優越感はいらない―『おとなになるのび太たちへ』

 私はのび太が嫌いだ。

 馬鹿で、のろまで、どんくさくて、泣き虫で、すぐにドラえもんに頼って……

 

 私はのび太が嫌いだった。

 私が眼鏡があまり好きではないのも、襟つきの服を着たがらないのも、実は野比のび太が嫌いだからだ。

 昔から、嫌いだった。 

 嫌い、嫌い、嫌いだった。

 

 のび太が「嫌い」な理由は、のび太が馬鹿で、のろまで、どんくさくて、泣き虫で、すぐにドラえもんに頼って……そんなやつだから。

 いや、そうじゃないはずだ。

 

 私自身、どんくさくて、泣き虫だったし、根性なしだったし、人に頼ってばかりだったし……そんな弱い人間だったから、のび太を見ていると、自分のそんな弱い部分と重なって、自己嫌悪につながっていたのかもしれない。

 

『おとなになるのび太たちへ』

 

 のび太たち。

 

「子どものころ、僕は“のび太”でした」

 

ドラえもん』の作者、藤子・F・不二雄先生はそう語ったそうだ。

 

 もしかすると、ほとんどのひとは小さいころのび太」だったのかもしれない。

 

 そんな「のび太」から卒業し、おとなになる。

 そんなひとたちへ送る著書。

 

 梅原大吾梶裕貴菅田将暉、田村優、はなお

 など、いろんなひとが『ドラえもん』を通じて伝えたいことを書いているのだが、全員が成功者であるため、ナンダカナアと思えるところも多々あった。

 

 その中でも、辻村深月さんのチャプターはよかった。

 

『ぼくよりダメなやつがきた』

 

 というお話について。

 

のび太の学校に転校生がやってくるところから話は始まる。名前は多目くん。ダメな子だと言われるのび太よりも、さらにダメな男の子。のび太は彼の登場に大いに喜ぶ。

「ああ、なんてすばらしいことだろう。この世にぼくよりダメな子がいたなんて!!」

 のび太は多目くんといっしょに勉強したり、遊んだり、親切にする。しかし、その「親切」は多目くんの失敗や間違いを喜ぶためのもので、本当の意味での「親切」ではない。

 のび太はいつもダメな奴と言われ続けて来たことで、もっとダメな奴が来たことがうれしくて仕方ないのだ。

 しかし、ある日、忘れ物をしてふたりで廊下に立たされ、のび太が「(これからも)そろって0点とったり、忘れ物したりさ、なかよくいこうよ」と申し出ると、多目くんは「そんな…。ぼくはできれば百点とりたいし、忘れ物もしたくない」と答える。のび太はそれに対し、「なまいきだ。ぼくにさからうなんて」と腹を立てる。

 そんな折、ジャイアンスネ夫から野球に誘われたのび太は自分が失敗するのが怖くて、とっさに「かわりに多目くんさそったら?」と言ってしまう。すると、家に帰るなり、「どんなゲームになるやら。想像するだけで笑っちゃうよ。アハハハ。」と言う。それを見かねたドラえもんは「配役いれかえビデオ」という道具を出し、のび太の配役をスネ夫、多目くんの配役をのび太にして、どう映っているか検証する。

 そのビデオを見て、のび太は自分がしたことの愚かさを恥じ、野球でへまをやったことでジャイアンに責められていた多目くんが殴られそうになっていたところを、「多目くんをすいせんしたぼくの責任だ。」と彼をかばう。

 最後は、多目くんがまた転校するということで、のび太に「いままで、きみほどなかよくしてくれた友だちはいなかった。……きみのことを忘れない。」と言って、別れを告げる。

 そんなお話。)

 

 自分より「ダメ」な相手の存在に安心し、無意識に下に見てしまう、いわゆる優越感に浸ってしまうことへの愚かさを抉り出したお話である。

ドラえもん』というお話は、主人公がのび太であるため、ふつうのび太に共感したりするものだ。(私は幼少期この話を読んだことがあるが、のび太のひどさに腹立てていたと思う。この「腹立ち」はもしかすると自分にもそういったところがあって、それはとどのつまり自己嫌悪・同族嫌悪に似た思いだったのかもしれない。)

 辻村さんは大人になってこの話を読み返して、多目くんのことが気になったそうだ。

 のび太は勉強はできないし、運動もできない、ドジだし意気地なし、しかし、あやとりはうまいし、射的もうまい、いざというときにふりしぼれる勇気がある。それと同じように、多目くんも、学校の勉強はできないし、ドジなところはあったが、もしかすると、学校や子どもの世界の物差しでは測れなかった、どこか別の部分にいいところをたくさん持った子どもだったのかもしれない。そう思っているそうだ。

 

 辻村さんは小中学校で成績優秀だったのが、高校に入って、成績が一気に下がったそうだ。自分が「できない」子になってしまった気がしてショックを受けてしまったそうだ。

(私自身、そうだった。今まで勉学優秀だったのが、高校に入って凋落。その絶望感たるや)

 そんななか、辻村さんはある子に出会う。彼女は成績がとびぬけていい「一番」の子で、難しい問題もひとめ見ただけでたちどころに解けてしまう、そんな子だそうだ。彼女がすごいのは、優秀なのに、人を見下したりせず、親切に接してくれるところだったという。

 そんな彼女は高校卒業してからしばらく経って、こんなことを言ったそうだ。

「高校であなた(=辻村さん)に出会って、すごくショックだった」

 どうやら当時から、辻村さんは小説を書いていて、将来は小説家になりたいと話していたそうだ。

「将来の夢って、いつか自然と決まるものだと思っていたんだけど、なりたい人はもう始めているんだって思って、すごくショックを受けた。あせったけど、すごい人がいるんだって思ったことで、じゃあ、自分は何をしたんだろうって考えられて、気持ちが楽になった」

 学校という場所にいると、どうも勉強やスポーツ、社交性やリーダーシップといったものさしで価値をはかられてしまいがちで、その価値判断によって、「いい子」「ダメな子」を峻別される傾向がある。

 しかし、世の中には、もっと広い範囲にたくさんの価値観があって、そこで「できる」もまたたくさんある。

 ……そう考えると、「優劣感」なんてどうでもいいものなのかもしれない。