土井隆義『友だち地獄』

 


『友だち地獄』

 ちょっと前に紹介した『友だち幻想』よりドロドロとした嫌なリアルが書かれている。

 

 

1.いじめを生み出す「優しい関係」

  現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感を買わないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。

 土井氏はこれを「優しい関係」と呼んでいる。

 この「優しい関係」を取り結ぶ人々は、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなければならない。そのため「優しい関係」は、親密な人間関係が成立する範囲を狭め、ほかの人間関係への乗り換えも困難にさせる。関係の維持にだけエネルギーを使い果たしてしまうからである。

 この「優しい関係」こそ、いじめを生み出すものである。

 友だちとの衝突を避けるために、若者たちは「共話」を用いる。

「とりあえず、食事とかする?」「わたし的にはこれがいい、みたいな?」

 そんな曖昧表現を多用するのだ。断定表現は使われず、相手との微妙な距離感を保とうとする、共話(=織井優佳の言葉)。

「優しい関係」にはらまれる対立点の表面化を避けようとするテクニックだ。

 言い換えれば、対立の火種を抑え込もうと躍起になって重くなってしまった人間関係に、風穴を開けるためのテクニックだ。

 

 現代のいじめの特徴として、土井氏は「被害者の不特定性」を挙げている。

 内気だからとか、元気だからとか、そんな属性関係なく、いじめの対象はころころ変わる。

 つまり、いじめは流動的であるというわけだ。

 これを受け、2006年に、文科省はいじめの定義を変更した。

「自分より弱いものに対して一方的に、心理的・身体的な攻撃を継続的に加え」という文言が外され、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と再定義されたのだ。

 

 また別の特徴として、傍観者の存在を挙げている。

 いじめの被害者、いじめの加害者、それをはやし立てる観客と、そして、無関心をつらぬく傍観者。このいじめの外側を覆う無関心層の厚さが、外部からいじめを見えにくくしている。無関心層の生徒はきっと主観的にはいじめに対して距離をとっているつもりなのだろうが、その態度がいじめを見えにくくしている。つまり、いじめに加担しているといえよう。

(つまり、いじめが起きた場合、クラス全員に働きかけを行うべき理由はそれなんだろう。いじめの当事者だけに働きかけても意味がない)

 

 いじめはしばしば遊びモードで覆われる。

 そのため、これは遊びか、いじめか見分けにくいこともある。

 被害者の側もまた、その行為を楽しんで見えることすらある。

重松清の『青い鳥』にて、いじめられている生徒が笑っていることで、いじめている側は「楽しんでいるんだな」と思い込む描写がある。

その心理は以下の通りだろう。

 

 いじめの意味を遊びのフレームへと転化させ、自分を茶化してみせることで、人間関係の軋みを覆い隠し、見るに忍びない自分のすがたを避けようとしていたのではないだろうか。

 

 土井氏は「~だろうか」という推定の書き方をしているが、私としては断定してもいいのではないかと思う。いじめられている側はいじめられていることを惨めだと思うあまり、それを遊びだと自分に言い聞かせ、少しでも自分を保とうとしている。

(自分だって、中学生のころ、「これいじめかな?」って思っても、「やめろよ」と笑ってみせたことがあった。)

 

 「いじめ」から「非行少年」の話に変わる。

 そこで非行少年たちも実は過剰な気遣いを繰り広げていると述べている。

 むしろ、その気遣いゆえ、非行に走っているとも。

 内部の人間関係の維持だけで疲弊し、外部の人間にまで気を回すだけの精神的余裕が残されていないのだそうだ。そのため、被害者に対する感受性が欠落してしまっている。可哀そうな話である。

 自らの存在根拠の脆弱さを補うため「優しい関係」の重圧下をやむなく生きている非行少年たちは、その傷つきやすく脆弱な自己の基盤を守り、その肯定感を少しでも増やすために、「優しい関係」を巧みにマネジメントしていくことで、仲間内での対立を避けようと躍起になっている。

(よくSNSで阿保みたいなことをして炎上しているひとがいるが、そういったひとたちは、ノリが悪いやつだと思われたくなくて、とどのつまりつまらない人間だと思われて排斥されたくなくて、人間関係を保ちたくて、仕方なく阿保なことをしているのだろう。

 私自身、昔、友だち間でとあるゲームアプリがはやり、そのアプリをやっていないと流行遅れだという風潮があったので、そのアプリをインストールしてやっていた時期があった。楽しそうだからやるじゃなくて、やってないといけないからやる、の感覚)

 

 そもそも、いつからいじめ問題が出てきたのかというと、1980年代辺りだそうだ。

 土井氏は、学校現場に新しい理念が持ち込まれてきた時期と「いじめ問題」が現れた時期が被っているのは偶然ではないという。

 新しい理念。

「生きる力」「考える力」「個性の重視」である。

 これらには明確な評価基準、判断材料がない。目標達成のための具体的な方策もわかりづらくなる。子どもたちは、自分の潜在的な可能性や適性を自らが主体的に発見し、それぞれの個性に応じてそれらを伸ばすように求められる。

 つまり、子どもたちは、自分で自分の価値観をつくりあげなければならなくなったのである。子どもたちは「自分探し」を始める。従来の個々の違いをある程度は抑制しつつ、教師は教師としての役割を、生徒には生徒の役割を期待するという形式的な関係が壊れ、教師と生徒の関係において内発的な衝動や直観にもとづいた感覚的な共同性が望ましい人間関係の在り方として称揚されるようになった。

「内発的な衝動や直観にもとづいた感覚的な共同性」

 こんなものは不安定である。人間関係を不安定にさせるものである。関係に相手とのあいだに対立や軋轢を生じさせるものである。しかし、その対立や軋轢を怒りとしてストレートに表に出すことができないのが「優しい関係」を築いている昨今の子どもたちである。だから、内部にあらゆる感情がたまりにたまって、苦しむことになる。

(型にはまった生き方をするもの何となく嫌だが、かといって「自分らしさ」や「自分の価値」を主体的に見出さなければいけないというのも大変な話だ。土井氏は、従来の教師―生徒関係に好意的であり、昨今の教師―生徒関係に否定的であるが、私は従来の関係も昨今の関係もどちらも必要だと考えている。なかなかずるい解答です)

 

 対立を避けようとする「優しい関係」。

 では、むかついたときはどうするのか?

 そもそも、「むかつく」とは「怒りを爆発させにくい相手や状況において、こみあげてきたものが吐き出せないときに、「ムカつく」という感情はわきあがるそうで、基本的にその当人や事物に怒りを向けられなかったとき、その後に用いる言葉であるそうだ。

(確かに、相手に対して「ムカつく」ってあんまり言わない? 松本人志はよく言っているけど)

 だから、怒りを相手にぶつけることのできない「優しい関係」を築いている子たちは「ムカつく」ことで、怒りを内部に留める。溜め込まれた感情のエネルギーは、その放出先を求めて、いじめのターゲットを探し回ることになる。相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、自分の責任をできるだけと割れないようにする「自分に優しい関係」でもある。だから、意図せずしてこの「優しい関係」の規範に抵触してしまった者には激しい反発が加えられる。いじめの対象もそのなかから選ばれるのである。

(いじめはなくならない。言ってはいけないことだろうか? だが、いじめという問題は人間関係がある限り、絶対になくならないものなんだろう)

 

 参考ブログ

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

2.リストカット少女の「痛み」の系譜

  高野悦子二十歳の原点

 南条あや卒業式まで死にません

 高野悦子は、二十歳のとき、貨物列車に飛び込んで自殺している。(1969年)

 南条あやは、十八歳のとき、精神薬を大量服用して中毒死している。(1999年)

 彼女たちの生きづらさがつづられたのが、前に挙げた二作である。

 

 この章は極めて細かい分析が行われているのだが、それをすべて記すとなると、なかなか大変なので、「自傷行為」についてだけまとめていきたいと思う。

 

 高野の陳述。

 

 カミソリをあてて思いきり引っぱった。赤い血がみるまに滴となっていった。〈中略〉私の肉体に真っ赤な生々しい血が流れているのである。巨大な怪物の前に自分が何をやりたいのかもわからず、自分を信じることができず「私はこの部屋の王様である」なんて言っている奴の中にも、真赤な血が流れているのである。ただ生きるために酸素と栄養分をもち身体のすみずみまで血が流れているのである。

 

 南条の陳述。

 

 血が見たくてしょうがなくて、しょうがないので注射針で血を抜いてみました。頓服のレキソタン飲めってカンジですが、我慢できませんでした。(笑)結構ゲージ数の大きな針なので血管をホンの少し破っただけでビヨーーーっと血が噴き出します。因みに両肘内側の普通採血検査をする血管で遊びました。静脈の血は黒い~暖かい~ってカンジです。〈中略〉両肘内側が注射針の痕だらけになりながらもまだ血が見たかったので右手首の手のひら側手首真ん中の血管に針刺してみて血を抜いてみました。手首がジャンキーです。

 

 いずれも鋭い痛みを感じさせる文章である。

 だが、痛みの種類が異なる。

 高野の場合、自傷される彼女の身体は、彼女の思想の対象であり、思想する自己に従っている。彼女の自己は、彼女の身体感覚を超え、それを支配する主体として感じ取られている。彼女の痛みは、その主体の痛みである。

 主体的に生きていくことの困難さ、すなわち主体の空虚感こそ、彼女の主体の痛みの内実である。

「私は今生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。〈中略〉悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない」

 と、あるように、彼女にとって、生を実感し得る自己は、身体感覚を超えて存在すべきものである。その自己の実感を得たいがために、彼女は自傷行為に手を染める。自らの生々しい身体感覚を経由することによって、その先にあるはずの自己の感触を得ようともがいている。

 対して、南条の場合。自傷される南条の身体は、彼女の自己そのものである。つまり、自らの存在を確認するために血を見る必要があって、痛みは直接的だと言える。

「怖いのです。何にもなれない自分が、情けなくて申し訳なくて五体満足の身体を持て余していて、どうしようもない存在だということに気付いて存在価値が分からなくなりました。」

 と、書いているのだが、彼女の自己は、個々の身体感覚のなかへ溶け込んでいる。ただ、彼女のもつ痛みは、瞬間的にしか実感されえない身体感覚のはかなさであり、それゆえの冷淡さである。その瞬間的にしか実感されえない身体感覚をなんとか覚醒させ続けたいという思いが彼女の中にあった。

 

 いずれにしても、高野も南条も、どちらの自傷行為も、決して死を希求したふるまいなどではない。むしろ、その行為の外見とは裏腹に、生の実感を希求してのふるまいである。

 高野は、生の感触を媒介にしてその背後にある自己を確認しようと自傷

 身体を超越し支配する主体としての高野の自己像。

 南条は、生への刺激を直接的に自己へ与えようと自傷

 身体そのものに溶け込んで拡散している南条の自己像。

 ……両者、かたちは違えど、生きづらさを感じていた。

 

 また、生きづらさについて、高野はこうも述べている。

 

 今日の収穫は何か? 何もない。〈中略〉すべて無目的で気分的な行動で一日がすぎている。このような生活に慣れて時間を空費していることをふと恐ろしく思った。精神的に未熟なまま生活力もないのにこれから何十年間、人なみに結婚し、子供を産み、育て、母になり、おばあちゃんになるのかと思うと、何だかぞっとする。

 

 いつの時代もそうなのか?

 私はこの文章に深く共感した。

 今、自分は大人である。しかし、心は学生時代と何も変わっていないじゃないかと思うのだ。小さいころは大人になったら、自然と立派な人間になるものだと思っていた。イメージとしては、ある地点で、心が大人モードに切り替わるみたいな。だけど、実際、そんなことなかった。それが怖い。こうして、今、若さを浪費しているというのも怖い。

 この怖さはいわゆる生きづらさであり、それは「自分が今後いかに変わっていくことができるか」に関わっていている問題である。

 対して、南条はそれとは違うベクトルの問題を抱えていた。「自分が今後いかに変わらないでいられるか」という問題である。

 

 とにもかくにも私は我慢をして、自分の幸せをつかみ取りたいと思っています。これから専門学校に行って就職して親の元から離れるまで、私の心は冷凍保存しておくことにします。

 

 高野は「人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ」と述べ、

 南条は「私が我慢していくの。私が我慢していくの。もうすぐ社会にでられるでしょう」と述べている。

 そのことからも、高野は変化を求め、南条は不変を求めていた。

 

 また、南条はこう書いてある。

 

 私は人に構って欲しいというきらいがあるからこうやって「死ぬ死ぬ死のう」と書いたり、リストカットをするのかもしれません。そうです。本気で死にたかったら簡単です。高いビルから頭を下にして飛び降りればいいし、家の中でもドアノブとベルトがあれば一五分人に見つからないだけであっさりと終わります。発見者のトラウマにならないように目はセロハンテープ、口はマスクでふさいで結構前にトイレに行けばオールオーケー(だと思う)万が一〔ダンス競技会の〕学年代表に選ばれてしまっても、班員一人が死亡で欠けたダンス、インパクト強くていいカンジです。

 

 自己承認への欲求。

 承認して欲しい。その思いが、死亡後に発見される自分の師劇的な身体、自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けた男子のステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じ取っていることからうかがいしれる。

 

(こんなこと書いたらアレなんだが。もし自分が死んだら……とよく考えるが、一番に思うのが「自分が死んだ後の世界を見たい」ということだ。自分の死により、自分を知っている人間が少なくとも自分という存在について考えてくれたら……瞬間的でもいいので考えてくれたらいいな、と思うのだ)

 

 今度は、高野の場合。

 こっちも承認欲求だ。

 

 狂人になり、精神病院で暮せるようになれば幸い。そしたら私は全く自由になるだろう。

 

 高野は、重苦しい人間関係からの避難を可能にし、自律的な自分を確保し得る場所として、精神病院への入院に憧れを抱いていたのだ。

 

 高野と南条の間には三〇年の壁がある。

 それぞれ、自傷行為の痛みは違うし、変化を求めるか不変を求めるかの違いもあるし、自律したいという思いと自分を認めて欲しいという思い違っているし、しかし、「生きづらさ」だけは変わっていない。

 石川啄木が「なにをすればよいのか 分らぬが とにかく なにかしなければならぬ という気に、うしろから 追ったてられて いる 〈中略〉 安心は どこにある? 病気をしたい。この希望は ながいこと 予の頭の中にひそんでいる」と書いているように、その頃から「生きづらさ」はあった。

 生きづらさはどんな時代でも感じるものなのかもしれない。

 しかし、高野と南条の心理から判るように、何が「生きづらい」と感じるのかは時勢によって変容しているようだ。

 

3.ひきこもりとケータイ小説のあいだ

 『恋空』とか昔あったよね……。

 ケータイ小説

 もう今では廃れちゃっているけど。

 とはいえ、『君の膵臓を食べたい』とか『君は月夜に光り輝く』とか『桜のような僕の恋人』とか『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない。』とか、そういった難病物の小説の系譜はきちんと受け継がれている。

 スターツ出版メディアワークス文庫集英社オレンジ文庫

 以上のレーベルから出ている「ライト文芸」が今はやり。

(大学二年生のとき、小説をまっっったく読んでいなかったため(当時、三島由紀夫すら名前を知らなかった男です)、さすがにヤバいかなと思い、まずライト文芸を読んでました。今は読まなくなったけど。なんか、読みやすさはあるけど、設定が似たり寄ったりだったり、文体に面白みがなかったり、登場人物の言動がよく判らなかったりと、そういったところが気になり始め、宮本輝とか重松清とか荻原浩とか読むようになったんだよな)

 

 あとは、異世界転生ものはやっているよね。

 異世界に生きたい、という願望が世間にあるんだろうな。

 異世界に行くためにはまずトラックに轢かれるといった装置がある。

 自殺願望じゃないこれ?

 自殺して、さあ現世よりもいい世界へ!

 現実逃避だよね。

 

 まあ、いいや。

 

 当時、ケータイ小説が一世を風靡したのは、当時の若者が「純度100%の私」を願っていたからではないかと予想される。人気になったケータイ小説は、基本純愛物語であり、当時の若者たちはその物語に「理想の人間関係」を見出したのだ。我々は、互いの利害関係や既存の役割関係にとらわれない純粋な人間関係こそ、この世界でもっとも貴いものだと感じている。純粋な関係への期待値が上昇しているのは、それだけ純粋な自分への希求が強まっているからである。

 

 ここで土井氏は「反社会」「非社会」「脱社会」の違いについて述べている。

・反社会…ある規範の存在を認めた上で、それに対して攻撃に出る態度

・非社会…ある規範に対抗できずに、むしろ逃避しようとする態度

・脱社会…そもそも最初から規範の存在を認めず、そこから離脱してしまうような態度

 つまり、例を挙げると「暴力=反社会」「薬物乱用=非社会」「売春=脱社会」である。

 土井氏はケータイ小説で見られる純愛物語は、その冒頭からすでに社会性を欠落させており、脱社会的な筋立ての展開に終始しているという事実は、それらの読者の求める純粋さが、きわめて内閉的な志向をもったものであることを示唆している。若者たちにとって純粋さとは、身体のように生まれながらに与えられた絶対的なものである。だから、死や病気といった生物学的で絶対的な障壁が、その純粋さのレベルをさらに高次元へと押し上げることになる。

(なるほど。昔、ヤンキー漫画とかヤクザ系の漫画とかが人気だったのは、若者たちが、社会の不純さと対立し、それを排除することで、純粋さを練り上げようとしていたからである。しかし、時代はやがて、純粋さに対する憧れが身体性に結びつくようになった。今でも、『キミスイ』が人気を博したりしている通り、ケータイ小説は廃れたにせよ、純粋さと身体性がコネクトしているのは火を見るよりも明らかだろう)

 

 さて、さっきから「純粋」がどうのこうのと陳述してきたが、今度は「純粋な自分」にまつわる問題について書いていく。

 身近な人びとに対して過剰な優しさと過敏な配慮を示すのは、それが自らの存在根拠そのものに関わるものであるからだそうだ。だから、彼らは、人間関係のマネジメントに互いの神経をすり減らし、その関係に少しでも傷がつくと、たちまち大変なパニックにおちいってしまいやすい。その関係の傷は、自らの存在基盤を脅かすような重大事だと感じられるのだ。

 例を挙げる。学校内でとある生徒が教師に叱られたとする。それは生徒としての自分が否定されたのであって、人格を否定されたわけではない。しかし、昨今の生徒(この本が上梓されたのは2008年だが、今も変わらないと思う)は自分の全人格が否定されたかのように思ってしまう。つまり、教師からの何気ない一言に大いに傷つきやすくなっているのだ。

(これはHSP気質な子が増えたということだ)

 経験的にも言えることだが、傷ついた生徒は決して表には出さず、その教師に反抗したりしない。必死に「純粋な自分」を守ろうとする。そして、純粋な自分に強いあこがれを覚える若者たちは、かえって自分を見失い、自己肯定感を損なうという事態に陥っている。それゆえ、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まっている。しかも、自分の本質を生まれ持った固有のものと感じているため、付き合う相手もそれと合致した人でなければならないと考えるようになっている。こうして、互いの関係も狭い範囲で固定化される傾向にある。しかも、その閉塞的な関係の中で、周りからつねに受け入れてもらえるように、自分のキャラを巧みに演出しなければならない。たとえ、そこに自己欺瞞を強く感じようとも。

 以上のことから、若者たちのコミュニケーション能力が低下してしまったのではなく、葛藤の火種が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な距離感覚をそこに作り出そうとしているのだ。互いに傷つくのを回避しようと、あえて儀礼的な希薄な人間関係を保とうとしている。

 ひきこもりの問題も、この「純粋な自分」を願いながら、自己欺瞞に満ちた人間関係を営んで行かざるを得ないことへの矛盾から生じたものである。いい人間関係を築きたいが、そのためにはキャラを演じる必要がある、しかし、純粋な自分を願っている、……この板挟み状態というか、葛藤というか、そういう悩みゆえ、他人とのコミュニケーション回路を断ち切り、ひきこもってしまう。そうなってしまえば、他人から承認されることもなくなり、自己肯定感は下がっていく。

 

 土井氏はかつて若者たちは「私を見るな!」と叫んでいたのが今では「私を見て!」というふうに変容していることを指摘している。

 確かに、第二章で見た高野と南条の違い。高野は生きづらさについて筆記で日記を書いていたのだが、南条はWebで自身の生きづらさをつづっていたのだ。このことから、高野からは別に誰に見られなくていいというまなざしの拒否が伺え、南条からは誰でも閲覧可能なWebというかたちで公開することでまなざしを欲していたことが伺える。

 今ではSNSで「死にたい」とかリストカットの写真を載せたりるひとがいる。そういった子たちは、誰かに見て欲しいと願っている、あわよくば助けて欲しいと思っている。

 

(私の心の中には「見て欲しくない」と「見て欲しい」の思いがそれぞれ同居している。眼差しは怖いが、眼差しを欲している。これはひとりになりたいが、なりたくないというアンビバレンスな心を持っているということだ。)

 

(シン・エヴァンゲリオンを見たのだが、シンジの気持ちにすごく共感できたところがあった。「僕なんて放っておいてよ」と心を閉ざすシンジに、トウジやケンスケ、レイなどが彼に近づこうとする。それでも優しくしてくれる彼らに(正確にはレイに)、シンジは「放っておいて欲しいのに。どうしてみんな優しくしてくれるんだよ」と言う。結局、シンジはひとりでいたいと思いながらも、人の温もりを感じていたのだ。最終的にシンジは「涙で救えるのは自分だけだ」とかっこいいことも言う。大人になったんだ、シンジは。)

 

安部公房の『箱男』を卒論で書いたからこのまなざしをめぐる問題に一家言がある。安部公房の時代のはなしである。都市化によって匿名性が高まり、それゆえどこから目線を感じているのか分からなくなった。つまり、その当時はまなざしは「悪」のような描かれ方がされていたということだ。

 今も監視社会まっただなか、まなざしは「悪」のままのはずだが、インターネット・SNSがその様相を少し変えたように思える。インターネット・SNSにより、ますます匿名性が強くなったように思えるのだが、実は知らぬ間にその匿名性を帯びたまなざしが誰かの救いになっていたのだ。そう考えると、インターネット・SNSも悪くないのかもしれない。)

 

4.ケータイによる自己ナビゲーション

  この章では俗にいう「ガラケー」について述べられた文章である。

 スマホが普及した昨今でも共通する話題ばかりだったので割愛せずに記述する。

 

 スマホを「コミュニケーション・ツール」だと考えても、まあ差支えはない。

 しかし、この「コミュニケーション」の意味は、「意味伝達」というよりも「接続」といった感じではないだろうか?

 これには異存がないと思われる。特に若い世代の中では。

 

 スマホは他人とつながるためのツールでもあり、同時に自分の内面が外部世界とじかに触れあうといった意味で「つながり」のあるツールでもある。

 土井氏はケータイを「身体性を持つものだ」と述べている。なるほど、ケータイを肌身離さずに持ち歩いていることから、さもありなんだ。そして、スマホも同じく肌身離さず持ち歩いている(それどころか、「NOスマホNOライフ」状態だ)ため、身体性を帯びていると言える。もはや、スマホは身体の一部だと言っても過言ではない。それも他人とふれあい、自己承認を得るためのメディアである。ガラケー時代は「デコ」(まるで化粧やネイルをするかのように:その意味でも身体性を帯びていると言える)が流行り、その過剰な装飾は心の風景をあらわしていたと土井氏は分析している。過剰の装飾(かつてなら山姥メイクとかそうじゃないか?)は昨今さほど見られないが、それでもスマホカバーで自分の色を出そうとしたりしているようにまったくなくなったわけではない。

 

 また、土井氏は以下のようなことを述べている。

 

 ケータイ・メールを代表とするネット・コミュニケーションでは、相手の表情や仕草、声色といった言葉以外のさまざまな情報が抜け落ちてしまうので、双方のあいだに誤解が生じやすく、フレーミング(炎上)と呼ばれる衝突が起きやすいとよく指摘される。しかし、このようなネット・コミュニケーションの特徴を裏面からみれば、じつは自分に都合のよいように情報を解釈できる可能性が高いということでもある。

〈中略〉

 自己と他者のあいだに合わせ鏡のような関係が築かれるのだが、じわじわと相手との違いが露呈していくことはめったになく、ズレが溜め込まれて最後にフレーミングという決壊の瞬間を迎えるまで、互いの異質な部分は隠蔽されるか、無視され続けていく。

 

 SNSをめぐる問題を見事言い当てている。

 これは十年前から変わらぬ問題だったことがわかる。

 伝達手段がメールからLINEに成り代わっても、結局、文字だけで話をしていることに変わりはないのだし、他者との微妙なずれが生じるのも運命である。

 

 ただし、LINEにしてもメールにしても、そこで語られるのはわりと「本音」である。対面で話すよりも「本音」である(ことが多い)。

 言葉にはできない内発的な衝動や直観のなかに「純粋な自分」が宿る。そのため、言葉ではなく体によって生きづらさを表現しようと少女たちはリストカットを繰り返す……みたいな旨を前に書いたが、これはLINEやメールといった言葉を媒介とした会話が「本音」であるということに矛盾はしない。じっさい、LINEやメールでは言葉を媒介としながら、言葉の重要度が低いのだ。一昔前ならメールで絵文字だけで会話していたように、今ならLINEでスタンプだけで会話しているように。

最果タヒの『きみの言い訳は最高に芸術』に収録されている「言葉は表情」にはこう書かれている。

 

「うれしい」「たのしい」「かなしい」「むなしい」

 こういう言葉は実は感情ではなくて表情を表す言葉でしかないのかもしれない。

 

 絵文字が好きだ、笑ってる顔だの怒っている顔だの、そういうのをそっと添えた文章を見たときは、なぜか、相手の内側まで勝手に見ようとする自分がいなくなる。

 

 最果さんは、言葉だけ見ると、その裏にある感情を推測したくなるそうだが、絵文字を見ると、その推測を止めてくれるそうだ。目の前で笑っているひとに「ほんとうはさびしいんでしょ?」と言えないように。

 このことからも、LINEやメールにおいて、言葉はさほど重要ではなく、絵文字やスタンプといった非言語のほうが重要なのかもしれない。)

 

 しかし、内発的な衝動や直観には持続性も安定性もない。そこに根拠を見出そうとする純粋な自分は、その時々の状況に応じて気分もうつろいやすく、一貫性に乏しい。つまり、断片化した自己は「いま」にしか強いリアリティを感じ取ることができなくなる。つまり、つねに「いま」が濃密な時間でうまっていないとい安心できず、空白の時間を極端に恐れるようになる。

 さて、そんなふうに一貫した自律性を保つことが困難だから、その自分を支えるために、具体的な人間からのサポートを絶えず必要とするようになってしまった。スマホにしてもケータイにしても、つながる相手の都合をさほど気にすることなく、自分の置かれた状況にもあまり左右されることなく使うことができ、しかも、両者身体性の強いメディアであるため、たえずその揺れ動く不安定な自己のサポートにふさわしいメディアとなっている。つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている。

 

 まあ、近年はTwitterやインスタといった、従来のメールやLINEのような自分と相手だけの双方向のものでもなく、掲示板のような匿名性のあるものでもない、知人から知らない人まで幅広く文章や写真などを公開することのできるSNSが普及したことで、前に挙げた「つながりたい」「承認されたい」といった欲求を従来に比べてドストレートに表現できるようになった。それどころか「優位性」を示したい(つまり、マウンティング)という人間も出てきた(だが、それは結局、自分を認めて欲しいという気持ちの裏返しなのだろうが)。

 

5.ネット自殺のねじれたリアリティ

  ネット自殺という言い方は旧式な気がするが、今でもネットが原因で自殺をするひとは少なくない。実際、プロレスラーの木村花さんがSNS上で誹謗中傷を受けて自殺をしたというニュースもあった。

 社会経済学者の佐伯啓思氏はこう語る。(かなり古い資料だが、言っていることは今も同じだ)

 

 自殺のような決意した死には、いわば「形」と「意味」がやはり必要だと思う。だが、この「形」と「意味」がほとんど失われてしまっている。〈中略〉自殺率の増加そのものというよりも、その「形」のなさこそが今日の病理を示しているように見える。

(「高自殺の時代」『読売新聞』夕刊、1999年8月5日)

 

 自殺者自体の数は基本的に減少している(令和2年については、コロナによる会社の倒産、及び、解雇などで生活苦になり、自殺するひとが多かった)。

 

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 本書は平成20年に書かれたものである。上のグラフから、その自殺者の数の多さから、かなり重度な社会問題だったと言える。

 

 ネット自殺集団の「形」のなさについてふたつ特徴が挙げられている。

 ひとつめ…

 とりたてて生活の困難を抱えているわけでもないのに自殺するのはなぜかという、動機をめぐる不可解さ。

重松清『ルビィ』にて、ルビィはリストカットをして死んだ。いわば自殺なのだが、自殺した理由を彼女はこう語った。

「理由なんて、なかったよ」

 

「軽かったの、命が。だから風に吹き飛ばされちゃった。それだけ」

 

「死ぬつもりなんて、なかった」

 

「疲れちゃってただけなんだよね、生きることに。だから、ちょっと休もうかなって、ほんと、それだけだったんだよ」

 

「だから、ほんと、軽かったの、生きることも死ぬことも」

 

 ……実際、ルビィの自殺の契機になった事件などなかった。

 ほんとうに、死んだ理由は「なんとなく」だったみたいだ。

 リストカットをしたのも興味本位で死ぬつもりなんてない。

 そんなふうになんとなくの行為により死んでしまったのだ。)

 

 ふたつめ…

 ネットで募った赤の他人といっしょに自殺しようとするのはなぜかという、過程をめぐる不可解さ。

 これは正直、今の時代あまりないのではないか(半ば願い)。

この話を聞くと、アニメ『妄想代理人』を思い出す。その中の「明るい家族計画」という話。これは奇妙な話である。

 かんたんにその話の概要を話すと、「ゼブラ」「かもめ」「冬蜂」の三人が、いろんな方法で自殺を試みる話である。で、この三人の名前から見当がつきそうだが、これらはハンドルネームであり、この三人はインターネットのチャットを通じて集まったのだ。みな「自殺をする」という目的をもっている。

 ほかにも『自殺サークル』なんて、集団自殺を描いたB級映画なんてものもある。しかし、これはある程度人間関係ができた者同士が自殺を遂行している点からさっき前に挙げたような、先日まで見ず知らずの赤の他人だった者同士で自殺を行っているわけではない。土井氏が「不可解」といっているのは、集団自殺の「集団」が「インターネットで募った赤の他人同士」という点だ。

 

 そもそも、なぜ若者は自殺するのか?

 生活苦という理由ならわかる。(わかる、と書いたが別に自殺を推奨するわけではない。論理として整っているというわけだ。)

 しかし、生活苦でもないし、人間関係にも恵まれているのに、「死にたい」と思うひともいる。

 その理由を評論家の芹沢俊介はこう語る(これまた古い資料)。

 

 おそらく若い自殺者たちの共通にかかえる苦悩があるとすれば、この世に生まれたことに意味を見いだせないことではないか。

(「ネット心中を考える」『読売新聞』夕刊、2003年7月1日)

 

 まあ、ここで若者の自殺ばかり問題にしているが、芥川龍之介が「唯ぼんやりした不安」で自殺している。いつの時代も、なんとなくで自殺をするひとはいるということだ。

 そして、そういった「生の名状し難い空虚」をもったひとたちがオウム真理教に入信したりする(「孤独」に煽られて、ナチス(という権威)に信奉するのと同じメカニズムだろう)。

 この「生の名状し難い空虚」という言葉は、現実の生に対するリアリティの薄さを反映している。ろうそくのほのおのように、ふっと息をふきかければ消えてしまう、そんなうつろな生の感触しかないから、それを消すのにも大きなエネルギーを必要としない。

(まさに、前に挙げた重松清『ルビィ』のルビィの言っている通り。

「軽かったの、命が。だから風に吹き飛ばされちゃった。それだけ」)

 土井氏はその一方、マスメディアで大々的に取り上げられることを期待して自殺するひともいると述べている(それはじっさい2003年に起こった男女七人が集団自殺した事件からそう述べている。彼らは「新聞に載りたい」「どうせ死ぬのなら、大げさに取り上げてもらいたい」といった自己顕示欲を見せたそうだ)。

 

 話は少し変わる。

 トラウマについて。

 たとえば、現在の生きづらさが衝撃的な過去の出来事のトラウマによるものだと専門家に診断されたとして、その診断のおかげで自分の生きづらさの原因がわかり、その苦しみからいくぶんかでも解放されたとする。楽になれたのは、はたして専門家の診断が正確に真理をついていたからだろうか? 

 ここで大切なのは「トラウマをもたらした出来事が真実だったかどうか、あるいはトラウマという心の状態が真理であるかどうかではなく、むしろトラウマという心の状態についての説明が、現在の自らの生きづらさを語る根拠として納得され、積極的に受容されえたという点」にある。

 トラウマは、いまの自分が本物であることを示してくれる品質保証ラベルのようなものである。自分ではいかんともしがたい生きづらさの根源をそこに求めることで、現在の生の意味を少しでも確認することができる。

(これは自分の無能さを肯定するために、自分は「発達障害」「ADHD」ではないかと疑うメンタリティに似ている気がする。)

 残酷なのは、自分にトラウマなどないのに「生きづらい」ひと。そういったひとは過去に悲惨な出来事を求めるのではなく、近未来に「極度に暴力的な現実(悲惨な出来事)」を求める。

 

 前に佐伯氏の言葉を引用したのだが、そこで「自殺に『形』『意味』がない」といったことを述べた。これはいわゆる現実世界に対するリアリティの欠落にもつながる。つまり、現実世界を全否定してしまっているのだ。これによって、アニメなどの虚構の世界に逃げ込んでしまう、なんて事象が多々ある。しかし、それができないひとは、この現実世界を認識する自分の殺害によって、リアリティの欠落した現実世界を終結させようとする。いわば自殺である。

 そもそも、この「現実世界に対するリアリティの欠落」とは、何から生じるものなのだろうか?

 土井氏は「自らの存在根拠について周囲から何も期待されていないと感じてしまう彼ら自身の自己イメージの低さ」だと書いてある。言ってしまえば、自己肯定感の脆弱性なのだが、

 じゃあ、なぜ自己肯定感は低いの?

 若者の側が「純粋な自分」への憧れ(前に述べた通り)というかたちで、「潜在的な可能性を秘めた自分は高く評価されて当然だ」という内閉的な自己期待感を、周囲からの評価とは無関係に高めているから、である。

 

「自分は特別だ!」と思い込む → 自分への期待値が高い → 周囲から注がれる具体的な期待とのギャップ → 自己肯定感が削がれる

 

 以上の流れ。

異世界転生ものが流行ったり、「俺TSUEEEE」系が流行ったりしているのは、以上の流れを見たら首肯できる。異世界転生の「俺TSUEEEE」系はまさに「肥大化された『俺は特別だ』という感覚と周囲の評価のズレを苦に虚構に逃げ込み、満たされなかった自分を満たそうとしている」のだ。)

 

 純粋な関係への若者たちの欲求が高まった結果、「生きづらさ」を抱えるはめになった。そこには「コミュニケーションの不和」は実は存在していなくて、むしろ、「コミュニケーション」に対する期待値が上昇したというわけなのである。

 

 この章の最後に、土井氏はこう語る。

 

 今後、ネット集団自殺が減っていったとしても、それは、現代を生きる若者たちの抱え込んだ生きづらさが解消されたからではない。そうでなくて、問題を解決する手段として、ネットが有効なものとは認識されなくなっただけである。

 

 実際、ネット集団自殺なんて話は昨今めったに聞かない。

 しかし、若者たちは相も変わらず「生きづらさ」を感じている。

 これは果たして土井氏が言うように「生きづらさ」を解消するために「ネットが有効なもの」だとみなされなくなったからであろうか?

 私はそう思わない部分がある。

「生きづらさ」を感じ、それを直接的でないにしても、告白する場は、リアルよりもSNSである方が敷居は低いし、「あなたのいばしょ」というチャット相談できるサイトだってある(以下にその概要について語られた動画を載せる)。

 少し前はわからないが、技術の進歩によって、インターネットがそういった「生きづらさ」を解決してくれるツールになってきたとも言える。もちろん、インターネットがかえって人心を害するものになり得るという事実を忘れてはならない。

 

最後.

 

 長く書きすぎたため、ちょっとまとめてみようと思う。

1.いじめを生み出す「優しい関係」

・周囲の人間との衝突を避けて人間関係を営もうとする「優しい関係」を取り結ぶひとたちは、その関係の維持にだけエネルギーを使い果たしてしまう。この「優しい関係」こそ、いじめを生み出すものである。

・いじめは流動的である。誰が被害者になるか判らない。

・いじめの傍観者の存在が外部からいじめを見えにくくしている。

・いじめは遊びモードで覆われるため、いじめか遊びか見分けがつかない。

(被害者は、いじめの意味を遊びのフレームへと転化させ、自分を茶化してみせることで、人間関係の軋みを覆い隠し、見るに忍びない自分のすがたを避けようとしている。)

・いじめの問題は「生きる力」「考える力」「個性の重視」という新しい理念が教育現場に持ち込まれたことと連関する部分がある。

 

2.リストカット少女の「痛み」の系譜

 ・高野と南条の「生きづらさ」の原因やその実態は異なるものだが、重要なことは「どんな時代でも生きづらさを感じるもの」だということだ。そして、その原因や実態は時と共に変容していくものでもある。

 

3.ひきこもりとケータイ小説のあいだ

 ・身近な人びとに対して過剰な優しさと過敏な配慮を示すのは、それが自らの存在根拠そのものに関わるものであるからだ。彼らは、人間関係のマネジメントに互いの神経をすり減らし、その関係に少しでも傷がつくと、たちまち大変なパニックにおちいってしまいやすい。その関係の傷は、自らの存在基盤を脅かすような重大事だと感じられるのだ。

・若者たちは人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まり、同意見のひとといっしょにいるようになる。それにより、人間関係は狭い範囲で固定化され、そんな閉塞的な関係の中で、周りからつねに受け入れてもらえるように、自分のキャラを巧みに演出しなければならない

・若者たちのコミュニケーション能力が低下してしまったのではなく、葛藤の火種が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な距離感覚をそこに作り出そうとしている。互いに傷つくのを回避しようと、あえて儀礼的な希薄な人間関係を保とうとしている。

 ・ひきこもりの問題も、「純粋な自分」を願いながら、自己欺瞞に満ちた人間関係を営んで行かざるを得ないことへの矛盾から生じたものである。

 

4.ケータイによる自己ナビゲーション

 ・LINEにしてもメールにしても、そこで語られるのは「本音」であることが多い。しかし、そこで用いられる言葉にはさほど重要性はなく、むしろ絵文字やスタンプといった非言語の方が重要度としては高い。

 ・若者たちは「いま」が濃密な時間でうまっていないとい安心できず、空白の時間を極端に恐れる。そのため、一貫した自律性も保つのが困難になり、そんな自分を支えるために、具体的な人間からのサポートを絶えず必要とするようになってしまった。

 

5.ネット自殺のねじれたリアリティ 

・若い自殺者たちは生きることに意味を見いだせず、「何となく」で自殺することがある。

 ・トラウマというものは、いまの自分が本物であることを示してくれる品質保証ラベルのようなものである。自分ではいかんともしがたい生きづらさの根源をそこに求めることで、現在の生の意味を少しでも確認することができる。

 ・「自分は特別だ!」と思い込む → 自分への期待値が高い → 周囲から注がれる具体的な期待とのギャップ → 自己肯定感が削がれる

 ・純粋な関係への若者たちの欲求が高まった結果、「生きづらさ」を抱えるはめになった。そこには「コミュニケーションの不和」は実は存在していなくて、むしろ、「コミュニケーション」に対する期待値が上昇したというわけなのである。

 

 相変わらず、まとめるのが下手だ。

 しかたない。

 本の要約は短い方がいいとされる。

 しかし、私は断捨離できないタイプだ。汗水たらして執筆した作家の文章をできることなら零すことなくすべて受け止めたいと思っているため、こうも欲張っていろいろ書いて、最終的には、まとまりのないごちゃってしまうわけである。

 

 それはひとまず置いておいて……

 

 今まで述べてきた「生きづらさ」について、

 前にも触れたが、石川啄木の時代からそういった「生きづらさ」はあったのだし、学生運動が盛んな時代にもあったし、十年前にもあったし、今もある。

 ということは、「生きづらさ」を抱えるというのはもはや宿命的なのだ。

 土井氏は最後にこの「生きづらさ」を放棄することは、人間であることを放棄すると述べている。

 受容せよ、ということだ。

 

 繊細な自分を「そういう人間だ」と受容するように、「生きづらい」と感じる自分も「そういう人間」だと受容しなければならないのだ。

 

 繊細な自分

 生きづらいと感じる自分

 ああ、これ、俺っすね。

 

 はい、受容しましょう。

 

 

 

 

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

  • 作者:土井 隆義
  • 発売日: 2008/03/06
  • メディア: 新書