中村文則『土の中の子供』

 中村文則『土の中の子供』。

 養父母から虐待(土の中に埋められた過去もある)を受けたという過去を持つ青年の話で、常に暗い空気が漂っている。

 

 この作品は芥川賞受賞作だが、選考委員の村上龍に「虐待を受けた人の現実をリアルに描くには簡単ではない。/他人には理解しがたいものであり、本人も理解できていない場合も多い。/『土の中の子供』は、そういう文学的な「畏れ」と「困難さ」を無視して書かれている。深刻さを単になぞったもので、痛みも怖さもない。そういう作品の受賞は、虐待やトラウマやPTSDの現実をさらにワイドショー的に陳腐化するという負の側面もあり、わたしは反対した。」と酷評されている。

 判らないでもない。

 文学と言えば「暴力」だよね、となってしまえば、それは現実に蔓延する暴力から深刻さを奪うことになる。最近だと、YouTubeで社会問題をテーマにした声つきの漫画がアップされているが、エンターテインメント性に溢れた話なら構わないが、「虐待」や「いじめ」などをテーマにしているのを見ると、何とも言えない気持ちになる。作者は虐待のリアル、いじめのリアルを熟知しているのだろうか、と考えたりする。そういったモヤモヤとしていた思いを見事村上龍言語化してくれていたわけだ。

 まあ、でも芥川受賞作なので評価はされてる。高樹のぶ子は「運命的で理不尽な暴力の被害者が、暴力で応報せず、自らの恐怖の感覚を克服することで生きのびようとする観念小説だ。」と好意的だし、黒井千次は「〈この先にある〉何か、を懸命に追い求める男の意識が執拗に辿られている。/ここに見られるのは原因と結果との単なる対応ではなく、より意志的な、過去の確認と現在の模索の営為ではなかろうか。それが仄かな明るみを生み出して作品が結ばれるところに共感する。」と褒めている。

 主人公の青年は養父母から受けた虐待を克服するのだが、そのプロセスや細かい文学性についてはここでは記さない。

 私が感銘を受けた部分のみ抜粋し、考察しようと思う。

 かなり長い引用だ。ご容赦ください。

 

 最上階へと続く階段の踊り場では、風を強く感じたような気がした。私はそこから下を見下ろし、開けていない缶を親指と人差し指で支えていた。私はその状態から、手を放す。その直後、後悔に似た不安が私の内部を乱した。中身の入った缶は、恐ろしいスピードで落下していく。墜落していく缶の不安を思うと、たまらなくなる。加害者である私と缶は、不安によって繋がっているように思う。私は缶に親近感を覚えながら、これは愛情であるのかもしれないと思う。静けさを保っていた夜の空気の中で、鈍い、砕けるような音が響いた。缶は血液を噴き出すように中のコーヒーを辺りに飛び散らせながら、予想していたよりも遠くへと、転がっていった。私は、また何かを落としたいと思っていた。踊り場と外を分かつコンクリートの壁の縁が、外側に向かって緩やかなカーブを作っていた。こういうデザインなのだろうと思いもう一度近づきながら、この曲線は私の身体に上手く合わさるような気がしていた。腹を乗せ、曲線に身体を預けながら、上半身を外へ乗り出させた。その先には、遥か遠くに見える地面とは別の、何かがあるように思えた。足が竦み、力が抜けたが、なぜかその感覚は自分にしっくりくるように思えた。落下していく最中、私の意識はある到達点までいくだろう。私は自分を落下させた加害者となり、被害者となる。不安と恐怖の向こう側に、何かを見るだろう。それを見ることができるのなら、何をしてもいいような気がした。

 

 次に、恐怖に打ち勝ったことを表す象徴的なシーンを抜粋する。

 タクシーの運転手である青年は強盗から逃げ、猛スピードで逃げている場面だ。

 

 運転をしながら、涙が出た。安堵したような、悲しいような、よくわからない涙だった。自分が今生きていることを思い、力を入れてハンドルを握りながら、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。意識の奥で垣間見た映像を思い出しながら、研修医は間違っていたのではないか、と思った。(注:『恐怖に感情が乱され続けたことで、恐怖が癖のように、血肉のようになって、彼の身体に染みついている。今の彼は、明らかに、恐怖を求めようとしています。恐怖が身体の一部になるほど侵食し、それに捉えられ、依存の状態にあるんです。自ら恐怖を求めるほど、病に蝕まれた状態にあります』と研修医は青年が少年だったことにそう言っていたこと)私が望んでいたのは、克服だったのではないだろうか。自分に根付いていた恐怖を克服するために、他人が見れば眉をひそめるような方法ではあったが、恐怖をつくり出してそれを乗り越えようとした、私なりの、抵抗だったのではないだろうか。(注:暴走族にあえて絡んで殴られようとしたこと、上記のように高所から落ちようとすること)道路はどこまでも、真っ直ぐに伸びていた。/前方に、急なカーブがある。小さく景色のように見えていたそれは、凄まじい速度で、こちらに向かって近づいていた。あれは地面だと、私は感じた。速度が上がる。速度は上がり続け、私は、落下し続けていた。カーブのカードレールが、その白色が、こちらに迫っていた。襲いかかるように拡大し、私を押し潰そうとする。動機が高鳴り、筋肉が縮み上がるようで身体を動かすことができない。私は一つの物のように、身体を置いた内部だけの固まりのようになり、落下しているように思えた。恐怖は、もう私の後方にあった。目前にガードレールを見た時、その白色は、私に対して優しく、暖かく光ったように思えた。砕け、潰れるような衝動が全身に走り、様々な音が膨張して始めた時、私は、柔らかなものが自分を満たすように感じた。

 

 青年は恐怖に打ち勝つ方法として、無意識のうちに恐怖を作り出して、それを乗り越えようとしていたのだ。

    舞城王太郎の『熊の場所』を思い出した。そこには「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐ戻らねばならない」という一文があり、それと似ているように思えた。

 そもそも、恐怖とは何か。

 先天的な恐怖と後天的な恐怖がある。

 先天的な恐怖というものは「高いところから落下する恐怖」と、「大きな音への恐怖」の2種類だけだ。人間が怖いとか暗闇が怖いとかそういうのは後天的な恐怖なのだ。

 青年は後天的な恐怖(人間への恐怖)に怯えながらも、落下という先天的な恐怖をもって克服した。だが、後天的な恐怖に打ち勝つことはできるが、理論上、先天的な恐怖に打ち勝つことはできないはずだ。それにそれぞれベクトルの異なる恐怖なのだから、片っ方の恐怖をもって、もう片方の恐怖を打ち勝とうとすること自体、間違っているのではないか。

 その矛盾をこう解釈できる。青年の恐怖の根源は「音」だったと。土を掬うシャベルの音だったり、養父母の怒声だったり、心の嘆きだったり、そういった「音」の重なりが青年の心に恐怖を植え付けたのだとすると、それは先天的な恐怖であり、克服するために同種の先天的恐怖を味わうことにした、辻褄は合いそうだ。だが、いささか考えすぎな感じもある。

 

 まあ、テーマとして『熊の場所』と同じく、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐ戻らねばならない」ということだ。

 荒治療ながらも、そうでもしないと恐怖から立ち直ることはできないのだろう。

 そう考えると我々の抱く恐怖というのはちっぽけで、しようと思えばすぐに克服できるものなんだろう。

 

土の中の子供 (新潮文庫)

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熊の場所 (講談社文庫)

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