菅野仁『友だち幻想』

 

 友だちのつくり方が判らない。

 ほんとうに判らない。

 判らなかった、ではなく、判らない。

 今も判らない。

 

 私はあまり友だちがいない。

 小学校、中学校はけっこう友だちがいた。部活、クラス関係なく。

 しかし、高校生になって、部活以外での友だちはあまりいなかったように思う。

 大学は自分の専攻以外に友だちと呼べる人はまずいない(0ではないが)。

 

 私に友だちが少ないのは、けっこう受け身になってしまっているからだと思う。

 自分から話しかけるといったことがまずないからだと思う。

 

 まあ、私の友達事情なんてどうでもよい。

 

 だが、子どもたちにとってはこの「友だち」事情は大きな問題である。

 

 

 

 

1.人は一人では生きられない?

 

 

 今の時代、別にひとりで生きていこうと思えば、生きていける。

 だが、だからこそ、ひととつながることが昔に比べて複雑で難しいのはもはや当たり前で、ひととのつながりがほんとうの意味で大切になってきている。

 

 つながり。

 

 どんなに孤独癖の強いひとでも、ずっとひとりぼっちだと、さびしいと感じるだろう。

 では、なぜひとりではさびしいのか?

 誰かとつながりを持ちたいという、その思いが人間の幸せをかたちづくっているから。

 そういえそうだ。

 だから、どんなにひとりが好きな人間でも、ひとりでいることにさびしさを覚えるのは、そういうのが理由なのだ。

(私だって、きょくりょくひとりでいるのが好きだが、ずっとひとりはさびしい)

 

 ということで、人間は根源的につながりを求める生き物である。

 しかし、つながりを求めることで、かえって傷つくことがある。

 ある程度社会経験を積めば、のらりくらりとかわせることも、若い人は真正面から受け止めがちである。クラス内での喧嘩や後輩先輩間の確執など、共同体の中でさまざまな問題が生じている。

 こういった問題は、「ムラ社会」という伝統的な考え方が生んだ結果である。

 だが、これはもう時代遅れな考え方であるのは周知の通りだ。ムラ社会的な考えは、家庭や学校や職場において、さまざまに多様で異質な生活形態や価値観をもった人々が隣り合って暮らしているいまの時代にフィットしない面がいろいろ出てしまっているのだ。

 このことから、以下のことが言える。

 

 共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでもいっしょにいる作法というものをきちんと考えたほうがよい、ということだ。

 

2.幸せも苦しみも他者がもたらす

 

 

「幸福」の本質的なモメント(契機)

①自己充実…「これは自分に向いているな」「やっていて楽しいな」と思えることに自分の能力が発揮できていれば「自己充実」というモメントを得ていると言える。

②他者との「交流」

 ㋑交流そのものの歓び…つながりそのものが目的

 ㋺他者からの「承認」…社会関係の中で、その人の活動や存在そのものが認められること

 

 と、いきなりチャート化したものを掲示した。

 

 後半に「他者」という語が出てきた。

「他者」とはつまり他人のことである。

 どんなに気が合う友人でも、いわば他者である。

そして、自分とは違う何かを持った「異質性を持った他者」である。

 その「何か」は性格であったり、価値観であったりする。

 とにかく同じ人物が地球上にふたりいるなんてことはない。

 異質性――自分とは違うんだ、ということを前提に考える。

 自分以外の人物は異質性を持った他者である。

 だから、たとえどんなに気を許せる仲間であっても、親であっても、「自分の気持ちを察してくれるはずだ」と思ってしまうのはあまりよくない。

 他者の存在を無視した傲慢な考えであるといえる。

 相手の他者性を理解しないと、ストーカーのような事案が起こってしまう。

 

3.共同性の幻想―なぜ「友だち」のことで悩みは尽きないのか

 

 Aさん、Bさん、Cさんは仲良しグループだ。

 ところが、Cさんがトイレでその場をいったん退けると、AさんはBさんにCさんの悪口を言った。

 ここで生じている現象は、スケープゴートと呼ばれるものである。

 スケープゴートとは、人びとの憎悪や不安、猜疑心などを、ひとつの対象に転嫁して、矛先をそちらにそらせてしまうことを指す。

 先ほどの例で言うと、AさんとBさんはCさんの悪口を言うことで、ふたりのその場の親しさを再確認しているのだ。しかし、この振る舞いは、ふたりの間に「今度はいつ自分が排除される側にまわるかわからない」という状況をつくりだしている。

 集団は、いつも関係を密にしていないと、いつ排除されるかわからないという不安がつきまとうのだ。不安になるから、群れる。それが遠巻きで見れば、「仲いい」というふうに思える。内実、とんでもない駆け引きが行われているなんてことはしばしばあるそうだ。

 この集団はいわば束縛である。この集団は「友だち」と置き換えてもいい。

昨今の若者たちは、友だちという存在に束縛されているのだ。

 LINEにおいて、すぐに既読をつけ、返信するというのも、その「友だち関係」を成り立たせなければならない(排除されたくないから)というプレッシャーに押された結果なのである。ほんとうは幸せになるための「友だち」や「親しさ」のはずなのに、その存在が逆に自分を息苦しくしたり、相手も息苦しくなっていたりするような、妙な関係が生まれてしまうことがあるのだ。

 まさに同調圧力だ。

 この同調圧力から逃れ、「並存性」を求めるべきなのである。

「一年生になったら、友だち百人できるかな?」

 このスローガン自体はいいことだ。

 だが、そのスローガンが最終的に子どもを追い詰めるようなことになるといけない。

「みんなの輪に入りなさい」という言葉を圧力に感じてしまう子だっている。

「あいつとは仲良くできない」と考えている子もいる。

 だが、「みんななかよく」という発想はムラ的な考え方だ。

 今やもうムラ的な思考はもはや時代遅れだ。

 近所のひとすら仲良くないという現状だ。

 クラスなんて単なる偶然的な関係の集まりだと考えるのが今の時代フィットしている。

 そういう達観した考えを持っていると、信頼できる子と出会えたなら、それはもはや「ラッキー」なことなのだ。

 とはいえ、クラス内に気にくわないやつがいることだってある。

 そこで前に書いたのらりくらりとかわすという能力だ。

 漢字二字であらわすと「並存」とか「共在」するということだ。

 ひらがな五字であらわすと「やりすごす」ということだ。

 ニーチェの言葉を引用すると、

「愛せない場合は通り過ぎよ」だ。

 

 筆者の菅野さんは教育現場においても

「あまり濃密な関係を学校空間の中で求めすぎない」

 と述べている。

 

 合わないひととは距離をとる。

 これって日常生活でけっこう必要なスキルじゃない?

 SNSクソリプに反応して、マジギレしているひととかにさ、必要じゃない?

 

4.「ルール関係」と「フィーリング共有関係」

 

 

①ルール関係

 他者と共存していくときに、お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係。

②フィーリング共有関係

 「僕たちは同じように考えているし、同じ価値観を共有して、同じことで泣いたり笑ったりする、結びつきの強い全体だよね」という感じの、フィーリングを共有する関係。

 

 学校という場はフィーリング共有性だけに頼るわけにはいかなくなっている。

 ルール関係をきちんと打ち立ててちゃんとお互いに守るべき範囲を定めて、「これはしていけない」というかたちで、現実社会と同じようにルールの共有によって、関係を成立させなければならない場になっている。

 フィーリング共有関係は「みんな仲良く」という幻想を前提にしているので、クラス内にこの考え方がそこにある限り、いじめはなくなることがないし、むしろ、その幻想によって苦しめられる子も出てしまうのだ。

 だが、だからといって「フィーリング共有関係」を完全に排斥するのはよくない。

 そこで「ルール関係」が求められる。

 

 つまりは、「ルール関係」と「フィーリング共有関係」を区別して考え、使い分けができるようになることが重要で、これこそ「大人になる」ということだ。

 

 だが、ルールはがちがちすぎるとよくない。

 ルールというのは、なるべく多くのひとが、最大限の自由を得られる目的で設定されるもの。「これさえ守ればあとは自由」というように、「自由」とワンセットになっている。

(自由とは、なんでもやっていいということではない。それだと、自分の利益のことしか考えない力の強いひとだけが得をしてしまう。それ以外のひとたちが不自由を被ることになる。ルールの共有性があるからこそ、自由が成り立つのだ。)

 

 ルールはがちがちにせずに、必要最小限にする。どうしてもこのルールだけは必要だ、といったふうに「ルールのミニマム性」を意識するのだ。

 何が大事なルールか、これだけは外せないものは何か?

 それを見つけ出したら、それをみんなできちんと守る。

 それ以外は、あまり硬直化しないよう、できるだけ広がりや融通をもたせていくこと。

 そうすることが、ルール共有関係を、より有効に構築するための作法だ。

 

 ただ、ひとによってルールに対する感覚がかなり違うということを理解しておくことも大切である。ルールに関しては、そういうものを守ることに抵抗感のないひと、さらにルールを守っていることそれ自体によろこびを感じるようなひとと、そういうものに縛られることをとても嫌がるひとがいる。あまりに無意味にルールを増やしていくと、集団や組織全体のモチベーションが下がってぼろぼろと脱落者が増えていく。そして、もっとも大事なものすら守れなくなってしまう。ルールを決める立場に置かれたひとは、そのへんの柔軟なバランス感覚が必要だ。

 

5.熱心さゆえの教育幻想

 

 先生は生徒の記憶に残らなくていい。

 

 本書にはそう書いてあったのだが、まさか、と思った。

 げんに、私が教師だから驚いたわけであるが。

 

 ふつうは生徒たちに通り過ぎられる存在であるくらいがちょうどいいそうなのだ。

 

 マイナスのかたちで記憶に残られるのはもちろんいやだが、だからといって、いいかたちで覚えられようとしなくていいそうだ。

 

 よく恩師との連絡がいまでも続いているといったことが美徳として語られるが、だからといってそれを目標にしなくてもいいのだそうだ。

 

 先生というのは、自分が帯びてしまう影響力の大きさと自分の影響力の責任の限界を、同時に見据えるクールな意識をもつことが求められているのだ。

 

6.大人になるということ

 

 

 大人になるということはひとくちで言ってしまうと「自立」するということだ。

 

 「経済的自立」と「精神的自立」。

 

 前者については説明を割愛する。

 後者について。

 筆者に言わせれば、「自分の欲求のコントロール」と「自分の行いに対する責任の意識」のふたつが重要な構成要素だそうだ。

 世間で指摘されるこのふたつ以外にもうひとつ。

「人間関係の引き受け方の成熟度」

 親しいひとたちとの関係や公的組織などで、ある役割を与えられたなかで、それなりにきちんとした態度をとり、他者と折り合いをつけながら、つながりを作っていけることだ。

 

 大人になるためには、「気の合わない人間とも並存しなければならないということ」、そして、「ひとには限界があるということ」のふたつが挙げられる。

 

 君たちには無限の可能性がある!

 

 このことばははったりだ。

 

 あまりこんなことを言ってしまっては、それを信じた子どもたちが、社会に出て、さまざまな憂き目に晒されてしまう。挫折してしまう、戸惑ってしまう、生きにくさを感じてしまう。

 

 その憂き目を筆者は「苦味」と呼んだ。

 この苦みというものをどうしても噛み締めざるをえないのが大人の世界なのだ。

 その苦みを味わう余裕ができてこそ、人生の「うま味」を自分なりに咀嚼できるようになるというものなのだ。

 挫折のない人生などない。

 表面上、とても明るい大人たちだって、かつては「苦味」を味わったはずだ。

 そうは見えないのは、彼、彼女のなかでその「苦味」を「うま味」に変えてしまっているからなのだ。

 

7.「傷つきやすい私」と友だち幻想

 

 ため口の生徒がいる。

 大人になってもそのままでは社会で苦労する。

 敬語が使えないから。

 

 だから、ため口の生徒を野放図にほっておくのは生徒のためにならない。

 

 ため口で話しかけられても注意をされない先生を「優しい」と言われるが、ほんとうの意味ではまったく優しくないのだ。

 

 でも、ため口の生徒がとある先生にため口で話して、「ため口やめなさい」と注意されたら、どうだろう?

 

 すいませーん、と軽く流す生徒もいるが、もしかすると、それを重く受け止め、その先生を避けるようになるかもしれない。

 

 そういった傷つきやすいひとが近年増えたように思う。

 私、HSPだ、というひとが増えた気がする。

(私自身、そうなんじゃないかと思っていた時期があった。)

 

 ひととつながりたい。

 でも、傷つくのはいやだ。

 

 二律背反。

 

 こんな自分とどう向き合うべきか?

 

 筆者の出したこたえは、「信頼できる他者」を見つけるということだ。

 私に似たひとを探す必要はない。

 そもそも、私以外みんな他者なんだから、「決して自分のことを丸ごとすべて受け入れてくれるわけではない」んだから、それを理解し、信頼できる異質性を持った他者を見つけるべきなのだ。

 

 ひとはどんなに親しくなっても他者なんだ。

 

 そういう意識をもって、友だちづくりに心がけるべきなんだ。

 

8.まとめ

 

 

 まずひとつ、

 

 共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでもいっしょにいる作法というものをきちんと考えたほうがよい、ということ。

 

 ふたつめは、フィーリング共有関係とルール関係のバランスよく並存させるということ。

 

 みっつめは、人生における苦味を自分のなかでうま味に変えるということ。

 

 よっつめは、ひとはどんなに親しくなっても他者だという意識をもって、友だちづくりに心がけるべきだということ。(傷つきやすい自分がひととつながりを持つために、そういった意識を持つことが大切)

 

 非常に読みやすい本書。

 

 人間関係に悩む子どもたちは本書を読むべきなんだろう。

 読書するひとが減ったというが、こういった本(処方箋)の有効性を知れば、どっぷりと本の世界にハマるに違いない。

 

 なんてことを、思った。