森博嗣『勉強の価値』

 今の自分のトレンド。

勉強に実利を求めるべきか、求めざるべきか、という問題についていろいろ考えている。

 たとえば、古典をなぜ学ぶのか? という問題について。

 実利という面では、学ぶ意義は見いだせない。

 だが、国語教育という面から語ると必要不可欠な教科である。

(詳しい理由は省略)

 

 勉強というのは、その行為に目的があるのではない。

 そう書いてあるのは、森博嗣『勉強の価値』。

 今日はこの本について述べていきたいと思う。

 

 勉強というのは、その行為に目的があるのではない。なにか、ほかの目的がある。そして、そのための過程が「勉強」と呼ばれているのである。だから、その過程を楽しめるかどうか、という問題は、本来の目的が見えていないわけで、そもそも問題でもない。どうでもいいことである。

 判りやすい例が載ってある。

 勉強の本質は「釘打ち」である。

 釘打ち自体に面白さはふつー感じない(感じる人もいる)が、釘打ちが「作りたいものがあるがゆえの作業」であるとするなら、その作業に面白さを見出すようになる。

 だが、「作りたいものがない」というなら、釘打ちに「面白さ」はまず感じないだろう。

 

 音楽に合わせて金槌を振り、楽しく釘を打ちましょうという指導が「勉強」の本質から外れたものであることは以上の例から判るだろう。だが,こういった「楽しく」勉強させることを目指そうとしている教員もいる。(私がそうだ)

 

 ということで、「自分が作りたいもの」を子供たちに考えさせ、その完成像をイメージさせながら釘打ちをさせていく、といった流れが教育現場では求められる。

(授業を楽しくするために授業内容と関係のない雑談をするというのは「勉強」の本質から外れている。そもそも授業を楽しくさせるためには子どもたちが「理解できた」と思ってくれる必要がある。「わかる」→「楽しい」であって、「雑談が面白い」→「楽しい」ではない。

 

 でも、自分が作りたいものなんて、未熟な子どもたちが見出せるのだろうか?

 だいたい、大人になってから勉強の価値を見出すものである。

 ということで、森氏も言っているが「勉強は大人のためのものである」、まさにその通りだと思う。

「大人になってから本当に楽しい勉強ができるための基礎体力をつけているようなものだ。」

    まさにその通りだ。(付和雷同

 

 

 

第1章 勉強とは何か?

 

 

 勉強はデータのインプット(知識の詰め込み)だけじゃない。

 たとえば、数学で解の公式を教えられたとする。その公式を丸暗記するだけでは意味がないのは明白だろう。解の公式を使ってあらゆる問題を解いていく。

 そこで求められるのは、知識の結合であったり、「気付き」(実はこれが大事)であったりする。つまりここでは解の公式を「覚える」だけでは意味がなく、それを武器として扱えるかどうかというもっと深い部分を「理解する」ことも必要となってくるのだ。

 記憶に偏った勉強ばかりしてもメリットは少ない。データの記憶や出力の正確さは、人間よりも機械の方がはるかに高い能力を持っているのだから。記憶能力が高いことで、クイズにいっぱい答えられるといったメリットはあるが、それ以外のメリットはないだろう。

 試験で高得点をとることだけが勉強の目的になってはいけない。「他者に勝つ」ことや「褒められる」歓びこそ感じるが、社会に出れば大きな壁にぶつかってしまう。

 社会は、試験のようなわかりやすいゲームの場ではなく、もっと複雑な問題解決の能力が要求される。多くの場合、新たな発想であるとか、創造的な思考を求められる。

(私が勤務している学校ではさまざまな問題がたびたび起こる。そういった問題の中で、ひとつの正解に導き出すような、そんな単純な問題の類はいっさいない。)

 

 だから、学生時代までの勉強から、大人になったら別の勉強をしなければいけない。

 その「勉強」というのは言い換えれば「仕事を覚える」になるかもしれない。

 

 「勉強」というのは「観察力・予測力・想像力」を養うものであると森氏は述べている。

 観察力というのは「広い視野」「俯瞰的な見方」であり、予測力・想像力というのは「あらゆるものを遠望する力」である。これらは「高い」位置だからこそ可能になるもので、そういった意味で「勉強は自分自身を高めることである」と言えそうである。

 抽象的な言い方だが、そもそも勉強の価値はその抽象性にある。

 

 森氏は大勢で同じことをする教育に対し批判的である。

 大勢が同じことをするから、どうしても比較されるのである。

 だが、勉強は他者と比較されるべきものではなく、本人のためになる行為である。

 自分自身の成長が目的なのに、成長が著しい低年齢のときに、他者と比較される場で教育が行われているというのは大きな問題である。これだけ科学が進歩した現在、集団で教育する必然性は薄れている。

(もちろん集団教育のメリットはある。個別教育では得られない知見もある。他者の意見交換であったり、自分の立ち位置を知ることができるといったメリット。学校という場に関して言うと、部活の存在、体育祭や文化祭といった集団で一致団結する行事)

 

 人が生きていくほぼすべての時間、人は常に勉強している。

 勉強とは先にも述べたが、自分を高める行為である。

 そして、人それぞれに、その人の勉強があり、その人に適した勉強法がある。

 小学校、中学校では、そういった個人差には目を瞑り、平均的なことを学ばせる。そうした経験をさせることで、個人それぞれが、自分の「勉強」を見つけることを期待しているシステムである。各自に「自分の勉強」を発見させる行為こそが、すなわち「教育」というものである。それを見つけた子どもたちには教師は不要(果たして?)! その領域に達した子どもたちはそこから真の意味での勉強を始めることになる……。

 

第2章 勉強は面白くない?

 

 

 楽しい授業をしてはいけない、と言われたことがある。

 その「楽しさ」が授業と関係ない部分であったり授業者の自己満足であった場合、確かに「楽しい授業」はしてはいけないのだと思う。

 そもそも勉強自体、楽しくないものであるから。

 勝つために苦しい努力をしなければならないように、勉強ができるようになるためには苦しさを味わう必要がある。

 

 普通に考えて1週間に30時間(6時間×5日)も勉強をしなければならないなんて学生はなんて不憫なんだろうか。

 これはいわば一方的に食べ物を食わされている状態に近い。

 知識の詰め込みだ。インプット。

 しかし、アウトプットもしていかないと、真の意味で知識は獲得できない。

(森氏は学校現場はインプットばかりでアウトプットの場はテストの時間しかないと述べているが、なんらかの発表であったり、グループワークであったりと知識をアウトプットさせる場もあるし、第一に宿題というのがアウトプットに値するのではないか、と思う。)

 

 まあ、アウトプットの場がテストであるにしろ、発表準備にあるにしろ、それが生徒にとっては嫌いなものであることは間違いないだろう。

 テストにしても、発表にしても、結局、学校からやらされている。つまり、外発的な力によってアウトプットをさせられている状態で、勉強が好きになる要素はそこにはない。勉強が好きになるには勉強した先に「知りたい」があるかどうかで決まる。「知りたい」が先にあると、おのずと勉強は好きになるそうだ。

 自分が目指しているものがさきにあれば、勉強は楽しいものになるし、たとえその時点では面白くなくても、のちのち役に立って、誰かに感謝したくなる体験も頻繁に訪れるのである。勉強とは、そういうものらしい。

 自分が何を知らないのかを知ることが、すなわち勉強。

(家族でクイズ番組を見るのだが、出演者がカンタンな問題を答えられなかったとき、家族は「えー」とか「馬鹿だよ」とか言ったりする。私はそれを不快に思っている。知らなかったことを詰るのは(しかもわざわざ顔と名前を晒して出演している芸能人に対して)どうかと思う。無知を責めることは劣等、と森氏は述べる。知らないことを恥じる人は多いが、それを隠して知ったかする方が恥ずかしい。それにソクラテスではないが、「知っていること」を深堀していくと、真の意味では「知らない」ことが露わになるのだから、知識のあるなしを非難したっていいことはひとつもないだろう。)

 

第3章 勝つために勉強するのではない

 

 時代錯誤だが、 「必勝」と書かれた鉢巻を頭に巻いて勉強するというイメージがあるように、勉強=勝負と捉えられることが多々ある。

 受験自体、競争だろう。

 だが、勉強とはあくまで自分を高める行為であって、誰かに打ち勝つためのものではない。大人になってから英語の勉強、PCスキル向上のための勉強をするひとがおおくいるが、彼らは別に誰かに打ち勝つために勉強しているわけではないだろう。

 残酷な実態だが、そもそも人間には個人差というものがあって、どれだけ努力しても才能ある者には打ち勝てない「天才の壁」というものがある。だからこそ、勉強を勝負として捉えてしまうと悲惨な一途をたどり得るのだ。

 人がどうであれ、自分は自分だという判断が必要となる。

 自分は、自分の満足のために生きる。それでいいじゃないか。

 

 これからは個人主義の時代であり、個人の才能をそれぞれに伸ばし、誰かが新しい創造や発見をすれば、その利益を大勢が享受できるという仕組みになっている。個人別々のことをする方が効率がいい。情報を共有できる時代なので、みんなが同じ場所に集合しなくていい。

 そんな世の中なのでおひとり様の「勉強」というのは、すごく大事なことである。

 

 それから、勉強は「教えてもらう」ことではない。教育とは、それを受ける側が「学びたい」「自分を変えたい」と思わない限り成立しないからだ。(まさにそうだと思う)電波を使って通信するようなもので、いくら送信しても、受信する側がスイッチを入れてなければ、なにひとつ伝わらない。どんなに素晴らしい教育方針があっても、なんら影響を与えることはできない。

 

 また、前に述べた通り人には個人差があるので、「無理に勉強しなくてもいい」ひともいる。

(私の学校の先生で「勉強なんてできなくていい」と言うひとがいる。学校の教師として、白い目で見られそうな発言だが、真理だとも思う。勉強こそすべてではない。そもそも勉強の価値なんて大人になってから気付くもの。受験勉強を日がな一日頑張っている人にとっても勉強の真の価値など見出していないはずだ。)

 社会では人を測るものさしを「勉強」にしているが、そのままじゃ勉強できない子たちが息苦しくなるだけだ。どんなに頑張っても点数が伸びない、そんな子は「勉強」を放棄してしまう。だが、それでいいじゃないか。その子が別にやりたいことを見つけ、それを極めるのも「勉強」だ。

(学校で苦手だった科目が少しできるようになったところで賢い人には到底かなわない。苦い汁を吸い続け、やっと人並みになるくらいなら、別のことに時間を費やした方がいいのではないか、と思うのは暴論だろうか?)

 

第4章 学校で勉強をする意味

 

 学校で行われる勉強について、よくひとは「個性の抑制」だとか言われる。学校における勉強は協調性の学習だというわけだ。

 筆者はこのみんなが足並み揃えて学習する、そんなシステムを古いと述べている。

 確かにN高校の教育実践とか見ていると、学校というシステムは旧式だと思う。わざわざ生徒がひとつの場所にやってきて、学力も違うのに同じ授業を受けさせられ、賢い人は授業に退屈し、成績の悪い人は授業についていけないみたいなことが起こっている。

 だから、自由な教育を! と筆者の森氏は求めているのだが、学校という体制は頭の固い大人が教育関係のトップにいるうちはそうそう変わらないと諦め半分でもある。

 

 とはいえ、集団教育にメリットもある。

 自分の相対的な能力を知ることができるという点だ。

 また、世の中にどんな人が存在しているのか、他の子どもたちはどの程度の能力なのかを知る機会として学校は価値あるものである。

 自分より能力のある子どもを見ることも勉強になるし、逆に自分より能力がない子どもを見ることも同じくらい大事な機会だ。

 かといって、みんな友だち! みたいなスタンスは正直気持ち悪い。

『友だち幻想』のときも書いたが、合わない人がいればスルーする必要がある。わざわざ関わりたくないという気持ちを押し殺してまで付き合う必要はない。

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

 とはいえ、これから社会に出て、人付き合いをしていかなければならないため、この「社会性」を育成するために学校はある。(N高校だって、引きこもって授業を受けられるが、なかには外に出て仲間とプロジェクトを始動させているひともいる)

 

 この章についてまとめると、学校を他者のなかで自分の立ち位置を知る場として捉えてもいいのかもしれない。よく勉強しろ勉強しろと教師に言われても、欠点さえとらなければそれでいいじゃないか、と私は思っている。

 本書ではないが、以下の動画を見て欲しい。

 

 ゆっくり魔理沙が言った「学校はその子がどうやって生きていくか決めるまで、できるだけ可能性を残しておくために行く」場所だというのはなかなか的を射ている意見だと思った。

 人生の中で一番バイタリティーがあってやりたいことができる期間って学生時代だから、その中で自分の進路につながる何かを学校の中で見出すというのはまさにその通りだと思う。勉強の価値に気付くのは後先のことだから、勉強以外の何かを見出したり、経験を積んだりする、そういったことが自由にできるのが学生だと思う。

(私はまったくそんなことをしてこなかったから、今苦しんでいるのです)

 藤原和博さんも言ってたが、子どものころは遊べ、これは「大人になったら遊べないんだから、子どもの内にいろんな経験をしておけ」ということなんだろう。

 

第5章 教えてもらうことが勉強ではない

 

 

 教えてもらう、つまり学習するというのはインプットである。

 教える、これはアウトプットである。

 インプットとアウトプットの黄金比は3:7。つまり、インプットよりもアウトプットが多い方がいい。

 そういった意味で「教える」という行為は学習にもってこいであるというのはうなずける。

 教えるためには幅広い知識が必要で、そのあたりも勉強しておく必要があるため、教育者が教育者たるためには相応の努力が求められる。

 かくいう私も教育者の域なのだが、過日こんなことがあった。

 持続可能性という言葉をわかりやすく説明するために、「持続可能なエネルギー」を例に出してみた。太陽光、風力、地熱など。だが、とっさに出てきたアイデアであったため(持続可能という言葉を深く吟味していなかったのだ)、太陽光発電がどういったメカニズムでエネルギーを得ているのか説明できなかった(もちろん、そんな説明をする必要などなかったのだが、『太陽光発電のような持続可能エネルギー』ということばを出してしまった手前、説明せざるをえなくなってしまったのだ。)

 

 勉強とは、結局は自分の頭を回すことである。

 こういった観点から、授業は一方的であり、双方向であったり、グループワークを取り入れたりする方が好ましいというのはさもありなんといったところだろう。

 だが、勉強とは頭を使って行うということなので、創造的な体験により得られるものであるとも言える。この「創造的な体験」とは、自分の頭の中から湧き出るもの、極めて個人的な体験であるため、理論的にはワンツーマンのような授業の方が真の意味で勉強できる環境であることは間違いない。

 そういったことから、森氏は「教師不要論」を唱えているのだが、私見では極論だと考える。だが、教師を必要としない学習者もいるのは事実だ。学ぶことが楽しく、自主的にあれこれと学んでいるひとは勝手に育つ。対して、勉強の楽しさを見出せない者は教師が必要である。

 

 この章のタイトルは「教えてもらうことが勉強ではない」。

 では、どういったことが勉強かといえば、「自分に問い、自分に答える」というものである。考える力はそれで鍛えられる。なるほど、それには納得いく。

 自分に問い、自分に答えることを怠ればどうなるか?

 教師の教えを心から信じ込み、自分で考えることができなくなる。

(最近中田敦彦氏のYouTube大学で嘘情報が多いと批判されている。中田氏の発する情報を思考停止ですべて鵜呑みにするのはよくないというのがよい例だ。私は一時期そのチャンネルを見まくっていた。見たのは『三四郎』『仮面の告白』『羅生門』『こころ』といったすでに読んだことのある文学作品の紹介動画であった。これら作品をここまで面白く紹介できるんだと感銘を受けた。私は中田氏の情報にデマがあることに対してはよくないとは思うのだが、ひとをひきつける能力の高さには敬愛している。)

 

第6章 「覚える」と「気付く」の違い

 

 クイズ番組にて

A:問題! 日本一高い山は?

B:ピンポン! 富士山!

A:正解 では次の問題! 日本で五十番目に高い山は?

B:わかりません

 

 わかりません?

 

 Bが言うべきは「知りません」であって「わかりません」ではない。

「知っている」と「わかっている」を混同している人が多い。

 勉強でデータをインプットしても、それは「わかった」とは言えない。「知った」ということになる。

 

A:不定方程式750x+232y=1について、これが整数解をもたないことを証明しないさい。

B:わかりません。

 

 これは言い方としては「わかりません」で正解。

 正解を教えると「なるほどなあ」と納得する。

 さらにこの問題では756と232の各々の最大公約数を求めてやる必要があった。

 それを知って、「気付かなかった」と言う。

 実はこの「気付く」ということが非常に重要だ。

 

 数学ではこの「気付く」能力が試される。

 

 私自身、思うのだが、どれだけ幅広いジャンルの知識を持っていようが、それを披露する場はあまりないのが現状だ。スマホで検索すればいい話だからだ。

 さらにそういった知識を持っていても、深堀されたら馬脚をあらわしてしまうのが関の山だ。

 たとえば、この写真に写る鳥の名前は? と尋ねられ、見事「ケツァール」と答えられえても、そのケツァールがどんな鳥で知らなければ意味がない。つまり、名前だけ知っているだけでは、それ自身を知っているということにはならないということだ。(まさにソクラテスにおける「無知の知」)

 名称なんぞ、外国に行ってしまえば無用の長物!

 それよりもその鳥の習性や、どういった飛び方をするのかを覚えたほうがいい。どこに行っても通用する知識だからだ。

(私はたまに日本史選択ではなく、世界史選択にすればよかったと思うことがある。世界史を覚えていれば、海外でもその知識が通用するからだ(別に海外へ行きたいという思いはないが))

  

「知った」と「わかった」の違いを理解したところで。

 本質的な意味で「理解」したことを確かめるために、講義後に質問をさせるということをした方がいいそうだ。

 たしかに、講義を通してなにか質問があれば書いて欲しいみたいなことを言われれば、講義を聞いていないひとはペンが動かない。また、聞いていても馬の耳に念仏状態のひともペンは動かない。だが、しっかり聞いているひと(もしくは聞く姿勢であり続けたひと)は何かしら書ける。

 最後に質問タイムを入れる授業というのは、生徒にとっては面倒なことかもしれないが、思考力を鍛えるためには必要な活動なのかもしれない。

 

 まとめ

 

 

 本書には第7章「本当の勉強はとんでもなく楽しい」というものがあるのだが、割愛する。だが、そのタイトルが雄弁に語っているように、勉強というのは結局のところ楽しいものである。だから、なんでもいいから勉強しなさいと森氏は掉尾を飾っている。

 ずいぶんと雑なまとめだなと思ったが、それに尽きるというのがほんとうなんだろう。

 学校の勉強、競争の為の勉強、人なみそろえる勉強、教えてもらう勉強。

 これらすべての勉強はそれが持つ「楽しさ」を奪ってしまう。

 

 私自身、学校でやる勉強は果てしないほどつまらなかったが、ひとりで勉強することはとても熱中できた。さらに自分の好きな分野を研究していくことはとても楽しいものだった(卒業論文の制作がそうだった)。

 勉強というのは、「やらされてやる」ものではないとはよく聞くが、その理論を紐解いていくと、「自分一人で問題を見つけ、その答えを見つけるために頭を使って考え、自分を高めていく」ことだと思う。

 

 勉強の楽しさ……これを伝えるためには、森氏はわれわれ大人が勉強する姿を見せて行かなければならないと言っている。

 漫画について楽しそうに語っていると、漫画に興味がない人が興味を持ち始めるように「楽しそうにする」(張りぼての「楽しそう」ではない)ことは大切なんだろう。

 

 

勉強の価値 (幻冬舎新書)

勉強の価値 (幻冬舎新書)