ハンス・ロスリング『FACTFULNESS』

 ここ数十年間、わたしは何千もの人々に、貧困、人口、教育、エネルギーなど世界にまつわる数多くの質問をしてきた。医学生、大学教授、科学者、企業の役員、ジャーナリスト、政治家――

 ほとんどみんなが間違えた。みんなが同じ勘違いをしている。本書は、事実に基づく世界の見方を教え、とんでもない勘違いを観察し、学んだことをまとめた一冊だ。

 事実に基づいて世界を見られれば、人生の役に立つし、ストレスが減り、気分も軽くなってくる。

 

 ブックカバーのような淡い茶色い表紙のそでにこんなことが書いてあった。

 

 かなり話題を呼んだ本で、なるほど売れるにはそれほどの理由があるのだなと思った。

 

 本書の内容に入る前に、少し私の話をさせていただく。

 

 私は最近までリビアの国旗を緑一色だと思っていた。だが、2011年に国旗は変更され、現在は月と星が真中に描かれた国旗である。どうやらリビアの国旗の情報は私の中では2011年から最近に至るまでアップデートされていなかったようだ。

 そんなふうに、昔の情報と今の情報でかなり変わってきているものがないか、不安になって調べてみた。

 鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変更されたことは知っていた。だが、源頼朝の写真が変更されていることは知らなかった。源頼朝といえばあの色白で細長い卵型の顔のあの肖像画を思い浮かべるかもしれないが、足利直義足利尊氏の弟)ではないか、という疑惑が高まったことであの肖像画は使われなくなったそうだ。

 ほかにもいろいろあるのだが、ここいらでストップ。

 

『FACTFULLNESS』は、世界を正しく見るためにあらゆるデータを提示して、私たちの抱いている思い込みを排除しようとする書である。「知らない」ことを「知る」のではなく、「知っているつもりだった」ことを「正しく知る」ことができる書である。私はこの本を読んで、自分がいかに世界のことを知った気でいたのか、と恥ずかしくなった。

 だが、そでにもあったように、大学教授、科学者たちも間違えた認識をしていたらしいので、それを聞いていくぶんすっと肩の荷が下りた。

別に「知っていたつもりだった」ということは悪いことではなく、間違って認識していた知見を意地でも変えようとせず、いつまでも自分が正しいという考え方を貫こうとするその姿勢を変えないことが悪いことなのだ。

 

 

 

1.分断本能

 

 

質問:世界の人口の何%が、低所得国に住んでいると思いますか?

 

 この本を読む前の私はだいたい50%ほどかなと思っていた。アフリカや東南アジアの貧しい国々を想像しながら。

 しかし、解答は「9%」らしい。低所得国に住んでいるのは、世界の人口の9%しかいない。

 

質問:世界で最も多くの人が住んでいるのはどこでしょう?

A 低所得国 B 中所得国 C 高所得国

 

 例によって、私はAを選択した。だが、答えはだ。

 そもそもだが、世界は「高所得国」と「低所得国」に分けられ、その格差たるや恐ろしいものだという固定観念が私の中にあったが、著者のハンス・ロスリング氏はバッサリと「それは分断本能だ」とぶった切った。

 1965年はたしかに世界は分断されていた。それは「先進国」と「発展途上国」という名前で分けられていて、前者が生活の指標がよく、後者は悪い、そういう認識は別に間違っていない、あくまで1965年では!

 だが、2017年のデータ(本書に掲載)を見てみると、それが間違った認識だと判った。「先進国」と「発展途上国」の境界はもはやなかった。そう、生活の指標や所得、民主化の度合い、教育、医療、電気へのアクセスなどに関しても同じだそうだ。

 

 なぜ私たちはこんな勘違いをしてしまっているのか?

 

 ドラマチックすぎる世界の見方をしてしまっているから。

 

 ドラマチックすぎる世界の見方?

 これは筆者いわく、「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一生金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももう尽きてしまう」という世界の見方のことを指すそうだ。

 これはメディアのせいでも、知識のアップデートを怠っているわけでもなく、どうやらドラマチックな物語に耳を傾けるという人間の本質的な問題らしい。筆者はこの本能を抑えるべきだと述べている。そのためのファクトフルネス!

 

 そして、前に述べた世界を「先進国」と「発展途上国」に分ける「分断本能」はそういったドラマチック本能の働きによるもので、何事も2つのグループに分けて考えたがる面倒な人間の性質のあらわれだそうだ。

 小説やアニメでもよく「二項対立」という構図が使われるが、まさにそれだ。私たちは世界においても「物語」を求めているそうだ。そうすることで、シンプルな見方ができる。シンプルに物事を考えることができる。

 

 だがしかし、この「分断本能」は抑えなければ、世界を正しく見ることはできない。

 じゃあ、どうしろと?

 「大半の人がどこにいるか探すこと」だそうだ。

 データの平均を比較することや、極端の数字に惑わされ中間層を見逃さないこと、上から下の景色を見下ろせばどれも同じふうに見えるが実際はかなり差異のあるものだと気付くことが大切となってくる。

 

 ファクトフルネス……。

 

2.ネガティブ本能

 

 

 世界はどんどん悪くなっているという思い込み。

 私はひどく共感した。

 今、コロナの騒動で、よりいっそう人々は世界を悲観的に考えているのではないかと思っている。Twitter検索すればもう地獄だ。みんなネガティブだ。昔はよかった……とか言い出す始末。

 そうやって物事をネガティブに捉え始めたら、ますますドツボにハマってその沼から抜け出せなくなってしまうと考えているので、私はなるべく物事をポジティブに考えている。それでも少しはネガティブになっちゃうけどね。

 シリア内戦、テロ、漁業の乱獲、海洋汚染、絶滅危惧種の増加、温暖化、金融システムの崩壊の危機(?)など。

 確かに、そういった問題はしばしばニュースで取り上げられ、そのたび世界が悪くなっていると思わざるを得なくなる。

 だが、そもそもだが、ニュースは基本的に「暗いもの」であり、「明るいもの」は滅多に報道されないものだ。コロナのニュースで、感染者や死亡者の数は毎日のように報道されるが、退院した人の数はあまり報道されない。いじめの問題は報道されるが、教師がいじめを受けていた生徒を救ったという報道は聞いたことがない。

GTOで、鬼塚が自殺する生徒を助けたことを伝えるニュースで「最近教師の不祥事ばかり問題になっていたので、こういう明るいニュースはいいですね」みたいなことを言っている女子アナがいたことを思い出した。実際、あそこまで(鬼塚は屋上から飛び降り文字通り身を挺して助けた)身体を張らなくちゃニュースにはならないのではなかろうか)

 

質問:世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?

A 約2倍になった B あまり変わっていない C 約半分になった

 

 解答はCだ。

 これもグラフ付きで証明している。

 だが、テレビに映し出される貧困に苦しむ人たちを見て、私たちは「世界の貧困はますます問題になってくる」ともっともらしく考えてしまう……。

 

 「世界は悪くなっている」という勘違いを打ち破るためには、現在と過去を比較することだ。

 過去を思い出すと、煌めていた時代を想像する。だが、思い出は美化されるものだ。

 本書にある例が載せられてあった。

 スウェーデン人作家のジャーナリスト、ラッセ・ベリは1970年代にインドの田舎を訪れて綿密な取材を行ったのだが、25年後にまた同じ村を訪れたラッセは暮らしの質が明らかに良くなったことに気付いた。

 「土の床、粘土の壁、着るもののも満足にない子供たち、そして外の世界のことを知らずに不安そうな顔をした村人たち」が映った25年前の写真と、「コンクリートの家、服を着て遊ぶ子供たち、そして外の世界に興味を持ち、自信ありげな村人たち」が映った90年代後半の写真。25年前の写真を村人に見せると「この村はこんなに貧しくなかったぞ」とか「別の村で撮った写真じゃないのか?」と、そう疑うのだ。なるほど、過去の記憶は、いまのことで頭がいっぱいで、あらゆる悩みに追われているうちにすっかりと薄れてしまうみたいだ。村人たちのいまの悩みはバイクを買うかどうかといったたぐいだそうだ。

 

 ゆっくりとした進歩は見えにくく、それゆえニュースにはならないのだ。

 ほら、今日もどこかで事件が起きて、「世の中の歯車は狂い始めている」とか思ってしまう。ネガティブ本能発動。

 でも、三十年前(私は生まれていない!)に起きた事件は、今に比べて発生率は高いのだ。あと、他国に比べて日本での犯罪発生率は極めて低い。なのに、ニュースで伝えられるのは悲惨な事件ばかり! ヤフーニュースのコメント欄で「日本はおしまい」とか書かれる始末。

 もっと極端に言えば、戦時中と較べてみろ! 

 今という時代がいかに恵まれているか!

 ブラック企業がたびたび問題になるが、近年は改善しつつあるし、学校での体罰も昔みたいに横行していない。報道されるのは「ホワイト企業の実態」や「体罰のない学校風景」ではなく「労働基準法を守らないブラック企業の実態」や「教師に体罰される生徒の映像」である。そして今日も聞こえる「まったく改善されていない」という声。

 ファクトフルネス……もっと正しい見方を。

 

3.直線本能

 

 

 世界の人口はひたすら増え続けているという思い込みのことだ。

 

 未来の世界の人口の増え方をグラフ(これも本書に掲載)で見てみると、2100年には「110億人」にもなるそうで。そういうふうに人口が最も増える大きな理由は「大人(15歳~74歳)が増えるから」であって、高齢者・子供の増加ではない。

 

「人口はひたすら増え続ける」

 

 そう言われて久しいが、実際、チャート化された未来の世界の人口(年齢層別)を見ると、人口は直線的に増加するのではないのが判る。医療の充実により寿命が延びたことを踏まえた上で確かに高齢者も増えるが、爆発的に増えるというわけではなく、大人の総数が増加するのがこれからの動向だ。

 とにかく、なんでもかんでも「直線的なグラフ(一次関数)」を当てはめるのではない。この世のデータのほとんどが以下のグラフが当てはまるのだから。

・S字カーブ型グラフ(最初は横ばい、途中でグッと上昇し、次第に落ち着くグラフ。 ex.読み書きができる大人の割合の増加グラフ、1歳児の予防接種の割合の増加グラフなど)

・滑り台型のグラフ(最初は横ばい、途中からなだらかに下がっていくグラフ。 ex.横軸を左を貧しい国、右を裕福な国、真中を中間の国とした場合の、女性一人当たりの子供の数)

・コブ型のグラフ(グッと増え、グッと減るグラフ。 ex.1~9歳の子供の死因のうち、溺死が占める割合のグラフ、すべての死因のうち、二輪車や歩行者の死亡事故が占める割合のグラフなど)

 正しいグラフの見方を……ファクトフルネス。

 

4.恐怖本能

 

 

 危険ではないことを恐ろしいと考えてしまう思い込みのことだ。

 

「蛇」「蜘蛛」「高所」「閉所」「人前で話すこと」「血」「溺れること」など、人が恐れる対象はさまざまだ。

 まあ、でも「身体的な危害(暴力、危険動物、自然の脅威など)」、「拘束(閉じ込められる、誰かに支配される、自由を奪われる)」、「毒」などは誰もが恐れるものだろう。

 だが、メディアはこの三つの恐怖に関連するニュースを流している。

 なぜか?

 メディアはあえて私たちの恐怖本能を利用しているのだ。恐怖本能を刺激することで、興味関心を引くのだ。誘拐事件・飛行機事故は「身体的な危害」+「拘束」だ。こういったニュースは人々の目を引くし、記憶に残りやすい。

日本航空123便墜落事故

・グリコ・森永事件

 前者を題材に横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」が生まれ、後者を題材に塩田武士の「罪の声」が生まれた。そういった悲痛でみんなの記憶に残る事件は誰もが関心を抱くものなのだろう。

 

質問 自然災害で毎年亡くなる人の数は、過去100年でどう変化したでしょう?

A 2倍になった B あまり変わっていない C 半分以下になった

 

 答えはCで、しかも半分どころか25%になった。

 災害はどこでも起きるものだが、被害の規模は国の所得レベルによって大きく異なる。災害対策にはお金がかかるからね。だが、それでも所得レベルの低い国で起こった災害で亡くなる人の数はかなり減っている。というのも、グローバル化のおかげでそういった国で起こった災害も映像とともに情報が各国に伝わり、そして支援物資などが調達される。簡単に人と繋がることができる危うい時代とか何とかいわれるが、このグローバルな社会のどこが悪いのだ。2015年のネパールでの地震だってかつてならもっと甚大な被害を受けていただろうが、各国からの事後の支援により犠牲者を最小に防いだのだ。

 

 恐怖を煽る飛行機事故による死亡者数はいまやまったくといっていいほどいないし、戦争や紛争による犠牲者の数もほんのわずかである。福島県原子力発電の放射線漏れも、それを恐れて避難した人が犠牲になり、原発事故による被爆でなくなったという話はないらしい。テロで亡くなった人もわずか、雷が落ちてきて亡くなる人もわずか……そのわずかを、メディアは抜き出してきて、嬉々として(といっていいのか)報道する。それを見た人はみな恐怖する。飛行機怖い、戦争怖い、テロ怖い、雷怖い……。

 

 世界を恐ろしいと思う前に、まず現実を見よう。私たちのもとに届けられているのはたしかに恐ろしい情報ばかりだ。Amazonで4.5ほどの高評価を得ている商品のレビュー1のコメントばかり見ている状態と同じだ。そんなことをしていたら、「この商品はクソだ」と思ってしまうのは必然だ。

 正しい見方を……ファクトフルネス。

 

5.過大視本能

 

 

 目の前の数字がいちばん重要だという思い込みのことだ。

 

 本書に載っていたベトナム戦争の記念碑をめぐる話が印象的だったので紹介する。

 

 筆者がベトナム戦争の渦中にいたエニムさんという方と会ったときの話で、事の成り行きで筆者はエニムさんにベトナム戦争の記念碑を案内してもらった。(当然だが、ベトナム戦争のことを現地では「ベトナム戦争」とは呼ばない。「対米抗戦」と呼んでいる)

 記念碑は市の中心地にある公園にあったのだが、それは真鍮のプレートが付いた、1メートルほどの小さな石だったのだ。150万人以上のベトナム人と5万8000人以上のアメリカ人が亡くなった、そんな悲惨な戦争の犠牲者をしのぶのに、こんな小さな記念碑でいいのか、と筆者は思った。

 そんな筆者をエニムさんはもっと大きな記念碑に連れて行った。こちらは4メートルほどあり、大理石でできた記念碑だ。フランスからの独立を記念して建てられたものだ。

 次に、木よりも高い、金色の何十メートルもある仏塔を紹介した。それは「戦争の英雄をまつる場所」だそうだ。そう、中国とベトナムの戦争……2000年以上も続いた戦争の記念碑。フランスに占領されていたのは200年間で、「対米抗戦」があったのは20年間。記念碑の大きさと戦いの長さは完全に一致していた。いまのベトナム人にとって、もしかすると「ベトナム戦争」はほかの戦争に比べてそれほどおおごとではなかったのかもしれない。

 

 ……ほかにもクマに襲われて人が死んだというニュースは大ニュースとして巷間を騒がせるのに対し、斧を持って血縁関係のある者や元恋人を殺したりするニュースは新聞の隅っこの方に載るだけだ(日本ではそうはならないと思うけどね)、といったことも主張されていた。確かに日常的に起こる犯罪(ひったくり、万引き、DVなど)は軽くニュースで流され、視聴者は「ああ大変だ」と思うのに対し、クマが人を殺したとか隕石が民家に落ちたといった滅多にない事件については大々的に取り上げられ、視聴者は「ああ怖い怖い!」と声をあげる。

 

 比較しろ! というのが筆者の強い主張だ。

 ベトナム戦争の全容を知って、その悲惨さを語るのではなく、ベトナムで過去に起こった戦争を調べ上げるとか、クマに襲われた事件を残忍だと思うのではなく、世の中にどれほど高頻度で発生している残忍な事件が蔓延っているのか調べるとか、そういった比較が必要だという。(もちろん、事件の矮小化を推奨しているわけではない)

 

 次のような話もある。

「中国、インドは二酸化炭素の排出量が多い。なんとかしろ」

 これは2007年、ダボスで行われた世界経済フォーラムのパネルディスカッションにて、こういう旨の発言が飛び出したのだが、これは筆者によると非常識なことだそうだ。発言したのはあるEU加盟国に環境相だ。彼に対し、しびれを切らしたインド人のパネリストはこう言った。

「世界を危機的状況に陥らせたのは、高所得国のみなさん、あなたがたです。あなたがたは100年以上にわたって、どんどん石炭を燃やし、湯水のごとく石油を使ってきた。あなたがたのほかに、地球温暖化の引き金を引いた人がいるとでもお思いですか?」と。

 インド人のパネリストは最後に

「これからは、ひとりあたりの二酸化炭素排出量について、語り合うことにしましょうぞ」

 と言った。

 国全体の二酸化炭素排出量を見ているのがそもそもの間違いなのだ。

「肥満の問題は、アメリカよりも中国のほうが深刻だ。中国人全員の体重を合計したら、アメリカ人全員の体重より重いからだ」と言っているようなものなのだ。

(「大阪は治安が悪い。なぜならほかの県に比べて、犯罪発生の数が多いからだ!」という大阪府の人口と犯罪発生の数を割ることなく、「数」を用いて論破しようとしているようなものだ! と私も便乗)

 

 最後に、「ひとつしかない数字をニュースで見かけたとき」、こうすればいいという提言があったので載せておく。

 

・この数字は、どの数字と比べるべきか?

・この数字は、1年前や10年前と比べたらどうなっているのか?

・この数字は、似たような国や地域のものと比べたらどうなるのか?

・この数字は、どの数字で割るべきか?

・この数字は、合計するとどうなるのか?

・この数字は、ひとりあたりだとどうなるのか?

 

 ファクトフルネス……。

 

6.パターン化本能

 

 

 ひとつの例がすべて当てはまるという思い込み。

 

 これまた印象的な例が本書にあったので紹介する。

 ある学生の話なのだが、とある低所得国の私立病院で、エレベーターのドアが閉まろうとするのを、その学生が足でドアに挟んだのだ。すると、ドアは学生の足を挟んだまま、どんどん閉まっていく。それは責任者がエレベーターの緊急ボタンを押してくれたので難を逃れたのだが……。

 この話は何を意味するのか?

 判る人もいるだろうが、これは「自国のエレベーターはドアにセンサーが付いているので、足を挟めば自動的に開いてくるから、他国のエレベーターもそうだろう」という、自国の常識を他国に当てはめるという、いわば「パターン化本能」が働いたということである。

 これは国レベルでもなく、もう少し小さい範囲でも起こることだろう。

 例えば、「私の家では〇〇という教育をしているんです! だから、あなたの教育方針は理解できません!」と憤怒することだってそうだ。自分の常識は世界に通用する常識だと勘違いしている。

 

 そもそも、人間は自分が育ってきた環境から「常識」というフレームをつくりあげる。だから裕福な家庭の育ちの子が世間知らずといわれるのは仕方ないことなのだ。

 私もそこそこいい家で育ってきたので、NONSTYLEの石田さんやサンシャイン池崎さんの過去の話(貧乏エピソード)を聞いたときはまったく想像できないものだった。

 

 また、教育だってそうだ。何回かブログでも書いたことだが、文科省は基本的に学生の能力を買い被っているので(自身の経験から)、「これできるでしょ?」みたいな高度な教育を要求しようとしている。下の方の実態を見ようとしないのだ。

 

 私たちがニュースで見かけるのは高水準の生活だ。

 トイレ、ベッド、コンロとGoogle検索してヒットするのは高所得国のものばかりだ。

 

 自分は「普通」ではないのかもしれないと疑うべきだと筆者は言う。

 エレベーターのドアにセンサーがあることは普通ではない、自分の教育観は普通ではない、自分の家のトイレは普通ではない。

 そうやって常識を疑うことで、正しい世界の見方ができる……ファクトフルネス。

 

7.宿命本能

 

 

 すべてあらかじめ決まっているという思い込み。

 

 筆者はある講演でアフリカの国々では教育や子供の生存率が劇的に改善してきたといったことを言ったあとに、ある男性がこう言ったそうだ。

「先生の数字も見せてもらったし、お話も聞きましたけどね、アフリカはありゃだめですよ。軍の仕事でナイジェリアにいたからわかります。ほら、文化があれだから。近代的な社会なんてつくれっこありません。変われませんよ。絶対に」

 だが、筆者に言わせれば、アフリカは世界に追いつけるのだ。

 そもそも、ひどい飢饉や紛争があった時代には、中国もバングラデシュベトナムも、経済発展はありえないと思われていた。だが、いまやこれらの国々で生産された洋服を私たちは着ている。35年前のインドは現在のモザンビーク状態だったが、もしかすると30年後、モザンビークはいまのインドのようになっているかもしれない。

 人々は宿命本能によって、「アフリカは変わらない」と思い込んでしまっている。さらに「西洋はこれからも発展し続ける」と思い込んでしまっている。

 

 あと、アメリカにおける同性愛への認識について、もしかすると同性愛は忌避されているので、アメリカ人のほとんどが受け入れていないなんて思っていないだろうか? 実際、1996年には同性愛を支持するアメリカ人は全体の27%しかいなかったが、いまやそれは72%だそうだ。

 

 いろんなもの(人も、国も、宗教も、文化も)変わらないように見えるのは、変化がゆっくりと少しずつ起きているからなのだ。その緩慢なスピードの変化の中から、「変わっている」と意識することが大切。知識のアップデート、祖父母に話を聞く、文化が変わった例を集める、何でもいいので「変わった」ものを見つけること、そう……ファクトフルネス。

 

8.単純化本能

 

 

 世界はひとつの切り口で理解できるという思い込みのことだ。

 

 シンプルなものの見方に惹かれる私たちは、複雑を嫌い、例外を嫌う。動詞の不規則動詞を嫌うように。

 もっとも分かりやすい例は「平等」だ。「格差」が元凶だから、それを埋めようとする。そのため、資源の再配分を提案する、ベーシックインカムを提案する、共産主義を提案する(ソ連の成れの果てを知っていたら、まあ積極的に提案はしないか)……、世界をそんなふうにただひとつの切り口で見れば、あれこれ悩まずにすむし、時間の節約になる。

 くどいようで申し訳ないが、教育だってそうだ。あれこれ理想の教育論(机上の空論)を並べても、いざ行うとなると生徒全員が「平等」に学力を身につけることはできないことに気付くことになる。だが、この世の人々のほとんどがその「実践」を放棄せずに、一丁前に御託だけ並べる。(だから、政府批判だって私はできることならしたくない。あれこれ要求するのはタダだし、楽だし、一国民として意見を言っている自分に陶酔できる)

 

 自分に合わない意見から目を逸らすな、といったことを筆者は言っている。自分が肩入れしている考え方の弱みをいつも探した方がいい、と。

 

 news zeroで米津玄師さんがつぎのようなことを言っていた。

 音楽・人生で「大切なスタンス」についての意見だ。

「自分が思っていることと全く真逆の事を考えてる人間が対岸にいたときに、その対岸にいる人の主義主張みたいなものを一回引きうけてみる。それくらいの余裕は絶対に持って行きたいな。調和を持って生きていかなければいけない。人間はひとりでは生きていくことができないので」

 人間はひとりで生きていくことはできない、というフレーズは手あかがつくほど言われてきたことだし、一部の人にとっては「綺麗ごと」だと言うだろう。だが、米津さんは菅田将暉さんと出会い、「灰色と青」という楽曲を協働で作り、初めて「ひとりではできないことがある」と悟ったくらいだ。言葉に説得力がある。

 

 本書に興味深いことが書かれてあった。少々長いが、そのまま引用する。

 

「子供にトンカチを持たせると、なんでもくぎに見える」ということわざがある。

 貴重な専門知識を持っていたら、それを使いたくなるのはあたりまえだ。努力して身につけた知識やスキルを専門分野以外のことにも使いたいと考える専門家もいる。たとえば、数学の専門家は数字にこだわってしまうことがある。気候変動の活動家は太陽光発電に関することなら何にでも口を出したがる。医師は、予防に力を注いだほうがいい場合にも治療を勧めてしまうことがある。

 専門知識が邪魔をすると、実際に効果のある解決法が見えなくなる。その知識が問題解決の一部に役立つことはあっても、すべての問題が彼らの専門知識で解決できるわけはない。さまざまな角度から世界を見たほうがいい。

 

 自分の興味のあるジャンルの話は、いくらでも話せるように、専門知識を思う存分披歴するのはどうかと思うという筆者の意見だ。何だか、資料を集めたので、ついついプレゼンでその頑張った成果を認めてもらおうと、たくさんしゃべってしまうみたいな、そんな感じだ。

 

 こうした単純化本能(なんでもかんでもトンカチで叩く思考)はやめて、さまざまな道具の入った工具箱を準備した方がいい。

 かつてインド全体で結核検査をしようということになって、とある村がそれに激怒したそうだ。なぜなら、いますぐ助けが欲しいのに治療をするわけでもなく、病気の検査のためにレントゲンを撮ろうとしたからだ。ひとつの病気に絞って手っ取り早く根絶する試みは失敗に終わった。だが、そこに学びがあった。それは「ひとつの病気」に絞るのではなく、地域の中で総合的な医療を提供し、それを改善していくことだった。

 こういった小さな視点でしか物事をみなくなると、解決できるものも解決できなくなる。さまざまな道具を用いることが必要なのだ。

医療のこれからの発展はその業界の中で発展を目指すのではなく、新しいビジネスモデルの開拓だ。そういうふうに新しい味方の獲得が必要なのだ。

 

人間はひとりで生きていくことはできない……通じるところがあるよね。一つの見方(ひとり・孤独)から巨視的な見方(仲間)

 

‥‥…ファクトフルネス。

 

9.犯人捜し本能

 

 

 誰かを責めれば物事は解決するという思い込みのことだ。

 

 例えば、飛行機事故が起こったとする。事故の原因はパイロットの転寝だそうだ。

 さて、私たちはこの事故にどんな感想を抱くか。

パイロットのせいで何人もの命が奪われた!」

 そういうのだろうか。

 さて、実際に起きた事件を例にしてみよう。

 2018年神奈川県横浜市西区で、神奈川中央交通の路線バスが乗用車に追突し、乗客5人が死傷した事故で、バスの運転手は自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の罪に問われた。バスの運転手は15年前から視界のぼやけを感じた後に意識喪失に陥る症状を複数回経験していたという。

 

 はて、コメント欄をのぞく。

「バス運転手め!」みたいなコメントがあると予想したが、案に相違して営業所を糾弾する声がけっこうあった。会社の管理体制を主に問題視していた。

 

 なるほど、これは「正しい」反応だ。

 

 そもそもの原因はなにか考えるのだ。

 例えば、前に挙げた飛行機事故の例では、転寝したパイロットを糾弾したところで、何の解決にもならない。まず、パイロットの睡眠不足に着眼すると、次に会社側の管理体制が問題視される。そうして「解決すべきところ」を見つける段にたどりつく。パイロットを批判したところで、何も解決できないのだ。そこが一番の原因ではないから。

 

 この章は「犯人捜し」をするな! という話である。

 人は犯人捜しをしたくなる生き物だ。

 学校内で盗難があったとする。

 先生たちは犯人捜しはしたくないと言うかもしれないが、生徒たちは憶測で「あいつではないか」とか考えるようになる。もしかすると、先生側も「あの子ならやりかねん……」と睨んでいるかもしれない。

 犯人を見つければ、あとは非難轟轟、そしてスッキリ。

 でも、犯人が見つからなければ、モヤモヤ。

 そういう心理だ。

 しかし、もし外部の者による犯行だったら? そうだとしたら、学校内の人たちを疑いかかった時間は無駄なものに帰すことになるし、みんな人間不審になってしまう。

 問題は「なぜ盗難が起こったのか」だ。

 教室の鍵が締まっていなかったとか、先生の監視が行き届いていなかったとか。

 そういった次に被害を起こさないための方策が早急に要求される。

 犯人捜しなど二の次どころか十の次くらいのことなのだ!

 

 世界に目を向けよう。

 皮膚病の一種である梅毒というものがあるが、これは国によって名前が異なるらしい。

 ポーランドではドイツ病。

 ドイツではフランス病。

 フランスではイタリア病。

 イタリアではフランス病。

 誰かに罪を着せたいという本能が働いているのがはっきりと理解できる。

 

 デジャブ?

 そう、武漢で発生したコロナウイルス(COVID-19)の名前を武漢肺炎とか中国肺炎のような言い方がされていたあの一連の出来事。

 名称をつけて一件落着にはならない。

 なぜウイルスが生まれたか原因追求、再発防止。

 そういったことが重要だろう。

 

 犯人捜しをやめたらどうするか。

 今度はそんな負のエネルギーを放つのではなく、正のエネルギーを放出する。

 感謝だ。

 アクション漫画にはヒーローがいる。

 読者は彼ら/彼女らに憧れる。

 しかし、実はそういうヒーローを影で支えてきた存在がいる。

 みんなに分かりやすく言うと、アンパンマンにおけるジャムおじさん

 社会で例えると、「社会を築いてくれる数多くの人」だ。

 公務員、看護師、教師、弁護士、警察官、消防士、電気工事の人!

 ときに叩かれ役(ときに、どころか、高頻度か)の人たちだが、彼らがいなければ社会基盤は整っていなかったのだ! そう考えると、感謝しかないだろう。

 彼らは破壊的なリーダーや有能な政治家のように、大々的なヒーローにはなれない。

 だが、影のヒーローにならなれる。いや、なっている。

 あとはみんなの見方次第なのだ。

 

 ……ファクトフルネス!

 

10.焦り本能

 

 

 いますぐ手を打たないと大変なことになるという思い込み。

 

 目の前に危機が迫っていると、人間は焦り本能を剝き出しにする。

たとえば、地球温暖化

 どうやら「温暖化難民」なる言葉があるそうで。そもそも温暖化と人口移動の関連性は低いのだが、そのことを筆者が地球温暖化の活動家に言うと、こう返答が来た。

「大げさ話やでっちあげで恐れや焦りを引き出しても許されるはずだ。そうでもしなければ、遠い未来のリスクのために人は動いてくれない」

 それは目先の効果しかない。

 狼少年の逸話が示す通り、嘘を吐き続ければ、誰からも信用されなくなる。

(それは地震への備えをきっちりしておこうという名目をもとに、「〇月×日に大地震が来る」とかいう根も葉もない予言を言い出す人にも通じる。前にブログで書いたが、私はあれが大嫌いだ。注目を得ようとしているのだろうが、人の恐れにつけこんで不安を煽ったところで何になるのだろう? 結局、そんな予言をしたばっかりに、自分に「嘘つき」の称号を獲得することになるのだが、そういう人たちはきっとそれを不名誉とすら思わないんだろうな。)

 

 とはいえ、グローバルな危機が迫っているのは事実だ。

 本書では「心配すべき5つのグローバルなリスク」を載せている。

感染症の世界的な流行

(まさにコロナウイルスのことだ)

金融危機

コロナウイルスによる経済状況の悪化からの金融危機というシナリオはあるかもしれない)

第三次世界大戦

地球温暖化

・極度の貧困

 

 溜息が出る。

 だが、どれも今すぐに対策しなければならない問題ではない。(コロナに関してはそんな悠長なことは言っていられないが)

 焦って大胆な対策を取ってやらかすより、もっと地道に一歩一歩進みながら効果を測っていくことが求められる。ドラマチックな対策には憧れを持つが、そこにどんな副作用があるのかしっかり見定めないといけない。

 

※本書には第11章「ファクトフルネスを実践しよう」という章があるが、それについては割愛する。

 

 問題を提示して苦言を呈すだけならだれもができる。

 

 望月もちぎさんがTwitterでこのような漫画を載せていた。

 

 

    すごい共感。

 

 グレタさんがあまりいいように言われていない(子供相手だから正面から批判はできないです)のは、以上のような理由があるんだろうな。

 

 まあ、そんな問題を見つけて苦言を呈しがちの世界で生きている中、『FACTFULNESS』に出会えたのはよかった。

 私が内心思っていたことを吐露してくれた感じだ。(主に、恐怖本能、過大視本能、犯人捜し本能について共感しかなかった)あ、これ別に私こんなふうに思っていたんだ、すごいだろう? って自慢したいわけではないよ。でも、前々からメディアは不安を煽りすぎなこととか、昔に比べて格段に環境面がよくなっているのに「昔はよかった」とか「もうおしまいだ」とか言っている人が異常に多いことが嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 電車が止まって、イライラしているおっさんがいるが、もし電車がなかったら、毎日会社まで車に溢れた道をもっとイライラしながら車を運転することになっていたぞ。

 

 学校で「勉強怠い」とか言っている生徒いるが、もし学校がなかったら、勉強よりももっと面倒な「労働」を強いられていたことになっていたぞ。

 

 世の中に溢れる「当たり前」は少し前までは「当たり前」ではなかった。だが、みんなすっかりそれに慣れてしまって、要求だけズンドコ求めるようになってしまった。

 

 ソシャゲに明け暮れて「運営!」とか怒鳴っているやつなんてもはや意味不明だ。

 

 この「FACTFULNES」は世界の見方を変える本であると同時に、自己を変える本でもある。だが、本と言うものはクスリではないので読んだところですぐに効果が出るわけではない。読書の効果は読書をしていないときに現れる。そう、以上のファクトフルネスの教えを理解して、実践するときだ!

 

 最後に「ファクトフルネスの大まかなルール」を紹介して終えようと思う。

 

1.分断本能を抑えるのは、大半のひとがどこにいるか探そう。

2.ネガティブ本能を抑えるには、悪いニュースの方が広まりやすいと覚えておこう。

3.直線本能を抑えるには、直線もいつか曲がることを知ろう。

4.恐怖本能を抑えるには、リスクを計算しよう。

5.過大視本能を抑えるには、数字を比較しよう。

6.パターン化本能を抑えるには、分類を疑おう。

7.宿命本能を抑えるには、ゆっくりした変化でも変化していることを心に留めよう。

8.単純化本能を抑えるには、ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えよう。

9.犯人捜し本能を抑えるには、誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう。

10.焦り本能を抑えるには、小さな一歩を重ねよう。

 

※ブログの構成上、以上のルールを読んで、少し「ん?」と思われるかもしれない。その「ん?」がどうしても精神をむしばむというのでしたら、『FACTFULNESS』のご購入を推奨いたします。