漠然と、考える

 

・刹那主義者に告ぐ

 いま、夢を持たない子供が多い。いや、小学生や中学生に訊けば「ユーチューバー」とか「社長」とかそういった解答は得られるが、高校生や大学生になるとそんな楽観的な解答はあまり得られまい。これは高校生や大学生になって現実を見るようになった証左であるが、同時に「夢なんてない」と言ってしまう始末ならば、少々悲しい話ではある。

 なぜ、夢を持てないのか?

 その原因のひとつは、興味・関心の幅の狭さだろう。

 

 

 

私は「スマホ」のせいではないかと考えている。少なくとも、昔は今ほどニートを社会問題視されていなかった。それは昔は現代にとっての「スマホによって奪われた時間」を「興味・関心を求める時間」に費やしていたからではないか、と思うのである。

 いや、私はただ無責任に思っているわけだ。

 確証となるデータは持ち合わせていない。

 だが、少なくとも現代、「スマホによって人々の時間が奪われている」のは確かではないかと思う。

 

 もちろん、スマホを有意義に利用している人はいる。

 スタディーサプリとかYouTubeでお勉強、クックパッド……なんでもいい。そういった利用目的でスマホを使っているのなら何の問題もないし、「時間が奪われる」なんてことは言わない。

 ただ、勤勉ではないほとんどの子供はスマホをゲーム機のように扱っているように思える。これは男の子に多いケースだ。女の子の場合、インスタとかTikTokとかそういった自分を発信するツールとして用いていることが多いだろう。

 いずれにしても、スマホによって子どもたちは時間を奪われている。

 好きなことに時間を費やせていいじゃないか、と言う者がいるかもしれないので、反駁してみよう。

 刹那主義者の成れの果てはどうだろうか?

 刹那主義者……今が楽しければいいやと思う者。そういった時間意識の者は、未来をどう考えているのか? いや、何も考えていないだろう。何も考えていないから刹那主義者なのだ。

 それでいて、「未来の自分など想像できないよ」と嘆くのは、もう愚の骨頂ではないか。

 スマホから離れ、今まで見て来なかった世界を見て来い、と私は言いたい。

 

・国語の重要性

 従来は知識注入型の教育で、一つの正解に向かって進むやり方が主だった。いわばジグソーパズルような教育方法だ。

だが、これからはAIやIoTなどが活躍する時代である。つまり、従来の与えられた仕事をこなすといった単純作業は機械に取って代わるというわけだ。

だから、これからは正解のない、あらゆる多様性を認め合えるような、そんな教育が求められる。つまりレゴブロック的な教育方法だ。

個性。これがこれからの社会を生き抜くためのキーワードとなりそうだ。

 

指導要領でも「社会に開かれた教育課程」として「何ができるようになるか」「何を学ぶか」「どのように学ぶか」といったことが重要視されていて、私はその中でも「何ができるようになるか」といったことがポイントとなると思っている。

この「何ができるようになるか」という文言から、学習を目的ではなく、手段として捉えていることがわかる。

 

AIに代替される仕事というのは基本的には「単純作業」のものであり、代替されない仕事は「人間にしかできない」ものである。

人間にしかできないものというのは、「文意を深く読み取ること」だと思う。

AIは計算のスペシャリストである。確かに翻訳や音声認識といった機能は備えているが、真の読解力は備えていない。もっといえば、AIには創造的思考力を持ち合わせていないので、新商品の開発はそれらにはできない。

こういった読解力とか創造的思考力は人間のみが持っているものである。それを疎かにしてしまった者がAIという脅威にさらされることになる。

国語はその読解力・創造的思考力を養成するベースだと考えている。

 

・教師としての軸

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※頼りがいある先生

※ある程度老成した先生

※人生経験豊富な先生

※元気な先生

※面白い先生

 

真逆なのは、私