橋本陽介『使える!「国語」の考え方』

 今回はあんまり真剣に考察するとかじゃなくて

 軽くいろいろ述べて行こうかなと思う。

 

 

羅生門の授業

 

 

羅生門』を扱う授業には二つの柱があるそうで。

一つ目の柱は、心情の変化の読み取りであり、それに付随する場面の変化の読み取りである。『羅生門』は下人の心情の変化が明確に描かれていて、その心情変化自体が、主要なテーマの一つになっている。これは「心情中心主義」の小説文読解の授業では格好の教材と言えよう。

 第二の柱は「エゴイズム」と「悪」の問題である。小説内部に描かれていない価値判断を読者である生徒は考えるのだ。それが小説の醍醐味である「多様な解釈・価値判断を生む」というものなのだ。やや道徳的要素が強い気がするが、私個人の考えとしては「それの何が悪い」といったものだ。「根拠」が本文中にあれば、道徳的教訓を議論するに至っても何ら問題などないだろう。

 

・ラストの書き換え問題

 初出ではラストは「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。」であり、至極普通で面白くない。「下人の行方は、誰も知らない。」のセンスの良さがきらりとまぶしい。さて、下人はどうなったでしょうか? これを問う活動がしばし行われているらしいが、ここでも「根拠」さえあれば、いろんな発想を許していいだろう。

 

・心情を読むとは?

 そもそも、小説と物語は違う。

 物語とは「時間的展開のある出来事を語ったもの」である。その中に「小説」というジャンルがあるのだ。

 では、小説文の要素は何か。

 一つ目が、時間が展開していくこと、つまりは筋が展開していくことである。

 二つ目が、登場人物の内面である。

 高校教材の四天王「羅生門」「舞姫」「山月記」「こころ」、確かにすべてこの二つの要素を満たしている。満たしているどころか、登場人物の内面については嫌と言うほどくどくど描いているものばかりだ。まあ、その内面に共感するときもあれば、しないときもある。

 例えば、「こころ」の先生の行動を理解できる者なら共感するし、理解できない者は「何してんのこいつ」と思ってしまう(読書の意欲を下げる?)。「山月記」を読むと、傲岸な人物李徴と自分が被るなんてこともあるかもしれないし、ないかもしれない。もし「あれば」、きっと「虎にならないように気を付けなくちゃ」とか思うかもしれない。

 まあ、私としては教材はもう少し最近のものでもよくない? と思う。「こころ」を読んで登場人物の行動を理解できないのは、「こころ」が執筆された時代にトレンドだった「近代的自我」が深く関わっているからで、現代人が理解できないのは仕方ないことなのだ。だから、現代人作家とかの小説をどんどん出していけばいいと思う。……森見登美彦とか(嘘)

 

②小説文の授業について生徒はどう思っているのか?

 

 

 著書に書かれてあったことだが、生徒は小説文の授業についてどう思っているのか、アンケートをとったそうだ。設問は以下の通り。

 

 1.国語の国語総合、現代文等の「小説」を扱った授業について

①あなたは、高校の該当授業についてどう思っていましたか?

A とても面白かった B わりと面白かった Cふつう D わりとつまらなかった E とてもつまらなかった

②あなたが①のように思った理由はなぜですか? よかったところ、悪かったところ(苦情)などを率直に教えてください。

 

 否定的意見は以下の通りだ。

 

・やたら音読するだけでおわったからつまらない。

・小説は面白かったが、授業はだらだらと進むので寝ていた。

・黒板に出来事や気持ちをただまとめるだけで、つまらなかった。

・授業で小説をやってもほぼ参考書に答えがあって、小説がカリキュラム化されているので、授業に出ても出なくても一緒。

・小説に対する感じ方はそれぞれなのに、一つの答えを強要されるのが好きではなかったので、授業はほぼ聞いていませんでした。私は先生のオリジナル問題で、先生の考えと私の考えがまったく合わなかったので嫌いでした。

国語学習を通して、生徒がどういう力を身につけてほしいとか、どうなってほしいとか、どう授業を受けてほしいとか、そういうものがなかった。公立高校あるあるの、毎日の授業が作業化している先生が嫌い。

 

 一方肯定的(一部否定的)な意見を羅列する。

 

作者の背景などを日本史と絡めて教えてくれる先生の授業は面白かった。ただ淡々と文章についてだけやる先生の授業はつまらなかった。

・担当の先生の授業が分かりやすく、雑学的なことを交えながらだったから面白かった。

・その作品の背景知識や解説をしてくれて面白かった。

・自分が小説が好きなので、いろいろな小説に触れられることがまず面白かったです。ただ小説の読み方を講義して、一つの方向に向けていくというのは間違っている気もします。あと現代文の小説に関する試験は、論述の採点でなんで差がつくのかが不可解でした。先生の解釈や、経験にもとづく考えを語ってくれる授業はおもしろかったです。

内容だけ読んで心情がどうこうとかの解釈だけしているのはつまらない。気持ち等はこっちでも読むし、押しつけられても仕方ないので、文構造とかつながりとかの理論的な部分をしっかり教えてくれると楽しかった。

 

 アンケートの対象は法政大学の学生、慶応義塾大学の学生、早稲田大学の学生とかなので、まあ偏りはある。だが、小説文の授業が退屈だったか面白かったかその授業の違いについて少し垣間見ることはできたのではないか、と思う。

 参考までに、傍線は「つまらない条件」、太字は「面白い条件」である。

 

③小説を読むことの意味を問う

 

 

 実際、書かれていることを読むだけでは、同じ文化圏の作品を同じ文化圏の読者が読んでいるので解釈の差は起きない。ようはプロトタイプ的な解釈だ、この解釈をもとに授業を行うと、前に述べたような否定的な意見が飛び交うことになる。

 だが、『羅生門』を読もうとすれば、最後に得られるテーマは「人間のエゴイズム」であるのは確かだし、どんな授業でもそのテーマが明示されるし、その解釈に向かって授業は行われる。問題はどうやってこのテーマを得るのか、ということではないか。

 

芥川龍之介からの解釈

 よく作者についていろいろ考えてから作品を深めるという手法は授業で使われる。『羅生門』の場合、芥川が『羅生門』執筆前に大きな失恋を経験していて、人に宛てた書簡の中に、この失恋の打撃が書かれているほか、「イゴイズムをはなれた愛があるのかどうか」と書かれていることから、『羅生門』とその書簡の関係は大きい、と捉えることはできそうだ。また、徳富蘆花は芥川が一高時代に「謀反論」に影響を受けていたことから、『羅生門』もその「謀反論」の影響を受けて書かれていると解釈しているという例もある。

 だが、そもそもだが、作者がどういうつもりで書いたとか、執筆に至る経緯といったことは、知ったことではないということを知り置いておく必要があるだろう。作者の実人生から作品の意味を決定づいてしまうと、多様な読みを阻害する場合や、過剰に読みこんでしまう危険性がある。ロラン・バルトの「作者の死」で、物語の作者はその物語の解釈を決める最高権威ではないといったことを書いた。まさにその通りで、作品と作者は離して考えるべきなのだろう。

(とはいえ、大江健三郎の『個人的な体験』とかは、主人公鳥(バード)と大江が二重写しされるし、村上龍限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウ辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』の主人公辻村深月は、名前からして作者の影を感じずにはいられない。)

 そもそも、小説作品内の文章は、現実の「作者」ではなく、作品内の「語り手」が語っていると考えるのが普通なのだ。だが、我々は森見登美彦を大学時代憧れの女子を追いかけたモテない男として想像してしまうのは、「作者」と「作品」を関連付けて読んできた小説文授業の賜物なのだろう。

 

・読者からの解釈

 私が卒論で扱ったことだが、ここで「イーザーの読者論」について語るとする。イーザーは、テクスト(文)の意味をあらかじめ決定された何かではなく、作用であると考えた、では、どういった行為によって作用されるのか。

 「読者の主体的な参与」である。

 イーザーは、意味とはテクストの記号と読者の理解との相互作用の産物であると考えたのだ。

 だが、読者の暴走で『羅生門』を「承認欲求」がテーマだとしたりするといった自由過ぎる解釈を行うのはよくない。テクストが完全に決定するわけでもないし、読者が完全に決定権を持っているわけでもない。あくまでもその中間である。

 

 他にも物語論からの解釈方法が書かれてあったが、正直卒論で書いた内容とダブりすぎて、いろいろ書いてしまいそうだからここで辞めておく。私は新たな気付きにだけ焦点を絞って書いていきたいから。まさに「エゴイズム」の塊のようなブログ。

(本来、ブログというものは読者に向けて書くものだから、私は「読者がどういうものに興味を持ってくれるか?」といったこと考え、そのために読者の目線に合わせて、文章を書いていくべきだし、こんなにダラダラ書くのは読者が飽きてしまうのでよくないことだし、「なるほど!」とか「へえ、知らなかったなあ」とリアクションを書くべきなのだろうが、……まあこれは思考のアウトプットで、私は書き手であって読者であるという奇妙な構図がここにあるということなので……じゃあ、なんでブログをTwitterに載せる? あ、はい、見てもらいたいという欲求があるみたいです、すいません、孤高のブロガーを演じるのはやめます、もうやめます)

 

④ツッコミを入れる

 

 

 あらゆる文章にツッコミをいれるという授業……楽しそう。

 さっきの小説文の授業のアンケートの回答でこんなものがあった。

 

 自分が興味があり、好きなジャンルの小説は楽しかったが、たいして興味もないものを課題にされるとモチベーションはまったくなく、読んでも内容がつまらないと感じた。先生はこの小説の「ここがスゴい」というばかりで、何も伝わらなかった。

 

 じゃあ、どんな小説が「面白く」、どんな小説が「面白くない」のか。

 私の場合、安部公房とか村上春樹とか好きだ。安部公房の『壁』とか『砂の女』とか、非現実的でシュールな世界観が好きだし、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のよくわからない不思議な世界観とか『海辺のカフカ』の幻想的でよくわからない不思議な世界観(よくわからなすぎだな)が好きだ。一方、長嶋有の『猛スピードで母は』とか山下澄人の『しんせかい』(いずれも芥川賞受賞作)は読むのに難儀したし、最後まで読めていない。なんか単調だし、平野啓一郎の『日蝕』みたいに難しい言葉は使っていないのに読みにくい。

 まあ、私の好き嫌いはどうでもいい。

羅生門』、この小説の面白いところはどこだろう。

 私は下人の心情が怒涛の如く動いていくさまが面白いと思う。

 じゃあ、つまらないところは…………主題が明確なところ、ここはツッコミどころだ。

 

 文学研究者の曹文軒は「主題が明確な小説は最も悪い小説である」と語っているそうだ。テーマ先行が見え見えになってしまうと、人物は独立した人物であるというよりも、作り手にしゃべらされている人形のように見えてしまうのだという。

 純文学ではよくみられるよね、こういうの。

 

・『羅生門』の場合

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 

 まあ、老婆の台詞長すぎって感じだし、説明しすぎって感じだ。

 

 著書にはなかったが、私もこれに便乗していろいろ載せてみようと思う。

 

中村文則『掏摸』

「……他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上に、そうやって君臨することは、髪に似ていると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わってるのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その人間と同化した気分になる。彼らが考え、感じたことが、自分の中に入ってくることがある。複数の人間の感情が、同時に侵入してくる状態だ。お前は、味わったことがないからわからんだろう。あらゆる快楽の中で、これが最上なものだ。いいか、よく聞け」

 男は少し、僕に近づいた。

「この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。たまらないぞ、その時の瞬間は! 世界の全てを味わえ。お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗から来る感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える。この世界を、異なる視線で眺めることができる。俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、何て可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうと思いながら! 神、運命にもし人格と感情があるのだとしたら、これは神や運命が感じるものに似ていると思わんか? 善人や子供が理不尽に死んでいくこの世界で!」

 

 この台詞は木崎という闇社会の男のものなのだが、実はこれ以前にもめちゃくちゃ長い台詞を言っている。喉がカラカラになるレベルにしゃべっている。中村氏の小説あるあるだけど、ここに関してはさすがに長すぎだろと思った。テーマに深く関わることだし、今後の主人公の行動の意図を説明するための台詞に思えてならなかった。

 

舞城王太郎『ビッチ・マグネット』

「でもさ、真面目ってことで言えば、あかりちゃんは友徳のことがすっごい好きでいろんな変なことをしちゃったけど、けどあかりちゃんを駆り立ててたのはまっすぐな愛情だったんじゃない?友徳に向けた。自分の中の乱暴な愛情に真正面から向き合ったという意味ではあかりちゃんも真面目って言えるんじゃないかな」

 とか言ってみたけど友徳は即座にこう返す。

「はあ?……あのさあ、姉ちゃん、そういう概念とかイメージだけの言葉で話すの辞めてくんない?確かにあかりの気持ちを疑ったことは一度もないよ?あいつ確かに俺のことを好きでいてくれたと思うけどさ。でも恋愛関係って人間関係の一部で、俺とあかりだけじゃなくて周囲に他人がいて、いろんな人巻き込んで迷惑かけた以上、それは真面目とは言えないし独りよがりに過ぎないんじゃない?極端に真面目ってのはちゃんと節度を持ったり冷静に考えたりすることだからさ。ああいうふうに周りに迷惑をかけて俺を困らしておいて、結局全部自分の気持ちのためだけなんだよな。エゴだよ完璧。自己愛が暴走してんの」

 

 姉弟の会話だ。内容についてここでは触れない。弟友徳の台詞が小説のテーマに関係しているのだが、実はこの友徳二十歳で本をまったく読まない青年らしいのだ。にしては語彙力が豊富だしきちんと言語化できている。

 

 あと、『掏摸』にしても『ビッチ・マグネット』にしても、「傍点」とか「太字」を書くことで、ここ重要ですよ! 感を強く出している。これは村上春樹とかもよく使う手法だが、なんかビジネス書かなって思う時がある。善し悪しの判断は私はまだしていないので、ここで無理に良い悪いを言うつもりはない。

 

・『掏摸』の場合

 この世界の中で、お前達は孤独で、お前達が死んでも、気づく周囲の人間がいなかったからだよ。

(木崎が、主人公と石川という主人公といっしょに強盗をさせられた仲間(死亡済)に向けて放った言葉。)

 お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。

(上記の引用台詞から)

など

 

・『ビッチ・マグネット』の場合

 人にはそれぞれの考え方、感じ方、価値観、行動原理があるってのは基本前提として誰にでも備わっているのだ。お互いの違いを認めてるからこそ、そうそう本質は変わったりしない。

 

 まあ、テーマが先行しすぎると、小説に切実さを感じられなくなる、生々しさを感じ取られなくなってしまうのだ。

 メッセージ性が強いと読者はなんとなく物語から離れてしまう。

 

 いい例は『平成狸合戦ぽんぽこ』だろう。

 私はこの作品の後半、ふるさとを失って人間に化けて暮らすしかなくなったタヌキが多忙な人間社会をもがきながらも生きているというシーンに涙した(ガチ)。そして、『いつでも誰かが』が流れ始め、あああああっとなった。

 だが、だが、だが、

 

 「あのーテレビや何かで言うでしょう。『開発が進んで―キツネやタヌキが姿を消した』って、あれやめてもらえません? そりゃ確かにキツネやタヌキは化けて姿を消せるのもいるけど……でもウサギやイタチはどうなんですか? 自分で姿を消せます?」

 

 こっちにしゃべりかけんなポン吉いいいいって思ったよね。メタいメタい。

 メッセージ性は物語の中にメタファーとして静かに入れられているから響くのであって、説明されちゃあ何となく冷めてしまう。

 ちなみに著書では『天空の城ラピュタ』を例に、シータが次のように語っていたことから説明しすぎと述べていた。

 

 今は、ラピュタがなぜ滅びたのか私よく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。「土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに歌おう」

 どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れて生きられないのよ。

 

 シータは少女なのに、なしてそんな説教くさいこと言うん? と著者は述べているのだが、まあ、確かにそうだな、ラピュタがなぜ滅びたのか、考えるには格好のネタなのに、その考察をさせまいとジブリが先手を打ったみたいな……。

 

 ずいぶん前に「ツッコミ」を入れる授業楽しそうって書いたのに、以上のような「ここがおかしいよジブリ」って感じになっている。ダメだ、こんなこと授業にしてはいけないな。

 

 結局、私何を言いたいの? って感じになって来た。

 まずいな。

 うん、端的にまとめると「小説文はあまり深く考えるのではなくて(深く考えるのは文学研究者の仕事)、軽くツッコミ(批判的な読み方)をするのがちょうどいい」のだ。

 

 ……私としては授業で大々的に小説文を扱う必要性はないんじゃないかなと思う。

 あくまで大々的だ。まったく扱わないというのは辞めてほしい。

 

 こういうのはどうかな?

 生徒に「夏目漱石」、「芥川龍之介」、「太宰治」の三人から一人選び、その作者の書いた作品を読んで、いろいろ(曖昧だな)考察するっていう授業。そしたら、小説読むのが苦手な生徒はめっちゃ短い作品を手に取るし、小説好きは長編を読むだろう。そしたら、平等じゃないとかいう声があがりそうだが、そもそも学びに向かう姿勢自体人それぞれなんだから、平等なんて最初からありはしない。

 

 生徒A「芥川の『女体』選びました! エロいです!」

 先生「……」

 生徒B「夏目漱石の『一夜』選びましたが、意味不明です。どういう話でしょうか、教えて下さい先生」

 先生「……」

 生徒C「太宰の『斜陽』は『再生』と『滅び』という二つの枠から脱し切れていない従来の読み方を凌駕する考えを持ってきました。かず子の台詞には……が……となって……で……かず子の『蛇』の表すメタファーは……であって……」

 先生「……」

 

 あ、これ先生の負担でかいな。

 

⑤理解されやすい文章のセオリー

 

 

 最後にけっこう真面目な話。

 

・どういう順番で書いていくべきか?

 説明文・論説文というのは、知らない人に対して何かを説明したり、自分の意見を伝達したりするものである。構造は「序論、本論、結論」の三部構成になるのがよい。

 

◎序論

 前振り。話題をスムーズに導入するための役割を持つ。

 例えば、本論でA、Bについて語るとなると、序論でA、Bについて書きますよといった予告が必要となるのだ。また、一貫とした論を書くべきなので、不必要な情報は断捨離すべきだ。

 著書には著者の授業を受けていた生徒の書いたレポートを例にしていたが、それを書くとなるとなかなかの労力なのでやめておく。

 

◎本論

 序論で予告した内容について述べていくところだ。以下の点に注意して書くべきである。

 

・一つの段落で論じることは一つ

・話題を一貫させる(段落の初めは、段落全体を予告するもの――トピックセンテンス――)

・全体→部分(個別)の順番にする

・抽象的→具体的の順番にする(一段落に「序論→本論→結論」を入れ子式に詰め込む)

 

 とはいえ、文章を書くのはなかなか難しく、思考が散りばめられた状態ではなかなか論はまとまらない。著者が提案しているのは「ブレーンストーミング」だ。やっぱ、ブレスト大事なんよね。多分、ブレストはあらゆる「思考を整理する」系の本に書かれてある手法だと思う。それくらい大切なんよね。

 

※「結論」は要点をまとめるっちゅう話だし、飛ばします。ちなみに、「結論」は先延ばしにするよりはじめから言っておいた方がいい。サラタメさんもそういう方式使ってる(誰も知らないと思う)。

 

・情報を整理する

 前衛的な小説が受け入れられないのは、出来事A→出来事B→出来事Cのその流れがなく、何が言いたいのかさっぱりわからないというところが原因だろう。だから、情報の流れが適切なものでないと、人さまには受け入れられないのだ。

 情報の流れとは何か。

 序論で出されるのは誰もが知っているような内容だろう。

 

 例えば、

 

 私は昨日学校を休んだのは、風邪を引いたからです。

 今日は熱があるので、学校を休もうと思います。

 

 この二文は読みやすい。

 だが、

 

 私は今日熱があるので、学校を休もうと思います。

 ところで、私は昨日風邪で学校を休みました。

 

 とか、

 

 昨日は風邪を引いて学校を休みました。

 今日も学校を休むのは、熱を出したからです。

 

 とか、何となく読みにくい。

 

 結論から述べると「旧情報→新情報」の流れが大事なのだ。

「私は昨日学校を休んだのは、風邪を引いたからです。」は旧情報で、「今日は熱があるので、学校を休もうと思います。」は新情報だ。

 読みにくくなるのはその順序が逆になる場合(意図的なときもある/上記の例の一個め)、旧情報を出さずにいきなり新情報を出す場合(上記の例には入れていない)、そして、情報の焦点がわかりにくい場合(上記の例の二個め)だ。

 「学校を休みます」ということが情報の焦点(一番言いたいこと)なのだから、それを前面に出さねばならない。また、この新情報(情報の焦点)は述語の位置に置く。一方、旧情報に属するほうは、主語、または従属節に置く。「今日は熱があるので」は原因を表す従属節である。

(そこにいたのは猿だ。猿はかわいかった。…ほら新情報は述語、旧情報は主語だ)

 新情報として語られたことはその時点で旧情報と化す。説明済みのものは、旧情報にできるのである。例えば、「情報の焦点」と見慣れない単語を前にいきなり( )の説明もなく出した場合、どうだろうか。これはいきなり新情報を出されたのと同じで、これでは読者は混乱する。独りよがりの文章の誕生だ。

 

 著書に載ってあった『ボリビアを知るための73章』という書の引用文が非常に読みづらかったので、ここで共有させたい。

 

「十八世紀のトゥパック・カタリの反乱」

 一八世紀末のアンデス地域においてはスペインの植民地支配を根底から揺るがすほどの強力な反植民地運動の風が吹き荒れたのであった。この大反乱は原住民による「国土再征服」の観を呈しさえした。反乱は直接的には、一八世紀ペルー副王領における原住民社会の構造と原住民に対する収奪機構である貢納、ミタ(賦役。とくにポトシ銀山のミタがよく知られている)、レパルティミエント(地方行政官〔コレヒドール〕が管轄区の原住民に物品を強制的に割り当て、その代価を強制徴収する方式)が背景になっている。それにもまして、植民地社会全体に影響を与えた要因としてカルロス三世の改革(一七六三~八七年)に着目する必要がある。カルロス三世の改革とは、ラプラタ副王領の新設、新税の創出、アルカバラ(販売税)の値上げ、自由貿易勅許の発布、原住民の農産物や従来免税措置がとられてきた食糧などの大衆消費財へのアルカバラ課税などからなっている。このことがペルー副王領の社会経済構造全体を根底から動揺させ、原住民を危機に陥れたのである。

 クスコ方面から南進してきたトゥパック・アマル反乱軍がランバ地方を襲撃し、ラレカハ地方の首都ソラタ市が次の攻撃目標になったとのニュースがラパス市に届くと、アルト・ペルーではラレカハ地方のコレヒドールであったセバスティアン・デ・セグロラが当局側の軍事指揮官に任ぜられ、ラプラタ副王の指示のもとで対抗措置がとられることになった。彼はスペイン人とメスティンからなる討伐軍をラパスからソラタに差し向けるとともに、一七八一年一月一日、大量の武器弾薬を調達し、軍団の編制を行う。一方、この時点でポトシ市北方で発生していたチャヤンタの反乱が急速に拡大の兆しを見せ始めた(トマス・カタリの逮捕後、チャヤンタの反乱は彼の兄弟であるダマソ・カタリとニコラス・カタリによって指導された)。カランガス、パリア、チャヤンタ地方では反乱が激化し、通信が途絶えた。それでもセグロラは各拠点に現金や武器をばらまき、反乱軍に対抗する。しかしシカシカ地方、パカヘス地方(この両地方は一七七〇~七一年にも原住民の反乱を経験していた)、そしてユンガスの首都チュルマニはラパス市からの援助が得られず深刻な事態に陥っていた。兵員募集の望みも絶たれ、当局の形勢は悪化するばかりだった。

 

 カタカナ多いし、世界史知らないし……ってのは自分の問題だから仕方ないとしても、やはり客観的に見ても読みにくい(てか、実在する書籍から文章を引用して、「読みにくい」と糾弾するのはなかなかすごいな)。

 読みにくいのはなぜか、まとめてみる。

 

・「ミタ(賦役。とくにポトシ銀山のミタがよく知られている)」「ラプラタ副王領の新設」など分かりにくく、なのにその説明がいっさいないというところ。

・第二段落で「クスコ方面から南進してきたトゥパック・アマル反乱軍がランバ地方を襲撃し、ラレカハ地方の首都ソラタ市が次の攻撃目標になったとのニュースがラパス市に届くと」というふうに「従属節」が来ているのだが、本来従属節部分は「旧情報」で、従属節以降は「新情報」となるところが、トゥバック・アマルなる人物の反乱軍が蜂起されていることが前提となっているところがいけない。新情報→新情報となっているのだ。

・(トマス・カタリの逮捕後、チャヤンタの反乱は彼の兄弟であるダマソ・カタリとニコラス・カタリによって指導された)。という部分も前の理由に同じく、トマス・カタリという新しい人物が出てきたにも関わらず、なぜか何の罪で逮捕されたのかもわからないまま、「トマス・カタリの逮捕後」と何食わない顔で述べられているところがわかりにくい。

 

 あと、この文ではないが、一文が長く、「主語」と「述語」が離れすぎて読みにくい文章を挙げていて、読みやすくするために「主語」と「述語」の距離を近くして、二文に分けるとかしようねみたいなことが書かれてあった。また、話すときはメリハリつけて話そうね~スクール革命の内村さんみたいにね~みたいなことは書かれてあった。具体的には「余計な情報を排除し、短い問いかけで導入する。それから、間を取りながら、聞き手に『これからどんな話になるんだろう?』と思わせて、メリハリをつくる。で、なんとなく話の内容がわかってきたら早口で情報をスーッと立て板に水、で、結論に来たらゆっくりと話す」って感じ、伝わるかわからないので、著書の例を書こうと思う。

 

内村光良:何の写真か分かりましたか?

山崎弘也洋服屋さんですよね。

内村:白いTシャツだけを打っている白Tシャツ専門店。2016年千駄ヶ谷にオープンした白Tシャツ専門店。その名も、お店の名前「白T」オーナーが本当に白Tシャツ好きで、世界中の白Tを集めた店始めたんです。ちなみに一番高い白Tは18144円。表がコットン、裏がシルク。世の中にはこのような驚きの専門店が他にもたくさんあるということで、本日の授業はこちら。

 

 と、太字が早口ゾーンだ。「世の中には~」以降はゆっくり

 こういうメリハリをもった話し方は、グッと人を惹きつける。

 なるほどなあ。

 

・人は結局謎が大好き。

 漫画やアニメ、小説にしても「ある謎」が設定され、その解決に向かうという構成が常だ。やっぱりなんの謎もなく進むのは退屈だろう。だから、何か文章を書くときは「謎」をあえて用意して、それを解決するという手法を使えば、読者をグッと引き寄せるのではないか。難しいと思うけど。

 

⑥まとめ

 

 

 書きすぎた。

 また書きすぎた。

 うーん、一万字超えたな。

 ほんとうはまだ書きたいけど、手が疲れたのと頭がぽわっとするのと時間がえぐいスピードで消費されているのでもうやめようと思う。

 Aがある言説を口に出し、その言説とまったく逆の考えを持つBが偏った考えだと唱えるのは昨今よく見られる光景だが、そもそもAもBもそれぞれバイアスを抱えていて(自分が正しいと思った事柄を「真」とし、それと反対のものは「偽」と思っている)、それなのに、自分の考えは中立だと思っているから、あんなふうな対立が生まれるのだと述べられていたところや、意見の対立などでCとDが激化して唾を飛ばしながら討論する光景はワイドショーでよくみられるが、そもそもお互い話をしているテーマがずれているから一生分かり合えることはないみたいなことが書かれてあったが、まあ、そこらへんは「へえ、なるほどなあ」って感じで、そこそこ感銘した。

 

 まとめ、と銘打っておきながら、こんな雑多な内容をまとめられるわけない。

 そもそも、今回はゆるーく書こうと思っていたのに(いつもは、こういった真面目な話を書くときは、事前にノートとかに何を書くか、どういった流れで書くか考えていたりする)、なのになのにこんな感じに長くなっちゃったから、まああっちいったりこっちいったりしたのは御寛恕いただきたい。

 

 いつか、今回の内容を踏まえて、読みやすい文章を目指して、判りやすいく益体のある何かについて書きたいよね、そう思ったりするの徒然なるままにあをによし!!!!

 

 

使える!「国語」の考え方 (ちくま新書)

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掏摸 (河出文庫)

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 内容は面白いですよ。

 

ビッチマグネット(新潮文庫)

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 舞城さんの小説の考察、いつかしたいです。

 

 

壁 (新潮文庫)

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