世にはびこる正義マン

 

 私はこのブログで大きな罪をおかしている。

 ちなみに罪は自覚している。

 それは私の意見と筆者の意見を混同していることだ。

 最近は(  )内の文章を私見、それ以外は筆者の意見という分け方にしているのだが、初期のものはほとんどが混同しまくっている。

 

 と、まあ、私はあらゆる知識人・学識者の意見を引用し、さも自分の意見のように語りたい癖がある。昔からの病である。影響を受けやすいのだ。(最近は気を付けるようにしているのだが。)

 岸政彦『断片的なものの社会学』にて、「私自身の性格や他人との接し方も、私のなかにもとからあったものではない。それは、身の回りのいろいろな人びとの癖や喋り方を模倣して組み合わせたものにすぎない。」とあるように、村田沙耶香コンビニ人間』で、「今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。(中略)過去のほかの人たちから吸収したもので構成されている。」とあるように、環境によって人間の思想、しゃべり方などに影響を与える。

(いわゆるワトソンの環境説まんまだが、人間形成には遺伝も深くかかわってくるのは私の経験上承知しているので、私はシュテルンの輻輳説を支持する。だから、『マチルダは小さな大天才』に登場するマチルダのような少女は理論上生まれないはずだ!)

 

 だから、仕方ないのです。

 影響されて、それが内面化されて、さも自分の意見のように持っているものはじつは錯覚に過ぎないのです。だから、「個性」なんて幻想なんです。

 ……ま、そんなこと言い出したら、この社会のシステム自体、人間の認知体系が発達した末のいわゆる虚構の枠組みであることにまで言及し、「生きる意味とは何か?」という哲学的な問いの前に対峙するはめになるので、深堀するのはとりあえずやめておく。

 

 ……えー、何が書きたいんだっけ?

 あ、そうだ。

 石田衣良『シューカツ』にこんなセリフがあった。

 

 なかでもよくないのは自分の意見じゃなくて、誰かの受け売りで正論ばかり吐くことかな。現場をしらない大学生の借りものの正義感って、ちょっと気もち悪いからね。

 

 確かに、正論であっても無責任に言うべきではない正論があるな、って思う。

 つい最近、とある私立の小学校で、発達障害をもった児童を問題行動を理由に退学処分を下したというニュースが物議を醸した。

 私は、「外野からは好き勝手に障害者への理解が乏しいとか教育の基盤がなってないとか学校批判はできるけど、学校のやれることには限りがあるし、ひとりの児童生徒の配慮のためにほかの児童生徒の学習に影響を与えるんだってことを理解して欲しい。」というツイートをした(鍵アカウントですが)。

 当然、正論を吐くならば、「障害を理由に退学なんてひどい!」であろう。また、「日本は障害者への理解が足りていない」といったものも文面をとらえるならば正論である。

 しかし、それは障害者のみにフォーカスを当てた場合の意見であり、そこにはその児童を支援する教職員、その児童と同じ教室で学ぶほかの児童たちの存在を忘れてはいないだろうか? もちろん、社会にはいろんな障害をもった人たちがいるので、そういったひとたちを差別することなく、しっかり理解しようという学習に持っていくのも大事だが、そのなかで発達障害を抱えた児童があらゆる問題行動を起こし、ほかの児童の学習に後れをとらせるようなこと、最悪、危害を加えるようなことがあれば、それはそれで問題である。

 ほかにも、いじめがあったことに気がつかず、生徒が自殺をしたという報道で、学校に批判の矛先が向かうことがあるが、そもそも教職員はあらゆる業務に追われ、正直なところ、いじめ問題を発見する体制が整っていないのだ。じゃあ、いらない業務を削れと言われそうだが、公的な教育機関でそのようなことは期待できない。ほんとうにいじめを撲滅したいならば、極端な話、学校に警察官を置くとか(こんなドラマあったな)、学級をなくし、大学みたいにオープンな教育の場を用意するとか、いじめた生徒を即退学とか暴行罪や傷害罪で逮捕させるとか、そこまでしないといけないと思う。あらゆる制約をかけられた教職員が我を忘れてしまいそうなほど忙殺している中で、「いじめを見過ごしていた学校はひどい」とか「教師はほんとに信用ならない」といった言葉をかけられるのは、個人的にはいたたまれなく思ってしまう。

 正論は言っている本人は何も感じないが、当該者にとってはきれいごと言ってんじゃねえぞって思ってしまうものなのかもしれない。しかし、それを言ってしまえば、今度は自身が批判のやり玉にあがってしまう。私だって、この書き方だと、「いじめ問題が起こるのは仕方ない」と言っているような感じになるが、断じてそうではない。

 

 近年、声のでかい正義マンがあちこちにあらわれている。

 マスク警察だってそうだし、自粛警察だってそうだ。

 去年の四月、コロナが徐々に猛威を振るってきた時期に、為末大が「朝の山手線、乗車客35%減どまり接触8割減に現状遠く」という記事のリンクをはり、「出勤しちゃうんだ」とツイートしたことで炎上していた。彼は正義のつもりでつぶやいたのだろうし、ご時世的にも自粛すべきだという論はおおむね正しいのだが、みんながみんな出たくて出ているわけではないため、その発言は軽率だと言わねばなるまい。

 実際、為末大は想像力のないやつだと揶揄されていた。

 この「想像力のない」正義マンほどめんどくさいものはないだろう。

 現場のことを知らないのに、あれこれ正論だけを並び立てる。

 だけど、SNSの普及で、もう「言ったもん勝ち!」みたいになっているの、ほんとよくないよね。ちょっと前に、煽り運転で同乗の女性として別の女性の写真がネットに拡散されていたが、あれはまさに正義が悪を生んだ典型例だ。

 

 ちなみにこの私の憂いや怒りは、たぶん誰かの受け売りなんだろう、たぶん。

 だが、どうあがいてもどっかのだれかの受け売りが内面化されてしまうわけだけど、少なくとも、他人がうんざりする方のめんどくさい思想だけは持たないようにしています。

 

 

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