内田樹『街場の教育論』

はい、前置きなしにいきなりはじめます。

 

 

第一講 教育論の落とし穴

 

 

 「教育は惰性の強い制度である」と銘打った題から本書は始まる。

 教育は、入力の変化があってから、出力の変化が結果するまでに長い歳月がかかるものであり、辛辣な物言いかもしれないが、政策で「教育改革」が掲げられたとしても、失政を咎められることがないものである。

 教育とは、二、三年で施策が成功したか失敗したか議論ができないものなのだ。そういうわけで内田氏は「教育」について、自説の誤りの責任を取るリスクを取らずに、自由奔放な言い方ができるジャンルであるのだと述べている。

 

 そもそも教育の根本的改革は不可能である。

 

 教育を押しとどめるためには、「学校教育を一時停止」でもしない限り、それは不可能なことなのだ。たとえ、それをやったとしても教育水準に壊滅的な傷を残すことを、毛沢東ポル・ポトが歴史的に証明している。

 

「教育を改革する」ということは、学校への信頼と、教師たちの知的・情緒的資質への信頼を維持しつつ、それと並行して「学校制度の信頼するに足らざる点、教師たちの知的・情緒的な問題点」を吟味するということだ。

 

 教育改革の主体は教師自身だ。

 

 しかし、教師にいくら教育の責任を問うても、糾弾したとしても、パフォーマンスは向上しない。それどころかパフォーマンスは悪くなっていく一方だ。内田氏は「支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである」と述べている。そう言っていただけるのはたいへんありがたいことだ。

 

第二講 教育はビジネスではない。

 

 

学校は営利企業ではない。

 

 勉強の価値を実利(将来お金を稼ぐため、といった目的で勉強をしたりすること)に求めてはいけないように、学校に利益を追求するようなビジネス的なものを求めてはいけないのだ。

 

 ビジネスというのは、入力と出力の間の時間差がゼロであることを理想とする。たとえば、ある商品を開発するとする。企画が出されてから製品化され、市場に投じられるまでのタイムラグはできるだけ短い方が望ましい。

 

 教育は入力から出力までのあいだに、「時間がかかる」。それはそこを行き交うものが商品やサービスではなく、人間だからだ。

 

 内田氏がはじめに「教育は惰性の強い制度である」と述べたのは、「わずかな入力によっては変化しない」という意味なのだ。

 

 よく学校を卒業した人間が母校を訪れ、変わっていないことに感慨深くを思うように、また、変わっていたら寂しさを覚えるように、本質的に人間は変化を嫌う生き物である。「昔と少しも変わらない教育が行われていること」はその学校が社会のニーズや当節の流行にキャッチアップできないという「欠点」として見られるのではなく、むしろ時代を超えた価値をもつ教育を行っているという「長所」として解釈される。

 

 教育は何のためにあるのか?

 内田氏は面白い例をとっている。

 無人島に漂着した教師と子どもたちがいたとする。最初のうちはいっしょに椰子の葉で屋根を葺いたり、魚を釣ったりしているが、ある程度衣食のめどがついたら、教師は「そろそろ勉強を始めようか」と言い出す、というのだ。歴史、文学、神話、数学、天文学、美術、音楽……。

 

 それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからだ。「外部」との通路を開くことだからだ。無人島という閉鎖的な場所において、教育は無限的な開放をもたらす。「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのだ。

吉田松陰は獄中にいながらも勉強を続けたというのだ。彼の精神はこの理論に通じるところがあったのではないか、と思う。)

 

第三講 キャンパスとメンター

 

 

ユビキタス教育」

 インターネットを使って、世界中、どこでも二十四時間、三百六十五日、好きなときに、好きな仕方で教育機関にアクセスできるというシステムのことだ。

 本書ではサイバー大学を取り上げている。

 内田氏はサイバー大学について批判的な見方をしている。サイバー大学は「商品交換の 法則」に準じて制度設計されている点に関して、駄目だと言っている。つまり、課業として支払われた労働価値に対して、商品が「単位」というかたちがまさに「買い物」であって、「教育」ではないというのだ。

 

 それ以外にも大学は「巻き込まれる場」であり、漫画『ハチミツとクローバー』『もやしもん』におけるキャンパスのようなカオス的な空間が求められていると述べた上で、コンピューターの前でひたすら講義を受けるといった閉鎖的な物語がついぞ生まれなかったのは、漫画の本質である子どもたちの思い描く夢から逸脱していることを意味するとしている。

 

 今から書く内容は以前ブログで公開した「内田樹下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』」とほぼ同じ内容であるため、引用で終わらせる。

 

 気がついたらすでにゲームが始まっていて、自分はそこにプレイヤーとして投げ込まれている。

 

 そのゲームがいつ始まり、どういうルールで進められているのか、自分はまだわからない。でも、とりあえず誰かが僕にボールをパスしてくるし、パスされたボールを「こっちへよこせ」と目で合図してくるプレイヤーがいたりする。あるいは、血相を変えて襲いかかってくるプレイヤーがいるので、とりあえず逃げる……そういうことを繰り返しているうちに、だんだんとどういうふうにすればゲームが先に進むのかだけはわかってくる……。

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

 学びとは、そういうものである、と。

 

 ゲームに巻き込むひとを「メンター」と呼んでいる。

 学ぶものに「ブレークスルー」をもたらすのが「メンター」の役割だ。

「ブレークスルー」というのは、教育的な意味においては、「自分の限界を超えること」だ。それは自分の殻をぶち壊すと言ったことではなく、自分自身を見つめる「視点」が急激に高度を上げることだ。自分自身を「それまでより広い地図の中で」、つまり「それまでより高い鳥瞰的視座から」見返す経験のことだ。

 

 「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行する。この「巻き込まれ」が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければならない。自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」することはできない。それは「領地」を水平方向に拡大しているだけだ。

 

 「学び」とは「離陸すること」だ。

 

 それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離陸することだ。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることだ。自分自身の無知や無能を言い表す、それまで知らなかった言語を習得することだ。

 

 だから、永遠に変わらぬ自分という存在に外形的に装飾してくれるはずのもの、自分の「ものさし」でその価値が考量できるもの(知識、技術、資格、身分、年収、社会的威信)をひたすら希求するという考えに「学び」は無縁だろうと、辛辣にも内田氏は言うのである。

(近年、N高が評価されはじめている。IT化、グローバル化、コロナ禍といった社会的要因、環境的要因がその後押しをしている。N高に対する好意的な意見は「自分のやりたい勉強ができる」「学校の煩わしい制約から逃れられる」「多角的な視野が得られる」「ICT化もろくに進んでいない公立学校に比べ、最先端の機器を使って効率的に授業が受けられる」など、いろいろある。それに対し、批判的な意見は「人とのかかわりが少ない」「漫画的な青春が遅れない」「怠惰な人間は無駄な時間を消費してしまう」といったものだ。内田氏の理論をもとにすると、N高には「巻き込まれ」の機会が少なく、自分の「ものさし」でその価値が考量できるものを希求するという点から、結論的に言えば、否定的な見方がなされる対象になりうるだろう。私は「教育は機会の提供」(夏野剛いわく)だと考える節があるため、その学びたいものを選択し、学ぶというフリースタイルに、必ずしもN高に対し批判的な見方はしないが、人間関係の希薄さや従来の学園ドラマのような青春が送れないといった点、将来の自分像を高校生の時点で決めておかないと有意義にN高ライフを過ごせそうにない点に、疑念を呈している。きっと、従来の学校生活が嫌だとか肌に合わないといった人がN高に進学するといった選択権の広がりという点に大いに価値があるものだと思う。)

 

第四講 「学位工場」とアレクディテーション

 

 

 ビジネスと教育が違うのは以下の点である。

 

 ビジネスでは、何がどれだけいくらで売れたかということは緊急性の高い情報で、誰が買ったかというのは副次的な情報である。お金さえ払ってくれれば、その買い手が誰であろうがいいのである。

 

 ところが教育というのは属人的なもので、ひとりのひとが学校に通って手間暇かけて身につけた知識や技術や識見は、そのひとのものであり、とりあえずそのひとひとりにしか使えない。自転車やパソコンのように、「この知識、もう要らなくなったから君にあげる」といったことはできないのだ。教育で得たものは頭の中にあり、自由に出し入れすることはできない。だから、誰が教育を受けたのかということは、何を教育されたのかと同じだけ重要な情報である。

(この講では大学の話が多く、個人的に興味関心から外れたところが多いため、省略します)

 

第五講 コミュニケーションの教育

 

 

 教養教育・専門教育について。

 

 教養教育とはつまりコミュニケーションの訓練である。

 それも共通の用語や度量衡をもたないものとのコミュニケーション。

 専門教育とはつまり内輪のパーティーのことである。

 そこは「専門用語で話が通じる」場所である。あるいは「通じるところになっている」場所である。専門課程に進学して来たばかりの学生はわかったふりをしなければならないという場所である。

 だが、「内輪のパーティー」だけでは専門領域は成り立たない。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからだ。

 この他の専門家とコラボレートできることが、専門家の定義だ。

 裏を返せば、専門家というのは、他の専門家と共同作業をしないと何の役にも立たないのだ。自分一人で何でもできる専門家というのは形容矛盾である。「自分の専門領域での符丁が通じないひとたち」と密度の高いコミュニケーションができなければならない。

 繰り返しになるが、専門領域というのは「符丁で話が通じる世界」であり、そこで専門家は育てられる。しかし、「符丁が通じない相手」とコミュニケーションができなければ、専門家は何の役にも立たない。

 

 以上のことから、「教養教育」と「専門教育」はふたつが並行的になされなくてはならないといえる。

 「自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないもの」とのコミュニケーションのやり方を学ぶための教養教育。そこで自分と世界の違うものとのコミュニケーションを学ぶ。次いで「符丁を使って話す」仕方を学ぶ。そして、符丁で話してきたことを、「符丁が通じない相手」に理解させる。そこまでできて高等教育は目標達成ということになるのだ。

 

 我々は「専門的な知識や技術」をある程度身につけた。

 だが、それが「何のためのものか」を考える機会が与えられなかったせいで、その知識や技術を「どう使っていいか」が判らないままだ。

 他の専門領域とどういうふうにネットワークを組んで、どんな新しいものを生み出せる か、という「コミュニケーション」する仕方を知らない。

 「自分にできないこと」をきちんと理解して、「自分にできること」とリンケージ(連結)できること。内田氏の言葉を借りれば、「コミュニケーション・プラットフォーム」の構築。日本の教育プログラムにいちばん欠けているのは、この他者とコラボレーションする能力の涵養にほかならない、という。

 

 いまの日本では、学力の向上は「競争」を通じて達成される。

 だが、結局のところ学力は「相対的」に評価されるものであるので、自分がそれほど点数が高くなくても、周りが悪ければ、それだけで自分は勝者になりうる。だったら、競争相手の足を引っ張った方が合理的だとも言える。

 そういう観点で、学力は「競争」によって向上させるものではないと言える。

 むしろ、どうやって助け合うか、どうやって支援し合うか、どうやってひとりでは決して達成できないような大きな仕事を共同的に成し遂げるか、そのために必要な人間的能力を育てることに教育資源はまず集中されるべきだ、というのが内田氏の主張である。

 

第六講 葛藤させる人

 

 

 私はいま教師をしているが、今から「教師」という一般的なイメージという点から語るため、そこで語られるイメージとしての「教師」といまの「教師」としての自分は符合しないということをここで留保しておく。

 

 よく教師は言っていることが矛盾していると言われる。

 それは一個人の教師が日によって言うことが変わるという意味以外にも、Aという教師とBという教師では言っていることが違っていたりするという意味もある。自信は格差社会の低位に格付けている出世主義に対して常々反発していたのに対し、「才能のある子どもたち」を見出して、支援して、勉強させて、上級学校に通わせて、「立身出世」を遂げさせ、故郷に錦を飾らせようとするという行為については好意的であるという点においても「矛盾」である。

 だが、内田氏によればこういった「矛盾」は、論理的にはおかしいが、実感としてはきわめて切実であるのだという。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけないのだ。

 言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものなのだ。

 きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生ではだめで、子どもが真の意味で育つためには「葛藤」が必要なのだから、前述した論理のおかしい先生が必要とされるのだそうだ。必要悪のような存在が求められるのだ。

 

 子どもたちが長い時間をかけて学ぶべきなのは「すっきりした社会の、すっきりした成り立ち」(こんなものは存在しない)ではなく、「ねじくれた社会の、ねじくれた成り立ち」だそうだ。

(まあ、たしかにいくら世の中の嫌なことから目を遠ざけようとしても、結局は正視しなければならないときはいつか訪れるのだから)

 

 教育者は社会的に「ねじれた」位置にいるのがつきづきしい。

 なんとも嫌な言葉である。それに対し、首肯せざるをえないのも嫌なことである。

 

 学習者について少しだけ…。

「学び」の基本とは何か。

 わからないことがあれば、わかっていそうなひとに尋ねる。

 ただ、それだけである。

 合言葉は「知りません。教えてください」なのである。

「できること」をいくら列挙しても、今直面している問題は少しも解決されない。

 今、自分に足りないもの、自分ができないこと、自分が知らないこと。その欠如や不能ゆえに、現に困惑していること。それをきちんと言葉にしないと、「支援を求める」ということはできない。そして、その支援者(メンター)を見つけることはさほど難しいことではないそうだ。メンターを見つけたならば、あとは「その人を教える気にさせる」ことが求められる。ていねいに頼み込む。「いいから教えろよ」ではなく「お願いします」。

 

 最後にもう一度教師について…。

 教師がひとりの個人として何者であるか、ということが教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、「教壇の上には誰が立っていても構わない」ということなのだ。

 

 ジャック・ラカンは以下のように言う。

 

 教えるということは、非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということなど決してありません。

 

 先生が「知っているものの立場」に立っている限りは、子どもたちの「学び」の機会は担保されるということなのだ。だから、「でもしか教師」のもとでも一応は「学び」の機会は保障されたというのだ。

 

第7講 踊れ、踊り続けよ

 

 

 学びのプロセスの中にひとが巻き込まれるというのは、どこかに「巻き込まれる」ことを企画したり、設計したり、操作したりしている主体があるからではない。

 つまり、ひとを操作的に学びに巻き込む主体は存在しないのだ。

 

 教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身をもって示す、ということなのだ。

 

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができない。

 

 「私もかつては師の弟子であった」

 

 この言葉がキーになってくる。

 私には師がいた、というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのだ。

 つまり、学びの場というのは本質的に三項関係なのだ。

 師と、弟子と、その場にいない師の師。

 

 漢文で「子曰く」というのをよく見るだろう。

(「子」とは「孔子」のことです)

 実は、このフレーズこそが教えの基本なのだ。

 すべての重要な教えは「そのオリジナルはもう消失したが、それを聞きとった記憶は残っているので、それを祖述する」というかたちなのだ。

 仏教の経典、キリスト教福音書ユダヤ教のタルムード、イスラム教のコーラン

 すべて、預言者が記したものである。

 神自身が書いたものはない。

 

 確かに「私自身が私の語っている言葉の起源である」というよりも、「私は『先賢の語った言葉』を繰り返しているにすぎない」と言った方が信用されるだろう。

 また、教祖は人々の前で「奇跡」を起こすことを要求されるかもしれないが、祖述者は奇跡なんか起こす必要はない。「私の師は水を葡萄酒に変えた」とでも言えば、それだけでいい。

 

 教師が教壇から伝えなければいけないことはただひとつ。

「私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部にすぎません。師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです」

 それだけだ。

 自分の師に対する畏敬の念、それに比べたときの自分の卑小さ、それを聴き手に理解させれば、それだけでもう教育は十分に機能する。それはつまり「今私たちがいるこの学びの場は、『ほんとうの学びの場』の頽落したかたちにすぎない」と告げることだ。

(実際、学問というのは継承の連続なんだろう。先人が勉強したことを、引き継いで、それを引き継いで勉強をしたことを、また後の人が引き継ぐ。そうやって歴史の学習者たちが学問の領域を膨大にしていったことで、私たちはもはやどれほど頑張ってもひとつまみほどしか理解できないのかもしれない。)

 

 ブレークスルー(前述した)。

 これは「自分で設定した限界」を超えることだ。

 限界とは自分が作っている。

「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が私たち自身の「限界」をつくっている。

 一見、この「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているようで、実はうぬぼれているのだ。

 いったい、何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言えるのだろうか? 

 ブレークスルーとは「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価よりも上に置くということだ。それが自分自身で設定した限界を取り外すということなのだ。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることなのだ。

 

(本書は大きな章立ての中に、小さな章立てがいくつも立てられている。その中を取捨選択しながら、書いて行っているので、どうも点と点がつながらず、結果として無秩序にどうこう書いている気がする。)

 

 で、結局のところ、教師の仕事は「学び」を起動させることだ。

 自分が現に経験的に熟知している世界。リアルな世界。人々があくせくと働いて、愛したり、憎んだり、生まれたり、死んだりしている世界がここにある。それとは違う境位に、「外部」が存在する。そこに永遠の叡智がある。自分のいる世界とは違うところに叡智の境位がある。それを実感しさえすれば、「学び」は起動する。あとは、自分で学ぶ。

 その学びを起動させるのが、もう一度書くが、教師の仕事である。

(だからこそ、教師はたくさんの経験が必要になってくるんじゃないかな? 民間企業出の教師とか、地方公務員出身とか、はたまた元劇団員とか、そんな経歴を持っていたら、それはそれで唯一無二の経験を語れるという点ですごくいいんじゃないかな。だから、私はそういった唯一無二の経験を語りたいのだが、まったくエピソードがない。その点に不安を感じる)

 

第8講 「いじめ」の構造

 

 

 今から記すのは、私が今勤務している学校の生徒のこと。(抽象度を高く、かつ、事実とは少し変えて記述した)

 

 A:彼女はいつも陽気だった。だが、実はふとした瞬間に泣きたくなるそうだ。

 B:彼は授業中うるさい。元気だった。だが、ある日突然転学していなくなった。

 CとDは仲がよかった。だが、ある日、DはCのことが苦手だと言った。そんな告白を聞いた翌日、DはCと楽し気に話をしていた。

 

 彼らの行動や感情が理解できない。

 苦手ならば避ければいいのに避けようとしなかったり、ちょっとのことで世界の終りかのように嘆いたり(小学生ならまだありそうな話だが……)、内田氏の言葉を借りれば、彼らの「主観的合理性、内的論理」がどうしても見えてこないというわけだ。

 

 この「生徒が何を考えているのか、理解できない」というのは現場ではけっこう共通の理解として考えられている。だが、メディアや行政は「子どもたちの自主性を伸ばし、自分らしさを発揮させる教育」の必要を唱えるだけで、現場で起こっていることを見ようとはしなかった。内田氏はこの現場の無視が教育の崩壊にコネクトさせたと言っている。

(大人はよく「主体的な学びを!」と高らかに叫び、そのための実践授業例を提示したりするが、そこで想定される生徒というのは基本的に「いい子」たちであり、授業中にお菓子の交換をしたり、取っ組み合いを始めたり、小テスト中に話をしたり、奇声をあげたり、そんな子たちを想定していない。どんなに教えても同じミスをするような子たちを想定していない。できる人間はできない人間のことを想像することはできない。だが、想像しようとする努力が必要である。だが、想像すらもせず、できる人間のできる範囲での「教育」を提供することは烏滸の沙汰ではないだろうか? と、興奮気味に書いてみたが、あまりに無責任なこと言っているな)

 

 教育というのは、非常に複雑な構造をもった制度である。多様なファクターが関与している制度である。

 問題はきわめて複雑であり、どこから手を着けていくかよくわからない、というのが実際のところだ。

 

 いじめをなくすためには、いじめる人がいなくなればいい、というのは論理的だが、それが空想的なソリューションであるのは火を見るより明らかだろう。

 確かに、簡単なソリューションは知的負荷を軽減させる。簡単なソリューションで想定されているのは、「一つの諸悪の根源」である。(さっきの例で言えば、いじめの諸悪の根源は、いじめる人であり、だから、これを排除したり、更生させればいい、という短絡的な考え)

「これが諸悪の根源であるから、これさえ処理すれば万事解決する」という結論は前段から論理的には導かれない。でも、それは、「むずかしいことを考えたくない、知的負荷を軽減したい」という本人の無意識の欲望の効果だから、本人にはこの論理の飛躍は自覚されない。

 これこそが「犯人捜し」の文型である。

「悪いのは誰だ?」というかたちで問題に取り組もうとする。

 

 世に蔓延る教育問題はすべてが複雑である。

 簡単な解決策をぽいと出されたところで、それで万事解決なんて空中楼閣の極みなのだ。

 もちろん、文科省だって、クレームをつける保護者だって、みな教育制度を破壊しようという悪意を持っているわけではない。むしろ、それらは善意であるのだ。だが、その純然たる善意が事態をさらに悪化させている。内田氏はそう述べるわけです。

 

 要するに「われわれ全員が犯人」だという認識ぐらいがちょうどいいのだ。

「私には責任はない! 責任のあるものだけでなんとかしろ」

 という他責的な思考をしている人は無根拠で楽観的な人間で、真の意味で問題に立ち向かおうとしていないわけである。

 

 この章の名前は『「いじめ」の構造』である。

 内田氏はいじめの起こる構図はこうであると語っている。

 

 私はやはり今の子どもたちが「集団を形成すること」と「個体として孤立すること」の二つの要請を同時に受けていて、深い混乱のうちにあることが「いじめ」という病態の根底にあるのではないかと思います。

 

 子どもたちはまず「集団を形成すること」の楽しさを知る。他者と共―身体を形成する、ということだ。これによって自分が「大きなネットワークの中の一つの結節点」である感覚を学ばせるのだ。

 本来、その「集団の形成」を学ばせてから、「個性的であれ」と教えるのだが、現在の教育現場では「集団の形成」の術を学ぶと同時に「個性の発現」が課せられている。

集団でいることの楽しさを覚えている最中に、「他人にうかつに共感するな」と言われているものだ。それが「いじめ」につながる。際立って有徴な個体であれば「いじめ」の対象になり、際立って無個性的な個体であれば、やはり「いじめ」の対象になる。

 まさにダブル・バインド

 

 教室全体、学校全体に、広く社会全体に「準ーいじめ状況」が瀰漫している。

 あと一滴試薬を入れると、飽和して結晶ができるように、子どもたちの集団にわずかでも適応不足であっても、わずかでも適応過剰であっても、その子は「いじめ」の標的になる可能性がある。潜在的には全員が全員にとっての「獲物」であり、かつ「捕食者」であるというストレスフルな状況が今の教育現場を侵食している。

 

 で、これを解決するためには、「原子化、砂粒化、個別化せよ」という圧力をかけているグローバル資本主義の介入に対する「防波堤」の建築だそうだ。

 だが、その具体的な方策については語られていない。

 これからの課題だ、って感じで締められている。

 

第9講 反キャリア教育

 

 

 この講はそんなに……って感じ。

 やっぱ、私の興味関心の矢先が高校教育で、大学教育ではないからかな?

 まあ、著者が大学で仕事をしている身であるので、仕方ないとはいえ大学におけるキャリア教育の話が多く、斜め読みしました。

 

 でも、以下の話は印象に残っている。

 

 大手出版社の編集者四人に聞いた「面接の合否」について。

 

 結論から述べると、「会って五秒」で合格者を決めるそうだ。

 受験者がドアを開けて入って来て、椅子に座って、「こんにちは」と挨拶をしたくらいのところで、もう〇がつくか×がつくか決まっているというのだ。

 ×がついたら、あとは残り「いかに気分よく退室していただくか」のサービス時間だそうだ。就職試験に落ちた人もそのあとずっとその出版社の潜在的な顧客だから、「もう一生あの出版社の本は買わない」と決められるわけにはいかないからね。

 だから、感覚としては〇をつけられた人は「手ごたえなし」、×をつけられた人は「手ごたえあり」ってことになるのだ。

 

 で、前に述べた「会って五秒」というのは何を基準にしているのかというと、「この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか」ということだそうだ。

 

 受験勉強とは勝手が違う。

 個人の能力で評価されるのではない。

 互恵的な雰囲気を醸し出しているかどうかといった感覚的なものさしで評価されるのだ。

 

第10講 国語教育はどうあるべきか

 

 

 この講のタイトルを見て、「これは学び取りたい!」と思って、読んでみたのだが、結果として「うーん」って感じだった。

 うーん? うーん。

 

 教科書に掲載されている現代文、とくに評論文のうちに音読された場合の響きのよさやリズムを考えて採用されたものはほとんどないのでしょうか。

 

 と、現代文から「音楽性」が欠落していることを問題視しているのだが、

 

 うーん?

 

 正直、よく判らない。

 通俗的な言説ではないところには好感を覚えるが、国語に音楽性を持ち込むべきだという意見には賛同しかねる。その優先度はかなり低いものではないか?

 

 まあ、とはいえ、以下の論にはなるほどと舌を巻いた。

 

 古典は理解するものではなく、暗記するものだ。

 たとえば、「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」という古歌を暗記するとする。意味は別に覚えなくていい。

 で、何年後かして、ある春の日にその古歌が自らの実感として口から漏れ出ることがある。その瞬間に、歌と感覚の間に回路が繋がる。「静心なく花の散るらむ」とは「ああ、このことだったのか」と実感される。

 

 つい最近、古典の冒頭部の暗唱にいったい何の意味があるのか、と思っていたが、なるほど、そういう役割を担うのか、と以上の文章を読んで、いたく感心した。

 

 言葉を裏打ちする身体実感がないというその欠落感があるとする。(赤ちゃんとかそうですね。生まれてこの方、未知の言葉のシャワーを浴びせられる)

 それをずっと維持していると、ある日その「入れ物」にジャストフィットする「中身」に出会うことができる。

 これが言葉を学ぶということらしい。

 

 古歌に限らず慣用句やことわざでもそうで、そういった「言語的なひろがり」を持っていると、後々にある思いが湧いて、その思いを言葉にすることができるという状態がつくられるのだ。

 内田氏は、子どもの言語状況は「言葉があまって思いが足りない」というかたちで構造化されるべきだ、と述べている。美しく、響きがよく、ロジカルな「他者の言葉」に集中豪雨的にさらされるという経験が国語教育の中心であるべきである、と。

(私の家ではかつてトイレの壁とかに世界地図や慣用句一覧、四字熟語一覧が貼られていた。そのなかで「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉があったのだが、その言葉を響きだけで(実感として)覚えていたのだが、のちにめちゃくちゃ暑い日にふいにその言葉が思い出された。なるほど、あの言葉はこういうことなのか! と、言葉と身体実感が符合して、すごく感動した)

 言葉を知る、そして、その言葉を知ったことで、身体感受性は閉鎖的な日常的制約を超えて、「外へ」広がろうとする。

 これこそが「教育」のかたち、だというのだ。

 

 もうひとつ、「思いと言葉の乖離」という章はとても印象に残った。

 

 いきなり関係のない話をするが、伊藤計劃の『虐殺器官』でこんな言葉があった。

 

「思考は言葉に規定されたりなんかしない」

 

 とはいえ、思考と言葉が乖離することはしばしばあるだろう。

 実際、「こう言いたかったのに……」と心の中にあった思いと口から出た言葉が違うくて、人間関係が悪化したなんてよくあることだ。

 だが、現実の人間関係を決定するのは「そんなことを思っていなかった」という内面的真実ではなくて、実際に口に出されてしまった言葉の方だ。

 だが、実際「内面」よりも「言葉」が個人内では優先されているだろう。

 自分が口に出した言葉につられて、内面の怒りの感情が沸騰することだってある。

(友人に「A君いやなやつじゃない?」と言われ、友人の意見に賛同するために、別にA君のことは嫌いじゃなかったのだが、「たしかに、あいつ嫌い」といってしまえば、ほんとうにA君のことを嫌いになってしまうように)

 つまり、ある言葉を選択したことによって、その言葉にふさわしい感情が内面に形成される。

 そもそも言語というのは他者と分かち合うことでしか存立しない。

 対して、思いは「言葉にできないことがある」という事実そのものを言い換えた語にすぎない。言葉を発した後の「その言葉では汲みつくされていない何かがまだ残っている」という感覚が導き出したものなのだ。=幻影 といってもよい。

 

 結局のところ、「思いと言葉はつねに乖離している」ということなのだ。

 

 人が理解できないと言うのも当たり前だ。

 言っていることとやっていることが違うなんて当たり前だ。

 行動は基本的に「心」によって動くのだから。

 

 そう言う意味で、「思考は言葉に規定されたりなんかしない」のはたしかだ。

 思考と言葉は違う位相にあるのだから。

 

最後に

 

 

 第11講では、「宗教教育は可能か」ということを述べていた。

 この章は未読なのだが、まあいいだろう(いいのか?)。

 この本一冊で書きたいと思えるような内容に十分出会えたのだから。

 

 さて、まとめよう。

 講ごとに……というより、全体的に「ここは!」ってところを抽出して書いていこう。

 

・「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育の機能。

 

・「学び」とは「離陸すること」だ。それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離陸することだ。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることだ。自分自身の無知や無能を言い表す、それまで知らなかった言語を習得することだ。

 

・教育というのは属人的なもので、ひとりのひとが学校に通って手間暇かけて身につけた知識や技術や識見は、そのひとのものであり、とりあえずそのひとひとりにしか使えない。

 

・どうやって助け合うか、どうやって支援し合うか、どうやってひとりでは決して達成できないような大きな仕事を共同的に成し遂げるか、そのために必要な人間的能力を育てることに教育資源はまず集中されるべきだ。

 

・「学び」の基本とは、わからないことがあれば、わかっていそうなひとに尋ねるということだ。

 

・先生が「知っているものの立場」に立っている限りは、子どもたちの「学び」の機会は担保されるということなのだ。だから、「でもしか教師」のもとでも一応は「学び」の機会は保障されたというのだ。

 

・自分の師に対する畏敬の念、それに比べたときの自分の卑小さ、それを聴き手に理解させれば、それだけでもう教育は十分に機能する。

 

・教師の仕事は「学び」を起動させることだ。

 自分が現に経験的に熟知している世界。リアルな世界。人々があくせくと働いて、愛したり、憎んだり、生まれたり、死んだりしている世界がここにある。それとは違う境位に、「外部」が存在する。そこに永遠の叡智がある。自分のいる世界とは違うところに叡智の境位がある。それを実感しさえすれば、「学び」は起動する。あとは、自分で学ぶ。

 

・言葉を知る、そして、その言葉を知ったことで、身体感受性は閉鎖的な日常的制約を超えて、「外へ」広がろうとする。これこそが「教育」のかたち、だというのだ。

 

 いつか、noteで「教育」に関する知見をまとめたものを書いてみたいな。

 

街場の教育論

街場の教育論

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2008/11/15
  • メディア: 単行本