奥泉光『夏目漱石、読んじゃえば?』

 奥泉光さんの名前は存じ上げておりましたが、実際に奥泉さんの著書を読んだことはついぞありませんでした。
 奥泉光さんは、芥川賞を受賞した『石の来歴』が有名で純文学作家と思いきや『「吾輩は猫である」殺人事件』や『シューマンの指』といったミステリー・サスペンス調の小説や『鳥類学者のファンタジア』や『ビビビ・ビ・バップ』といったSF小説も手掛けているそうです。『坊ちゃん忍者幕末見聞録』なんて可笑しなタイトルのファンタジー小説もあるそうです。
 
 以上に挙げた作品名から判りますように、奥泉さんは夏目漱石が好きなのです。『吾輩は猫である』、『坊ちゃん忍者幕末見聞録』など、敬愛していらっしゃるのですね。あと、奥泉さんにまつわる話として存じ上げているのは、奥泉さんは芥川賞の選考委員を務めているのですが、151回芥川賞候補になった横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』を「いまある言語の外へ逸脱していく言葉の運動性には文学の名がふさわしくもある。」として褒めちぎっている。『吾輩ハ猫ニナル』はその名の通り夏目漱石の『吾輩は猫である』をベースに話が展開するようです(すいませんが、持っていないのです。どこにも売っていないんですよ)。奥泉さんが夏目ファンだからこその高評価だったのでしょうか。

 さて、そんな話はさておき。
 奥泉さんの『夏目漱石、読んじゃえば?』を読了しまして、感想を述べたいと思います。

1.奥泉さんの小説に対する姿勢

 奥泉さんはこの書で、小説の読み方を書いています。
 例えば、第一章の『吾輩は猫である』では「小説は全部読まなくていいのである」と仰っていて驚きました。『吾輩は猫である』ははっきりしたストーリーがないからこそ言えることなのかもしれませんが、頭から尻まで読んで初めて「読んだ」ことになると考えていた私からすればかなり衝撃的な言葉でした。
 『吾輩は猫である』ははっきりとしたストーリーがなく、部分部分を読み、細かいところを面白がるのが大切だそうです。まるで新書みたいな読み方ではないでしょうか? 自分にとって大切そうな章だけを読む、何となく似ていますね。
 つまり、面白さは読者がつくるのだということです。
 『吾輩は猫である』を最初から最後まで読むとなると、なかなかエネルギーが必要だし、途中集中力が欠けてしまうと、惰性で読んでしまいがちです。私自身、長い長い文学作品を読むとき、途中で意味のない文字の羅列を読んでいるかのような心地で読んでいるときがあり、「あれ? 誰この人?」と登場人物を把握しきれず結局数ページ前に戻る羽目になるといったことが多々あります。
 なるほど、「面白さは君がつくる」、作品に対する解釈が読者によって異なるように、やはり小説は読者があってのものだなということを感じさせられます。
(アモーンというコンビ芸人がM1三回戦の漫才であまり面白くないショートコントをしたあとに観客に「どこが面白いか探して見ろ!」と言っていたのを思い出した。)

 あと、奥泉さんはゲーテの『ファウスト』が好きだそうですご、どうやら最初から最後まで読んだことがないというのです。一部を面白いなと思って読んで、二部に入ったら急にペースが落ちてそのまま一年くらい読まなかったりすることがあるそうで、最初の方を忘れて結局最初に戻って来ちゃうといったその繰り返しらしいです。
 それでも奥泉さんは『ファウスト』が好きだと言っています。つまり、最後まで「読む」ことで、初めてその書を好きだと公言できるのではなく、部分部分自分の好きなところをじっくり読むだけでも、それで読書は成立するんだと思いました。
(そういえば、私は村上龍の『限りなく透明に近いブルー』をかれこれ三回ほど読み直しているが、いまだに最後まで読めたためしがない。読みにくいし、エロいし、グロいし……。(『69』と『コインロッカー・ベイビーズ』がめっちゃ面白いから村上龍と合わないわけではないんだろうけど……)そんな私でも『限りなく透明に近いブルー』について語る権利はあるということでしょう。)

 第二章では『草枕』について述べられていますが、奥泉さん自身『草枕』は起承転結もなく、難しい感じも多く、読みにくいと言っています。

 

山路を登りながらこう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 



 冒頭は有名ですね。確かに「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」という文に比べたら確かに難しい感じがしますね。
 奥泉さんに言わせれば『草枕』はアート作品だそうです。
 『草枕』を読んで美しい感じが読者の頭に残りさえすればいいということを言っています。要は「いい加減な読み方」でいい、と言っているのです。これは私の都合のいい解釈ではなく、実際に奥泉さんが言っていることなのです。奥泉さんどころか、夏目漱石もそう考えていたのではないかと思われる文章が草枕にあります。

「西洋の本ですか、六ずかしい事が書いてあるでしょうね。」
 「実はわたしにも、よく分らないんです」

 
 尋ねているのが宿の女で、答えているのが主人公の画家です。画家は遂に開き直ってこんなことを言います。

「画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。」

 
 なるほど、読みにくいのならば何となく読んで何となくおもしろいと思えたらそれでいいみたいだ。文学は堅苦しいもので読むときは真面目に読むべきだという風潮があるが、美術も知らぬ素人がフラッと美術館に足を運び「へー」って何となく「美」を感じて作品を見る、といったそんな感じで、文学も「へー」って何となく文学の底に流れる「美」であったり「面白さ」であったりを攫めたらそれでいいのでしょう。

余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。

 
草枕』における羊羹の描写ですが、この文章から夏目漱石の羊羹に対する感性を理解できますが、その「理解」がなされたというだけでも『草枕』を読めてよかったなと思える気がします。こういった読み方でいいんですね、奥泉さん。

2.シュールな世界観

 私はシュールな世界観が好きだと以前ブログに書きました。
 夏目漱石の『夢十夜』は実は中学生の時に読んだことがありまして、そのときから何となく「好き」と思った記憶があります。第三夜が特に好きでした。ホラーチックで。
 有名なのは第一夜と第六夜でしょうか、教科書に載っていますから。
 
 第一夜はロマンチックですね。

「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」

 

「百年待っていて下さい」

 
 さすが、漱石、「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳しただけありますね(逸話であり、事実かどうかは判っていませんが、そうだったらいいなと思います)。

 第六夜はシュールですね。運慶が仁王を彫るのではなく、木の中に隠れている仁王を彫り出すという話で、それに感化された主人公が家に帰って真似をしてみるけど、運慶のようにうまくいかず、「不幸にして、仁王は見当たらなかった」と言うのが面白いし、滑稽です。
 第六章で漱石の短編をいくつか挙げるのですが、その中に『一夜』をいう作品を紹介している。奥泉さんは漱石が書いた小説の中で一番訳が判らないと言っています。私は訳の判らないものが大好物で(安部公房の『箱男』というシュールすぎる意味不明な作品で卒業論文を書いたくらいですから)、読んでみましたがまったく意味不明でした。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜を過した。彼らの一夜を描えがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

 
 こんな具合に事件性も、因果律も、伏線も、文学性も、メタファーもすべて放棄しているのだ。前半の訳の判らなさをいっさいまとめることなく読者の思考にクエスチョンマークを埋め込んで、はいさようなら、という、そんな小説なのです。
 実は深い企みがあるかも、と奥泉さんは再読をするのですが、やはりわからないというふうに結論を下しました。
 
 これも『草枕』同様「アート」と同じ気持ちで読むべきものなのでしょう。

 そう考えると、私は『箱男』もアートとして読むべきで、論文として書くべきだったのは『箱男』ではなく太宰治『斜陽』、町田康『告白』、古井由吉『杳子』といったストーリーがあった上で文学性に富んだ(換言すればテーマが研究のし甲斐がありそうな)ものにすべきだったのではないかと思わなくはないが、だからといって『箱男』で卒論を書いたことに後悔はありません。

3.コミュニケーションが苦手

 『坊ちゃん』、『三四郎』、『こころ』に共通するもの、それはメインの登場人物がコミュニケーションが苦手だということです。
 『坊ちゃん』は元気いっぱいの自由奔放な子どもが好き勝手暴れ回るイメージが強いですが、どうやらそれは「先入観」だそうです。
 二階から飛び降りたり、右の手の親指をナイフで切ったり、どちらも同級生に「飛び降りることはできまい」とか「君の指を切ってみろ」と冗談で言われたことがきっかけです。冗談をマジに捉えるヤバい人、というと、身もふたもない言い方ですが、そういうことなのです。それをそう感じさせないのはスピーディな文章のおかげだと奥泉さんは言います。
(物語の印象は文体が決めるのではないでしょうか。例えば舞城王太郎はマシンガンの如くダダダダダと文章を荒っぽい言葉や擬音を書いていくことで物語がとても流動的に見え、暴力シーンもそこまで陰惨に思えない。町田康もこれに似たテンションだ。村上春樹は早起きしてジョギングをしてシャワーを浴びて帰って来て、ビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』を流して、サンドイッチを頬張っている、そんな情景がたやすく思い浮かぶような、優雅な雰囲気を身に纏った文体で、エロいシーンも文学だ!って思えるのはそれが理由ではないかと思います。)

 坊ちゃんは孤独な人物なのです。
言葉を持っていないのが原因らしく、とても口下手で坊ちゃんが野だいこ相手に「べらんめえの坊ちゃんた何だ」とそれだけを言い続けているシーンがあり、それに対し野だいこは頑張ってコミュニケーションを取ろうとするも、坊ちゃんは「べらんめえ(以下略)」の一点張り。喧嘩の場面でも「おれも逃げも隠れもいないぞ」と、坊ちゃんは山嵐の使った言葉をそっくりそのまま真似るだけで、やはり坊ちゃんには言葉がないのです。
 奥泉さんは『坊ちゃん』を先入観なく読んで欲しいと言っています。
確かに坊ちゃんは江戸っ子風の乱暴な物言いをする主人公だというイメージがなぜか定着し、「ああ、江戸っ子が好き勝手暴れ回る作品だろ」と言われがち(ほんとにそう言われているかは判りませんが)ですが、実際はそうではないのです。
(『坊ちゃん』はアニメ化されているが、主人公の顔が「侍ジャイアンツ」の番場蛮みたいな馬鹿だけど情熱的な人物のように見えた笑)

 次は『三四郎』について。
 主人公三四郎は田舎者、美彌子は都会育ち。
 この二人の間に障壁があるのは各々の育った環境からでも理解できるだろう。
 シャイな三四郎に対し、グイグイ来る美彌子。
 三四郎はとても勉強ができ、帝大に入学した超エリートなのですが、それでも当時、三四郎は自分のことだと思った読者は多くいたと奥泉さんは言います。
 自分の境遇とは全く違っていてもこの主人公は自分のことだと思えるのが小説のすごみだと奥泉さんは言っています。内面の描写が多い分、そう思えるのでしょう(バーナム効果というのは禁止)。実際、私は『人間失格』の大庭葉藏に深く共感するところがあります。
 『こころ』も先生がディスコミュニケーションの権化のように思えますね。特に「上」の先生はよりいっそうそう思えます(先生の背景にはこういったことがあったからだと納得はできますが)。
 奥泉さんは『こころ』をあまり評価していない、また文学論者も一定層『こころ』を評価していないらしい。
 『こころ』はいわばミステリー小説で、先生がなぜディスコミュニケーションの権化になっているのかという謎を解き明かしていくのが本作の一番面白いところなのに、教科書で載せられ、広く膾炙されたせいで、まるで推理小説の犯人をばらされた状態で読まされたかのような感じになっているのです。
 そのミステリー仕掛けを抜きにしても奥泉さんから言わせれば「傑作」ではないそうです。
 私には「傑作」かそうでないかの判断はできないので、何とも言えませんが、いずれ『こころ』について読み解き、ブログで考察を載せたいなと考えていますので、ここではこれくらいに留めておきます。

4.『それから』、『明暗』について

 他にも『思い出す事など』、『それから』、『明暗』について奥泉さんはいろいろ述べています。
 第九章の『それから』ではあらゆる角度からイメージすることで小説に奥行きを持たせることができるといった旨が書かれていた。

 誰か慌ただしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下がっていた、けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従って、すうと頭から脱け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

 と、いった冒頭だが、最後は、

忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 
 と、「赤い郵便筒」、「赤い色」、「赤い蝙蝠傘」、「真っ赤な風船玉」、「赤い車」と、赤赤赤の連続だ。売出し旗も赤、電柱も赤、赤ペンキの看板……。世の中が真赤。ほのおの息。
 どういうことか。
 ここでイメージ力が発揮されれば、小説はとても面白いものになる。
 私は『それから』を読んでいないので、イメージを喚起せよと言われたところで、この「赤」が何を表すか判らなかったが、奥泉さんは冒頭部の空からぶら下がった俎下駄からこの最後は表しているものを「ギロチン」だと言いました。
 ぞわっとしましたね。(とはいえ、直接的な「死」を表すものではなく、あくまで社会的な「死」を表すものなのですが)
 イメージの力で、小説に奥行きを与えるとはどういうことか、何となくですが判った気がします。

 『明暗』は漱石が晩年書いた作品で、未完である。
 奥泉さんの小説に対する姿勢から、この『明暗』をどう評価しているかだいたい判ると思いますが、「未完だからといって関係ない」というスタイルをとっています。
 そもそも小説の中の世界に終わりはありませんからね。
 私の通っていた大学の教授はこう言っていたのを思い出しました。

 登場人物が作品として終わった後もその人たちの生活が続いていくような、そんなふうに思わせる小説は素晴らしい。

 そもそも物語はどこで終わらすかによってハッピーエンドかバッドエンドか決められるわけですしね。例えば、『浦島太郎』で、浦島太郎が竜宮城で楽しんだあと、姫から玉手箱を貰って帰りましたとさ、めだたしめでたし、で終わらせればあのあまり気持ちのよくないエンディングにならずに済んだでしょう。(物語の面白さは半減どころか三分の二減しますが)

5.まとめ

 いろいろ述べてきましたが、本書にはもっといろんなことが書いています。
 特に心に残ったのは第十章の『明暗』における「言葉と小説は人生に役立つか?」という章だ。言葉には大きな力があり、それによって人を励ましたり、はたまた死に追いやったりするものです。(余計な詮索はよくないことだけどkaraのハラの自殺だって中傷といった言葉の攻撃がトリガーになったのではないか思うよね)

 「言葉がどういう力を持つのか?」を知るためのサンプルが小説にはたくさんあって、小説を読んで言葉を使う技術を獲得していくことは、自分の人生をより豊かにすることにつながっていくのだろうと奥泉さんは訴えています。軽い感じで述べていますが、私には訴えに見えました。
 これから国語教育は文学の比重を減らすみたいだけど、私は絶対的に反対します。(反対したところで無意味なのは判っていますが)
 社会に出るにあたって必要な文章を読むことは確かに大切かもしれませんが、そういった知識の蓄積よりも、これから多くの人と接することが増え、その交流によりあらゆる知見を獲得していくためにも、人の気持ちを考えるきっかけとして、小説を読むべきではないでしょうか。
 教科書に採用されている文学作品は登場人物の感情が緻密に書かれているものばかりです。『羅生門』の下人の気持ち、『こころ』の先生、Kの気持ち、『走れ、メロス』のメロスの気持ち……、共感するところもあれば共感できないところもあるだろう。それが何よりも大事だと思います。誰かが共感するってことは、その作品がただの虚構にすぎない代物ではないってことを示します。(そういった意味で、小説だけでなく、漫画を読むことも大切なことなのかもしれません。)
 契約書を読ませたところでどこが楽しいんだ? 
 学びは楽しいものだと感じ取ってくれることからスタートするもので、それがあって積極的に学習しようという意欲がわいてくるのではないでしょうか。
 文学は心を豊かにするものです。
 大人になっても、今なお覚えている文学作品がある場合、それは少なからずその人の人生の中で何かしら作用をもたらしているということではないでしょうか。
 先生の遺書長すぎ、とか、虎になった、とか、そういったことを言われて、ああ「こころ」ね、とか、「山月記」じゃん、とか言い合えない日が来ると考えると哀しいものですね。

 と、いつの間にか文科省を婉曲的に批判するような内容になってしまいました。

 とにかく『夏目漱石、読んじゃえば?』を読んで、奥泉さんの小説に対する考えに触れられたこと、また、漱石の作品に興味を持てたことが収穫だと思っています。なぜ夏目漱石かと今更過ぎる疑問に答えますと、漱石作品は「心を豊かにする」ための文学として最短の近道だからだそうです。
 
 夏目漱石、読んじゃいます。

 

 

夏目漱石、読んじゃえば? (河出文庫)

夏目漱石、読んじゃえば? (河出文庫)