「自分とは何か」をめぐる哲学

 自分とは何だろうか?

 

 ジャルジャルが好きなんで、【JARUJARUTOWER】のネタのタネから動画をもってきた。

 以下の動画だ。

 おじさん(後藤さん)は「高校生ぐらいのときは、私、二、三(の顔)を使いまわしていましたよ。社会人になって一つ増えました。八つなったときもありました。でも、持ちすぎて、どれを使えばいいか判らなくなりました。そっから、間引いて行きました」「そっからは完璧な四つになりました。」と言った。

 

 顔を複数持つことは、自分を騙すようで嫌だ。

 そんなふうに思うかもしれないが、一種類の顔では、これからやってはいけない。

 そんなことを教えられたような気がした。

 

 ユングは「社会的な役割や立場などのために人前で演出している自分の姿」のことを「ペルソナ」と名付けた。社会を生きるにあたって、いろんな「ペルソナ」を持つのだが、それはごくノーマルな状態であるという。しかし、特定の「ペルソナ」と一体化してしまうと、ほんらいの自分を見失うことになるから注意しなければならないと警鐘を鳴らしている。

 

 そして、そんな「自己概念」は「文化性」が強く関係している。

 日本やアジア圏で顕著な自己観を「相互協調的自己観」と定義されている。これは他者や周囲の環境と結び付いた「関係重視の実体」として捉えられるということだ。したがって、人間関係や社会関係の中で意味づけられる自分の特性が「自己」の中心に位置することになる。

 それに対し、欧米圏では、「自己」は他者や周囲の環境との「関係から独立した実体」として捉えられるため、個人の才能や動機などの特性こそが「自己」そのものだといえる。

 

 アジア圏では他者と同調する過程の中で「自分」を意識するが、欧米では積極的に自己をアピールする。

 

 まあ、これはよく言われていることだけどね。

 

 自己啓発の本には、自分を出せと書いてあるのに、社会は「自分を出すな」という空気を醸し出している。

 この矛盾。

 

 まあ、日本のこういった同調圧力的なものは、山本七平『空気の研究』に詳しいみたいなんで、それ読んでみます。

 

今回はそういった話ではない。

 高橋昌一郎『自己分析論』を頼りに、「自分とは何か」をめぐる哲学について記述していこうと思う。

 

 

 

1.ソクラテス

 

 陽気で、機知に富んだ、聡明な古代ギリシアの哲学者。

 ソクラテスは、誰と会っても、常に質問をした。

 政治家と会えば、「国家とは何か?」

 法律家に会えば、「正義とは何か?」

 若者には、「人生で何をするつもりか?」と、質問攻め。

 ソクラテスは自分のことを「アブ」と呼んでいたくらいだから、自分のことは客観視できていたようだ。

 さて、ソクラテスは何がしたかったのか?

 相手をやり込めることではない。

 純粋に議論によって「真実」に到達することが目的だったのだ。

 以下みたいな流れだろう。

 

ソクラテス「Aとは何ですか?」

相手「AとはBです」

ソクラテス「BとはCですか?」

相手「そうです」

ソクラテス「じゃあ、CとはDですか?」

相手「そうです」

ソクラテス「じゃあ、DとはEですか?」

相手「そうです」

ソクラテス「あれ? AとEは矛盾していませんか?」

 

 議論が行き詰った。この状態を古代ギリシア語では「アポリア」と呼んだ。

 

 まあ、こんな感じだったので、ソクラテスを忌み嫌ったひとは少なくなかった。

 アテナイの裁判にかけられたくらいだ。

 罪状は「若者を堕落させた」とか「神々を侮辱した」とか、そんな捏造まがいのもの。

 で、ソクラテスは死刑判決を下されることになる。

 

 現代社会にソクラテスが生きていたらどうだったろうか?

 昨今、知ったかぶりでものごとを雄弁に語るひとが多くいる。

 専門分野ですら「本当」に判っていることは少ないひとが多い。

 重要なのは「無知」であることを自覚することだ。

 これが有名な「無知の知」である。

 

 さて、そんなソクラテスが「私とは何か?」という問いに対峙した際に、導き出した答えは何だったろうか?

 それは「私とは魂である」であった。

 古代ギリシア語で「プシュケー」と呼ばれるものである。

 ソクラテスのいう「魂」とは、「生き生きとした確固たる不滅」のことをいう。身体から分離でき、死後も存在し続けるもの。さらに、その「魂」は身体が生まれる前から存在していたという。

 なぜ、そういえるのか?

 人間は生まれてから一度も経験したことがないのに、知っていることがあるからだ。

 たとえば、正三角形。

 完全な正三角形はこの世には存在しない。

 しかし、われわれは、その存在を理解することができる。つまり、「知っている」のである。これと同じように「完全な美」「完全な正義」が存在し、それらを誰も生まれてから一度も経験したことがないのに、すでに「知っている」状態にある、このことが「魂」の存在を裏付けるのだという。

 絵を観て、感動をするのも、「魂」が「完全な美」を知っているからだ。

 悪事を働かないように努めるのも、「魂」が「完全な正義」を知っているからだ。

 

2.プラトン

 

 「完全な美」とか「完全な正義」といった概念は、やがて、ソクラテスの弟子であるプラトンイデア論につながる。

幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」

 これはプラトンの開校したアカデメイアの入口に書かれてあった言葉だ。

 イデア論の根底には「幾何学」がある。

 ピタゴラスの定理というものがある。

 経験的な知識から一定の数学的パターンを抽象化し、そのパターンが「任意」の直角三角形に対して、「普遍的」に成立することを、正方形の面積の基本的な性質から論理的に導き出した。

 プラトンの「イデア」はまさにこの「普遍性」の概念と結びついている。

 イデア論といえば、「洞窟の比喩」だろう。

 人間を、洞窟の中で暗い壁の方向しか見えないように縛られた囚人と見立て、その囚人(人間)は、イデアの世界の太陽の光の影を洞窟の中で見ている、というものだ。

 つまり、完全な正三角形のイデアは洞窟の外にあって、われわれは不完全な三角形しか描けない(すなわち、それは「影」)ということだ。

 現実世界では、どんなものも完全ではない。時間と共に変化し崩れていく。ところが、「完全なイデア」は、過去から未来永劫に至るまで、まったく同じように存在する。だから、プラトンは、イデアの世界こそが「永遠」に続く「普遍的な実在」だと信じるようになった。

 

3.デモクリトス

 

 だが、ソクラテスの「魂論」やプラトンの「イデア論」を批判する者もいた。

「快楽主義」のエピクロスだ。

 エピクロスは、デモクリトスの「原子論」の信奉者だ。

 デモクリトスは「万物は原子からできている」と主張した自然科学の祖だ。

 デモクリトスは、太陽・月・雲・海・動物・植物など、さまざまな自然現象を観察していくうちに、すべての物質が「原子」と「空虚」の組み合わせで構成されていると考えるようになった。

 この考えは、現代では的を射ている正しい理論だといえるが、当時のギリシアでは忌み嫌われた考えであった。

 なぜなら、人間も原子からできていて、それはすなわち原子でできた草や石ころなどと同じであるといえるからである。

(ちなみに、人間を化学的に分解し、化学物質として計算して買い取ると、原価は1万円程度だという)

 

4.エピクロス

 

 デモクリトスの「原子論」を信奉したエピクロスは、「いかに生きるべきか」を考えた。ソクラテスのいう「魂」は、夢想であるとし、そうではなく、人間は原子から構成され、死ねば自然に原子が還元されるのだから、「いかに生きるべきか」という問いに対峙するのは当たり前のことだったろう。

 エピクロスは、「天国」を信じていない。すべきことは現実世界において「幸福」を達成することだと主張した。

 エピクロスは「快楽」によって「幸福」になれると考えた。

 エピクロスは人間の欲求を以下の三種類に分けた。

・自然で必要な欲求

・自然だが不必要な欲求

・自然でも必要でもない欲求

 人間が「幸福」になるためには、何よりも苦痛や恐怖のような「不快」から逃れなければならないとした。

 そのために、エピクロスは「自然で必要な欲求」だけを追求すべきと主張した。

 アタラクシア(心の平静不動)の達成。それこそが最高の「幸福」だという。

 また、エピクロスは、死の瞬間人間は感覚を失い、原子に戻るのだから、恐怖を感じる必要はないと説いた。

 隠れて生きよ。

 それがエピクロスの生き様だったのだ。

 快楽主義であったのに、禁欲主義になっているような……。

 

5.デカルト

 

 方法論的懐疑。

 すべてを疑え、というスタンス。

 既成観念を放棄せよ。

 そこにあるテーブルは幻想ではないか? 

この世界は夢の中の世界じゃないか? 

馬鹿げている。されど、反証はできない。

だが、デカルトはこういった。

「コギト・エルゴ・スム」

 われ思う故にわれあり。

 疑っているのは、考えているのは、「私」以外にありえない。

 これは「確実な真実」である!

 

6.カミュ

 

 1942年に発表した『シーシュポスの神話』。

 小説家として名高いアルベール・カミュは哲学的な知見を呈した。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」

 多くの人間がこの世界には何らかの意味があると思い込んでいるが、カミュはそのこと自体根本的に間違っているかもしれないと主張している。

 ジャン=ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」といった。

 これは、先立つのは「実存」であり、「本質」は後付けである、という意味だ。

 世界には無数の生命の「実存」がある。だが、人間はそこに何らかの「本質」を懸命に探し求めている。カミュはそれを「不条理」と呼んだ。そもそも、「死へ向かう一方で生きなければならない人間」こそ「不条理」な存在だと見なした。

 この「不条理」に抗する方法として、カミュは以下のみっつを挙げた。

・自殺

・盲信(不条理を超えた何らかの「理由」を信じること)

・反抗(世界が「不条理」であること、人生に意味がないことを受け入れて、『反抗する』。※形而上学的反抗)

「反抗」について、詳しく述べる。

「我反抗する、ゆえに我々在り」

 カミュは言う。

 もちろん、デカルトの言葉のアナロジーだ。

 まず、この世界の不条理に「反抗」して、それから自分が何ができるかを考えてみる。そういったことが必要になるのだという。

 

7.まとめ

 

 偉大な先人たちが懊悩した「自分とは何か」「世界とは何か」という問題。科学が発達したいまも明確に解き明かされていない人間の永遠のテーマ。

 そんな問題に対峙しているのに、「自分とはこうである」「世界とはこうである」と訳知り顔で話すのは、何か間違っているように思う。

 果たして、それはほんとうなのだろうか?

 一度立ち止まって、考えるべきではないだろうか?

 悩むべきではないだろうか?

 この懊悩は、まことに残念ながら、生きていく上でずっと付き合って行かなければならないものなのかもしれない。

 

 

自己分析論 (光文社新書)

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