落合陽一『日本進化論』

  落合氏の肩書はすごい。

 メディアアーティスト。東京大学大学院学際情報府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学学長補佐・准教授、大阪芸術大学客員教授デジタルハリウッド大学客員教授を兼務。ピクシーダストテクノロジーズ株式会社CEO。

 

 落合氏は幼少期から検索癖があり、何か調べる際いつも図鑑や辞書を用いていたという。八歳でコンピューターに触れ、中学時代にニーチェを読む。高校時代に青春18きっぷで、全県を旅行し、大学は筑波大学に進学した。そして、研究者へ――。(こういったある程度の成功を収めた人のほとんどが小さいときから何かしらの哲学書を読んでいたといったケースが多いように思える。後悔しても意味がないのは判るが、私はなぜもっとあらゆる本を読んでこなかったのかと嘆かざるを得ない。)

 

 落合氏の紹介はここで留めておく。次は本書について、だ。

 

 2018年7月に衆議院議員(現在、環境大臣)の小泉進次郎氏と落合陽一氏の共同企画で開催された「平成最後の夏期講習(社会科編)――人生100年時代の社会保障とPoliTech」というニコニコ動画の生放送番組があったそうで、それをもとに本書は作成されている。

 

 詳しくは以下から。

 https://www.facebook.com/heiseisummerclass/

 

 

 この「平成最後の夏期講習」は「スポーツ・健康」「教育・コミュニケーション」「高齢者」「財政」「子ども」「働き方」と、各テーブルに分かれてあらゆるジャンルの最先端で活躍する方々を招聘し、公共政策と社会問題、それへのアプローチなどを議論したものになっている。この議論は「これはダメ」といった批判する不毛なものではなく、「こういう解決方法がある」という前向きな姿勢で行われた。

 

 本題に入る前に、「PoliTech」とは何か、ということを説明する。

 これは「政治」を意味する「Politics」と「技術」を意味する「Technology」を掛け合わせた単語で、これは今の日本が抱えているさまざまな課題を乗り越え、この社会を新しいステージに導くための重要なキーとなっている。

 「政治」と「技術(テクノロジー)」の親和性は日本においてかなり低い。これはIT大臣の竹本直一大臣がはんこ議員連盟会長であり、はんこのデジタル化という訳の判らないことを発言していることや、サイバーセキュリティ―戦略本部の担当大臣である桜田義孝大臣が「これまでPCを自分で使ったことがない」と発言したこと(USBを知らないとか)から、なんとなく理解できるだろう。まあ、お二方はご高齢なのでそういった機器に詳しくないのも判らないでもない。むしろ、お二方がこれまでの人生で日本の伝統的な文化を尊重し、コンピューターとは無縁の生活をしてきたとすると、IT大臣とかサイバーセキュリティ―戦略本部とか意味不明な役職に就いてしまったのが可哀そうではある。

 でも、まあ可哀そうとか言っている暇はないのだが。

 

 小泉氏は国会の本会議でPCを持ちこむのは禁止されていて、委員会でも認められていないと言っていた。議論に必要な調べ物をするために会議中にスマートフォンを触っているだけでも嫌な顔をされるそうだ。国際会議でPCを用いて議論をするのはもはや当たり前だというのに、日本はこんな旧式な考え方をいまだに持っている。このことからいかに日本の政治が「技術」と乖離してしまっているか理解できる。

 

 土地改良でもそうで、アメリカなどでは事前にIoTシステムを使って土地を調査し、最も付加価値が高くなる場所を選定して工事を行うような取り組みがすでになされている。対し、日本の公共的なインフラ政策は、利権に関わる関係者間の利害調整によって決まるケースが多い(談合とかね。余談だけど池井戸潤の『鉄の骨』とかはそういった内部事情が緻密に書かれていてなかなか面白い)。

 

 また、ウーバー・テクノロジーが提供するタクシーの配車アプリのUber

 

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、需要が急増したUber Eatsとはまた別のサービスだ。UberUber Eatsも運営しているのは同じウーバー・テクノロジーズだが、前者が自動車配車サービスであり、後者はオンラインフードデリバリーサービスである。

 中国で「滴滴出行」という中国版Uberが中国本土で勢力を拡大し、本家のUberが展開していたUber Chinaを買収するといった現象が起きていた。ちなみに日本ではUberを白タク行為(自家用車でタクシー業務を営むこと)だとして原則禁止とした。(この規制を緩和しつつあるが、タクシー業界からの反発もあるそうで……)

 立教大学ビジネススクール(大学院ビジネスデザイン研究科)教授の田中道昭氏は「ウーバーの企業は7兆円といわれている。その価値は『ビッグデータ×AI企業』という点にある」と言っている。

 日本は旧来的な法規制や古い業界の慣習がいまだに根強く残っていて、新興企業が革新的なサービスを広めたり、新たなテクノロジーを社会に実装する機会が生まれづらい状況にある。中国では(管理体制には賛否あるが)、政府による強力な支援のもと、最新技術の開発への投資がさかんに行われているが、日本は巨額な債務を抱える政府と既得権益に執着する企業に阻まれ、未来への投資ができていない状況にある。

 

 以上のことから「Poli(政府)」と「Tech(技術)」の融合がいかに喫緊の問題であるか理解いただけたのではないか?

 この「ポリテック」をベースに日本の抱える問題について考えていく、本書はそういった構成になっている。

 

 

 

1.テクノロジーと日本の課題を探る

 

 

【6つのテクノロジー・ジャンル】

 

 AI(人工知能)、自動運転、ブロックチェーン、AR(拡張現実)、VR(仮想現実)、5Gなど、近年、さまざまなテクノロジーが注目を集めている。これからの日本はこういったテクノロジーを駆使して成長して行かなければならない。

 だが、まず現在のテクノロジーを取り巻く状況を理解するために、1960年代以降のコンピューターの進化を「通信」「無線」「装置」「母艦(サーバー)」「表層」「知能」の6つのジャンルに分けて、それぞれの潮流を見る。

 

・通信インフラ

①ダイヤルアップ(電話の音声と同じ周波数帯でデータを送信)

ADSL(アナログ電話回線にデジタル信号を多重化して乗せる)

※通信速度が100~1000倍に

光回線光ファイバーケーブルを使用してレーザー光で通信)

※通信速度はさらに100~1000倍に

 

・無線通信

①3G(2000年代) 

②4G(2010年代) 

※5G(2020年に運用予定。通信速度の向上)

 

・ハードウェア(装置)

メインフレーム(1960年代、企業や大学などの基幹業務で使用)

②パソコン(1980年代以降、小型化・低価格化)

スマートフォン(2000年代、パソコン機能の代替)

④IoT(エッジデバイス/モノにネットワーク接続)

※IoT…Google Home、Alexa(スマートスピーカー)、Philips Hue(スマートLED照明)、Apple Watch(スマートウォッチ)など

 

・ハードウェア(サーバー)

①ネットワーク上(2000年代、様々なツールのバックグラウンドとして機能)

クラウド(負荷管理を秘匿化、その機能の一部をユーザーに提供する)

 

・表層

CUI(キャラクター・ユーザー・インターフェース)(文字列によるコマンド入力)

GUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)(マウスで画面内を操作)

③Web(2000年代)

④アプリ(スマートフォンの普及に伴う)

⑤エッジデバイス(センサー付き配送車・SuicaICOCA対応の自動販売機)

 

・知能(コンピューター/AI)

①コンピューターは人間が提示した条件に従って判断を下す

機械学習の登場で、人間が目的を提示すれば自動で判断基準を見出すようになる。

※今後、人間が不可能な認識と判断

 

 やや見にくい書き方をしてしまったが、丸つきの数字の順で各々のジャンルにおける潮流を示した。以上のようにテクノロジーは変遷を経ている。そのことを踏まえ、次に進む。

 

限界費用のゼロ化】

 

 

 こういったテクノロジーの進化は、あるひとつの共通の指向性を導き出す。それは「限界費用ゼロ化」である。「限界費用」とは、財やサービスをある生産量から一単位多く生産するときに伴う、追加的な費用のことだ。つまり、すでに開発や製作を終えているプロダクトやコンテンツを量産するときにかかる費用のことだ。

 2000年代以降に急成長した事業の多くは、こうした限界費用を減らすことに成功しているが、この「限界費用」をゼロ化することがこれからかなめとなってくる。

 その限界費用の抑制方法についてだが、これは本書では「仕事のAI化」「事業のプラットフォーム化」「インフラの再活用」の3つの観点から述べられている。

 

・仕事のAI化

 人間とほぼ変わらない水準の技術でイラストに着色できるAIが存在する。このAIには人件費も追加費用も必要ない。必要なのはわずかな電気代のみだ。このような人間の労働を代替するAIによって限界費用のゼロ化の実現が可能になってくる。

 ただ、問題はAIが安定したパフォーマンスを発揮するまでに一定の学習コストがかかるということだ。しかし、落合氏は将来的に特定の個人の仕事を代替することに特化したパーソナルAIが普及することを予想し、その活躍を望んでいる。

 

・事業のプラットフォーム化

 そもそもプラットフォームとはIT用語で、ある機器やソフトウェアを動作させるのに必要な、基盤となる装置やソフトウェアサービス、あるいは動作環境のことを指す。「事業のプラットフォーム化」とは、つまり「場」をつくるということだ。たとえば、Appleが最初に発売したiPodは、CDから音楽を取り込んで聴くための機械だったが、そこにiTunes Store、AppStoreというプラットフォームが追加されたことで、音楽をDLして聴けるようになった。iPod(ハードウェア)とコンテンツ配信(プラットフォーム)がセットになって、収益が上がるシステムだ。

 このようにプラットフォーム化を促進していくことは、顧客の囲い込みのみならず、家賃や人件費などのコストも削減される。その最たる例が、Amazonで、実店舗もなければ、販売員もいないのに、世界中から買い物ができる。

 ほかにもYouTubeInstagramといったプラットフォームも、ユーザーが投稿するコンテンツによって巨大なエンターテインメントサービスとなっているが、企業(YouTubeの場合はGoogleInstagramの場合はFacebook)は場の維持と管理のみで、コンテンツ自体は何も作り出していない。プラットフォーム事業を展開する企業は業績を伸ばしているし、何よりも限界費用のゼロ化が極限まで推し進められている。

 

・インフラの再活用

 ビデオ通話サービスで知られるSkypeという通話に費用がかからないサービスがあるが、このように無料で提供できているのは、通信網や施設を自前で管理する必要がないからなのだ。インターネットにただ乗り(P2P)しているSkypeは、通信事業に欠かせないネットワークのコストをゼロ化している。

 別にこれはインターネットサービスに限ったことではなく、電気、水道、ガスといったインフラにも活用できる。そういったインフラの上でソフトウェア的に新しいサービスをはじめれば、インフラのコストを負担しない分、限界費用の小さい事業になる可能性がある。

 

限界費用のゼロ化」の根底にあるのは、初期投資を可能な限り抑制し、人間の介在を減らすことで人件費削減を行うといったシンプルな発想だ。コスト削減、コスト削減と叫ばれている昨今、このようなシンプルなアイデアを実行に移せていないのが、今の日本だそうだ。

 YouTubeがメールアドレスだけでアカウントを開設できるのに対し、銀行口座の開設には窓口で印を押し、人件費、移動費、紙代とあらゆる部分で余分な追加費用と、時間がかかっている。

 

 これから日本は深刻な「少子高齢化社会」になっていき、労働人口が減少していくというのに、労働の効率化や人件費の削減を行っていかないでどうするという嘆きが落合氏の文章から滲み出ていた。

 

【未来の投資ができていない日本】

 

 

(「お金はあるのに、未来に投資できていないのはなぜ?」という章をまとめていきたいが、実は本書は落合氏のみが筆を執ったものとなっているのではなく、あらゆる著名人たちも手掛けている。ちなみにこの章は、ヤフー株式会社CSO安宅和人氏によるものだ。)

 

 日本にはお金がないというふうな言説を時折目にするが、実はそうではない。

 日本の一般会計予算と社会保険、その運用益を合わせると、170兆円規模になり、これより大きい規模感の国は、基本的にアメリカと中国しかない。しかし、それほどの予算規模であっても、未来への投資の割合が非常に少ないという問題がある。

 日本のドルベースの名目GDPは高いが、一人当たりの生産性は著しく低い(具体的なデータは本書に載っているが、いささか現在と異なるため、数値の発表はここでは控える)。

「機械・電気・情報通信機器」「輸送用機械」「建設」「専門・科学技術・業務支援サービス」「金融・保険」「運輸・郵便」といったフラッグシップ産業、「小売り」「情報・通信」「農林水産」など、すべて他国に比べて生産性が低いというのが今の日本の情況だ(裏を返せば、伸びしろがある)。

 それなのに、最低賃金が低い。フルタイムワーカーと最低賃金の肩との賃金格差も大きく、「弱者を酷使」することで経済は回っているという悲惨な状態なのだ。

 さらに、国力に見合ったR&D投資(Research and Development:企業などの研究開発部門活動への投資のこと)もできていない。2017年のデータで申し訳ないが、中国と約4倍、アメリカと約5倍の差がついている。

 さらに、さらに、主要国の中で唯一Ph.D(Doctor of Philosophy:博士水準の学位)取得にお金がかかる国でもある。結果、博士合取得者数は減少するという実態。

 さらに、さらに、さらに日本では大学教員に払っているお金も少なく、給与水準が数十年間変わっていない。(ちなみに理系・文系関係なく、大学教授の給与はだいたい同じらしい。確かにそれは問題がありそうだ。かといって、文系の教授を批判する気はない。2016年、京都大学法科大学院教授、高山佳奈子氏は自身のブログで年収940万円であることを吐露したことが耳目を集めたように。※余談だが、それに対し、堀江貴文氏はTwitterで「給料に不満があるなら大学教授を辞めて、事業を起こせば良い。お金は他人の役に立った対価として支払われるものだから」と持論を展開したことで物議を醸した。好きなことを研究して金を得ているからいいじゃん、みたいな意見がありそうだが、教授だってそれなりの苦労を重ねてきたわけだから、相応の給与を与えるべきだろうと私は思う。)

 

 では、なぜ日本はこのように未来への投資ができていないのか。そこにはある問題が聳え立っていた。

 

・人材開発・R&Dを含む普通の国家予算に使える「真水」が少ない

 3分の1は社会保障費の補填、4分の1が国債費、そこからさらに地方交付税に引かれるため、「真水」として残るのは約4分の1である約26兆円(※現在のデータとは少々異なる)だ。国防費5兆円(アメリカは約69兆円、中国は約26兆円)を差し引くと約21兆円。ちなみに社会保障費の内訳は、年金が60兆円弱、医療費が40兆円弱あり、医療費の3分の2近くはシニア層に使われている。さらに一般会計予算は年々増えてきているが、その増分は社会保障費の補填分と国債費にあてている。

 

 安宅氏は「今こそ、国全体を家族として捉え、あるべき姿を見直すべきタイミングではないか」と述べている。そのためには、世代間の投入費用のリバランスが必須となるそうだ。現在、国家功労者であるが引退層である65歳以上と過去のシニア層に100兆円以上が割かれていて、中年層、若年層に十分なお金が回っていないことを指摘している。

 また、「地方に対するリソース投下の問題も大きい」と述べている。基礎自治体の予算を見ると、地方の県庁所在地で1人あたり40~50万円程度のお金が使われているが、これは東京都目黒区のそれにくらべ10万円以上高い。さらに、公費投入に関して、もはやベーシックインカム級であり、この出費の多くがインフラコストである。これをどうにか逓減していかなければ、サステイナブル(持続可能)な未来を創造することはできない。都市集中型は『ブレードランナー』で描かれたディストピアをもたらすかもしれない、と安宅氏は危惧している。あるべき日本の姿をこれから考えていく。

 

2.「働く」ことへの価値観を変えよう

 

 

 そもそもだが、終身雇用・年功序列は半世紀ほどの歴史しかない。

 昭和期にはいって第一次産業から、工業化が進んでいき、それに伴って、企業に勤める従業員(技術を持つ熟練工)への昇給やら福利厚生やらを提供するようになった。戦後に入って、この傾向は進み、やがて高度経済成長にて若い労働力が求められ、多くの企業が長期雇用を前提とした雇用形態をとるようになったのだ。工業を基盤にしていた社会は、労働者が一致団結して生産の効率化とコストの最小化を目指し、出世競争して、とにかく切磋琢磨し、生産性を上げようとする会社にとっても個人にとっても最適解な働き方が主流だった。

 しかし、今は工業社会ではなく情報社会だ。

 世界の時価総額ランキングにはAmazonやらAppleGoogleFacebookなどのGAFAなどの「インターネット関連」の企業が上位を独占している。「NTT」や「日本興業銀行」「住友銀行」などの日本の企業がTOP3を君臨していた時代はもう過去の栄光なのだ。こうなってしまった以上、以前のような「働き方」では個人にとっても会社にとっても「マイナス」でしかないのだ。

 

限界費用ゼロ化】

 

 

 インターネット産業では、パソコンやスマホで、データやアプリを一単位多く生産するときにかかる追加的な費用は実質ゼロだ。初期投資こそコストはかかるが、それ以降は無限にコピーできる。つまり、原材料費、人件費は不要ということは、限界費用はかなり抑えられることを意味する。生産手段の民主化が進む。生産者と消費者の境界があいまいになる。

 ビジネスモデルが変化するのだ。かつての「大量生産」とは違う、YouTubeSNSなどのプラットフォーム型のビジネスへ。これはコンテンツ業界に限らず、さまざまな業界でも利用されることになるだろう。

 

【インフラ縮小社会】

 

 

 コロナ禍でリモートワークという単語が世の中に浸透した。

 正直、毎日オフィスに出勤して仕事をするのが当たり前だったのは20世紀までのはなしで、今日ではビデオ通話サービスSkypeや、チャットツールのSlackなどで、自宅やカフェを拠点に働くようになってもいいのではないかという提言だ(実際にそういった働き方をしているひともいるそうで)。

 インフラが後退した地域については、ネットワークインフラさえ確保できれば、何不自由なく仕事ができる環境が整いつつあるのだ。将来的には「テレイグジスタンス」(VRの一種。遠隔地の人・モノについて、近くにあるような感覚で、操作などをリアルタイムに行う環境を構築する技術・体系)、「テレプレゼンス」(遠隔地にいる人と、その場で対面しているかのような臨場感を提供する技術)といった技術の発展で、移動に関わるコストの削減が見込まれている。

(最近話題になっている堀江貴文『東京改造計画』には、満員電車を減らす施策として、オフィスに通わなければならない職種の人は電車を利用し、リモートワークできる人(会議が午後にあるなら、午後からオフィスに通う)は電車を利用しないといった「柔軟な働き方」を推進していた。これはそのものずばり「時差出勤」であるわけだが。堀江氏は知事の要請では「時差出勤」は実現できないだろうから、混み合う時間帯だけ運賃を高くするという提言をしている。私はう~んと考える。う~ん)

 

【テクノロジーによる「ダイバーシティの実現」】

 

 

 ダイバーシティ、つまり多様性。

 性別・人種・年齢・障がいまでを含めた、幅広い人間の在り方を受け入れるという意味。

 あらゆるハンディキャップを補うためにテクノロジーをどんどん利用していくという考え方だ。

 先進的な例として、分身ロボット「Orihime」というものがある。

 以下の動画を見て欲しい。

www.youtube.com

 

 身体が不自由な難病患者や不登校児でも、病院や自宅にいながら身体感覚を伴ったコミュニケーションがとれるようになるという。こういったテクノロジーを積極的に用いていくことは、社会の多様性を認めていくことにつながっていく。テクノフォビア(コンピューターなどの最新の科学技術に対する拒絶反応)とかいっている場合ではなく、テクノロジーは人間を殲滅する敵ではなく、我々にあらゆる恩恵を与えてくれる存在であり、畏敬の念を示すべき対象であることを私個人の意見と述べておく。

(「Orihime eye」……すごいなぁ。本書にはALS(筋萎縮性側索硬化症:身体の運動機能が徐々に失われていく難病)を発症した武藤正胤さんのコラムも掲載されている。この方はALSやその他難病患者、その家族、非患者のQOLの向上に貢献するコンテンツ開発・支援活動に取り組んでいる。武藤氏もまたOrihimeを利用して、都内に居ながら地方で講演をしたりしている。ほかにもメガネ型デバイスJINS MEME」と呼ばれるテクノロジーで、眼球だけの動きでVJ(ビデオジョッキー)/DJとしての表現活動を行っている。)

 

【「AI+BI」的な働き方と「AI+VC」的な働き方】

 

 

 新しいテクノロジーが進展することで、労働環境は「AI+BI(ベーシックインカム)」的な働き方と、「AI+VC(ベンチャーキャピタル)」的な働き方に二分されることになると落合氏は予見している。

 

 AI+BIベーシックインカム(再分配機能)が実現した社会では、多くの人々がAIにより人機一体となったシステムの指示に従い、短時間の簡単な労働を営みながら生活することになると予想される。(Uber Eatsとpokemonngoは本質的には同じで、Uber Eatsにおける労働はゲームに似ている。シェア化されることも勘案すると、大きなコストダウンが予想される。)

 

 AI+VC:社会を発展させるためのイノベーションに取り組む働き方。固定化された給与ではなく、投資に対するリターンに近い形で報酬を手にすることになる。フリーランスとか事業がそれに近いかたち。市場への最適化を常に意識しながら、リスクとそれに見合ったリターンを得るべく、日々ハードワークを続けることになる。

 

 これからの働き方について考えるとき、大きな指針になるのは以下の経済学の基本にのっとった原則だ。

 

 組織の論理にとらわれずに、コストを最小化し利潤が最大化されるよう、個人の判断で動き回るべし。

 

 従来の「みんないっしょに同じ場所へ」という意識がそこにはないことが判る。これからは「個」が輝く時代なのだ。

 

3.超高齢社会をテクノロジーで解決する

 

 

 日本の交通事故死者数は年々減少している。しかし、75歳以上による死亡事故は減少しておらず、死亡事故割合は増加しているのだという。また、75歳以上の運転免許返納数は急増こそすれ、まだ5%程度だ。(実証的なデータは本書に掲載されているが、ここでは例によって割愛する。)

 

 よくSNS上で高齢ドライバーの事故の報道が流れるたびに「老〇」(言えません)などと罵詈雑言が飛び交うのだが、実際問題、地方在住で自動車がないと生活できない環境に住むひとたちは免許を返納しては困ると思っているかと思われる。事実、インフラが発達している地域に住んでいる高齢者の免許の保持率は比較的低い。

 

 落合氏はこの問題に対し、「ドライバー監視技術」「自動運転技術」「コンパクトシティ化」の3つの提言をしている。

 

【ドライバー監視技術】

 

 高齢者が自動車事故を起こす直接的な要因は、高齢者の身体的・認知的能力の低下にあるので、そのドライバーの状態を常にチェックするシステムを導入しろというものだ。

 株式会社デンソーが提供する「ドライバーステータスモニター」というものがあり、これはドライバーの顔を常時カメラで撮影して、画像解析によってドライバーの状態を検出するというのだ。運転中の不注意やわき見、居眠りなどを検知することで注意喚起へとつなげていく。

 

・自動運転技術 

 自動運転はレベル0からレベル5まである。

 レベル0はドライバーがすべて運転タスクを実施するというものだ。

 レベル1はシステムがステアリング操作(ハンドル操作)、加減速(いわゆるACC)のどちらかをサポートするものだ。運転支援技術であり、自動運転ではない。

 レベル2はシステムがステアリング操作と加減速のどちらもサポートするものである。

 レベル3は高速道路などの特定の場所に限り、交通状況を認知して、自動運転に切り替わる(運転に関わる操作のみ)というものである。緊急時のみドライバーが対応する。

 レベル4は高速道路などの特定の場所に限り、交通状況を認知して、自動運転に切り替わる(運転に関わる操作のみ)というものである。また、緊急時もシステムが対応するといったものである。

 レベル5は場所の限定なくシステムがすべて操作するといったものである。

 

 現在、自動運転は「レベル3」である。内閣府は2018年「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)自動走行システム研究開発計画」を発表し、2020年をめどにレベル3の市場化を目指すと言っているが……どうだ?

 

コンパクトシティ化】

 

 人々が暮らす都市そのものを、自動車が不要な形態に変えるというアプローチだ。

 そもそも生活圏が広範囲に及ぶ社会は、インフラの維持にコストがかかる。人口減少社会の到来が予想されるからこそ、コンパクトシティという考え方が享受されるべきなのではないかと思う。緑も増えていいじゃん、と愚考する。

 

4.孤立化した子育てから脱却するために

 

 

「子育ては親の責任」という価値観が、親たちを追い詰めている。

 そもそも、子育てに必要な能力やリソースは多岐に渡る。対症療法的な金銭給付だけでは根本的な問題解決には至らない。社会全体が支援を進めていくべき問題なのだ。

(母子世帯の貧困は社会のひずみの縮図だと本書にはあるが、それが見事なまでにチャート化されていたのでPowerPointで作成してみた。) 

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  アノミーという言葉がある。amazarashiの曲にもある。意味は「社会の中での排他性が強まり、帰属性が消失すること」であるが、社会学者・宮台真司氏は「高度成長経済による地域や会社といった共同体の空洞化」の中で「どうしていいのかわからない状態」を、「アノミー状態」と表現した。

 落合氏はこれをヒントに、現代における子育ての現況を「アノミー」だと述べている。社会と個人の距離が遠くなることで、子育てがしにくくなってしまっているのだ。

 このアノミー状態を促進させたのは、核家族化だ(クレヨンしんちゃんの家族)。サザエさんちびまる子ちゃんで見られる拡大家族はもはや普通ではない。

 若年層がこぞって都市へ進出したことでこのような核家族化が進んだわけである。社会が分断され、子育てのサポートが希薄になった。そういう背景がある。

 

 解決策は2つあると落合氏は言う。

 一つ目は手が空いている人材に子どもの面倒を見てもらうこと(ベビーシッターのマッチングアプリ「キッズライン」の活用など。C2Cサービスの恩恵を享ける。※消費者と消費者の取引のこと。UberAirbnbもこれに該当する。)であり、二つ目は隣人たちと共同で子育てに携われる地域コミュニティを再構築することである。二つ目に関して、これは勤労世代が高齢者を支えるという一般的な考え方ではなく、高齢者が勤労世代を支えるという逆転的な発想に基づくものである。

 

 そもそも、子育てで一番大変な時期は子どもが「1歳から6歳まで」、つまり未就学児の期間である。この問題で見落とされがちなのが、時間とコストのトレードオフ(複数の条件を同時に満たすことのできないような関係)がしっかりしていないことだ。

 子育てに時間がかかるのに、育てる親はまだ若い。親としては、子育てに6年間も時間を費やすことがベストなのかどうかを考えざるを得ないわけだ。

 もう一つ、費用の問題では若い夫婦の世帯は所得が少ない。さらに日本の賃金制度は、子どもの教育費が一番かかる大学入学の時期に給料が高くなるように設定されているとはいえ、未就学児の期間こそ「子育て」で一番難な部分だけに……といった感じだ。

 とにかく、初めの方に書いたように、子育てに対して、行政・企業といった社会からの支援をしっかりとしてあげるべきなのである。また、アウトリーチ(地域住民の困りごとを拾い上げ、関心を高めてもらう活動)の拡大で相互扶助的な地域コミュニティの形成を目指していくことがこれから求められるのである。

 

(参考)子どもの学習費総額

公立幼稚園 234,000円。

公立小学校 322,000円。

公立中学校 479,000千円。

公立高等学校(全日制) 451,000千円

 

私立幼稚園 482,000円

私立小学校 1528,000円

私立中学校 1327,000円

私立高等学校(全日制)1040,000円

 

(参照)メイナー・ラボ事業について

 テキサス州メイナー市で行われている事業で、市民の地域貢献への礼金として地域通貨「イノバック」を発行し、市民にインセンティブ(刺激)を与えて自主的な公共課題解決を推進するユニークな取り組み。ボランティア精神に頼るのではなく、個々人の貢献度を可視化し、貢献度に応じたコミュニティコインを付与すると言った報酬体系の整備もこれから必要になる。

 ……とか言うと、ボランティア精神の尊さを語る者が現れたり、地域貢献の中にお金を介在させることを病的に嫌がる者が現れる。……人それぞれの価値観だから、突っ込んだことは言えないが、無償の貢献(労働にしても)が素晴らしいものだというのは、人件費をかけずにいいように働くことを正当化するための美辞麗句のように思えてならない。

 

5.今の教育は、生きていくために大事なことを教えているか?

 

 

 詰め込み教育から、アクティブラーニング系の教育(前に「絵に描いた餅」とか書いていたが、重要であるのは間違いないから)への転換をすべきというのが、実際のところだろうし、ブログでもそう書いてきた。(以下のブログ参照)

 

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

 落合氏の教育観は、今までブログで書いてきたことと異なる意見かもしれないが、私自身の考え方としてもけっこうコミットしたことなので、今から紹介する。

 結論から述べると、いままでの「詰め込み教育」は場合によっては必要で、その場合というのが、小学校の低学年で教えられる九九やPISAで測られる基礎的な読み書き、計算のスキルなどは従来の方法にのっとって行えばいいということだ。それに、急に「では、アクティブラーニングをしましょう」とか言われても、現場が混乱するので、少しずつ変えていくのがベストだ。(そうだ。高校では学習指導要領が2022年に刷新されるが、従来のものとまったく異なりすぎているのが問題だ。段階というものがあるだろう)

 その従来の「詰め込み教育」プラスとして、落合氏の言葉で「Ph.D的な教育」が必須になると。それは過去に事例のない問題を自ら設定し、その解決を考えていくようなスタイルだ。ようは、「自分は今何を学ばなければならないのか」を考える、自ら学びに向かう力が重要になってくると言いたいそうなので、これは言ってしまえば「問題解決能力」を育成する、大きな意味での「主体的・対話的な学び」であり、何度も言うようだが「アクティブラーニング」だ。

 さて、「詰め込み教育」と「Ph.D的な教育」の併存方法についてだが、落合氏はこう提言している。

 

 現状でベストなのは、大学入試が終わった瞬間に、それまでやってきた勉強についての価値観をすべて忘れてしまうことです。つまり「学び方」のアンラーニングが必要になる。(中略)与えられてきた問題の答えを導き出せばよかった大学入試までの勉強のスタイルは、すべて間違いだったとアナウンスすることが最善ではないかと思うのです。

 

 おやおや、なかなか、賛否のありそうな対策療法ではないか。

 なるほど、アンラーニングを経ることで、「あらゆる前提は偽の可能性がある」という、懐疑的な思考に基づいたマインドセットを身につけることができるらしい。高等教育まで得てきた凝り固まった思考法を柔軟に解すことが大学では求められている。

 

 じゃあ、高校までの教育の意味は何だよって思ってしまう。

 

 でも、落合氏に文句を言っても意味がない。

 なぜなら、高校までの教育が実際そういった「詰め込み」要素が未だ根強いから。

この状況下で、提言できる対策はなんとかしてその中に「Ph.D的な教育」を滑りこませていくかということと、大学というオープンな教育機関で高等教育で身についてしまった硬化した思考法をほぐしてやれるか(しりぬぐいだ)ということくらいなのだろう。

 

 こんなことを書いていたら、実際にアクティブラーニングなどのオープンな授業を展開している先生たちに怒られそうだ。もちろん、そういった脱詰め込み教育を掲げている人もいる。だが、従来の「詰め込み」のままでいいやと思っている人もいるのも事実だ。前にも述べたが、徐々に徐々に「詰め込み」から「主体的な学習」へ転換させていくべきなのだろう。黒から白ではなく、黒から黒っぽい灰色、白っぽい灰色、それから白といったグラデーション的な変化が求められる。

(落合氏の教育観について、『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書』にぎっしり書かれているので、それをいつかブログで書くつもりなので、その日にまた)

 

 いろいろ書いてきたが、落合氏はいわゆるエリート(東大に落ちても、筑波大に受かっているしな)なので、「大学」とか「大学院」の話をして、教育を語っている。高卒の人は視野に入っていないようだ。そこが残念というか、まあ仕方ないのかというのが私の複雑な胸の裡の情況なのです……。

 

6.本当に、日本の財源は足りていないのか

 

 

 1000兆円を超える巨額の債務に加えて、年々、社会保障費が増大していることから、財務省や一部のエコノミストは、財政規律の引き締めによる健全化を強く訴えている。ほかにも消費税引き上げや年金問題……日本にはびこる財政問題に対する懸案は尽きない。

 その懸案の最たるものが「社会の高齢化に伴う社会保障費の増大」だ。

日本が老人に食い潰されるシナリオ。

 だが、実際、将来の社会保障給付費は対GDP比で見ると、「社会保障費が際限なく膨張して制度が崩壊する」という俗論は間違いだと判るそうだ。そう、今後の社会保障費は、国民が負担できないほどに増えるわけではないということだ。

 では、これから社会保障費はどのように変化するのか?

 

・今後の負担増は、実は2000年代よりマイルド

 これまたグラフの方は割愛するが、社会保障給付費の対GDP比は2000年度から2010年度にかけて急増しているが、そこからはなだらかな増大を見せている。未来予測として、2040年度では2018年の2%ほどしか上がっていない。『FACTFULNESS』ではないが、数値とイメージは異なるものなのだ。

 ということで、2015年以降の15年間で増大する2~3ポイント程度の負担を、労働力の拡充やテクノロジーの配備でいかに担うか、ここが解決できれば、少なくとも現状維持は可能だ。

 

 社会保障の内訳は「年金」「医療」「介護」「子ども・子育て」であるが、グラフは以下の通りだ。

 

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 介護や子育てはさほど多くないことから判るように、これを何とかしなければならない。どうすればいいか? 年金は減少傾向にあるので、問題なのは「医療」にかけるコストの削減(もちろん、人件費とかではない。テクノロジーを駆使していくのだ)、介護におけるコストの削減(こちらも前と同じ)だ。そのための施策を考えていくべきである。

 

 といっても、マクロな視点で見ると、テクノロジーの利用はメリットばかりではないようだ。これまで人間が担ってきた業務が機械に代替されることで、所得税の税収は減少し、さらに企業から得た給与で消費に発生する経済的な循環が停滞すれば、社会全体がデフレへと突き進む可能性があるのだ。企業単体の業績が向上しても、法人からの税収にそれがそのまま反映されるかどうかは未知数だ。

 そのための対策としては、政府系投資機関を通じて、国と企業がイノベーションの成果を分け合うという発想だ。テクノロジーによる省人化・自動化に成功した企業は、市場で優位を確保し株価が上昇する。政府系投資機関がそこに投資し利益を得ることで、税収とは別の財源を確保できる。

 すでに、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)をはじめ、政府系投資機関が多くの国内企業の株式を保有しているが、今後は投資先の選定についても、将来を見据えたより高度な判断が必要になるだろう、と落合氏は述べている。

 

 高齢社会が進む日本は、同じ状況のデンマークに学んだ方がよいとも述べられている。デンマークは高齢社会が進んでいるのにGDPは上がり続けているのだという。その理由は、産業構造の転換と行政の効率化だ。また、テクノロジーを活用した政府運営の効率化も進んでいる。また、自治体が公開したビッグデータを民間企業が活用するなど、官民一体となった取り組みが行われているほか、医療分野では個人の通院履歴を集めたデータベースが完備されているなど、電子化が幅広く展開されている。

 

 まさに「ポリ」と「テック」の融合、「ポリテック」の実現……これが今後のテーマになっていくのだろう。

 

7.人生100年時代の「スポーツ」の役割とは?

 

 

 日本人のWell-being(幸福と健康)の度合いはかなり低い。幸福と健康を向上させるためには、さまざまな改善が要される。

 そもそも、スポーツには「ストレスの解消」「コミュニティの形成」「予防医学的効果」などの効用が認められている。人生100年時代に健康を保持増進させるために、スポーツは不可欠になる。しかし、日本における年代別のスポーツの習慣を見てみると、日々の忙しさからか、30代や40代になると運動から遠ざかる傾向があるようだ。なかには、運動をしたいのにできないという方もいる。

 ここでも海外と比較していく必要があるだろう。何かしら日本はあらゆる創造を他国から倣うことで成長してきた。今、依怙地になって自国のルールを展開しても意味がない。

 ヨーロッパではスポーツが普及している。施策に関して、政府が主導している。一例をあげると、それは「公共施設の拡充」である。

 特に先進的なのはドイツで、日本における「部活動」はなく、その代わりスポーツクラブにおける活動が盛んにおこなわれている。(日本の教員の仕事がブラックと呼ばれるゆえんのひとつである「部活」、指導者を雇うとかスポーツが好きな子たちはスポーツクラブに通うといった思い切ったことをしない限り、この問題は解決できないだろう。まあ、現時点での解決策は、部活に携わりたい先生は携わるってスタンスか。でも、それで全然手を挙げなかったらどうする? →人員不足。)

 さて、以上のことから「運動できる時間がない」という問題をいかに解決するか。所属する組織が運動・スポーツのための時間を強制的に確保することだろう。つまり、運動の習慣を制度として生活の中に組み込むのだ。福利厚生の一環としてフィットネスクラブと契約したり、もっと企業がスポーツ系のサークルづくりを推奨したりとか、そういった動きを見せていくことが求められる。

 

 また、海外には運動できる場が多くある。対して、日本は「ボールを使ってはいけない公園」など、運動を規制する公園がありすぎだ。

この「運動できる場」が少ないという問題は、実はテクノロジーで解決できる。VR・AR技術によって。これらの技術によって、空間を効率よく活用ができれば、ビルの一室でも、広い体育館で身体を動かすのと同じくらいの運動力と開放感を得ることができるかもしれないのだ。

 (「Oculus Quest」(Oculus VR)というものがあるそうで。これはなかなか運動にいい。ゲーム×運動の先駆者は任天堂Wiiだと思うが。)

 

8.まとめ

 

 

「平成最後の夏期講習」では次のようなステップで考えを深めていったそうだ。

 

・今までの問題を共有

・未来にあるべき姿のために、どういう方向に向かうべきなんだろう?

・そうするには、一体どういうアクションプランがあるんだろう?

・そのアクションプランを実行するために、今ある問題は何か?

 

 このステップで思考を深めるためのシートは次の通りだ。

 

・今までその分野にどんな課題があったのか

・今後はどんな問題が出てくるのか

・何をどうしたらいいのか(問題解決の指針)

・政策的(ポリ)に解決するにはどうしたらいいか

・技術的(テック)に解決するにはどうしたらいいか

・未来に、どうなっていてほしいのか

 

 やはり、課題や問題はいくらでも見つけ出すことができるし、批判をすることだってできる。だから、SNS上には批評家のように何でもかんでも批判をする人が大量発生している。批判自体が悪いことではないのだが、「批判している自分に」陶酔している輩が一定層いることに、私は眉を顰めている。

 以上のフレームワークでいうところの「今までその分野にどんな課題があったのか」という部分しかできていない。それをしたら、以下の「今後はどんな問題が出てくるのか」から「未来に、どうなっていてほしいのか」というところまで考えるべきなのだろう。もし、その問題が自分にとってかなり深刻なものだと感じているのなら。

 

 私はテクノフォビアを示す人間で、よく「AI」とか「VR」とかそういった最先端のテクノロジーが開発される度に、「人間らしい社会から遠のいていく」とか何とか訳知り顔で指摘していたが、今思えば、具体的な根拠もなく、世間的なイメージやアニメ・漫画の影響で、さも自分にとって重要な問題だと言わんばかりに表層的な懸念を浮かべていたにすぎなかった。

 私はもうテクノフォビアを卒業する。

 これからあらゆる問題に立ち向かうとき、そこに「テク」による手助けが必要になることがあるだろうから。