いじめについて考える
1986年 中野富士見中学(東京)いじめ自殺事件
「いじめ」が初めて社会的にクローズアップされるようになった事件。
中二の男子生徒Aくんは、クラスメイトに下校時にバッグを持たされたり、プロレスごっこという名目で投げ飛ばされたり、ペンで顔を落書きさせられたり、常日頃いじめに遭っていた。終いには机に花や線香を机に置くといった「葬式ごっこ」が開かれるなど、クラスメイトのいじめはより陰湿(いじめに陰湿の程度などないが)になった。残酷なことに、その「葬式ごっこ」には担任も加担していたのだ。そういったいじめを苦に、Aくんは自殺をした。
1994年 愛知県西尾市いじめ自殺事件
中二男子生徒Bくんはクラスメイトにカバンを隠されたり、殴られたり、自転車の泥除けを壊されたりと、いじめに遭っていた。クラスメイトは暴行と恐喝でBくんのお金を巻き上げ、その総額はなんと100万円以上にものぼったという。
この事件から「教育相談体制の充実」が叫ばれた。
2005年 滝川市立江部乙小学校(北海道)いじめ自殺事件
小学六年生の女児Cちゃんは多数の児童から性的魅力がないと中傷されるなどいじめを受けていた。Cちゃんは遺書を残し、いじめを苦に自殺をした。滝川市教育委員会は聴き取り調査で「いじめはなかった」と結論付けた。また、遺書については、「手紙である」と遺書と認めなかった。
2011年 大津市中2いじめ自殺事件
男子生徒Dくんはクラスメイトに手足をテープで縛られたり、自宅から金品を盗まれたり、自殺の練習をさせられていたり、また、その他多くの被害に遭っていた。Dくんはいじめを苦に自殺をした。学校はいじめを看過していたことや、アンケート調査で「自殺の練習をさせられていた」という記載があったが、学校側はこれを隠蔽しようとしていたと、学校の対応に非常に問題があった。
この事件を受けて、2013年「いじめ防止対策推進法の公布・施行」が行われた。
以上にあげた事件以外にも、いじめを苦にこの世を去った男子女子が数多くいる。
今日のいじめ問題について、述べていこうと思う。
1. いじめ防止のために
文部科学省国立教育政策研究所生徒指導・心理指導研究センター総括研究官滝充氏はいじめを「風邪のようなもの」と捉えている。誰もが風邪を引くことはあるし、それ自体大きな脅威ではなく、罹ったからといって、すぐに深刻な状態になるわけではなく、適切で速やかに対処すれば治るものである。ただし、対処を誤ると重篤な状態になりえる。また、「気付きにくい」点でもいじめと風邪は似ていて、席や鼻水が出ても、それが風邪だとは限らない。「悪ふざけ」と「いじめ」の境界がなかなか見極めるのが難しい。
そのようなことを述べている。
風邪と見極めるのが難しいように、いじめを見極めるのも難しい。例えば、放課後、ひとりの児童が三つのランドセルを持っていた。二人の児童が「早く」「遅いぞ」と急かしている。この状況は「いじめ」だろうか? 「遊び」だろうか? 因みに私は小学生の時、これをゲーム感覚でしていた。じゃんけんに負けた人がだいたい五十メートルおきにみんなのランドセルを持つ、というルールで。だが、教師としてはいち早く駆け付け、今すぐにでも辞めさせるのが得策だろう。だからといって、「いじめは辞めろ」と言うと、まるでランドセルを運んでいる児童を弱く見ているような感じになり、遊びのつもりでやっていたその児童はえてして尊厳を損ねることになるかもしれない。こういったところがいじめの見極め・指導の難しいところなのだ。
いじめの定義は「いじめ防止対策推進法」の総則による「定義」で規定されている。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的または物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」
相手が嫌がれば、それは「いじめ」なのだ。
「よう」と言われ肩をバンと叩かれ、叩かれた生徒が心身の苦痛を感じたならば、それは「いじめ」である。だが、叩かれた生徒が笑って「痛えな」とけらけら笑えば、それは「いじめ」ではない。そういった見極めができるようになるには、教師がより生徒と接する機会を増やし、生徒のことをよく知る必要があるだろう。「○○、最近元気ないな」とか「△△、イライラしているな」など、そういった児童生徒の行動の変化、感情の機微などにしっかり気付くことで、いじめの対応も早くなるのだろう。
さて、ではどうやっていじめを防止するのかということについてだが、滝氏は「基礎体力・免疫力」とはっきり述べている。ここでも風邪のたとえを利用している。
「基礎体力」とは「規律、学力」で、学級の規律が乱れていたり、授業が判らない生徒が続出すれば、ストレスを抱える児童生徒が増え、いじめが起こる場を生んでしまう(窓割れ理論)。教師が学級の規律を保ち、判りやすい授業をすることで、そういった場をつくらないように努めることが必要だ。
「免疫力」とは「自己有用感」のことだ。周りから必要とされている実感を得れば、たとえひとりのクラスメイトから「お前、むかつく」と言われてきても、「自己有用感」のおかげで、嫌な気持ちに少しはなっても、それを跳ね返すことができるのではないか。そういったことを述べている。
ようは「居場所づくり」と「絆づくり」である。中野富士見中のいじめ事件はこの両方が欠落していた。教師もいじめに加担するといった最悪な教室の環境に加え、被害者を守ってくれる仲間はいなかったのだろう。
だが、この二つの「づくり」を行っても、社会は無菌状態ではないので(ここでもやはり『風邪の例えばなし』)いじめは起こってしまう、と滝氏は言う。だが、児童生徒がいじめに対して自分の力で対処でき、児童生徒同士でいじめを防いでいける環境をつくれるようにするのが、教師の仕事だと、滝氏は言っている。
ここまで、滝氏の言葉を借りてばかりしていたため、ここで私の主張を残しておこう。
「いじめ」と「風邪」は似ている、というたとえは判りやすいが、これは自分の心の中にだけに収納しておくべきたとえ話だろう。なぜなら、学級活動・HRで「いじめは風邪のようなものです」と教師が言えば、児童生徒は「いじめが起こってもすぐに収まる」とか「いじめはそんなにまずいものじゃない」といった「風邪=大したことない」という認識をもとにいじめを矮小化するようなことを思ってしまうかもしれないからだ。
あと、風邪は病院に行けば大抵治るが、いじめはそうはいかない。
患者は病院に来るが、いじめられている子は教師のもとに来ないことが多い。
これは「いじめられていることは惨めなことだ」と思ったり、また学校が信用ならないと思われているのが原因だろう。昨今あらわになった学校の隠蔽体質とか。
2. 隠蔽体質
冒頭にあげた四つの事件は、どれも防ぐことのできた事件だったかもしれない。(そう言えるのは、当事者でないから、というのも確かなのだが)
どれも学校側の対応がまずい。「体制の不備」、「学校・教育委員会の隠蔽体質」が露呈し、世間から非難を多く浴びた。こういったことはなぜ起こるのか? その答えは簡単である。煩雑だからだ。「いじめ」を目撃すれば、その対応に追われることになり、責任を負うことになる。だが、いじめを見てみぬ振りすれば、その看過した教師からすれば「いじめはなかった」ことになり、責任から逃れることができる。
いじめを看過する教師の肩を持つわけではないが、これは教師の業務の過多にも問題がある。授業を始め、生徒指導、進路指導、部活指導、テストの採点、保護者との連絡など、たくさんの業務に日々追われている。その中で、「いじめ問題」が発生すれば、仕事が追加され、余計に忙しくなる、それだったら「見てみぬ振り」が得策だ。
もちろん、教師としてそれはあるまじき行為である。
そもそも、SNSがこれほどまで流行した世界で、「見てみぬ振り」はもう通用しないのである。学校で「教師に暴行を加える男子高校生」の動画、「教師が生徒を殴る」動画、「教師同士のいじめ」の動画、こういった学校内の問題はSNSで上げられ可視化され、たちまちニュースで取り上げられるようになった。これはいいことでもあり、悪いことでもある。「いいこと」は学校側にしても生徒側にしても「なかった」ことにはできないため、責任逃れを封じ込められるということ。「悪いこと」は動画は基本的に短く、その前後が不覚のため、その顛末を妄想し、あれこれ批判の声をあげること。例えば、近年、教師が生徒を殴った動画がTwitter上で話題になった(町田総合高校)が、ニュースでは体罰として問題視され(もちろん、体罰は許されないものです)た。だが、Twitter上で、その教師は普段暴力とか絶対に振るわないような教師で、あまりの生徒の態度の悪さに、殴ってしまったというのが事の経緯だと真偽は不確かだがそういった旨のツイートが出回り、一気に教師の肩を持つ人が増えた。YouTubeでもこの動画のコメント欄を見てみると、教師の肩を持つ意見が多数を占めている。だからマスメディアで「教師が体罰!」というニュースが報道されれば、一定数は「そうじゃない」と首を振る(そうであることは確かなのだが)。こういった動画だけでは、事の一部始終がどうであったか判らないので、その切り抜かれた動画だけで判断するのは難しいのだ(何度も言うが体罰を私は認めているわけではない)。
「いじめ」の動画も度々Twitterにあがっている。
ネットの怖いところはすぐに人物を特定されることだろう。特定されてしまえば、その情報は半永久的にインターネット上を漂うことになる。いじめを行った人には常に「悪の過去」がつきまとうことになる。
以上のようにSNSが普及した今、「隠蔽」や「嘘」はもう通用しない。すぐにバレてしまう。だから、「隠蔽」や「嘘」で事実を歪曲するのはもうやめたほうがいい。子どもを守るのが教師の仕事だ。多忙になるかもしれないが、子どもが死んでしまったらどうするつもりだ、教師として失格ではないか、そういったことを肝に銘じていじめ問題に正対する必要がある。
……あと、隠蔽体質を生む原因が岩田健太郎氏(岩田健太郎氏と言えば、YouTubeでコロナ禍中にあったダイヤモンドプリンセスでの医療管理の杜撰さを語った動画が有名になった)は、いじめ問題に真剣に取り組んだが、結果児童生徒は自殺してしまった場合、善意の結果であったとしても、教員を罰するという処罰主義が隠蔽体質を生むといった旨のことを言っていた。
「処罰は、透明化を阻害する。情報開示を阻害する。」
……そういえば、教師がいじめ問題を看過して子どもたちが自殺したというニュースが報道されても、教師が早期にいじめ問題に対応したおかげでひとりの生徒の命が救われたというニュースは報道されないな。まあ、そりゃそうか。
※いじめの予防と早期発見・対応のワークフローを見てみよう!
①担任が「いじめは人権侵害」、「いじめは犯罪」という「いじめはあってはならない」という姿勢を示し、そういった空気をつくる。
(窓割れ理論から判るように、いじめは「空気」が生むものである。いじめの起こらないクラスは「いい空気」で、いじめの起こるクラスは「悪い空気」が漂っているのだ)
②環境面の変化に注意する。
(早期発見の一方策)
③児童生徒の「サイン」に気付く。
(元気がない、遅刻・欠席が増える、一人でいる、紛失物・忘れ物が増えるなど。いじめられている、学校に行きたくない、友だちがいない、モノを盗られている……いじめの兆候を見つけ、声掛けを行う。たいてい児童生徒は「何でもない」と言う)
④組織的な対応
(いじめが疑われたら、担任はひとりで抱え込むことなく、学年主任や生徒指導主事、管理職などに相談し、対応について指示を仰ぎ、組織としての対応をはかる)
⑤いじめの存在を確認
(緊急で「いじめ防止対策委員会」を設立し、いじめの対応に取り掛かる)
⑥いじめられている側の児童生徒と個別面談
(児童生徒のつらい気持ちを受け入れ、共感する姿勢を示す。当然だが、児童生徒にも非があるなどと絶対に言ってはいけない。自尊感情を高めさせるためのカウンセリングマウンドを持ち合わせておく)
⑦保護者との連絡
(学校の信頼を損ねないよう、きちんとした事実を伝え、いじめられているお子さんを守り抜くという姿勢を示す)
⑧いじめていると思われる児童生徒たちと個別面談
(口裏合わせを封じるために、何人か教師を動員し、同時に面談を行う)
⑨いじめた側の生徒の保護者に連絡
(事実関係を正確に伝え、学校としていじめは許さないという姿勢を示す)
⑩緊急の職員会議やいじめ防止対策委員会で協議
⑪生徒たちと面談
⑫学級の生徒たちへの報告と指導
(加害児童生徒を糾弾する場ではなく、いじめられた側の児童生徒の気持ちを共感するように仕向ける)
3. なぜいじめは起こるのか?
いろいろ述べてきたが、そもそも「なぜいじめは起こる」のか?
いじめの原因、要因と考えられる事柄は以下の通りだ。
①子どもたちの人間関係の希薄化、対人関係の未熟さ
②ストレスの増大化、発散する手段が乏しい
③集団内の異質なものへの嫌悪感情(異質の排除)
④他人に対する「妬み」や「嫉妬感情」(優位性の確保)
⑤「遊び感覚」や「ふざけ意識」の蔓延
⑥被害者になることへの回避感情
⑦人権意識・人権感覚の麻痺
⑧子ども世界の同調圧力
⑨テレビなどのタレントによる嗜虐的な「いじめ」「いじり」を笑いにするバラエティー番組の影響
⑩人間が生来持っている攻撃性によるもの
⑪ゆとりのない受験競争や詰め込み教育が子どもの心を蝕んでいる
⑫学習に対する目的意識が希薄し、意欲が低下し授業が成立しなくなった
⑬学校の過剰な管理
⑭学校秩序のゆるみ、規範意識の希薄化
⑮いつも他人の目を気にして、自分でやりたいようにできない(個の脆弱化)
⑯家族の人間関係の希薄化
⑱地域社会の共同性の解体
⑲死や暴力が社会から隔離され、子どもの目に触れることがなくなり、「喧嘩の仕方」や「他者の痛み」が判らなくなった。
⑳いじめが起きやすい学校制度
(1.学級という小さな箱の中に多数の子どもが詰め込まれているという学校の作り方)
(2.長期にわたって子どもたちが同じ「密で濃い」閉ざされた空間で過ごす)
(3.日本の学校の集団優先の全員一致主義が子どもの意識の中に大きく影響している)
以上のように要因はたくさんある。
要因はどうであれ、「いじめ」は「いじめ」なのだが。
それにしても、さも子ども世界にしか「いじめ」は起こらないとでもいいたいかのような書かれ方だが、大人の世界にも「いじめ」は存在する。教師間のいじめ問題にしかり、貴乃花親方へのいじめ、吉本興業の岡本社長のパワハラ(パワハラもいってしまえば、いじめの域だ)……。
そもそも「いじめ」は種を残すために、脳に組み込まれた機能なのだ。「ヒト」の場合、集団において「高度な社会性」をもつことが、種として発展する大きな要素である。「向社会性」と呼ばれる「社会のために何かをしようと行動する性質」を人間は備えているのだが、それが強くなると、「排外感情」(自分たちと異なる人への敵愾心)が生まれる。これが「いじめ」となる。社会性を持つ人間だからこそ「いじめ」は必然的に起こってしまう。また、脳内物質「オキシトシン」もいじめの原因だ。脳に愛情を感じさせたり、親近感を感じさせたる、人間関係を作るホルモンなのだが、オキシトシンが仲間意識を高めすぎると、「排外感情」も高めてしまうのだ。
とにかく「教育」で「共存能力」を育成していかねばならないのだ。
(貴志祐介『新世界より』の愧死機構みたく遺伝子を変えない限り「いじめ」はなくならないのだろう。)
4. いじめの構造
よく言われているのが、「いじめっ子」がいじめを行い、それを囃し立てる観衆は是認の体系を形成し、傍観者は黙認の体系を形成している、といった言説だ。
もちろん、教育者養成機関ではそういったことを教わるだろう。
が、果たして「傍観者」も「悪」なのだろうか?
よくTwitter上で「喧嘩の動画」を見かけるが、リプ欄には「撮ってないで止めろよ!」といったコメントが寄せられる。果たしてそうリプを飛ばした人は同じように喧嘩の現場を目撃したとき、止めることができるのだろうか? 喧嘩を止めるのは、警察の仕事で、普通の一般人が対応できるものではないだろう。一般人ができることは、警察への通報くらいなのだ。
それと同じように、いじめの現場を見たら、いじめは止めることはできなくても、先生へ通告することはできるだろう。だが、もしその通告がバレたら……、と思う人もいる。そういった人を出さないために、教師のクラスのマネジメントをしっかりすべきなのだろう。
つまり、クラス単位の問題として児童生徒たちの自己主張を促すことで対応することだ。常日頃、「自分のやりたいことを主張し発表する」ことを促す活動を行うなど、一朝一夕で効果が出ることはないだろうが、そういった活動をクラス内に「習慣化」させることで、必ずや効果は出てくると思う。
5. ネット上のいじめ
最近のいじめは「見えない」。
掲示板やLINEでのいじめなど、「情報モラル」の欠如がゆえに行われるえげつない行為。
匿名性は攻撃性を高める。社会心理学者のジンバルドーハある実験から結論を導いた。
他人の目というものは、人間の心理と行動に大きな影響を与える。他人の目から解放された人間はどうなるのか……実験内容についてはネット検索すれば出てくるので興味があれば見ていただきたい。
繰り返しになるが、この実験は「匿名性は攻撃性を高める」といった結論を導き出した。そして、「善人すらも条件が揃えば非道になり得る(非個人化)」といった結論も出た。
匿名となれば人は理性と関係なく暴走する傾向にあるのだ。
LINEは仲のいい子同士で繋がるため、匿名性は薄いが、Twitterはそうじゃない。実際、攻撃的なツイートを見かける。それを呟いた彼/彼女はリアルは優しい人間かもしれない。だが、SNSの魔力が彼/彼女をそうさせたのかもしれない。判らないが、その可能性がないわけではない。
掲示板で特定の人物を中傷するといったことがあるが、それは以上に述べた匿名性が引き起こした「いじめ」なのだろう。この対処法は「目には目を歯には歯を」のハンムラビ法典ではないが「SNSにはSNSを」だろう。こういった中傷を受けたとSNSで発信すれば、ほとんどが擁護してくれるはずだ。また、これはれっきとした名誉棄損だ。かつて横浜DeNAベイスターズの井納選手が妻の容姿をネットで悪く言ったことから損害賠償を請求したことがあるが、書き込みをした女性は「軽い気持ちで書いた」と発言しずいぶんとうろたえていたらしい。まさか、と思ったのだろう。こういったふうに、その気になれば、中傷した人を特定し、損害賠償を求めることだってできるのだ。
次に、LINEをめぐるいじめについて。言葉の勘違いもあるだろうが、やはり、グループ作成で特定の人物を外したり、その特定の人物を悪く言うだけの裏グループを作成したりすることができるからというのが大きな要因ではないか。
では、LINEでのいじめの対処はどうすべきか?
正直なところ、教師だけで対処できるものだとは思えない。生徒間のトラブルをすべて教師に一任してしまえば、ますます学校の隠蔽体質を形成し、学校の信用を損ねるといった負の連鎖が始まってしまう。教育基本法で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」とあるように、家庭教育もきっちり行わねばならない。ただ、この10条に批判的な見方をされている方も多くいる。その批判内容は、子育ては「社会」が行うべきで、そのために制度をしっかり整えるべきなのに、「家庭」に丸投げをするのは非道だといったことらしい。そういった意見も取り入れると、「いじめ」は学校だけ、家庭だけ、ではなく、巨視的な見方をして、「社会全体」で対応すべきだと主張できそうだ。
そもそも、「いじめ」は犯罪なんだし、暴力は暴行罪だし、金を巻き上げるのは恐喝罪・強盗罪だ。(そもそも「いじめ」の名前がよくない、平仮名ってとこがよくない、「虐め」にすれば少し「悪逆非道」感が強まる。)マスメディアだって「いじめを隠蔽した!」という学校側の非ばかり取り上げるのではなく、加害者の名前を「少年法」とか関係なく、バーンと公開したらどうか。悪辣な犯罪の一部始終を報道しろ、とまでは言わない。そこまで加害者を「悪者」に仕立てれれば、今度は「加害者をがいじめる」といったふうになり、「いじめの構造」の逆転が生じてしまう。実際、SNS上では「いじめた人物の名前」(はたまた親の名前まで)、「いじめた人物の学校名」、「いじめの内容」が出回り、袋叩きにしている。匿名性が生む攻撃性が発揮され、人々は正義のかたちをした毒の刃をつけた棍棒で攻撃をする。それじゃあいじめはなくならないよ、これからの時代も、って思ってしまう。
6. 最後に
いじめを受けたA、いじめをしていたB。
AはBからいじめを受けたことから、それがトラウマとなり、人間不信になってしまった。
一方、Bはいじめをしていたことを忘れ、企業に就職しうまくいっているそうだ。
第三者はAが可哀そう、Bは悪だと思うだろう。私もそうだ。
では、BがAに謝罪したらどうだろう。
それでも、Aの心の傷は一生拭えないので、Bは一生Aのために償っていけ、と言うのだろうか?
私としてはこういった話をするのを少々恐れている。
ここで一つでも「Bを擁護し」、「Aに『成長しろ』と言う」といった主張をすれば、私は「いじめを容認した」と捉えられかねない、そういったことが怖いのだ。
告白しよう。少々、Bを擁護し、Aを責めるようなことも書く。だが、「いじめを容認する」といったことでは断固としてない! いじめはどういった理由であれしていいものではない!
さて、Bについて。
Bが心から「いじめをしたのを本当に申し訳ないと思う」と反省を示した場合、少なくとも許してあげるべきだと思う。ただ、Aに謝罪はするのがベストだが、離れ離れになってしまえばその実現は難しい。
次に、Aについて。
Aにとって大きな問題であるのは判るため、「いじめられていた記憶を忘れろ」とは言えない。ただ、「そのトラウマを少しでも乗り越え、次のステップへ進もう」という気になって欲しいと思う。そこに「批判」はなく、あるのは「共感」である。そうじゃないと、永遠に黒い影をAの中に落としたまま、暗い人生を歩むことになってしまうから。
今の時代、インターネットのおかげで、「いじめの相談」に乗ってくれる人や「いじめの克服方法」、はたまた同じようにいじめで苦しんでいるコミュニティーを見つけることが簡単にできるようになった。いじめで苦しんでいる人は、インターネットの恩恵をいっぱい受けることができるのだ。また、インターネット上の人たちは勧善懲悪を求めている(みな心の中でそう願っているが、リアルでは正義は振る舞えないでいる人が多数いる)ので、「いじめは悪である」という風潮はしっかりある。そういったことも考えると、「ひとりじゃないんだ!」と思えてくるのではないか。
もっとも、インターネットの繋がりはどうも希薄な感じがするので、教師や家庭にすがるのも必要だ。だが、惨めな気持ちになるといったことや、いじめがエスカレートするのを恐れていたりで、なかなか「いじめられている」ことを口に出すことはできない。よく漫画やアニメ、インターネットで出回っている情報から、学校は「いじめられていることを伝えたのに、まったく対応してくれない」といった風潮がある。だからといって何も行動しないのではなく、どういったかたちであれ大きな一歩を踏み出す必要がある。もし相談相手がまともにとりあってくれなかったら、別の人を探せばいい。私は思うに、悪い人間はそんなにいない。ほとんどが優しい人間だと思う。しっかり自分の思いを正しく誇張なしに伝えれば、かならず優しい人は動いてくれる。人間は「向社会性」を持っていて、それは排外感情を生むものと前述したが、それはあくまでそれが高まった場合で、基本的には「社会のために何かしよう、他人のために役立とうと行動する性質」であり、そういった意味では、人間は他人のヘルプを見逃さない生き物だと思う。
果たしてこれは「いじめられている人」に向けたメッセージなのか、「いじめを対応する」教師へのメッセージか、何だかわからなくなってしまった。
私がどうして「いじめ」について考えてみたかというと、教師として「いじめ対応」に自信がなかった(ない)からだ。私は「いじめ」に適切に対応できるか不安なのだ。教師として無責任と思われそうだが、実際そうなのだ。言ってしまえば、私は「事なかれ主義」なのだ。これは一番危険な状態である。いじめを黙認する人が思っているような主義だ。
私は「いじめ」についていろいろ考えてきた。
教育法規、教育の歴史よりも、まず「いじめ防止」について考えてきた。「道徳教育」でどうやっていじめを減少させることができるか考えたし(いじめを行う者を徹底的に悪とした漫画を読むなど、極端すぎるがそうまでしないといじめはなくならないのではと考える)、クローズな教室が「いじめ」の温床になっているのだから、アメリカの中高のシステムのように学級のない開かれた学校スタイル(大学スタイル)をしていけばいいのではないか、と考えたり(学校行事はどうする気だと憤慨されそうだ)した。だが、答えは見えないし、答えはないと思う。
私自身、「いじめ」を受けたことはない。
プライドがあってそう言っているわけではなく、実際、いじめられた経験はないのだ。
だが、「いじめ」らしいものを見たことはあるが、私は看過してきた。私は傍観者の立場にずっといたというわけだ。
そういったことからも、私が「いじめ問題」に立ち向かうことへの恐れがある原因のひとつだろう。
……教師辞めろ、と言われそうだな。
でも、でも、だ。
ただ、いじめに苦しみ、一番楽しいはずの思春期を哀しいものにさせてしまうのは絶対に嫌だ。児童生徒たちには最適な学園生活を過ごしてほしいと願っている。ほんとうに。
その気持ちはほんとうだから、それをぶつけていけばいい、のかな。
〈参考文献〉
・京都教育大学名誉教授・大津市元教育長 桶谷守氏の学生向けの講義『今日のいじめ問題から見えてくるもの』
・岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(光文社/2020年)
・月刊教員養成セミナー(2015年1月号、2016年1月号)
・長谷川啓三、佐藤宏平、花田里欧子『事例で学ぶ生徒指導・進路指導・教育相談』(遠見書房/2017年)