「真実」と受け止めてしまい、その結果、自分が本来持っている能力も発揮できない子が多い。
特徴③ 自分で決めることができない
成績は優秀だが、頑張っていい子を演じている傾向がある子は、なかなか質問に答えてくれない。筆者はその理由を「間違った答えを言うことで、自分のことを馬鹿に思われるのではないか? だから正解を言わなくてはならないと思ってしまっている」からと推測している。私もそうだろうと思う。
俗に世間で言われる「いい子」というのは大人の言う通りにする子だ。そういった子には「自己」がない、「主体」がない、自分の意志で行動したことがない。
(私はとあるテニスの試合でこんな子を見た。高校生の大会なので、その子は高校生なのだが、お父さんらしき人といっしょに試合に来ていて、バッグはお父さんが持ち、コートに入ってからもその子はずっとお父さんの方を見て、指示を待っている。お父さんはその子にあっちに動く、とか、コートチェンジするとかいったことをジェスチャーで指示していた。驚いた。)
特徴④ 誰かが察してくれるのを待つ
自分は被害者であり、かわいそうな自分であることを周囲にアピールする。
そういった子は誰かが察して、助けてくれるのを待つ。
逆に察してくれないと、そのひとを悪者扱いする。
めんどくさいけど、そういったひとはけっこう多い。
自分が変わろうとせずに、周りに変化を求めるのだ。
だが、残念ながら他人(あと過去)はコントロール不可能だ。
変えるのは自分しかないのだ。
特徴⑤ 事実に対するネガティブな解釈で自爆する
事実に対してネガティブに解釈し、落ち込んだりする。
「出来事は変えられないけど、解釈は変えることができる」
「一つの出来事でも、いろいろな解釈の仕方や考え方のバリエーションがある」
「その解釈によって出てくる感情は全く違う」
そういったことを子どもたちに伝える必要がある。
特徴⑥ マイナスを一般化する
「みんな」「いつも」という言葉を多用する。
こういったことを一般化という。
一般化が大きくなればなるほど、負の感情を引き出すトリガーが多くなる。
大人はそういった子たちに「具体的には?」「みんなって誰?」「いつもというのは、どれくらいの回数なの?」「例外はある?」などのことばで、その子がはまり込んでいる思考を解いていく必要がある。
3.子どもの生きづらさを増幅する大人の勘違い
近年、繊細な子が増えた結果、配慮することが増えた気がする。
それは教育現場のみならず、社会全体がそうなっている気がする。
ぺこぱのような誰も傷つけない笑いが求められているように、
「誰も傷つけない」ということが大きなテーマとなっている。
だからか、教育現場でも「優しくする」ということが求められている。
厳しい指導の結果、不登校や最悪、自殺にまで発展するケースもある。
私の勤務している学校の先生も言葉選びにかなり慎重になっている。
しかし、そういった指導の中で忘れてはならないのが、
「その対応で本当に子どもは、人間として成長できるのか?」ということだ。
子どもが自分で考え、自分で答えを出すために、大人がしっかりと向き合い、十分な時間をかけることこそは「指導」だと、筆者は言う。
また、「優しくする」中で、子どもに危ないことをさせないということで、公園から危険なアスレチックを除外したり、ボール遊びを禁止したりしている。
しかし、そういったあらゆる危険因子を排除していったら、ほんとうに楽しいことは何もなくなると思う。
それと同じように子どもに失敗経験をさせないように、前もってその危険を大人が排除すると、子どもは学びを失ってしまう。
失敗は成功の母という諺があるように、失敗することによって人は学び、成長するものだ。失敗をチャンスに変えて心を成長させるものだ。だから、失敗経験を取り払うなど、言語道断事案なのだ。
また、親が過剰に子どもを守ったり、行き過ぎると「かわいそうな子」として扱うなんてこともある。
相手をかわいそうな子だと思ってかかわると、瞬時に相手は、かわいそうな子になる。かわいそうに思うのは愛情ではない。
相手を思いやったことばであっても、かわいそうな子、助けてあげなきゃというマインドでかかわるとき、相手に届くのは「あなたは助けてもらう人」「君は問題児だ」という非言語なメッセージなのだ。
「君は○○」というレッテルはりに気を付けなければならない。
4.まとめ
本書はまだ3章残しているのだが、ここでは割愛する。
最後に、本書の最終章に書かれていたことが面白い発想だなって思ったので、それを紹介して終わろうと思う。
多くの子どもたちが、他人軸になってしまう根本的な原因は「自己受容」の低さである。自分を受け容れられないから、自分を消して人に受け容れてもらおうとする。人の評価が必要以上に気になる。自分の中にいる受け容れられない自分を隠そうとする、排除しようとする。さらには、それをごまかすために、自分以外の何かになろうとして、たくさんの鎧をつけて生きようとする。様々な問題の大元の原因が、そこにあると考えられる。
私たちの肉体は一つだが、いろんな自分が存在する。
いろんな自分が集まって自分というものを形成する。
この集合した自分を筆者は「チーム自分」と呼んでいる。
チーム自分の中にはいろんなメンバーがいるが、その全部を好きになる必要はない。どうしても好きになれないメンバーもいる。でも、自分の中にある大切な自分の一部だから、ここにいてもいいよと存在を認めてあげることだ。
受け容れてもらうために、ほんらいの自分の姿を否定し、受け容れてもらえそうな自分ばかりを演じていく。その自分が受け容れられないと、今度はもっと違う自分をつくるという悪循環が生まれる。自分がどんどん複雑になって来る。そうなってしまうと「自分って何?」って思うようになってしまう。
チーム自分をよりよくするためには「排除」ではなく「受容」なのだ。
これは筆者のたとえではないのだが、たとえば、14人いる野球チームで、監督がこいつらは気に入らないと言って、5人追放してしまったら、残りの9人だけで試合をしなければならなくなる。そうなると、パフォーマンスが下がってしまうことだろう。そうではなく、14人いるなかで監督が気に入らないメンバーがいたとしても、欠点ばかりに着目するのではなく、「こいつは声が大きくて、チームの士気をあげてくれる」などといったチームを貢献する何かを見出してやることで、そのメンバーを受け容れる。そうすることで「最高のチーム」を作り上げる。ということなのだろう。
最後に筆者の言葉を引用して締める。
どんな自分も、あなたそのものではなく、そしてどんな自分も大切な自分です。そして本当のあなたは小さい自分(チームメンバー)を越えたもっともっと大きな存在なのです。
齋藤孝『新しい学力』
これからの時代、「生きる力」が求められている。
文部科学省は「生きる力」について以下のように定義づけている。
・基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力
・自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性
・たくましく生きるための健康や体力 など
変化が激しく、新しい未知の課題に試行錯誤しながらも対応することが求められる、複雑で難しい時代を担う子どもたちのための「生きる力」。
この「生きる力」をはぐくむために、「主体的・対話的で深い学び」が大事だと明言されている。
いわゆるアクティブラーニングというやつだ。
このブログでも紹介したが、学力の低い高校では、アクティブラーニングを授業で取り入れるのは難しい。
まず、教師が適切に指導するのが難しい。
生徒全員が課題に対して意欲的であるならばいいが、関係のないお話をしていたり、話し合いに参加しなかったり、もはやグループワークの態をなしていない場合、その都度指導をしなければならないので身が持たない。
馬鹿の一つ覚えみたいにアクティブラーニングを授業に積極的に取り入れたところで、生徒側が意欲的でないならば、だらだら話し合いをするだけで終わってしまい、何も身につかないという現象が起こってしまうのだ。それなら、従来の一斉授業を行った方がましだ。
つい最近、高校生クイズという番組を見た。
私の記憶では高校生クイズといえば、化け物級の賢い高校生が化け物みたいな問題を解いていくといった知識の格闘番組、といった印象があったのだが、今ではそういった知識を要しない「創造性」を重視したクイズを行っていた。
創造性という言葉を聞いて、私の親は感心した。
「これからはこういった力が必要だ」と。
そして、「今までの知識詰込み教育はよくない」といったことを言っていた。
世間でもそういったことを言っている人は多いのではないか?
また、親は、
「知識ばかりあっても意味がない。今の政治家は知識ばかりあって創造性がない」
みたいなことも言っていた。
このように知識詰込みが得意な(記憶力のある)方々が東大という肩書を持って今の国会に腰を据えているという状態を憂いている人は多いのではないか?
官僚の賢さとか能力とか、そういった問題はさておき、「東大=記憶力のいい人に有利」という構図ははたして正しいのか?
2020年度東京大学の入試問題「地理歴史」の問題を提示する。
次の(1)~(5)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1)842年嵯峨上皇が没すると、仁明天皇を廃して淳和天皇の子である皇太子恒貞親王を報じようとする謀反が発覚し、恒貞親王は廃され、仁明天皇の長男道康親王(文徳天皇)が皇太子に立てられた。以後皇位は、直系で継承されていく。
(2)嵯峨・淳和天皇は学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てていくが、承和の変の背景には、淳和天皇と恒貞親王に仕える官人の排斥があった。これ以後、文人官僚はその勢力を失っていき、太政官の中枢は嵯峨源氏と藤原北家で占められた。
(中略)
(5)清和天皇の貞観年間(859~876)には、『貞観格』『貞観式』が撰定されたほか、唐の儀礼書を手本に『儀式』が編纂されてさまざまな儀礼を規定するなど、法典編纂が進められた。
設問
9世紀後半になると、奈良時代以来くり返された皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり、安定した体制になった。その背景にはどのような変化があったか、5行以内で述べなさい。
以上の問題を読んで、どう思うだろうか?
暗記が得意だからといって解ける問題ではない。
また、重箱の隅を楊枝でほじくるような難問というわけでもない。
東京大学の出題の意図は以下の通りだ。
問題はいずれも、①日本史に関する基礎的な歴史的事象を、個別に記憶するのみならず、 覚えた事実を互いに関連づけ、統合的に運用する分析的思考を経た知識として習得しているか、②設問に即して、受験までに習得してきた知識と、設問において与えられた情報とを関連付けて分析的に考察できるか、③考察の結果を、設問への解答として、論理的な文章によって表現できるか、を問うています。歴史的な諸事象が、なぜ、どのように起こったのか、相互の間にどのような関係や影響があったのか。それを自ら考えつつ学んできた理解の深さと、自らの理解を論理的に表現する力を測ろうとしています。(東京大学「『地理歴史(日本史)』の出題の意図」2021年)
こういった能力が問われているというのに、東大の問題は化け物級に暗記が得意な人が合格できるなんて烙印を押されているのが不憫でならない。
出題の意図から、論理的思考力や文章には明記されていないが問題解決能力が求められていることがわかる。
以上が「東大=いっぱい知識があれば有利」という間違った構図への批判だ。
じゃあ、東大が論理的思考力や問題解決能力だけを求めているのかといわれれば、そうでもない。基礎的な知識もそれなりに必要である。それは上の出題意図からも読み取れる。上記の日本史の試験を見る限り、奈良時代の歴史的背景をそれなりに理解しておかなければ、問題は解けないことがわかる。
つまり、「基礎的な知識+論理的思考力・問題解決能力」が必要だということだ。
新学習指導要領における学習評価は「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点で整理されている。
ここからも基礎的な知識に加え、「思考力・判断力・表現力」といった「考える力(まさに論理的思考力!)」、「主体的に学びに取り組む姿勢」などがこれからの学習で必要となってくるということがうかがえる。
「思考力・判断力・表現力」の向上のために、「主体的に学習に取り組む態度」を育むために、主体的・対話的で深い学びを授業で取り入れることが教育現場では求められているのだ!
確かに昨今の時代の潮流を踏まえると、さもありなんという感じだ。
しかし、どの教科においてもどの学校においても「主体的・対話的で深い学び」を求めるというのは酷だと思う。
新学習指導要領の理念から言えば「基礎的な知識」も必要事項である。しかし、この「基礎的な知識」すらまったく身につけていないような子がいるという事実を忘れてはならない。
アクティブラーニングが「基礎的な知識」を身につけていない子たち同士が行っても、まったく意味がないように、「基礎的な知識」すら定着していない子たちに「主体的・対話的で深い学び」の授業の実践をしても意味がない。
私の勤務している学校では「漢字」をまともに書けない(「鼻」とか「道」とか、そういった小学生の漢字でも間違える。漢字を書き写すことすらできない。また、文章を書かせば「てにをは」はめちゃくちゃ。自分の思いを言語化できないため、まともな意見文は書けない。それなのに、3観点の評価を求められる。
よく悪く言われることが多い「知識詰込み授業」も大切だ、と私の勤務している学校の先生は言っている。
まず基盤がしっかりしていないのだから、それを固めるための知識を教授する必要があるということだ。
また、「主体的に学習に取り組む態度」という評価観点があるが、そもそも私の勤務している学校の生徒の中には、家庭にいろいろ事情があったり、精神的に不安定だったりと、カウンセリングを必要とし、もはや勉強どころではないといった子や、多動性、学習障害、言語障害を有する子たちがいて、そういった「主体的に学習に取り組む態度」を持てる状況ではないといったリアルがある。前者の子たちは、学校に来るだけで偉いとされ、後者の子たちは、席に座り続けるのが苦痛に感じたり、勉強しても成績が伸びないために勉強が楽しくないと思ったりする。子ども一人ひとりに相応の支援をすれば、そういった子たちの学習をサポートできるかもしれないが、いかんせんそういった子たちの数が多すぎる。
(ついでに言うと、オンライン授業なんてできるはずもない。そもそも自分を律することが難しい子たちだから、決められた時間にPCを開いて、授業を受けるといったことができない。それどころか、家庭の経済状況的にPCなど持っていないといった生徒が多くいる。)
つまり、私が何を言いたいのかというと。
昨今の「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けての取組は、その目的としては立派なものだが、だからといって、基礎的な知識すら定着していない子たちにも、そういった取組を求めるというのは違うと思う。
それぞれの学校の生徒の状況にあった授業というものがあるはずだから、どの学校にも同じように「主体性!」「創造性!」といったものを求めるのではなく、それぞれの学校の生徒が必要とされているものは何か見極めたうえで、授業のプログラムを組んだほうがいいと私は思う。
精神的に不安定ならば、カウンセリングを充実させ、勉強面はさておき、学校に来るという習慣をつけ、社会に出るまでのサポートをできる限りにおいて学校側が支援すればいいと思う。
「主体的・対話的で深い学び」とか言っていられない学校があるという事実を忘れてはいけない。学校ごとに状況は異なるということを踏まえたうえで、学校ごとに教育方針を変えていくべきだと私は思う。
基礎的な知識が欠如している生徒がいる学校では、主体的・対話的で深い学びの実現は難しいという話をしてきたが、今度は「じゃあ、基礎的な知識をどうやって身につけさせることができるか?」を考えてみよう。
その方法は「学ぶ意欲」を持たせることだと思う。
学ぶ意欲さえ持たせることができたら、「学びたい」という気持ちを芽生えさせ、学びに向かわせることが可能になる。
進学校にいる生徒たちはいい大学に受かりたいという気持ちから、勉強をしなければならないものだと思っているため、否が応でも勉強をする。だから、正直教師側が生徒に学ぶ意欲を掻き立てることなく、彼らは自発的に勉強をする。
しかし、進学校ではない、学力の低い学校では、別に勉強はできなくてもいいと思っているため、教師側が生徒に学ぶ意欲を掻き立てる必要がある。
学ぶ意欲といっても、「これから国際社会になっていくのだから英語は勉強しないといけない」と言っても、彼らには何も響かないだろう。
進学校の生徒で、将来、海外進出を視野に入れているなら、「英語は必要」と勝手に思ってくれるだろうが、そうでないと英語を学ぶ意義を見出せず、勉強しようという気持ちを引き出すことはできない。
自分の領域内にあれば学ぶ意欲は生まれる。
自分の領域外にあれば学ぶ意欲は生まれない。
たとえば、Aくんはゲームが好きだったとする。
すると、ゲームに関する知識は一生懸命に吸収しようとする。
たとえば、Bくんはお金が好きだったとする。
すると、お金に関する知識は一生懸命に吸収しようとする。
自分の関心・興味の有無によって、知識欲が生まれるか生まれないかが決まるということだ。
じゃあ、学校で学ぶ教科も関心・興味で決まるものなのか、と落胆してはいけない。
自分の領域内にあれば学ぶ意欲は生まれる。
自分の領域外にあれば学ぶ意欲は生まれない。
自分の領域というのは自分が生活するうえでという意味も内包している。
進学校の生徒が勉強する理由が大学受験である。大学受験は別に関心・興味ではなく、自分の人生に関わる話である。
このように学力が低い生徒に対しても、勉強が自分の人生に関わる話であることに気づかせることで、学ぶ意欲を掻き立てることができそうだ。
つまり、当事者意識を持たせるというやり方だ。それによって「学ぶ意欲」を掻き立てることはできそうだ。
たとえば、生物という教科でウイルスについて勉強することに興味を持つ人は以前に比べて増えたことだろう。その理由は新型コロナウイルスである。新型コロナウイルスは自分の生活圏内にある大きな出来事で無関心を貫くことのできない問題である。当事者意識を持てば、ウイルスについて学び取ろうと思うことができる。
このように当事者意識さえ持つことができれば、勉強する意欲はわく。
古典に興味を持てないひとが多い理由としては、当事者意識を持てないからだと思う。
しかし、古典は、人々にいろんなことを教えてくれる。
(具体的な話についてはまたいつか)
いい知恵やいい知見を与えてくれる。
それは実生活にも影響を与えてくれる。
そう実感出来たら、古典もまた当事者意識を持って学び取ることができるかもしれない。
自分の人生の中でかかわりを持たなそうなものでも、突き詰めてみればけっこうかかわっているものがある。
その「見えないつながり」みたいなものを、教師は生徒に気づかせることが求められるのだろう、たぶん。
〈まとめ〉
・これからの時代、「生きる力」が求められている。この「生きる力」をはぐくむために、「主体的・対話的で深い学び」が大事だと明言されているが、授業で取り入れるのは難しい。
・「東大=いっぱい知識があれば有利」というのは間違った認識。「基礎的な知識」に加えて、「論理的思考力・問題解決能力」を求めている。
・アクティブラーニングが「基礎的な知識」を身につけていない子たち同士が行っても、まったく意味がないように、「基礎的な知識」すら定着していない子たちに「主体的・対話的で深い学び」の授業の実践をしても意味がない。
・それぞれの学校の生徒の状況にあった授業というものがあるはずだから、どの学校にも同じように「主体性!」「創造性!」といったものを求めるのではなく、それぞれの学校の生徒が必要とされているものは何か見極めたうえで、授業のプログラムを組んだほうがいい。
・基礎的な知識をどうやって身につけさせるために「学ぶ意欲」を持たせることが求められる。学ぶ意欲さえ持たせることができたら、「学びたい」という気持ちを芽生えさせ、学びに向かわせることが可能になる。
・学力が低い生徒に対しても、勉強が自分の人生に関わる話であることに気づかせることで、学ぶ意欲を掻き立てることができそうだ。(当事者意識を持たせる)
・自分の人生の中でかかわりを持たなそうなものでも、突き詰めてみればけっこうかかわっているものがある。その「見えないつながり」みたいなものを、教師は生徒に気づかせることが求められる。
※ おまけ
実は今回の話は齋藤孝さんの『新しい学力』を読んで思ったことなのです。
しかし、今回の内容は本書の内容を踏まえてというより、わりと個人的な意見を書き連ねた感じです。
後の話は、本書を読んで、なるほどなって思った部分を書こうかなと思います。
主体性を求める昨今の教育事情を踏まえたうえでの言及です。
優れた経営者を育てようとする発想の背景には、イノベーションのできる人材を育てようという期待がある。新しいアイディアを出し、成功を収めることができる人物を育てることを期待している。
これは単純化すれば、アップル社を作ったスティーブ・ジョブズのような人間を出すことを目指しているといっていい。世界になかったものを創り出し、強烈なリーダーシップでビジネスとして具体化し、世界のスタンダードにする。このような力を持った人間がいれば、日本経済も活性化することが期待できる。
しかし、ここには疑問がある。はたして、スティーブ・ジョブズは教育によって生み出されたのだろうか。スティーブ・ジョブズはアクティブラーニングやケーススタディ的な教育を受け、優秀な成績を修めたから、あのようなイノベーションを起こすことができたのか。ジョブズの中にある使命感や美的な感性は、彼のイノベーションを起こす力の根本的なものであったが、そうしたものを「新しい学力観」は柱に据えているのか。
そもそも、みんながジョブズになることは望ましいことなのだろうか。全員がジョブズであった場合、はたしてアップル社は現在のような業績を上げることができただろうか。ジョブズはエレベーターでたまたま一緒になった社員と会話をし、それが気に入らないとすぐにクビにしたともいわれているが、はたしてそのような人間性は目指されるべきものなのか。こうした疑問は次々に浮かぶ。
ここ最近、インフルエンサーたちがスティーブ・ジョブズみたいになれ、とか、個人の力を高めよ、とか、そんな言葉を言っている。
しかし、本書にも書いてある通り、みんながジョブズであった場合、アップル社はいまのような業績を上げるかといわれれば無理であろう。アップル社が成功の陰には、ジョブズの無茶ぶり(言葉は悪いか?)にこたえ続けたエンジニアたちがいたということを忘れてはならない。
それなのに、ジョブズを崇め、ジョブズみたいに創造的な人間になろうと躍起になっているひとがいる。みんながみんなジョブズになれば、間違いなくやばい(語彙力)。
主体性を目指した教育を行うのは結構だが、就職して、組織の中でなんでもかんでも主体性をもってあらゆるものに働きかけるというのはもはや自分勝手になってしまうのではないか?
自分の意欲・関心に従う、100%の主体性を持って活動することで、組織の中をかき乱すようなことは企業に悪い影響を与えるばかりである。
以前、このブログで「働くとは何か?」という題で仕事について考えた。
そこで「仕事は誰かの役に立つこと」と書いた。
誰かの役に立とうとすれば、自分の主体性を抑えなければならないときだってあるし、創造性に蓋をしないといけないときだってある。
また、内田樹『期間限定の思想 「おじさん」的思想2』で、
仕事を通じて私たちがしようとしているのは「パスを出す」ことである。
というように、組織の中で与えられた仕事をくるくると回していくということがそこで働くひとに求められている。この運動性の中に、「主体性」は時と場合によっては邪魔になるだろう。
※
学問をする上で、それぞれの学問を学び、その学問を心から素晴らしいと思ったのでなければ、学習者の意欲を火につけることは難しい。学問ははじめから面白いとは限らず、地道でつまらないとも思える勉強を経て、学問がわかるようになり、そして自在に応用できるようになってはじめてそのすごさ、面白さがわかってくるものである。教師は、その面白さがわかるようにするために、粘り強く自らが情熱をもって教えなければならない。
教師側がその学問に熱心でないのに、生徒にその学問に興味を持てというのは無理難題ということだ。
私の勤務している学校の先生に
「自分が好きだって思っていることを熱心に話していれば、生徒も興味を持って話を聞いてくれるよ」
と。
たしかに楽しそうに話をするのを聞いていたら、自然と「面白い」と思うものなのだろう。それと同じように情熱をもって授業をすれば、生徒はその熱意に答えてくれるものなのかもしれない。
私は今、古典をそこまで好きだと思えてない。
ならば、情熱をもって授業ができないだろう。
私はまず古典について学習するよりも、「本気で好き」にならないといけないのかもしれない。