村上慎一『なぜ国語を学ぶのか』

「岩波ジュニア新書」ということで、小中学生でも読める易しい著書である。
 先生と生徒の対話形式で「なぜ国語を学ぶのか?」という疑問に答えていく。
難しい言葉はいっさい出てこない。
 読みやすい。

 正直、大人の自分が読むにはあまりに易しすぎた、というのが率直な感想だ。
新発見だ! と感嘆するところも、なるほどなあ! と唸ることもなかった。
 ただただ、そうだろうな、そうだろうな、と小さく肯きながら読んだ。

 これだとまるで自分がこの本を貶しているように見えるが、そうではない。
 そうだろうな、と小さく肯くのは、事実を再確認しているということだ。
 
 事実の再確認。
 まあ、うん、そんなところだ。(偉そうだな)


 『なぜ国語を学ぶのか?』は小中学生でも読める易しい本だと前述したが、読者の想定が彼らにあるようにも思われる。
 先生が生徒に「なぜ国語を学ぶのか」という疑問に答える形式をとっているのは、本に登場する生徒の抱く「どうして国語を勉強するの?」という疑問を、読者として想定されている小中学生に共有させるためであろう。本に登場する先生はユーモアがあり、知識があり、頼りがいのある人として描かれているため、読者は「いい授業を聴いた」かのような心地になる。
 さて、この書を国語教師(ペーペー)が読んでみた。
 生徒に説明する分にはこれくらいのことを言っておけば当たり障りがないだろう、そう思った。難しいことはいっさい言っていないし、適当でもない。いい塩梅だ。

〈評論文の場合〉

 

 評論文を学ぶのは、他者をどうとらえるか、他者の意見とどう関わるかを考えるためである。他者の意見を理解することは、人間の社会が人間の社会としてなりたつ前提条件である。

 


 他者の意見を理解するのは難しい。でも、人間はいろんなタイプがいて、そのタイプの好き嫌いは当然ある。夏を愛する人がいるし、冬を嫌う人もいるようにね(突然の熊木杏里)。
 だから、「理解」というよりか「享受」の方がいいのではないか? と思う。「他者の意見を享受することは、人間の社会が人間の社会としてなりたつ前提条件である。」完全に納得はできないけど、まあ、百歩譲ってまあ……みたいな。「理解」だと「完全にあなたの意見すべて頭の中に吸収しましたよ」感があるように思える。まあ、この私の論を「理解/享受」するかはあなた次第ですが。

〈小説の場合〉

 

 つくりものの世界のなかで表現されている感情は、これよりリアルに表現する方法がないのじゃないかな。つくりものにすることで、よぶんなものを切り捨てて、純粋に自分の表したいものを表現できるからね。


 作者が予期しなかったことが、読者の心で起きることは悪いことではない。そこまで含めて、小説というつくりものはおもしろいと思う。人の心の動きのおもしろさと直結しているといっていい。

 そもそも、文学というのは多様な読みを許されるものである。(当たり前だが)
 だからこそ、一つの作品について、多種多様な論文が書かれているのだ。
 そういった意味で、私は文学作品を授業では扱っても問題には出さない方がいいのではと思わないでもない。先生が「この時の下人の気持ちは○○だ!」と言い、参考書にもそう書かれてあったとき、生徒はその考えを固定化してしまう。だから、「私は△△って気持ちだと思った」と誰かが言えば、考えを固定化させてしまった生徒は「そんなわけないじゃん」と否定してしまう。考えの固定化は多様な読む方ができなくなるといった弊害を生む。
 だからといって、じゃあ文学は入試に出せないので授業では扱わなくていいよ、というわけではない。別に入試のための授業じゃないんだから。勉強のための勉強だ。こういうのを「手段が目的化する」っていうんだろう。

〈詩の場合〉

 

詩は、日常の言葉を使いながら、日常の言葉の世界から別世界に、われわれの心を運ぶ乗りもののようなところがあるように思う。

 

詩は心の奥からの表現だからこそ、普遍性をもつこともある。心の奥には、だれもが同じようなものがあるということだね。

 

 例えば、有名な詩だが、谷川俊太郎『二十億光年の孤独』による「かなしみ」。
 

 あの青い空の波の音が聞えるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい

 透明な過去の駅で
 遺失物係の前に立ったら
 僕は余計に悲しくなってしまった

 
 まあ、難しい。
でも、「難しいから解説を読もう」というのはいただけない。
 想像力の翼を広げてみれば、何となくだが情景は浮かんでくるだろう。
 その情景に浸ることができたらその瞬間、すぅーと身体が浮くような心地に……というのは言い過ぎかもしれないが、その一歩手前まで来ることはできるかもしれない。
 あと、話は大きく変わるが、ユングの「集合的無意識」というものがある。「ブーバ/キキ効果」が示す通り、もしかすると人間は普遍的な共通の意識を持っているのかもしれない(断定は怖いので懐疑的に捉える)。だとしたら、「詩」は人の心の壁を越えた尊いものなのかもしれない。「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」と高橋優が歌っているが(そもそも、言語学的に「笑顔」は言語ではない)、その歌詞を借りれば「世界の共通言語は英語ではあるが、もしかすると詩もそうなのかもしれない」となる。ヤバい。全然リズムに乗れない。

〈古典の場合〉

 

古典の勉強は、過去のことを学ぶという側面だけでなく、現在の自分の考え方や感じ方がどこからやってきたかをたしかめるという側面もある。君たちの目は、現在から未来の方に向いているのだろうと思うが、現在を知り未来を考える道しるべは「過去」なんじゃないかな。

 
 私は約五年間ほど同じ塾に通っていたO君の言った言葉を思い出した。
「なんで古典を勉強するん? 俺たちは未来を生きるのに」
 的を射ていた発言だ、と当時は思っていた。私自身、なぜ古典を学ぶのか意味が判らなかったが、そういい出したら「なぜ相似を学ぶのか?」、「なぜ細胞の中味を知らなくちゃいけないのか?」、ときりがなかったので、私は「勉強だから」という訳の判らない理由を自分の中に作り、ただただ勉強してきた。なぜ古典を学ぶのか、理解せぬままに。
 一時期、不登校ユーチューバーゆたぼんが話題になっていたが、彼はこんなことを言っていた。「漢字はググればいい。計算は電卓使う。学校で勉強する必要がない」と。いつの話をぶり返して批判してるねん、ってなると思われるかもしれないが、上記の古典の学びの意味も照らし合わせて批判してみる
「人は常に学んできた。だから、文明は発達してきたんだ。電卓だってスマホだってパソコンだって、人が『学ぶ』のを辞めなかったから、そういった恩恵を私たちが受けているわけで、その先人たちの敬意を表すことなく、学ぶのを辞めるのはどうかと思う。」
 Wow 辛辣。
 まあ、私からすれば、人に迷惑をかけなかったらいいよ、と言いたいところだが、すでに小学校の先生に迷惑をかけているのでOUT。

〈最後に〉

 村上氏は国語と人生を絡めている。
 言葉で自分のまわりに広がる世界を理解し、言葉で世界を語る。信念や思いといった名のついた言葉を胸に、言葉で自分をかきたて、励まし、いろいろな行動を起こす。加えて、言葉で自分の思いを吐露し、ひとと語り合い、交流し、人間関係を結ぶ。
 そういった総和を人生と呼ぶ。
 村上氏はそういったことを最後に述べていた。

 確かに、国語は言葉が大きな基盤となる。国語教育を疎かにした生徒は、さまざまな苦境を生きることになるかもしれない。逆に言えば、国語教育に積極的に取り組んできた生徒は、よりより豊かな人生を送っているかもしれない、ということだろう。
 
 赤裸々に言おう。
 学習指導要領を簡単にまとめて、よりわかりやすくしたような感じだな!
 だが、生徒に説明をする分には非常に役に立つ本だ。
 国語教育を深く考えるのには向いていない書だ。それだったら、橋本陽介氏の『使える!「国語」の考え方』(ちくま新書)を勧める。専門的過ぎるところはあるが、読み物としても非常に優れていると思うし、卒業論文を完成させるための一助にもなった。

 まあ、繰り返すが、小中学生が自発的に読むべき本かな。

 

 

なぜ国語を学ぶのか (岩波ジュニア新書)

なぜ国語を学ぶのか (岩波ジュニア新書)

  • 作者:村上 慎一
  • 発売日: 2001/09/20
  • メディア: 新書