村上春樹『スプートニクの恋人』

 私は村上春樹の小説を面白いと感じる人間だ。

 だが、小説の内容をしっかり理解しているのかと尋ねられれば、口ごもってしまう。

 そもそも、私は「ファンタジー寄りの純文学」がけっこう好きで、それこそ安部公房(『壁』とか『バベルの塔の狸』)とか芥川龍之介(『河童』とか『杜子春』とか)とかね。

 そういったファンタジー寄りの純文学の世間の評価はそれほど高くないように思える。なぜなら、そもそも純文学自体好まれないし、そこにファンタジーが加わるということは小説の「論理」から逸脱することを意味するからだ。

 だが、不思議なことに村上春樹はご存知の通り、世界的に有名な日本を代表する作家である。ハルキストと呼ばれる人がいるが、彼らの存在もなかなか謎で、読んでみたら判るが、村上春樹の小説はそんな一定のファン(コミュニティ)をつくりあげるほど、通俗的なものではない。(硬化した考え方なのかもしれないが、一定のファン(コミュニティ)は流行しているものを好み、勢力を増していくものだという観念が私の中にある。)

 

 かくいう私は村上春樹の小説を好む人間だ。ハルキストとまではいかないが。

 村上春樹の小説は雲霞の中を彷徨いながら、世界全体を見渡そうとしてもなかなか具体物は見いだせずにいると、ふとした瞬間に記憶に残るくらいに印象的な光を見出す、といったそんな感じの読書体験を与えてくれるものだと私は考えている。

 ちなみに『風の歌を聴け』は「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」といういきなり読者の胸を衝くような言葉や、ラジオのMCの独白や、あまりうまくないTシャツの絵、といったことが記憶に残っているし、『1973年のピンボール』は「入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えば鼠取り。」という文章は記憶に焼き付いているし、『ノルウェイの森』は小林書店の屋上で火事を見物しながら主人公ぼくが緑とキスをするシーンはすごく印象的だったし、レズビアンの生々しい場面は村上春樹の真骨頂だなとか何とか訳知り顔で頷いていたのを覚えているし、『海辺のカフカ』はカラスと呼ばれる少年、空からイワシが降ること、幽霊、ジョニー・ウォーカー(はたまたカーネル・サンダース)、入り口の石、ナカタさんの口から出た白い物体……それらは何のメタファーなのか訳判らないと思ったのを記憶しているし、『ねじまき鳥クロニクル』の皮剥ぎのえぐいシーンは目を背けたくなったし、下品な島の猿のこととか調べても出てこなかったことを覚えているし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の直接的なつながりを理解した(気になっている)ときは感動を覚えたし!(とにかく一文が長い)

 

 で、今回は『スプートニクの恋人』。(登場人物の説明はいっさいしないです)

 印象的だったのは、すみれの文書1〈人が撃たれたら、血は流れるものだ〉

 

 わたしは今、語れば長い運命のとりあえずの帰結として(運命にとりあえずという以外の帰結が果たして存在するだろうか、というのはなかなか興味深い問題ではあるのだけれど、それはさておき)、このギリシャの島にいる。ついこのあいだまでその名前さえ聞いたことのなかった小さな島に。時刻は……午前4時過ぎだ。

 

 (中略)

 

 私は日常的に文字のかたちで自己を確認する。

  そうね?

 そのとおり!

 

 ああ! この書き方、このブログっぽい!

 と言ってしまえば、闇の組織HARUKISUTOの刺客に亡き者にされてしまいかねない。まあ、思い上がるのはたいがいにせえよってことで。

 

 今のすみれの文章にすくなからず親近感を持ったわけだが、私がもっとも印象的に残ったのがこの部分。すみれが「記号と象徴の違いっていったいなんだろうって。」とぼくに尋ね、それに対するぼくの台詞だ。

 

「たとえば」とぼくは言って、天井を眺めた。すみれにものごとを論理的に説明するのは、意識がまともなときにだって困難な作業なのだ。「天皇は日本国の象徴だ。それはわかるね?」

(中略)

「(……)天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」

(中略)

「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」

(中略)

「しかし、たとえばこれが、〈天皇は日本国の記号である〉と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。つまり我々が日本国というとき、それはすなわち天皇を意味するし、我々が天皇というとき、それはすなわち日本国を意味するんだ。さらに言えば、両者は交換可能ということになる。a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ。簡単にいえば、それが記号の意味だ」

 

 

 象徴と記号。

 

 すみれは最終的に〈あちら側〉の世界に消えてしまった。

 帰って来ない。

 つまりは、すみれは「象徴」的な人物だったといえる。

 

 象徴の矢印は一方通行だ。

 

 そもそも〈あちら側〉と〈こちら側〉を結び付ける境界とは何だろうか。

 

 それは「僕」の次の台詞から読み解けそうだ。

 

「昔の中国の都市には、高い城壁がはりめぐらされていて、城壁にはいくつかの大きな立派な門があった」(中略)「門は重要な意味を持つものとして考えられていた。人が出たり入ったりする扉というだけではなく、そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ。あるいは宿るべきだと。ちょうど中世ヨーロッパの人々が、教会と広場を街の心臓として据えたのと同じようにね。だから中国には今でも見事な門がいくつも残っている。昔の中国の人たちがどうやって街の門を作ったか知ってる?」(中略)「人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこに散らばった埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。歴史ある国だから古戦場には不自由しない。そして街の入口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊することによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ」(中略)「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語はこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」

 

 つまり、境界とは「呪術的な洗礼」のことだ。

 メタファーとして犬の喉を短剣で刺す。

 犬……クドリャフカ……スプートニク

 大きな飛躍だが、ここから導き出せるのは「すみれはクドリャフカ」ということか。孤独の象徴。孤独な宇宙へ飛ばされ、彷徨う(私はクドリャフカの話はあまりしたくない。本気で悲しくなるから。ボカロで『ライカ』ってあるけど、ほんとにダメ……泣く)

 さて、喉を切るというのは、声を失うことを指すのか。声を失うことは孤独に通じる。そんな考察は暴挙だろうか。しかし、孤独の象徴であるクドリャフカと、すみれは重なり合うと私は思っている。

 

 さて、「にんじん」のこととか「ミュウ」のこととか全然触れていないが、それらについては先行研究の論文に譲る。私として東浩紀ではないがゆるく考えていきたいのだ。