村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

 村上龍コインロッカー・ベイビーズ』は1980年10月に講談社より書下ろされた長編小説である。コインロッカーベイビーとは鉄道駅などのコインロッカーに遺棄された新生児のことで、これは所謂捨て子であり、こういった遺棄事件はを1970年代に日本国内で同時多発的に発生した。
 コインロッカーベイビーはさまざまな余波をもたらした。
 新生児をコインロッカーに閉じ込めるという非人道的行為はかなり衝撃的で文化面にさまざまな影響をもたらした。村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』を執筆したにとどまらず、細野不二彦の漫画『青空ふろっぴぃ』、藤子・F・不二雄の漫画『間引き』もそうだし、私は高校生時代ボカロ鑑賞を嗜んでいて、MATERUさんの『コインロッカーベイビー』という曲があるのも知っている。
 
 さて、村上龍コインロッカー・ベイビーズ』のあらすじをざっくりと説明する。
「キク」と「ハシ」というふたりが主人公で、ふたりともコインロッカーで生まれた。2人は横浜の孤児院で暮らしたのち、九州の炭鉱跡(軍艦島を想起させる)の島にいる養父母に引き取られる。
 しかし、あるとき母親を探しにハシは突然島から去り東京に消えた。キクと和代(養母)はハシを追って東京へ行く。和代が死に、キクは鰐のガリバーと暮らすアネモネと出会い、小笠原の深海に眠るダチュラの力で街を破壊し、絶対の解放を希求する。また、ハシは生まれ持った才能と努力でポップスターへ登り詰め、スタイリストのニヴァと結婚し、成功の道をひた走っているかと思えば、心臓の音に憑りつかれ破壊衝動に駆られる。
 と、ウィキさんを参考に自分なりにアレンジして簡潔にあらすじを書いた。
 読んでみれば分かるが、『コインロッカー・ベイビーズ』はとにかく読みにくい。エネルギーに溢れているといえば聞こえはいいが、読者の体力を奪っていく小説で、読み終えたときにはとても大きな疲弊感を覚える。

 面白いのか、面白くないのかというと、正直なところ分からない。
 その原因は私がキクやハシのような波乱な道を歩んでいるわけでも、キクやハシほど悩んだこともなければ、破壊衝動にかられたこともないからだろう。あとは、村上龍が執筆していた当時の頽廃的な雰囲気の世界を生きていないのもそうだ。

 面白さは分からなかったが、多大なエネルギーは感じた。
 だから、ブログで解説とも感想ともいえないが『コインロッカー・ベイビーズ』についていろいろ書いてみようと思う。
 
1.「キク」と「ハシ」の破壊のエネルギー
 

 破壊衝動はどこから生まれるのか。
 私に破壊衝動はないのは、きっとこの世界に身体が馴染み、少しの不平不満を持ちながらも、生きていることにそれなりに満足を覚えているからだろう。
 私とは対照的な人物、たとえば、今の生活に満足できずに世界を憎み、生きている人間を無差別に怨む、言い方は少し悪いかも知れないが、犯罪者予備軍のような人たちは破壊衝動を少なからず持っているかもしれない。
 つまり、憎悪・怨恨といった負のエネルギーから破壊衝動は生まれるのだろう。
「キク」、「ハシ」はお互いコインロッカーから生まれた。その生い立ちだけで分かるが、キクとハシはお互い母親の愛情を受けず、小さな暗闇の中で育ったということだ。人間不審、暗闇への恐怖、ふたりの心にはそういった「負のエネルギー」が根底にあり、彼らがどう振舞っていても、心の根にあるそれは消えゆくことはない。だから、キクとハシはうまく生きられなかったのだ。
 この作品の興味深いところは主人公が「キク」、「ハシ」とふたりいることで、それぞれ違った性格であることである(だが、お互い「負のエネルギー」を抱いているところは共通点である)。
 キクは外界への積極的な関与を否定し、静止することに恐れ戦き、空間移動を欲する、いわゆる「肉体的」な人間であり、ハシは箱庭を作ったり、自分の内側に籠ろうとする内向的で、いわゆる「精神的」な人間である。

 それぞれの人間が描かれている文を抜粋してみる。

 

 キクはハシがいじめられたりすると必ず助けた。ハシは体が弱いせいかキク以外の他人と接触するのを嫌った。特に大人の男を恐れていた。ハシの体には涙がいっぱい詰まっているのだとキクは思った。パンを乳児院に届けに来る男が、お前はいつも軟膏臭いなあ、と言って肩を軽く叩いただけで、ハシは泣き出した。キクはこういう時言葉をかけてやるわけではない。ただ黙って傍にいるだけだ。ハシが大きな声で泣いたり怯えて震えたり叱られていないのに謝ったりする時、キクは表情を変えずにいつまでもハシの回復を待った。だからハシは後を追って便所にもついていこうとしたが、キクは拒まなかった。キクにもハシが必要だったのだ。キクとハシは肉体と病気の関係だった。肉体は解決不可能な危機に見舞われた時病気の中に退避する。
         (中略)
 ハシが敏感に怯えたり簡単に泣いたりする時、キクは患部のレントゲン写真を見る患者のような気持ちになっていたのだ。自分の中ではまだ隠れている不安や恐怖が衣装をつけて振るまってくれる。キクは身替わりに泣いている傷が癒えるのをただ待てばよかったのだ。ハシは模型の傍で眠るようになった。ハシはキクとは無関係にミニチュアのために怯えたり泣いたりする。傷は肉体を脱して自立したのだ。傷は自らの中に閉じ籠もるころができるが、傷を失った体は新しい傷を求めなくてはいけない。

 

 キクが「体」でハシは「傷/病気」。
 キクが不安や恐怖といった憎しみ、それ以外の感情を表現できないキクは、自分では表現できない精神面を体現してくれるハシを必要としたのだ。ただ、ハシが箱庭づくりにより母親の胎内の全能感を表現しようとしていた(それがハシを母親探しのために東京に向かわせたのだが)が、キクは強靭な肉体性のみで運動によってしか自分を体現できないでいた。
 
 破壊エネルギーの話に戻ろう。
 キクとハシは乳児院精神科医によって胎児が無意識下にある兇暴なエネルギーを眠らせるために催眠治療を施した。これは身体というコインロッカーエネルギーを閉じ込めたことを意味する。そう考えると精神科医の言った「治療はほぼ終わりました、あと大切なのはあの二人に、変化したのは自分達なのだと気付かせないことです、心臓の音を聞いたなどと教えてはいけません」という言葉は物語の核として機能しているように思える。
 
 世界が変化したと認識しているキク、彼は肉体的な人間である。

 キクの筋肉は突然目覚めた。全身を巡っている熱はどこにも逃げて行かずに、逆に足先から次々に新しく込み上げてきた。走りながらキクは大声をあげた。そのまま空に舞い上がれそうだった。手に入れたぞ、とキクは思った。ずっと外側にあって俺を怯えさせた巨大な金属の回転体、それを俺は自分の中についに入れたぞ、そう思った。

「巨大な金属の回転体」はキクの内なるエネルギーの象徴である。また心底にある恐怖心を表象するものでもあった。それをキクは自分の思うままに扱うことができたと思ったのだ。そして、キクはその回転体を操縦士、急速な空間移動によって外界への接触を避けるようになった。

 一方、ハシは催眠ショーによって催眠が解け、「模型の王国」の代わりに「テレビ」を見るようになった。

 

 キク、僕はね、別に狂ったわけじゃないんだよ、ある物を捜しているんだ、憶えているかい? 病院に行って、映画を見ただろう? 波や、グライダーや、熱帯魚の映画だよ、あの時のことを、催眠術にかけられた時に思い出したんだ、あれね、音なんだ、僕達ね、あそこで音を聞いていたんだよ、その音を僕は催眠術の中でもう一度はっきり聞いたんだ、驚いたね、キク、きれいな音だよ、死にたくなるようなね、きれいな、それでね、僕、テレビの中からその音を捜してるの、全部の音を聞こうとしてるんだよ、(中略)そう、僕ね、テレビを見ながら目を閉じたり開けたりしてるんだ、この世の中のね、ね、音を全部憶えたいんだ、あの、僕達が、病院で聞かされた音の招待がわかれば、僕、学校に行くよ。

 

 それを聞いてキクはハシが狂ったと思っている。
 キクのエネルギーは外向きで、走ることや棒高跳びをするといった肉体的運動によって、負のエネルギーを放出する。それに対し、ハシは負のエネルギーを内側に呼び込んでしまっている。見事な二項対立だ。

 音を希求したハシは最後に歌手になる。精神科医の心臓の音を聞いたなどと教えてはいけませんという言葉から、ハシが(キクもだが)心臓の音を聞けば、彼(ら)の眠っていたエネルギーが身体(コインロッカー)から解放されることになるということがわかる。心音こそがロッカーのカギだということである。

 キクはダチュラ(精神高揚剤)を求めるようになるが、その目的は東京を破壊するためである。これもまた肉体的で外向きにエネルギーを外出させるといったキクらしい願望である。キクはハシと違って音を希求していないことから催眠は解けていないのではないかと推測しているが、和代(養母)の死が、内なる声(壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ)を聞くきっかけとなった点では催眠は解けたと解釈してもいいかもしれない。破壊衝動が彼の中に生まれ、それは自身が変化したことを象徴したのだから。世界が変わったという認識ではなく、世界を変えるという認識に変容した彼はある意味コインロッカーから解放されたのだ。

2.広がる破壊衝動

 ハシはミスターDに身体を売ることで歌手デビューを果たす(ハシは所謂ゲイである)が、これは世界を迎合することを意味し、キクとは対極をなす存在と化していく。
 そもそもキクとハシはふたりでひとりといった一心同体で描かれていたのだから、ハシに置いてけぼりにされたキクは身体のみ残され、精神が喪失したという状態になる。それはハシを捜しに東京を彷徨っているときもそういう状態に陥っていたのだ。だがアネモネとの出会いにより、キクはそんな不安定な状態から救われ、和代の死により、抱いた破壊衝動を曖昧なものにせずに済んだのではないか。それほどアネモネの存在の意義は大きい。

 さて、舞台が東京に移って以降、コインロッカーの持つ意味は大きくなる。孤島におけるコインロッカーのメタファーがふたりの「個」であるならば、東京に出てからは、ふたりにとってのコインロッカーは「世界」になった。ハシにとってそれは迎合するかたちに、キクにとってはそれは破壊の対象になる。ハシが母親を希求し、キクが母親を射殺したという、両者にあるズレ(と言っていいのか微妙なところだが)も理解できる。

 安部公房の『箱男』もキャラクターが小さな箱を被り、さらにメタファーとして都市を大きな箱と見立てていたが、『コインロッカー・ベイビーズ』も同じくふたりが生まれたコインロッカー、ふたりの身体をコインロッカーと見立て、東京、世界すらコインロッカーと見立てる、『箱男』の場合、「箱」が「視界を遮断するもの」であったのに対し、「ロッカー」は恐怖の象徴、「死」を象徴するもの、及び破壊すべきものである。
 私が個人的に衝撃を受けた箇所を今から抜粋する。

 

 ハシは道路の真中を歩いた。左手だけが生きている感じだった。彼方に三十本の塔が見えた。目が霞んだ。この街は巨大な銀色のさなぎだ。ヌルヌルする糸を吐いて繭を作る。繭を外気を遮断する。触感を曖昧にする。さなぎはいつ蝶になるのだろうか。巨大な繭はいつ飛び立つのだろうか。糸や繭が、あの彼方の塔が崩れ落ちるのはいつか。ハシは道路の中央分離帯で横になった。左手だけが呼吸している。植込みの隙間からヘッドライトが一瞬目を刺す。土の匂いを嗅ぐ。乾ききってポロポロで何の匂いもしない。眠れ! ハシは自分に命令した。体のどこかに煮えたぎるものがある。体を切り裂いて煮えたぎるものを取り出しブヨブヨのさなぎの夜の街に叩きつけたかった。ハシはゆっくりと眠りに落ちた。

 

アネモネはキクをオートバイに乗せて渋滞の高速道路を走る。そのときキクは思う……)

 

 夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、俺達はすべてあの音を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓だ、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つだ。キクはダチュラを摑んだ。十三本の塔が目の前に迫る。銀色の塊りが視界を被う。巨大なさなぎが孵化するだろう。夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊達が紡ぎ続けたガラスと鉄とコンクリートのさなぎが一斉に孵化するだろう。

 

 長い引用になった。
 街を「巨大な銀色のさなぎ」に譬えている。さなぎから蝶になるのをハシは夢見ている。キクも同じように思う。共通のイメージだ。
 キクにとってはいいエンディングではないか。
 渋滞の高速道路をオートバイで突き抜けるさまはまさに覇道を往くキクの生き様を象徴しているし、ダチュラを摑んで十三本の塔(都市を象徴)が迫ってくるのをオートバイに乗りながら静かに待っていて、さなぎが一斉に孵化する様を夢見ている。

俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。

 
 一読したときは「達」? ハシのことなのかな? と思ったが、世界全体がコインロッカーに閉じ込められていることを示しているのだから、「達」は紛れもなくその世界を生きる人々全員を指しているのだ。ハシが「必要とされている人間なんてどこにもいないんだよ、全部の人間は不必要なんだ、それがあんまり寂しかったから僕は病気になったんだ」と言っている。ハシは「病気」でキクは「肉体」だったから、このハシの言葉はキクにも言えることではないか、と思う。一心同体のふたりは発言を共有してもいいと考える。そうすると、「俺達」となっているのは「不必要な人間」であり、「コインロッカー・ベイビーズ」は人間全員を意味していたのだと考えられる。

 今度はハシについて。
 救いのないエンディングだと思った。
ハシが舌を切り裂いてまで歌手としてあろうとした。だが、ニヴァを刺してしまったのは根底の恐怖がそうさせたのだ。だが、最後の最後でハシは母の心臓の音の存在を狂った妊婦の腹から知る。そして、その心音が「生きろ」というメッセージと受け取る。だが、彼の歩く街は蝶と化した街ではなく「無人の街」だった。その中を新しい歌を歌って往く。何とも切ないエンディングだろう。

 いろいろ述べてきたが、常識の枠組みの中でこの小説を読んでみると、私としてはみな「頭がおかしい」と思ってしまう。みんな独善的すぎる。良い人がいない。和代くらいだろうか。道徳を失った世界に見えて仕方がなかった。
 だが、この作品を読み通すことができたのは、そんな「狂った」世界の中でも登場人物たちの曖昧でないはっきりとした信念があり、メタファーがあり、底に流れる音楽(ハシの歌)があったからだろう。そして、最後の「生きろ」というメッセージ。
 キクとハシと共に密度の濃い人生の一部を寄り添って歩いて来たことで、彼らのめちゃくちゃに思える言動も、擁護したくなった。「生きろ」と思えるようになった。そう思えるようになったのは彼らがコインロッカーベイビーであったからではなく、彼らがそのことに引け目を感じることなく生得的な病理から克服したからである。私は彼らを最後の方でコインロッカーベイビーであることを忘れていた。生い立ちなど関係ないのだ。そこにふたりの強さを感じた。

 キクよ、コインロッカーの世界を破壊してくれ。
 その先に何があるのか見せてくれ。
 肝心なところで、私たちは物語から遮断される。
「箱」から脱け出した箱男が見た新しい世界の風景も、私は見られなかった。
 物語はいつも助走で、飛び立つその瞬間でシャットアウトされる。
 その先は私たちが演じなければならないのだろうか。 
 だとしたら読者の持つ意味があまりに大きすぎないか?
 苦笑。

(参考資料)
 住吉雅子「都市と病―村上龍コインロッカー・ベイビーズ』」(奈良教育大学国文:研究と教育/2016年)
 京都大学新聞「〈書評〉破壊と衝動 村上龍著『コインロッカー・ベイビーズ』」(2016年)