重松清『十字架』―罪の十字架を一生背負っていく。
重松清『十字架』
なかなか重い小説だった。
もちろん物理的ではなく、空気が重いのだ。
あらすじを書き記す。
以前からクラス内でいじめを受けていた中学生、藤井俊介(以下、フジシュン)は、ある日、遺書を残して自宅の庭の木で首を吊って死んだ。遺書にはいじめ加害者(三島・根本)の名前と幼馴染(真田裕、この物語の主人公。以下、「ぼく」)の名前、そしてフジシュンが片思いをしていた別のクラスの生徒(中川小百合)の名前が書かれてあった。三島・根本には「永遠にゆるさない。呪ってやる。地獄に落ちろ」という恨みの言葉が、「ぼく」には「親友になってくれてありがとう。ユウちゃんの幸せな人生を祈っています」という感謝の言葉が、中川さんには「迷惑をおかけして、ごめんなさい。誕生日おめでとうございます。幸せになってください」という言葉が記されていた。
この遺書をめぐって話は淡々と進む。
淡々、というのはあくまで主観なのだが、話の展開として起伏はあまりないように思えた。
だからこそ、読むのがなかなかしんどい話だった。この話は常に暗鬱とした空気が漂っていた。そういう意味で重い小説だと冒頭で述べた。
さて、今回はこのブログでも一度テーマにしたことだが、「いじめ」についてだ。
重松清『十字架』をベースに、森田洋司『いじめとは何か』を片手に書いていこうと思う。
1.いじめの発生
フジシュンは根本と三島にいじめられていた。
根本と三島はともに俗にいう「不良」である。そんなふたりにターゲットにされたのがフジシュンであった。
文中には「フジシュンは二人に選ばれた。」と書かれてある。二人とは、根本と三島のことである。さらにそのあとに「二人が教室で機嫌よく過ごしていてくれれば、僕たちも助かる。だから僕たちは誰も、フジシュンを奪い返そうとはしなかった。」
フジシュンは気が弱くおとなしい性格で、その性格がゆえにいじめのターゲットにされたのだ。実際にもそういった反抗してこなそうな性格の子を選んで、いじめを行っているかもしれないが、「いじめ」は流動的である。滝充は、「いじめる子といじめられる子の性格」として挙げている特性や、教育委員会などの手引きに現れる性格特性をリストアップし、性格特性ごとに、いじめる子どもといじめられる子どもの出現率を調べた結果、いじめは特定の性格に付随して発生するものではないことを明らかにしている。いわゆる、いじめは風邪のようなもので、いつ誰が風邪をひくかわからないように、いつ誰がいじめにあうかわからないのだ。「弱い者いじめ」という言葉があるが、実際は、いつも力の弱い者がいじめられているわけではなく、強い者がその強さゆえいじめられることもあるし、クラスのリーダー的存在がその熱心さが気に入らないということでいじめられることもあるし、スクールカーストなど関係ないといった感じのわが道をゆくみたいな生徒が「浮いている」という理由でいじめられることもある。「いじめ」は流動的なのだ。いじめる側といじめられる側の関係が入れ替わることだってあるのだ。
しかし、基本的にいじめは相手を弱い立場に置いて被害を与える。
たとえば、成績優秀の生徒に対するいじめがあったとする。そこでは成績優秀だというところをいじめの理由にしない。頭がいいけど人を見下している感じがする、といった、倫理的正当性(根拠は不要)を作り出して、正義の旗印のもとにマジョリティーの支持を得ようとして、相手を孤立させ、弱い立場に追い込んでいく。
『十字架』においては、フジシュンのその性格をマウンティングの材料としている。
また、いじめの場面で作用するパワー資源というものがある。
①身体的な資質・能力の優位性
②他者からのレファレンス
③エキスパート性
の三つである。
①は、単純な身体的なパワーであり、それこそ腕力・身体の強靭さ、敏捷さなどが挙げられる。
②はその人の価値や態度を内面化することによって、自分自身の価値や態度の形成に影響を与えるような他者を意味している。具体的には自分が信頼や好意を寄せる対象であり、ときには自分の手本ともなるような他者のことだ。親から虐待を受けていても離れることを拒む子どもがその例だろう。
③は、いわゆる豊かな経験、豊かな知識、高い技術や技能のことで、その優位性がいじめを引き起こすのだという。いわゆるパワハラもいじめの類なのだが、パワハラが起こるのは、上司という上の立場の人間はそれなりに権限を持っていて、その優位性を発揮したいという思いから生じるからであろう。
根本・三島は①の身体的な資質・能力をパワー資源にフジシュンをいじめていた。
(個人的な意見だが、①は学校に、②は家庭内に、③は子ども大人関係なくあらゆる場所に存在するように思える。)
2.傍観者
傍観者問題について言及する。
「二人が教室で機嫌よく過ごしていてくれれば、僕たちも助かる。だから僕たちは誰も、フジシュンを奪い返そうとはしなかった。」
この部分から、「僕」はフジシュンを助ける気はなかったことがうかがえる。つまり、「僕」は傍観者でいつづけようと思っていたわけだ。
いじめ集団の四層構造モデルについてはよく知られていると思う。
被害者を中心に、加害者、観衆、傍観者の順に同心円状に広がるあの図だ。傍観者のなかに仲介者がいれば、いじめの抑止作用として働き、傍観者はいじめについて暗黙の支持をしているとして促進作用として働く。
さて、根本的な問題だが、「傍観者」は悪なのか?
前にもこのブログ内で同じような問題提起をした。
そこではTwitter上で載せられる「喧嘩の動画」を例に出した。
喧嘩の仲裁に入るのはなかなか勇気がいる。
しかし、警察に通報することはできる。
だから、いじめを目撃したら、止めに行く勇気がなくても、教師に報告することくらいはできるだろう、といった旨を書いた。
つまり、「傍観者」は悪なのかどうかといえば、できることをしていないならば、それは「悪」であるとでもいえそうだ。
しかし、一番の悪は「被害者」やいじめをはやし立てる「観衆」であることを忘れてはいけない。批判の矛先が向かうべきはそういったやつらである。
『十字架』の作中にフリーライターの田原という男が登場する。
田原はフジシュンの葬儀に参列するフジシュンのクラスメイトに
「ひとを殺した奴と見殺しにした奴らのクラスってことだなあ」
という。
正直、私はこの男に憎しみを抱いた。
年端もいかぬ子どもたちに向かって、正義の言葉を並びたてやがって、と思った。
そう思ってしまったのである。
田原が中学生だったころに、同じようにクラス内にいじめがあった場合、どうふるまっていただろうか。
そんなふうに考えてしまっていたのである。
この考えの根っこには「傍観者を庇護する思い」があるようだ。
それはもしかすると、自分が中学生のころ、実際にいじめを看過していた経験が深く関係するのかもしれない。……いじめはなかった、と今でも思う。しかし、ほんとうにそうだったのか? 都合のいい記憶を作り出しているのではないか? そう疑ってみると、ある記憶がよみがえった。学年に変わった子がいて、その子がたびたび不良に目をつけられていることがあった。その子が不良の子に暴言を吐かれたり、蹴られたりしていることがあった。私はそれをただただ見過ごしていた……。
「おまえらは、一生、ひとを見殺しにした罪を背負って生きるしかないんだ」
田原は「ぼく」にそう言った。
私はその言葉に大いに腹を立ててしまった。
その言葉に腹を立てた時点で、私は「いじめ」を容認したような恐ろしさを感じた。
そういう気持ちにさせるために、重松さんはこの田原という男を登場させたのかと思うと、……重松さん、恐ろしいですよ。
傍観者に対する考え方は一年前と変わっていない。
ただいじめを見て見ぬふりをするのではなく、何かしら否定的な反応を示すべきである。それだけでもいじめを抑止する働きを持つことになると思う。
「傍観者」は、いじめられるのが自分ではないことに安堵している。もしくは、次にいじめられるのは自分ではないだろうかと怯えている。
「二人が教室で機嫌よく過ごしていてくれれば、僕たちも助かる。だから僕たちは誰も、フジシュンを奪い返そうとはしなかった。」
という描写から、「ぼく」はいじめの被害に合わなくて安心していることがわかる。
『十字架』には堺という生徒が登場する。彼は小ずるくて、お調子者で、よく嘘をつく性格の男子だ。彼は根本、三島に「おまえもやってみろよ」と言われて、フジシュンいじめの一端を担うようになった。はじめはただの付き合いだったが、やがてエスカレートして新たないじめの手口を考えるようになった。
堺の心理は、初めは根本・三島にいじめられたくないがための行動だったのかもしれない。しかし、やがて自分もいじめに加担するようになったのは、きっと優位性を持ったせいだろう。想像するに、堺は今まで自分が認められたことがあまりなかったと推測できる。いわゆる自己有用感が低い人間であった。さもなければ、よく嘘をつく人間にはならないだろう。自分に自信がないから嘘をつくのだ。(あくまで持論だ)そんな自己有用感の低い人間が、自分が優位に立つことに高揚感を覚え、いじめを快楽だと思う……そんな心理。
今でこそ客観的にいじめの構造がどうとか心理がどうとか書いていて、そのためにどう行動すればいいか冷静に分析できているが、中学生という若齢のうちに「いじめとは何か?」などということを考えたりしない。中学生など、自分を認めてくれたらうれしいとか、認めてくれなかったら悲しいとか、テストでいい点をとったらうれしいとか、教師や親に叱られたら腹が立つとか、そんな感情に正直な生き物なのである。こんな無責任なことを言っていいのかわからないが、あくまで私の意見としては、そうである。
だからこそ、考えが未熟な子どもたちの代わりに、教師が手を差し伸べなければならないのだろう。
3.教師批判
ここで『十字架』の一部を引用する。
「三組って富岡先生だよね。あの先生、生活指導でしょ? 気づいてないの?」
「なんか忙しいみたいだし」
「なに、それ」
「研修とかで出張に行くことも多いし、あと、一年生が悪いから、そっちでけっこう大変みたいだし……」
その年の一年生は、六月頃から学校史上最悪と呼ばれるほど荒れてきた。若い女の先生が担任のクラスではホームルームすらまともに開けないほどだった。富岡先生もそっちの生活指導に追われて、休み時間もほとんど職員室にいない。それに加えて、その年度は地区をあげて中学生の生活指導強化に取り組んでいた。富岡先生はウチの学校の代表として、ほかの学校の生活指導部の教師と研修をしたり会議をしたりで、僕たちの目から見てもひどく忙しそうだった。
シンプルな話、教師は多忙である。ブラックだとよく言われているのもご存じだろう。
2016年の調査では、過労死ラインを越えている小学校教師は3割、中学校教師は6割以上である。教師は夏休みまるまる休みだと思われているようだが、部活指導であったり、構内研修、校外研修、補習などに追われ、休暇はあまりとれない。担任で学級を持つといろんな生徒がいるため個々の子どもへの対応のむずかしさ、さらにモンスターペアレントという言葉があるように保護者対応に追われたり、神戸の小学校のいじめ事件に代表されるように同僚との人間関係など、身体的にも精神的にも苦痛なのだが学校という現場だ。そんな中、文科省は「ICT教育」だ「プログラミング教育」だ「英語をもっと充実させろ」だ、教育の質を向上させようとしている。正直、荒れた学校ではそんな教育の質よりも前に、もっとすべきことがある。生活指導の教師が足りないために人員を補充することであったり、割れ窓理論をもとに学校内をきれいにしてみるとか、スクールカウンセラーを積極的に配置するとか、「子どもに寄り添う」方面に投資してほしいと、私は思っている。また、ブラック化している教師の働き方改革も早急にすべきである。
(実際、とある自治体では、教員採用試験(小学校)の倍率が1.2のところがあった。教師がブラックであるという認知が広まった結果だろう。SNSやブログで「教師になるな」という発信が盛んになったせいでもある。中にも腹立たしいのは、教師経験もない人間が、一丁前に「教師になってはいけない理由」とか言い出すやつだ。それもそこそこ影響力のあるひと。だが、言っていることに間違いはないのだろう。だから、文科省が「教師のバトン」を見て、考え方を改め、教師のなり手を増やす改革を打ち出してほしいと切に願う限りである。)
『十字架』を読んでうれしかったことは(うれしいと言っていいのかわからないが)、担任にだけ批判の矛先を向けるといった描写がなかったことだ。もちろん、担任の富岡先生は作中で保護者から非難され、マスコミに叩かれ、教育委員会から相応の処遇を受けることになった。しかし、教師の多忙さに言及してくれたこと、いじめ自殺を防げなかった教師は人間として失格であるといった短絡的なメッセージは残さなかったこと、そういったことに私は安心した。
つい最近起きた北海道の旭川の女子中学生のいじめ事件。
この事件を受けて、とあるユーチューバーが担任に電話してみたとかいう動画をアップしていたのを偶然見かけ腹が立った。正義を振りかざしているのか知らないが、こいつはいじめ事件をえさに視聴数を稼ごうとしているに過ぎない。実際に電話をかけていなくても、だ。
私自身、教師だから、教師をかばう気持ちが強く出ている。
こういったいじめ事件が報道されるたびに思うのは、真っ先に批判されるべきは加害者であり、その次が学校だ、と。
それなのに、ニュースのコメント欄には「学校が悪い」「教師は信用ならない」といった言葉ばかり。
私が勤務している学校では、いじめ対策委員会を設置し、いじめがあれば、随時担当教諭に報告する体制をつくっている。
そんなふうにいじめ問題に対して真摯に取り組んでいる学校だってあるというのに、ここぞとばかりに学校批判を繰り返す。
そういったふうに批判を受けるたびに、教師になるのやめようかなと思うひとを増やしている……かもしれない。
4.親としての務め
『いじめとは何か』によれば(古い資料だが)、親が被害を認知している割合は27.5%であり、7割強の親は知らなかったという。
子どもは親にいじめられていることを打ち明けられない、というのはよく聞く話だ。親に迷惑をかけたくないとか、そんな心理が働く。
それに対し、子どもからいじめを受けていることを告白されても、いじめ被害はないとしている親も4割いるというのだ。
いじめの親の認知について、米里誠司氏はこう語る。
「親がいじめ加害を認知して、いじめ防止策を講じることはきわめて重要であるが、一般に加害者はその行動を周囲から隠すため、親に加害認知を求めすぎるのは酷であろう。子どもへの関心という点で問題がある場合もあるが、いじめ加害の把握は、地域社会や学校の役割である。」
確かに「いじめ問題」が起きている場所は家庭ではなく学校である以上、親の加害認知率が低いことに関しては糾弾すべきではない。
家庭と学校。それぞれの場所で起こる問題はそれぞれで対応すべきだ。
(いじめ問題は学校で請け負うとして、学校外で起きたトラブルは家庭で請け負うべきだと思う。よく学校外の問題、家庭内の問題を学校に持ち込むなんてケースがよくあるが、それはどうかと思う)
『十字架』で、いじめ被害者フジシュンの両親が登場する。
私は、フジシュンの両親に腹が立ってしまったのである。
まず、父親。
(初めのセリフはフジシュンの父親である)
「親友だったら……なんで、助けなかった……」
花を持った手が震えた。
「親友だったんだろう……だったら、なんで……」
花が手からぽとりと落ちた――と気づく間もなく、胸ぐらをつかまれ、体を揺さぶられた。
「俊介を……なんで、助けてくれなかったんだ……」
「ぼく」とフジシュンは親友ではなかった。
あくまで「ぼく」はそう思っていた。フジシュンが遺書で「ぼく」のことを親友だと書いたのだ。そのせいで、フジシュンの父親から詰られた。この場面以降も、「ぼく」はフジシュンの父親からきつい対応をされる。
さらにフジシュンの父親はフジシュンの死を受けてクラスメイトが書いた反省文をフリーライターの田原に手渡した。そして、記事に〈空虚な言葉の羅列〉と切り捨てられた。クラスメイトはみな反省文を書いたところで許してもらえるとは心のどこかで思っていたはずである。それなのにそんな仕打ちを受けるとは思いもよらず、クラスメイトの何人かは泣いたり、怒ったりしていた。
また、中学の卒業式の日。何事もなく式が進行し、退場するとなったとき、フジシュンの父親があらわれた。フジシュンの父親はフジシュンの遺影を両手で高々と掲げていた。まるで、「忘れるな」と言わんばかりに。しかし、父親は何も言わなかった。
やりすぎではないのか?
その父親の復讐心はあらたな被害者を生むのではないか?
そう思わざるを得なかった。
一番悪の根本や三島にだけではなく、ほかのクラスメイトに、同じ学校の生徒たちに、牙を剥くようなことをして、天国にいるフジシュンは救われるのか? フジシュンはそれを望んでいるのだろうか?
フジシュンの父親はクラスメイトの反省文のなかに「一生忘れない」と書いた生徒がいたの見て、「嘘だ」と思ったそうだ。
だから、卒業式にフジシュンの遺影を掲げるようなことをし、「一生忘れないように」してやったというのだ。
……だからといって、というのが私の意見だ。
わからない。
私は父親をやったことがない(当然だが)。
父親になれば、少しは理解できるのだろうか?
次に母親だ。フジシュンの母親。
母親は父親と打って変わって、「ぼく」に対して好意的だった。フジシュンの「親友」になってくれてありがとうと言った。中川さんに感謝の気持ちをあらわしていた。
中川さんはとても不憫だ。
フジシュンから誕生日祝いのプレゼントを渡されそうになり、中川さんはそれを断った。そのとき、中川さんはフジシュンとは別のクラスで、どんな男子かもよく知らなかったのだ。そして、その日、フジシュンは自殺した。中川さんの誕生日は、フジシュンの命日になった。
罪の意識から、これからフジシュンの家に通うことになる。そのたびにフジシュンの母親と話をする。そのたびに罪悪感が募る。
中川さんは高校生になっても、フジシュンの家に通い続けた。
そして、もう大学生になろうというとき、母親はこう言った。
「いままでありがとう。おばさん、小百合ちゃんが遊びに来てくれるときがいちばん楽しかった。無理して付き合わせちゃって、ほんとうにごめんね」
「でも、もしね、ほんとうにもしも、小百合ちゃんさえよかったら、また遊びに来て。お付き合いするひとができたら、連れて来てよ。おばさんにも紹介して」
「ぼく」はこう思う。
もう、これ以上サユ(注:中川さんのこと)を縛りつけないでよ――。
ほんとうにそうだ。
フジシュンの母親は優しいのかもしれない。フジシュンが死んで、病気がちになったりして大変な日々を暮らしていた。
しかし、母親のその発言はさすがに……と思わざるを得ない。
そして、そんなふうに言われた中川さんは泣きながらついに告白した。
フジシュンが誕生日プレゼントを贈ってきてそれを断ったことを告白したのだ。
「藤井くん……死ななかったかも……しれない……」
嗚咽の中そう言って。
中川さんはフジシュンが死んで、誰よりもいっそう罪悪感を覚えていたのかもしれない。
しかし、中川さんは「罪悪」を抱えたわけではないだろう。
それだけに、私は中川さんが不憫でならないのだ。
同じクラスでもなかったうえに、よく知らない男子生徒から急に誕生日プレゼントを渡されて、それを断ったら、自殺された。それから、罪悪感を抱え、フジシュンの家に通うようになり、母親から縛りつけられるようになる……。
5.マスコミの煽り
私は『十字架』でいちばんサイテーなのは田原だと思っている。
作中ではそんな「悪」の書かれ方をしていないが、私はとにかくはげしい嫌悪感を覚えた。
田原の言葉をまとめる。すべて「ぼく」に放った言葉だ。
「親友なのに、なにもしてやらなかったんだもんなあ」
「まさに見殺しだよな」
「まあ、なにをやっても取り返しがつかないよな。どうせ学校で作文でも書かされるんだろうけど、なんの意味もないな、そんなことは」
ひどい言葉だと思った。
未熟で未発達な子どもにそこまで思い十字架を負わせようとするのか。
現場を知らない外野から正論を並べ立てられるのは、いやなことだ。
私は「ぼく」に同情していた。
(その時点で、私は「傍観者」を擁護していたのだ。)
マスコミは強い影響を与える。
『十字架』でも、マスコミの影響の強さに描写されている。
このいじめ事件を「いけにえ事件」という名前でワイドショーで議論された。
「ぼく」のサッカー部の引退試合では相手チームの応援席から「見殺しーっ!」「見殺しーっ!」とヤジを飛ばされた。
「ぼく」が高校に入っても、そのいじめ事件は全員が知っていた。(直接、「見殺し」と責める人間はいなかったそうだが)
つまり、マスコミは日本全土に報道を伝える。
『十字架』の時代設定は昭和と平成の端境期なので、SNSなどは登場しないが、もし今の時代で、そういったいじめ事件が起これば、SNS上で意見を物申すひとが雨後の筍のごとく次々とあらわれることだろう。そういう時代なのだ。
さらにはマスコミでは加害者の名前を伏せるため、今度は加害者の顔をさらそうと、特定しようという動きになる。この特定はときに新たな問題を生むことにもなる。それは間違ったひとを加害者扱いすることだ。正義心が新たな悪を生み出すのだ。
どの時代でもマスコミの影響は大きい。
テレビ離れが言われている今の時代だってそうだ。
田原はマスコミ側の人間だ。
マスコミの持つ影響の強さを考慮すれば、雑誌で〈息子は同級生に「見殺し」にされた!〉などという見出しを打ち出した記事を書くことはなかっただろうと思う。
その記事を見れば、ほとんどが「見殺しにしたクラスメイトは悪いやつらだ」と思うことだろう。傍観者はそこまで批判されなければならないのか? 日本国土全体から白い目で見られないといけない存在なのか?
そんなふうに考えてしまった。
そんな田原だが、最後の方で、こんなことを言う。
「まあ、基本的には、人間っていうのは優しいんだよな」
「優しいし、身勝手だし、忘れるんだ、人間は」
田原のやり方はどうであれ、彼はほんとうに純真な正義心からいじめを見て見ぬふりしてきた学校に怒りをぶつけていたのかもしれない。
忘れれんじゃねえよ、という思いとともに。
まあ、田原が最後まで嫌な奴だって印象はぬぐえなかったが。
6.最後に
『十字架』における「ぼく」はおそらくいちばん正しいやり方で罪を償ったのではないか?
罪、これはフジシュンを見殺しにした罪。
フジシュンの家に何度も訪れた。高校生になっても。大人になっても、「ぼく」はフジシュンを忘れなかった。その「忘れない」という行為こそほんとうの意味での「贖罪」だったのかもしれない。フジシュンの両親に許してもらうこと、反省分を書くことは「贖罪」ではない。そのことはフジシュンの父親はわかっていた。
フジシュンを忘れないこと。
なんとなく私自身もフジシュンを忘れてはいけないような気がしてきた。
だが、人間は忘れる生き物である。
私もいつかこの小説を読んだことを忘れてしまうのだろうか?
いや、忘れないようにしたい。
人間は忘れる生き物でも、ほんとうに忘れてはいけないことは忘れられない生き物だと信じている。
だから、私は『十字架』を忘れてはいけないストーリーとして記憶したい。
私がそこまでして「忘れてはいけない」と思っているのは、個人的な事情があってのことだ。(個人的な事情とだけ述べておく)
忘れてはいけない、と、最後に記す。
【いじめの防止法】
いじめを防止するためには、まず環境づくりが最優先される。
『いじめとは何か』において、「いじめを止められる社会へ」という章であらゆる理論が紹介されている。
・ソーシャル・ボンド理論
「自分の通う学校の伝統を誇りに感じている」「所属するクラブが好きで頑張りがいがある」などの、学校という社会的な場に投げかける、意味づけの束のことを「ソーシャル・ボンド」という。この結束が強ければ強いほど問題行動は発現しない。
つまり、シンプルな話、子どもたちが安心して通える楽しい学校づくりを目指すべきだということである。
ソーシャル・ボンドの強弱は、学級のまとまり、子どもたちの一体感、規範の内面化、集団の秩序の安定化などにも影響する。これらは学校や学級の雰囲気、子どもたちの学校生活の楽しさや安全・安心感につながり、個々の子どもたちの自己実現をも左右する。
・愛着
ソーシャル・ボンドのなかでも情動的な意味づけの糸。
子どもたちの場合、友だちや教職員との糸。主に友だちとのつながりはきわめて重要となる。愛着の感情はメンバーのアイデンティティを形成し、所属していることに誇りを感じさせる源泉となる。
・投企
ソーシャル・ボンドのなかでも理性的な意味づけの糸。
(a)規範への同調を介した社会とのつながり
規範に同調するか・逸脱するかを選ぶ場合、そのひとなりのコスト=ベネフィットが想定される。いじめに走るのは、いじめによって得られるメリットの方が多いと判断した結果である。つまり、周りからネガティブな作用を働きかければ、加害者はコスト=ベネフィット的にも「やめておこうかな」という思うかもしれない思うかもしれない。しかし、いじめの加害者が周りの子どもたちとの間に愛着の絆を形成していなければ、周りからの抑止力は有効なものにならない。
(b)ニーズの実現の見込みを介した社会とのつながり
学校という場が自分のニーズを叶えてくれる場であるかどうかの秤量も、コミットメントのつながりを形成する契機となる。困った時に誰か支えてくれる人がいる、学校で学ぶことが役に立っている、楽しい場になっている。こうした思いがあれば、学校生活にもベネフィットがあるという判断につながり、いじめをしようという気がなくなる。
(c)社会的役割を介した社会とのつながり
社会的な役割に就くことも、大切な契機である。
社会的役割は、人間が他者と交わり、社会をなしていくには不可欠である。それは、役割が人と社会との接点にあって、人と社会をつなぐ働きをしているからだ。社会の側は、役割を通じて社会からの要求や期待を注ぎ込む。人は、役割を通じて自らの欲求を果たそうとする。
学校生活の場でも、子どもたちに自己の役割と責任を自覚させ、集団生活の向上や公徳心・社会連帯の自覚を高めさせ、よりよい社会の実現に努める価値や態度の育成させることが求められている。
・規範の正当性への信念
規範を守ることが集団や自分たちにとって大切なことだと認識されて初めて、メンバーを遵法的な世界につなぎ止め、集団の秩序を維持できる。規範の正当性への信念とは、こうした感情を抱くことをいう。
信念の強弱は、規範の管理・運用の在り方にも影響される。たとえば、学校側が理不尽なことを繰り返したり、学級経営で正義が保たれていないと、いじめや暴力がその教室で蔓延するかもしれないということだ。率先垂範という四字熟語そのままだ。
まとめると
①子どもたちが安心して学校に通えるような環境を整える。
②子どもたちの友だち関係をよりよいものにする。
③いじめをしてもデメリットしかないという雰囲気をつくる。
④子どもたちのニーズにこたえる。
⑤子どもたちに社会的役割を与える。
⑥学校側が率先垂範の姿勢を示す。
……と非常にざっくばらんにまとめてみたが、どれも実現難しいことばかりである。
(まあ、実現可能なアイデアがあればとっくの前にいじめなんてなくなっているよね)
あとは、いじめが起こったら、
あとは、いじめが起こったら、早め早めの対処。そして、いじめがあったということを教員間で共通理解を持つ。保護者に連絡を入れる。その判断を間違えないようにしていかないといけない。
ここでブログで文字として残したのは、私の大きな決意だと受け取ってほしい。