宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』

 

 なぜ非行に走ってしまうのか?

 私たちの常識では考えられない行動を起こす非行少年。

 彼ら、彼女らはどうして非行に走ってしまうのか?

 

 いまや漫画化されている本書だが、遅ればせながら読ませていただいた。

 で、読み終わったのでいろいろ書いていこうと思う。

 

 

 

1.「反省以前」の子どもたち

 

 

 非行少年は世の中のすべてが歪んで見えているのかもしれない。

 というのも、彼ら/彼女らは複雑な絵を描き写すのが苦手なのである。

 実際に本書に載ってあるので、知りたい人はそちらを見て欲しいのだが、とにかく衝撃的だ。

 つまり、非行に走る少年たちは本来ならば支援されないといけない障がいを持っているというわけなのだ。

 しかし、非行化した少年たちに医療的な見立てがされるのは、残念ながら司法の手に委ねられた後で、そのため一般の精神科病院にそういった非行少年たちはまず来ない。

 

 非行少年は

・簡単な足し算ができない

・漢字が読めない

・簡単な図形を写せない

・短い文章すら復唱できない

 ……と、見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱いのだ。

 高校生なのに九九を知らない、不器用で力加減ができない、日本地図を出して「自分の住んでいたところはどこ?」と聞いても分からない。今の首相を知らない。九州を知らない。

 つまり、私たちの常識では考えられない存在なのだ。

 

 そういった少年たちの過去は凄惨なもので、勉強についていけずに、馬鹿にされ、いじめに遭い、先生からは不真面目だと思われ、家庭内では虐待を受け……といった具合に、暗い影を落としている。そういった子たちが非行に走り、少年鑑別所に入って初めて、「障がいがあった」と知ることになる。

 しかし、その非行少年を庇えば、今度は被害者が浮かばれない。

 では、どうすればいいのか?

 やはり、いち早く、そういった少年が非行に走る前に、親や教師がその子に障がいがあることに気付く必要があるのだろう。そして、勉強の支援をしっかりと行うべきなんだろう。

 では、どんな教育を行えばいいのか?

 実は「褒める教育」ではいけないのだ。

 それは根本的な解決にはならない。

 非行少年はこぞって自尊感情が低いのだから、いっぱい褒めてやるべきでは?

 そう思うかもしれないが、実際のところ、自尊感情が低い」ことはさほど問題ではないのだ。思い通りに仕事が進まないとか、職場の対人関係がうまくいかないとか、理想の家庭が築けないとか、そんなふうに自尊感情が低くなっている人は多くいる。そういった人たちが、全員犯罪に手を染めるなんてことはない。自尊感情が低くても社会人として何とか生活している。(というか、自尊感情が高ければ、逆に自己中になる傾向があるしね)

 問題なのは「自尊感情が実情と乖離していること」だ。

 何もできないのにえらく自信をもっている。

 何でもできるのに自信がもてない。

 等身大の自分への理解の乏しさがゆえに生まれる問題だ。

 

 子どもへの支援は大きく分けて、学習面、身体面(運動面)、社会面(対人関係)の三つがあるが、そのうち社会面は生きていく上で最も必要かと思われる。だが、学校教育ではこの社会面がないがしろにされていることに筆者は憤っている。教科教育を重点的にするよりも、感情コントロール、対人マナー、問題解決能力といった社会を生き抜くためのスキルを育てる体系的な授業がいまの学校に求められる。

(ひと教師がそれに賛同を示しても、きっとこれからの学校のシステムは変わらないだろう。だから、残念ながら机上の空論に終わってしまいそうだ。……私自身、いい提案だと思う。しかし、同時に基礎的な教科学習も必要だ。教科学習からなにかしら引き算していくのはなかなか難しい。どれも大切だ。じゃあ、時間割を増やす? それも実現不可能に近い。子どもたちのブーイングがすごいことになりそうだからだ。一番現実的なのは総合的な学習の時間や道徳の時間を社会面の支援に充てる? まあ、私、小学校に関しては門外漢なんで、あまりテキトーなことは言えないけど)

 

2.「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年

 

 

 ケーキを切れない非行少年というタイトル。

 その名の通り、非行少年はケーキをうまく切れない。

 ワンホールケーキを五等分にするとなると、縦に五本の線を入れたり、先に四等分してそこからどうにかして一本線を入れたり、そんな珍妙な切り方が紹介されていた。

 中心から切り始めるという発想には至らないのである。

 また、計算もできない。

 

 1000-7

 

 こんな簡単な計算も、彼ら/彼女らは「3」「993」「107」と答える。

(余談だが、私の学校の生徒は漢字が苦手だ。(※都合上、事実は少し異なる内容を記す)「スイエイ」を漢字に直すという問題で、「水永」と書く。それも一人ではなく、五、六人ほど。まったく同じ間違え方をする。)

 そんな脳だから、彼ら/彼女ら非行少年(今更だが、少女のことも少年に含む)は「計画が立てられない」「後先のことを考えられない」のだ。

 あなたは今、十分なお金をもっていません。一週間後までに10万円用意しなければならない。どんな方法でもいいので考えてください。

 この問題に対し、非行少年たちは「盗む」という解答を躊躇なく出すようだ。

 彼ら/彼女らにとってはそれが普通の感覚なのだ。

「どうしてそんな馬鹿なことをしたのか?」

 と怒鳴られたところで、そもそも非行少年たちは「後先を考える力」が弱いのだから、その叱責はもはや無意味なのだ。

 

 また、非行少年たちは「イライラする」という言葉を使いがちだ。

 担任の教官が来てくれなくてイライラ。

 親の面会がなくてイライラ。

 お腹が空いてイライラ。

 暑くてイライラ。

 被害者に悲しい思いをさせてイライラ。

 悲しいことがあってイライラ。

 実は、彼ら/彼女らは感情を表す言葉として「イライラ」しか知らないのだ。

 

 さて、この章の『「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年』というタイトルについてだが、まさにその言葉通り、殺人を犯した少年たちに「自分がどんな人間だと思うか?」という質問を投げると、「取り返しのつかないことをしてしまった。最低な人間だ」という言葉ではなく、「自分はやさしい人間だ」と答えたそうだ。それも八割の少年が。

 小さい子供や年寄りに優しいとか、友達から優しいと言われるのが、そう答えた理由らしいが、「君は人を殺した。それでも君は優しいの?」と尋ねて、初めて彼ら/彼女らは自分がやさしくないことを知る。

 

3.非行少年に共通する特徴

 

 非行少年の特徴を以下に挙げる。

・認知機能の弱さ(見たり、聞いたり、想像する力が弱い)

→被害妄想と換言できそうだ。

「あいつはいつも俺の顔を見てニヤニヤしている」と少年は言うが、実際、相手の少年は何のことかまったく分かっていない。

 相手の表情をしっかり見ることができず、馬鹿にされているように感じ取って、勝手に被害感を募らせることになる。これは見る力の弱さゆえのことだ。

 また、聞く力が弱いので、誰かがブツブツ独り言を言っているのを、悪口を言っていると受け取ってしまうこともザラだ。

 さらには「見る力」「聞く力」を補う「想像する力」も弱いので、間違った認識のもと行動を起こしてしまう。それが不適切な行動に繋がるのだ。たとえば、他人がアルバイトを猛烈に行って得た20万円を見て、その人から簡単に盗んでしまったりするのは、その人の「努力の結晶」を想像することができていないからなのだ。

 とにかく、そういった非行少年たちに必要なのは反省ではなく、認知力の向上なのだ。

 

・感情統制の弱さ(感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる。)

→怒り。厄介な感情だ。

 たとえば、AくんとBくんがいるとする。2人が同じ仕事を行い、Cさんから「それは違うよ」と言われたとする。Bくんは「Cさん、親切にありがとう」と考えるが、Aくんは「うるさい、馬鹿にしやがって」と考えるとする。このとき、2人はCさんの声掛けをまったく違う受け取り方をしているのだ。

 このAくんの被害的な思考は、多くの場合、対人関係の在り方(親からの虐待・いじめ)や自信のなさから起因している。自分に自信がないと自我が脆く傷つきやすい。過剰に卑下し、他人の言葉を好意的に受け取ることができなくなる。

(自信がもてない原因の中には、発達障害、知的障害であることもある。)

 怒りのもう一つの背景として自分の思い通りにならないといったこともある。相手への要求が強いとか固定観念が多いといったことが根底にある。歪んだ自己愛や固定観念。「こうして欲しい」「僕は正しい」「こうあるべきだ」……。

 怒りというのは冷静な思考を止めてしまう。

 冷静な判断ができず、いろいろ思考を巡らせる間もなくカッとなってしまう。

 怒りとはほんとうに厄介な感情だ。

 非行少年はこの厄介な怒りという名の犬を手懐けられていないわけなのである。

 

・融通の利かなさ(なんでも思い付きでやってしまう。予想外のことに弱い)

→ある実験がある。

 透明な細長い円筒の中にコルクがある。その隣には真中に小さな穴が開いた蓋が被さった水の入ったビーカーがある。そして手元には先の折れ曲がった針金、透明の円筒状の筒と蓋が置かれてある。ルールは手元の針金と透明の円筒状の筒と蓋の三つだけを使って、コルクを取り出すこと(言葉じゃ判りにくいね)。ただし、コルクの入った筒や、ビーカーには触れてはいけない。

 健常な少年は、水を円筒状の筒の中に入れ、浮かんでくるコルクを針金で取り出せばいいという考えをたやすく解答するだろうが、融通の利かない非行少年たちは、針金でコルクの入った長い筒をつつき、コルクを取り出そうとする。融通が利かないので、水の入ったビーカーに目をやることなく、自分のやり方に終始こだわるのだ。

 そんなふうに修正の利かない脳だから、誰かがブツブツと独り言を言って、それが自分の悪口だと認識してしまえば、その思考が硬化して、どんどん被害感が強まってしまうのだ。そして、ついには「不適切な行動」に至る……。

 

・不適切な自己評価(自分の問題点が分からない。自信がありすぎる、なさすぎる)

→自分はやさしい人間だ、と殺人少年は言う。

 適切な自己評価ができていない少年たち。

適切な自己評価というものは、他者との適切な関係性の中でのみ育つ。

そのために相手の表情を的確に読み取るといった認知機能がここでも関係してくる。

自己評価が低すぎると、被害感が高まり、やがて不適切な行為に……。

 

・対人スキルの乏しさ(人とのコミュニケーションが苦手)

→すべての悩みは、すべて対人関係の悩みである。

 心理学者のアドラーは言った(私自身、アドラーに対して懐疑的になりつつあるが)。

 悪友からの悪い誘いに乗ってしまった少年は非行化し、いじめに遭っても他者に助けを求めることができない少年は将来犯罪を行う……。

また、周りから「おもしろい」と評価されたことをうれしく思い、「ふざけ行為」をすることで自分の価値を見出し、非行化する少年もいる。

彼ら/彼女らの非行化は生き残りの手段だったとすれば、彼ら/彼女らはただ気が弱く流されやすい「やさしい子」だったと言えるかもしれない。

被害者が加害者になる、そんな哀しい倒錯が起こっていると言えよう。

 

・身体的な不器用さ(力加減ができない、身体の使い方が不器用)

→洗面台の水道蛇口をもぎ取ってしまった。

 トイレの便器の外ばかりに小便をした。

 皿洗いのアルバイトで皿を割りまくった。

 お客さんに水をドンと勢いよく置き、トラブルになってしまった。

 じゃれあっていたのに相手に大けが負わせてしまった。

 非行少年たちにとってそれらは決して「わざと」ではないのだ。

 身体的不器用さゆえ、なのだ。

 その不器用さは発達性強調運動症。そんな疾患概念によるものとされている。

・力加減ができない

・左右が分からない

・姿勢が悪い

・じっと座っていられない

 そんな特徴を持つ身体的不器用な非行少年はそれらが原因でたびたび対人関係のトラブルを引き起こしてしまう。

 なんとも可哀そうではないか。

(他人事のようになってしまうので、『可哀そう』ということばはあまり使わない方がいいのかもしれぬ)

 

4.忘れられた人々

 

 残酷な殺人事件が起こった。

 神戸市長田区小一女児殺人事件。

 女児の遺体を入れた袋の中に、男の実名が記載された診察券が入っていた。

 ……なぜ?

 ふつう自分の素性がバレないように万全を期すはずが、なぜか実名入りの診察券を遺体といっしょに入れてあるのだ。

 男は大型一種免許、特殊車両免許を持っていて、さらには陸上自衛隊で勤務していた。

 男にはそこそこの能力があるのは確かだ。

 そんな男がどうして自分の素性を明かす診察券を遺体といっしょに袋に入れたのか?

 男は療育手帳(軽度知的障害の範囲)を持っていた。

 知的障害を持っている人は、後先を考えるのが苦手だ。

 しかし、軽度知的障がい者でも陸上自衛隊に入隊できるし、車の免許取得は可能である。

 つまり、傍から見れば健常者なのだ。

 だから、世間の人々は「どうしてそんなことをするのか理解できない」と言うわけである。

 

 こういった本来支援が必要である人たちは、社会的には普通の人と区別がつかないため、残酷なことにも要求度の高い仕事を与えられて失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ったりする。

 そんな忘れられた人々の、たまりにたまった負の感情が暴発して、彼ら/彼女らは不適切な行動をするに至る。つまり、被害者が加害者になるというわけだ。

 ところで、能力検査数値(CAPAS)では何の問題もないと判断されている人が、実際のIQよりも高く見積もられてしまっているケースが多々あるそうだ。その理由はCAPASが年齢補正が不十分であるといった欠点を抱えているからだそうだ。

 実際は知的な問題があるというのに、何の問題もないと判断されることが横行しているわけである。知的なハンディを抱える少年たちには知的な問題がないと判断した法務教官は容赦なく少年たちに厳しい処遇をする。知的な問題を抱える少年たちは弱い存在なので、そんなふうに厳しい処遇を受ければ、鬱状態になったり、精神疾患を発症したりする、そんな暗いエンドを待ち構えていることだろう。

 

5.では、どうすれば?

 

 非行少年は少年院に一年間過ごすうちに「変わろう」と思うようになる。(もちろん、全員ではないだろうが)

 その実際の声が以下の通りだ。

・家族のありがたみ、苦しみを知ったとき

「これでもかというほど非行をしてもそんな自分を見捨てずに毎月面会に来てくれる家族や、何百万という被害弁償に対しても何も言わずに働いて払ってくれている親をみて、もう二度と裏切りたくないという気持ちになった」

・被害者の視点に立てたとき

「被害者の手記を読んで、もし自分の家族が被害者だったらって考えると、犯人をボコボコにしてやりたい。自分のやったことが怖くなった」

・将来の目標が決まったとき

「今まで何をやってもできなかったけど、将来やりたいことが見つかった。資格をとって頑張る」

・信用できる人に出会えたとき

「先生は厳しいけど話を聞いてくれて僕のことを真剣に考えてくれて、今の僕に必要なアドバイスをくれる」

・人と話す自信がついたとき

「社会では人と話すのが苦手だったけど、ここに来たら、人に頼んだり、お礼を言ったり、謝ったりしなければならないので、話すことに自信がついてきた」

・勉強が分かったとき

「漢字が全然読めなかったけど、ここに来て漢字のテストで(漢字検定の)級が上がった。新聞が読めるようになった。もっと勉強したい」

・大切な役割を任されたとき

「先生にはいつも叱られていて、先生は僕のこと嫌っていると思っていたけど、少年院の中で難しい係を任されて、信頼されていると気がついた。先生を裏切りたくない」

・集団生活の中で自分の姿に気がついたとき

「先生から注意されている他の子をみると、自分も昔はああだったのだと思った。どうして注意されるか分かった」

……など。

 以上の声は大きく二つに分けられる。

 自己への気付き と 自己評価の向上 だ。

 人が自分の不適切なところを何とか直したいと考えるときは、「適切な自己評価」がスタートとなる。行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気付くこと、そして自己洞察や葛藤をもつことが必要だ。適切な自己評価ができるからこそ「悪いことをする自分」に気付き、「また悪いことをやってしまった。自分ってなんて駄目なやつなんだろう」「いつまでもこんなことをしていられない。もっといい人になりたい」などといった自己洞察・自己内省が行える。そして、理想と現実の間で揺れ動きながらも、自分の中に「正しい規範」をつくり、それを参照しながら「今度から頑張ろう」と努力し、理想の自分に近づいていく。そのためには、自己を適切に評価できる力、つまり、「自分はどんな人間なのか」を理解できることが大前提なのだ。

 少年院では集団生活を強いられる。教育ではとことん自分に注意が向けられる。これまで好き勝手に生きて、自分を顧みず、何かあっても他人のせいにしていた彼ら/彼女らが、自分はこれまでどう生きていたか、どれだけみんなに迷惑をかけてきたか、支えられてきたかを振り返らせる。

 自己に注意が向くと、自分にとってとても気になっている事柄に強く関心が向くようになる。その際、自己規範に照らし合わせ、その事柄が自己規範にそぐわないと、不快感が生じる。この不快な感情を減らしたいという思いが、行動変容するための動機づけになる、というものだ。

 自己に注意を向けさせる方法として最良なのは、他人から見られている、自分の姿を鏡で見る、自分の声を聴く、というものだ。いわば、自分を客観視するということだ。

 だから、教育現場で、先生は子どもたちに対し、「あなたを見ていますよ」といったサインを送ることは重要だと言われるのだろう。また、少人数のグループワークではメンバー同士、お互いがお互いを密に観察し合っているので、それだけでも抜群の効果がある。

 

    私は以下の文に感銘を受けた。

 

 子どもの心に扉があるとすれば、その取っ手は内側にしかついていない

 

「自己への気付き」も「自己評価の向上」も、押し付けではなく、少年たち自らが「気付きのスイッチ」を入れるものだ。そして「自己評価を向上させる」のは紛れもなく少年たち自身なのだ。大人たちは、少年たちに気づきの可能性のある場(集団活動)を提供し、スイッチを入れる機会に触れさせることが大切なのだ。

 また、自己評価を向上させるためには、受動的な授業ではなく、案外、少年たちが教鞭を振るう立場にすることが求められるのかもしれない。彼ら/彼女らは「人に教えてみたい」とか「人から頼りにされたい」とか「人から認められたい」とか、そんな自己顕示欲求がある。自己顕示欲求というと揶揄しているみたいだが、この欲求は「自己評価の向上」につながる。何をやってもアカン!と不貞腐れるよりかは、やる気になって教える側になってくれる方が何百倍もいいだろう。

 

6.まとめ

 

 非行少年と聞くと、「どうしようもないやつらだ」とか「どうしてあんなことをするんだ?」とか、そういった声があがる。

 しかし、非行少年たちは計算ができない、漢字ができない、ケーキが切れないのだ。これは決して勉強不足というわけではない。知的なハンディを抱えていたのだ。後先のことなど考えることすらできず、怒りをコントロールすることもできず、自己を適切に分析できない、そんな「できない」ことづくめの、社会を生き辛い、可哀想(言ってしまった)な子どもたちなのだ。それなのに普通の子どもたちと同じ学び舎で勉強をすることを強いられ、勉強についていけないとなると、周りからはバカにされ、先生からは不真面目だと言われ……、やがて非行に走る。被害者が加害者となり、新たな被害者を生む、負の連鎖。

 非行というものは突然降ってくるものではない。生まれてきてから現在に至るまでのその一本の道の中で、非行に走るようになったきっかけがある。非行のトリガーが引かれてからではもう遅い。先生でも親でも友達でもいいので、そのトリガーが引かれる前に、少年たちを救ってあげるべきなんだろう。

 

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

  • 作者:宮口 幸治
  • 発売日: 2019/07/12
  • メディア: 新書