宇佐見りん『推し、燃ゆ』
小説は相変わらず読み続けている。
基本的には読んで、「ハイ終わり!」、で、自分の中に残るものを感じて、若干の余韻を楽しみ、次の本を選ぶ。(小説なぞ、そういうものではあるまいか。だから、最近、授業で小説をチャート化して教えることが苦痛に感じる。)
宇佐見りんさんは21歳だ。
『かか』で文藝賞を受賞し、さらに三島由紀夫賞を受賞した恐るべき若き小説家。
ほんとは『かか』を読むつもりで、紀伊国屋に足を運んだのだが、何を思ったのか、『推し燃ゆ』を購入してしまった。
推しが炎上した。
そんな文句が帯にでかでかと書かれている。
裏を見る。
「推しは命にかかわるからね」
生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たらなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど、調子のいいときばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。
現代だな。
と思った。
若いな。
とも思った。
やっぱり、純文学(申し遅れたが、この作品は純文学である)と若者の親和性は高いと思う。学生という内側に多くの悩みを抱えた生き物が、その悩みを言葉にすれば、最高の詩が完成すると私は信じている。若き悩める者はみな日の目の見ない詩人であるはずだ。
芥川賞受賞者の最年少は綿矢りさだ。当時19歳だ。次いで20歳の金原ひとみ。次いで23歳の丸山健二、石原慎太郎、大江健三郎。
対して直木賞受賞者の最年少は堤千代で、当時22歳。次いで朝井リョウで、23歳。次が27歳で、平岩弓枝。
以上から、大衆文学よりも純文学の方が若者は姿を現しやすいことがわかる。
また、芥川賞受賞とはならなかったが、候補に上った若き小説家は多くいる。
羽田圭介(2008年時点で22歳)、水原涼(2011年時点で21歳)、高尾長良(2012年時点で20歳)……。
と、まあ、いろいろ書いてきたが、ようは若い小説家は瑞々しい感性を働かせて清冽な文章を書いたり、ときには内面をえぐり抜き、真っ黒い何か(ほんとに“何か”であると思う)を吐露したり、それらが俗に言われる文学性というものとうまい具合に共振するのだろう。
……
『推し、燃ゆ』
改めて、タイトルがいい。
『パリ燃ゆ』から来ているのだろうか?
「推し」とは「アイドルの一押しのメンバー」のことを指す言葉。
「燃ゆ」は、「炎上」のことを意味し、その「炎上」というのは、インターネット上で批判が殺到するさまを指す言葉。
「推し」も「炎上」も、近年、誕生した若い言葉である。
さて、内容に関して簡単にまとめる。
「主人公のあかりはアイドルグループまざま座のメンバー上野真幸の追っかけをしている。あかりは彼を推しと称し、グッズを買ったり、ライブに行ったりと、いわゆるオタ活に興じている。その推しがファンの子を殴り、それで炎上した。しばらくして、推しはグループ活動を再開させるのだが、SNS上では非難轟轟。だが、あかりは推し変することなく、真幸を応援し続ける。……」
とまあ、これ以上先のことはネタバレになるので、やめておく。(だが、このあと、結局ネタバレをしてしまうわけだが)
Twitterでよく「今日も推しが尊い」とか「今日も推しごとしてきた」とか「推しと目が会った。死ぬ」とかそういったツイートをよく見かける。
私はそういった人たちを軽蔑はしていない(というか、私も一時期その気があったから)。
だが、そういった人たちを軽蔑するひとはごまんといる。
現実を見ろ、ということだろう。
実際、主人公あかりのバイト先のひと(幸代さん)から、「若いからいいけど、現実の男を見なきゃあな。行き遅れちゃう」と言われている。
だが、あかりにとって推しは光なのだ。
推しこそがあかりの「爪楊枝」並みのか弱い脚を支える強度な「背骨」なのだ。
あかりの脚が「爪楊枝」に例えられているわけは、彼女の先天的な病気に由来する(直接的には書かれていないが、おそらく発達障害)。
この作品のテーマを「ひとによって精神的支柱は異なる。それがたとえ手の届かないような場所にいても、こちらの期待にこたえてくれなくても、そのひとがそれを心のよりどころにするならば、それでいい。」と言ってしまうと、安直のように思えるが、私はそう読んだ。それ以上の読みができなかった。もっと深遠なテーマがこの作品にはあると思う。だが、今回は私はそれを発掘することができなかったのだ。
私は『推し、燃ゆ』を読み、ふとamazarashiの『僕が死のうと思ったのは』のフレーズが浮かんだ。
僕が死のうと思ったのは まだあなたに出会ってなかったから
あなたのような人が生まれた 世界を少し好きになったよ
あなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ
あなたのような人が生きてる
世界に少し期待するよ。
あなたがいるから生きていられる。
陳腐な気もするが、真理でもある。
その「あなた」があかりにとっては推しであったわけだ。
あかりはどこか生きるのが窮屈そうで、「死」を望んでいるようにも思える。
成美が「来てて偉い」と言ったのに対し、あかりは「生きてて偉い、って聞こえた一瞬」と言った。
その後、「推しは命にかかわるからね」とあかりは言った。
親に「働かない人は生きていけない」と言われ、あかりは軽々しく「なら、死ぬ」と言った。
だが、推しがいることで、生きていられる。
「推しは命にかかわるからね」というのは、一見軽そうに見えて、あかりにとってはそのままの意味だったのだろう。
『推し、燃ゆ』のAmazonレビューを見ていると、小谷野敦(比較文学者)がいた。恐らくニセモノではなく、ホンモノだとは思う。(個人的にはかなり苦手なひとであります。長嶋有の『猛スピードで母は』の書評で、昨今の交通事故死者のことをどう考えているんだ、といったトンデモなことを言っていたので……。じゃあ、自殺をテーマにした小説は? 殺人鬼が出てくる小説は? 人類滅亡小説は? って言いたい)
小谷野氏は本作を褒めている。
「表は発達障害の女子高生の推し芸能人にまつわる話。これだけでも読むに耐えるが裏は天皇小説。作者の全体に対する統御がすごい。」
天皇小説って何だよ。
あ
(以下ネタバレあり)
天皇ってそういうことか。
物語の最後で、上野真幸、つまり、あかりの推しは芸能界を引退する。
あかりの推しは「人」になる。
推しは人になった。
その一文を見返し、鳥肌が立った。
ああ、人間宣言だ。
神から人へ。
現代の玉音放送。
なるほど、天皇小説。
「推しは命にかかわるからね」
あかりは長い間、推しだけを頼りに生きてきた。部屋に装飾された推しのグッズ、推しの解釈をつづったブログ、推しのあれこれが書かれたノート……。
推しはまさにあかりの人生だった。
最後の場面はこうだ。
あかりは肉体の戦慄きにより、綿棒のケースを投げつける。
しばらくして、その散らばった綿棒を拾う場面である。
綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。
這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いていなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。
あかりは死なない。
それを確信した最終場面。
ニヒリズムからの脱却。
あかりは、健気で、そして、強い子だったみたいだ。
ただ、推しを失ったオタクの話であるはずなのに、心のなかが空っぽになってしまう、そんな虚脱感、そして儚さや悲哀を私は感じ取った。
【こばなし】
作者さん、SNSに造詣が深いんだなって思ったところが多々あった。
作中に、インスタライブやYouTubeのコメントが書かれているのだが、いくつか抜粋する。
〈DV顔だと思う人グッドボタン→→→〉
〈中途半端に陰キャなので沈黙〉
〈チケット売れてないからファン媚び必死だな〉
〈推しの結婚式に何食わぬ顔して参列してご祝儀百万円払って颯爽と去りたい〉
〈ファンのこと舐めすぎじゃない??????? あなたのために何万貢いだと思ってんの??????? は??????? せめて隠し通せ???????〉
〈元オタ友に解散してもセナくんは芸能界に残るからまだいいよねって言われました~ ^^ こっちはお前の推しのせいで自分の推しのアイドル姿が拝めなくなるんですけど ^^〉
〈オタク、いまから死ねば真幸くんの子どもに生まれ変われるくないか 来世で会おう〉
どれもリアル。
すごいリアル。
ファンの頭お花畑(怒られそう)具合も、アンチコメの嫌な感じも、ファンの激怒具合(個人的に、下から三番目のコメント。過剰に?使って怒りを表現するひといるいる!って思わず笑った)もすごくリアル。
このリアルさも相まってこの作品は切実さを帯びている。