細谷功『「具体⇄抽象」トレーニング 思考力が飛躍的にアップする29問』
早速だが、上の図を見ていただきたい。
「人間の知的能力と知の発展モデル」だ。
「横軸」は知識や情報の量的な拡大で、幅が広くなればなるほど知識や情報の量が増加していることを意味している。
「縦軸」は具体と抽象の軸で下から上に抽象度が上がっている。この「縦軸」こそが本書のメインテーマだ。
この「具体と抽象」の世界が理解できると、
・SNS上の「永遠の不毛な議論」から抜け出すことができる
・「顧客やサプライヤ」や「上司と部下」など、仕事の依頼主と被依頼主との関係を改善し、お互いにより高いパフォーマンスがあげられるようになる
・日常のコミュニケーションギャップを解消し、ストレスを減らすことができる
・「これまでの延長」だけでない斬新な発想を持ているようになる
……そうだ。
まあ、おそらく本ブログで以上のことができるようになるわけでじゃないので、ほんとうに上に挙げた能力を身につけたいならば、本書の購入をおすすめする。
1.抽象病と具体病
抽象病とは
「いかにも賢そうに見える『べき』論を語るのが大好きである」
「他人の行動、とりわけ失敗に対して一般的な理想論で批判したり『アドバイス』したりするだけで、実施につながる代替案を提示したり実際にアクションしたりすることはない」
「『ベストを尽くします』『徹底的強化を目指します』『適材適所でしっかり対応します』など、目標や施策がすべて抽象的な表現で、一切行動につながらない」
とか、そういった症状を持つ。
対して、具体病とは
「すべて『具体的事例』がないと理解も実行もできない」
「言われたことをそのまま実行することしかできず、一切の応用が利かない」
「一度ルールや線引きが行われると、それを絶対的なものと信じて疑わず、環境の変化に適応できない」
とか、そういった症状を持つ。
いずれにせよ、「抽象病」「具体病」は難病であることが判る。
じゃあ、どうすればいいか?
単純な話、「具体→抽象→具体」の縦の移動だ。
(※「具体」→「具体」は表面的問題解決
「抽象」→「抽象」は机上の問題解決
これらは「横」の移動だ)
2.具体と抽象
そもそも「具体」「抽象」というのは、相対的な概念だ。これらは対比によって、「どちらが具体で、どちらが抽象か」が決まるものである。
飛行機は大きい。
これに異を唱えるひとはいないだろう。
だが、深く考えてほしい。
この「大きい」は何と比べて「大きい」のか?
そりゃ、人間に比べたら「大きい」が、地球と比べると「小さい」。
人間の世界の中での具体と抽象の間の議論も、動物の世界からすればすべて相当抽象的な話になっているはずだ(そもそも言葉を使って字を読んでいる時点で相当抽象の世界で生きている)。
「学者は空虚な理屈ばかり言っている」とひとは言うが、そもそも動物たちからすれば「抽象の世界を生きる人間」なんぞ、「なんで会話なんてしてるんだ」と思われていることだろう。
具体と抽象の性質について述べていこう。
・特殊の具体、一般の抽象
具体というのは「個別」で、「オンリーワン」で「特殊」である。
抽象というのは「集合」で、具体をまとめて一つのものととらえるもので、「一般化」されたものである。
具体レベルで見れば、世界には80億近くの「すべて特殊な個人」が存在するが、これを「ひと」と一般化してしまえば、80億の個別の実体を一つの抽象概念で表すことになる。
・五感で感じられる実体か、五感で感じられない概念か
実体というのは、目で見たり耳で聞いたり口で味わったりすることができる、つまり五感で感じられるもので、対して、概念は「心の目」を凝らし「心の耳」を澄まさないと見聞きできないものである。動物と人間を大きく分けるのが、これら実体の世界と概念の世界との関係だ。動物は「実体」の世界を生き、人間は「概念」の世界を持っている。
・具体⇄抽象ピラミッド(詳しくは後述)
例えば、建物の建築であれば、「全体構想から始まって、基本設計から詳細設計、そして施工から竣工」という流れがこれに相当する。情報システムの構築も同じで、「全体構想→基本設計→詳細設計→構築→カットオーバー」という流れだ。(これを本書では「川上から川下へ」と表現している)
この流れはまさに抽象から具体へという流れだ。
・抽象度が上がると理解できなくなる
「数学」が学年が上がれば上がるほど難しくなるのは、抽象度が高くなるためだそうだ。
対して、「日本史」や「世界史」や「英単語」などの勉強は、学年が上がるにつれて暗記すべき量は増えるが、基本的にやっていることの難易度が飛躍的に上がるわけではない。
抽象度が高くなると判りにくいということなので、単純な話、具体的にすればするほどわかりやすくなる。だから、マスメディアや大衆に向けるマニフェストなどは「具体的でわかりやすいもの」が求められる。
だが、本来「抽象=単純」、「具体=複雑」なのだ。
抽象化とはメタの上位視点を持つことで、つまり全体を俯瞰するということなのだ。
それに対して具体的な視点というのは部分的なごく一部分を見たものとなる。具体になればなるほど情報量も多く複雑になるために、ひとりが見られる範囲も小さくなることで、必然的に一部分しかみることができなくなる。
・自由度小の具体、自由度大の抽象
「ひと」というと、80億近くの人という選択肢がある。これが自由度大の抽象である。
「ひと」から「女性」と具体化、「日本人の女性」と具体化、「20歳」と具体化していくと、選択肢の数は絞られていき、さらにそれが「〇〇という名前のマイナンバー××」となると、個人が特定される。これが自由度小の具体だ。
この性質は利用できる。問題解決の場面で「抽象度を上げていく」ことで、考える選択肢は増えていく。
3.具体⇄抽象ピラミッド
具体と抽象を「問題解決」一般にあてはめることができる。
具体と抽象の違いは、時間の流れという観点でもその変化が観察できる。
本書では「川上」と「川下」にたとえられている。
・川上→川下への流れ
抽象から具体という不可逆的な流れのことだ。
これは、ITのシステムや建築などの構造物(コンセプト→基本設計→詳細設計→構築・施工→利用)、商品の購入(「こんなものが欲しい」から実際の購入まで)、会社組織(企業→事業拡大/イノベーション→オペレーション)といったふうに、ほぼすべての問題解決の対象となる事象に当てはまりそうだ。
川上から川下という流れは、抽象から具体への変換プロセスのことととらえることで、さまざまなことが説明できる。
問
さまざまな部門に関連するような複雑な情報システムを全体コンセプトから見直す場合、どちらが好ましいか?
①さまざまな部門代表者をすべて集めたワーキンググループを発足し、全員の意見を聞く
②まずはひとりの人間が全体の構想をつくりあげる
抽象→具体という流れこそ、問題解決に役立つと言うならば、②こそが理屈上好ましいことが理解できる。抽象度の高い全体の設計はひとりでやることが好ましいのだ。建築の世界では、構想は通常ひとりが行う。
だが、現場では①のやり方が横行している。
・問題発見と問題解決
この世界にはあらゆる問題解決が溢れている。
就職、転職、買い物、食事、イベントの企画・実行、日常的な話題……
このような広義の問題解決は大きく二つ、すなわち「そもそも問題は何のか?」という問題発見と、「その問題をどうやって解決するか?」という問題解決にわけられる。
問題発見(WHY)は「抽象度を上げる」ものであり、問題解決(HOW)は「抽象→具体」の流れで向かうべきものである。
抽象化(あるいは抽象レベルの概念操作)が重要な川上と具体化が重要な川下では視点や価値観がまったく逆方向になる可能性(相違点を重視するのが具体で、共通点を重視するのが抽象だからだ)がある。にもかかわらず、これらが同じ土俵で議論されているために、どちらが正しいのか? という不毛な議論が後を絶たないのだ。
「どちらが正しいか?」ではなく、「いま対象にしている領域は川上側なのか川下側なのか」を判断すれば、どちらがその場面で適切なのかは自動的にわかってくる場合がほとんどなのに、議論の際「具体と抽象」の視座が消失していることがしばしばあるのだ。
・川上と川下の価値観の違い
【川上】/抽象度高
全体・境界なし・少人数・原則・楽観的・能動的
質(究極の単純さ)・混沌・個性(※だから、個人の方が扱いやすい)
【川下】/抽象度低
部分・境界あり・大人数・例外・悲観的・受動的
量(情報・知識)・秩序・平均(※だから、集団の方が扱いやすい)
4.コミュニケーションの不和
今回は「これだけ」を書きたかった。
だが、いきなり「これだけ」を書いたら、何のことか判らないと思うので、前座としていろいろ書いた。
具体と抽象という視点の欠如によって生じる、コミュニケーションギャップのメカニズムについて解説する。
本書の仮説は「コミュニケーションギャップの原因は切り取っていることに気付いていないこと」にあるとしている。
(これだけを読んで、即座にSNS上の不毛な議論を浮かべた)
・コミュニケーションギャップのメカニズム
コミュニケーションギャップの根本原因は、私たちひとりひとりの経験や知識、あるいは思考回路が異なることによって、違うものを見ていることに気付いていないことである。「見ているところが違う」というのは、「横の要素」と「縦の要素」に分かれる。
「横の要素」の見ている部分が違うとは、知識や経験の違いによる認識の差のことだ。女性の心理を男性は理解しにくいものだし、老人は若者の行動に理解を苦しむものだし、政治家は庶民のことを知らない。こう考えると、「人はみんなこうである」と語るのが馬鹿らしいと思うだろう。判断材料が自分の世界のみだというのに、主語がとてつもなく大きくする人、周りにいないだろうか?
自分の見ている世界は「ほんの一部」だ。それなのに全体だと思ってしまうのは人間の認知バイアスのせいだそうだ。だから、「自分が正しい」なんて思ってしまう。主張の対立が起こってしまう。
本書のメインテーマはこちらではなく「縦の要素の違い」だ。その違いというのは「具体と抽象」の違いだ。前に述べた通り、具体の世界と抽象の世界では価値観が正反対になることがある。それが多くのコミュニケーションギャップを生み出しているのだ。
・総論賛成各論反対
たとえば、「税金の無駄遣いはやめよう」という方針に反対する人はいないが、いざ削られる予算が自分に関係することになったとたんに、「それは話がおかしい」と反対する。このことを「総賛成各論反対」と呼ぶ。
また、「教育の機会を公平に」とか「公平な評価システムをつくるべき」という方針に反対するひとはいないが、そこに各自の都合のいい勝手な解釈が行われるのはしばしばある。
この「税金の無駄遣いをやめよう」とか「教育の機会を公平に」といった総論は「抽象」であり、「解釈の自由度は高く、各自『都合よく』解釈する」ものである。
対して、都合のいい解釈が付加された各論は「具体」であり、その「解釈の自由度は低い」ものである。
・本社と現場のコミュニケーションギャップ
「現場はいちいちひとつの出来事に一喜一憂している」
「本社は現場も知らずに建前ばかり言ってくる」
この対立について考える。
そもそも「現場」という言葉自体「抽象」だ。
かりに現場代表のひとが何かの会に参加して、そこで何か発言したとする。すると、その発言こそ「現場」の総意としてとらえられてしまう。実際には「現場」の代表のひとりに過ぎないのに。
これと同じ現象が「素人と専門家」の間でも起こる。
「詳しくない」のが素人で「詳しい」のが専門家だ。
素人はたびたび「専門家」を十把ひとからげに同じ人種として扱い、思考停止してその意見を盲信してしまう。あるまた別の専門家が専門家を批判することなどよくあることなのに。
・専門家と素人の関係のメカニズム
専門家はより具体的な情報や知識を「細かいメッシュ(網目)で」持っているため、素人が行う「おおざっぱな議論」や「過度な一般化」を嫌う。
海外のことを知らない人が「日本は~」「それに対して、海外は~」といったふうに、「海外は」という大きすぎる主語を用いて、海外の実態(195か国周ったこともないくせにね)を語ろうとする。確固たるエビデンスがないくせに海外について雄弁に語ろうとする。
もしかりに留学経験もなければ外国にすら行ったこともない人がネットニュースで得た知識中国の情勢についていろいろSNSで述べたととする。中国に住む日本語堪能な人はそれを見て、どう思うだろうか? まさにこの両者の間にあるのが「抽象」と「具体」の壁だろう。そのくせ、「ヨーロッパ人は日本人や韓国人、ベトナム人をいっしょだと思っている」と一丁前に愚痴を零す。なかなか、滑稽である。
・SNS上の不毛な議論
「加害者の人権を認めるべき」
「お前は自分の家族が被害者でも同じことが言えるのか?」
これは本書にあった例をそのまま書いてあるのだが、つい最近もこれと同じようなやり取りをTwitterで見た。何度も見た記憶があるから、これで何度目の議論か? と思ったほどだ。不毛 of 不毛。
結論から述べると、「加害者の人権を認めるべき」というのは一般論で、「お前は自分の~」は個別・具体的な話なのだ。
一般と個別。
まさに抽象と具体。
スタンスの違いに気付かない評論家()たちが繰り広げる議論はまさに決着のつけようがない不毛で無駄な議論なのだ。
コミュニケーションギャップ!
極論で言い切る(「幹」だけを抽出)人がいるが彼/彼女はそのメッセージを抽象レベルにおとしこんでいるのを承知の上そうしているのかもしれないし、無意識のうちにそうしているのかもしれない。彼/彼女に対し、その切り捨てられた枝葉が気になる人は「このような葉もこのような枝もある」と注進したくなるそうだ。
切り捨てた結果としての抽象にはどんなメッセージが、どんな前提条件があるのかを明確にすれば、上記のような齟齬は減らせるのではあるまいか。
(「そんな人はひとりもいない」「1ミリも〇〇ない」といった大仰な表現をする人はいわば抽象レベルに発言していることを自覚していることがある。私はどちらかといえば、具体的にモノを述べようとする人間なので、そのような抽象レベルで話す人のそういった大仰な表現が気になってしまう)
なるほど、抽象世界というのは「虚構」であるそうだ。だから、そこにリアルを持ちこんだところで意味がないのだ。
他にもいろいろな「抽象」と「具体」の壁の例を挙げていた。
「理想と現実」(リアリティのない理想論を語る人 vs 現実重視の具体派の人)
「他人には批判するが、自分が批判されると不満に思う現象」※自分のことは「特別」に思いがちで、「他人との違いを見る」かつ「制約条件がすべて見える」が、他人のことは「一般化」してしまい、「他人との共通点を見る」かつ「制約条件が見えない」ことから、自分と他人の間に大きな壁ができる。理解の壁。いわば具体(自分)と抽象(他人)の壁。
とにもかくにも、上記のことから言えることはただ一つ。
具体⇄抽象
まさに、具体に傾倒しているならば、抽象へ、抽象に傾倒しているならば、具体へといったふうに「具体」「抽象」間の往来が求められる。
5.まとめ
まとめと称してはいるが、同時に「具体」「抽象」の使用上の注意についても語っていく。
とにかく「具体」と「抽象」という言葉として概念としては理解していても、それらの視点を持てるかどうかが大事なのだ。その中でいま行われていることは「抽象」なのか「具体」なのか、その「軸」を見極めることが重要だ。
また、「具体⇄抽象」こそすべて、みたいな書き方をしたうえでこんなことを書くのはアレなのだが、実は「抽象から具体はマジックミラー」のようなもので、抽象の世界は「見える人にしか見えない」のだ。逆に具体の世界は誰でも見える。
(だから、「それを知らない人はこの世にいない」といった言い方をする抽象派の人間は、本気でそれを信じているわけではない。具体要素もきちんと見えているはずだのだ。だが、逆に具体派の人間がさっきの抽象派の放った言葉は口が裂けても言えないだろう)
具体⇄抽象トレーニングというが、これをすることで仕事が順調になったり、コミュニケーションギャップの謎が解けたりといったメリットはあるが、誰かの仕事が順調になったり、SNS上の不毛な議論がなくなったりといったことは起きない。
彼らはこの本を手に取って、己が恥ずかしさに赤面することはないだろうし、今日もどこかで抽象化して話す相手に具体派の意見を持ちこんでいることだろう。
この具体と抽象のすれ違いは、まさに「笑いどころを理解している人間」と「理解できていない人間」の違いそのものなのだ。
最後に私の意見だが、こういった日常に潜む疑問やモヤモヤしていたことを、改めて発見させ、その問題解決に導いてくれる本というのは、読む者にとっては「なるほど」と唸らせてくれるので、とてもありがたいものだと思っている。だが、この世には本を読まない人がごまんといる。それはいいのだが、Twitter上で「集中力を上げる方法」とか「思考を整理する方法」といった簡素化されたチャートとともにいろんな実践方法が書かれたツイートをたまに見かけるが、それに対し「目から鱗でした」といったリプを飛ばしているのを見ると、なんともやるせない気持ちになる。それよりももっと詳しく、いっぱい書かれた本があるんだよ、と思っちゃう。まあ、あんまりお金をかけたくないのかな?
SNS上に溢れている、SNS上への議論への対応策は性善説に頼り切っているようにしか思えない。この「具体」「抽象」という概念に即して、SNS上の議論に終止符を打つような論を投げ入れてくれるのは、やはりこういった新書の類なんだろうな、だから、本は読むべきなんだ、とぼんやり考える。