鎌田實『相手の身になる練習』

 現代文の読み方について。

 まず、読み手の主観はいったんどける。

 そして筆者の意見に対してこびへつらうように読む。

 

 なんだか嫌な感じだな、と思われるかもしれないが、実はこれ、いわゆる客観的な視線を持つためのトレーニングでもある。

 言ってしまえば、相手の身になるためのトレーニングでもありそうだ。

 

 SNSをやるうえで、読解力はかなり重要な能力である。

 極端な例だが、とあるひとが「ハンバーグ大好きです」とつぶやいたとして、それに対して、「私はハンバーグ嫌いです」とか「ハンバーグ食べられないひとの気もち考えたことがある?」とかそういうことを言うのは、明らかに読解能力が欠如していると言わざるを得ない。

 しかし、実際そういったことがはびこってしまっている。

 

 また例を出すが、

 とある著名人がいるとする。

 その著名人は今はあらゆる貧困の国に訪れてはそこで貧しい人たちを助けるための取組を行っている、いわば聖人君子そのものである。

 そんな著名人が実は中学生のころに万引きをしていたという過去を暴かれたとする。

 その報道を受け、Twitterではその著名人叩きが始まった。

 そこで私が「ここぞとばかりに過剰なほどに正義心をふるまうやつらが憎い」などといったツイートをしたとしよう。

 すると、私のツイートに「何やお前? あいつの肩を持つんか?」というリプがついた。……なんの話をしているのか? そんなリプを送って来たやつはもれなく読解能力が乏しい人間だ。私はあくまでネット上でせこせこ叩いている人間を憎むという趣旨のツイートをしたのであって、著名人の肩を持ったわけではない。それは文面から読み取れることであろう。しかし、ちゃんと読めてない人がいる。物事を二元論的にしかとらえることができないひとがいる。

 やはり、読解力は大事だ。

 

 ……今回は読解力の話ではない。

 相手の身になる練習についての話だ。

 では、レッスン。

 

 

 

1.伝わるように伝える

 

 相手にとってわかりやすい言葉と方法をさがして、どうしたらきちんと相手に届くかを工夫する。

 

 小さな子どもあいてにペダンチックな言葉を用いてはいけないように(「ペダンチック」という言葉を使っている時点でペダンチック)、日本語の理解できない外国人相手に流暢な日本語を用いてはいけないように、相手によって言葉の選択や話すスピードを変えなければいけない。また、相手が車いすに乗っていたら、相手と目線の位置を合わせて、声をかける必要がある。視覚障害聴覚障害をもつ人相手へのかかわり方もあるだろう。

 当たり前のようで以上のようなことができていないひとが多い気がする。

 わかりにくい、難しい語句を用いて、相手に説明したというのに、相手が理解してくれないのを嘆く人間がけっこういる。私自身、あまり他者とのかかわりの機会をもっていないのだが、そんな私でもそう感じるくらいだから、世の中そういうひとであふれているのではないか、と思う。

 だから、相手が理解できていない場合、もしかすると自分の説明が悪いのではないか? 伝え方がまずいのではないか? と疑る必要がありそうだ。

 

2.相手の話は最後まで聞く

 

 言いたいことがいっぱいあっても、まずは相手の話を最後まで聞く。聞く姿勢を示すことで、相手が心を開いてくれる。

 

 これも当たり前のようで、できていないひとが多い。

 自分もその気がありそうで怖い。

 相手がまだ話しているのに、そこに食い入るように割り込んできて話をかき乱すひとを見たことがあるが、ああいうひとはけっこう無自覚でやっているケースがある。だから、厄介なのだが。

 まあ、でも自分の主張と食い違う内容を相手が言っていたら、そりゃ、「それは違うよ」と言いたくなるのもわかる。だけれど、そこでグッと堪える、忍耐力が必要だ。まさに傾聴の姿勢だ。

 

3.言葉以外のメッセージも読み取ろう

 

 相手の声の調子、顔の表情、しぐさ、態度、言葉の間合いにも相手の気もちは現れている。言葉以外のものに託されたメッセージを読み取る感性を磨きましょう。

 

 言葉にだけ耳を傾けるのではなく、相手の目を見たり、表情を見たりして、そこから言葉の向うにあるものを読み取るのだ。これはなかなか難しい。最近だと、みんなマスクしているから、目の表情だけで心情を慮るなんてメンタリストでもない限りできないような気もする。

 ならば、声の調子や言葉の間合いで判断するのも手だ。声が暗い、言葉がたどたどしい、そういった細かい変化に対してアンテナを張っていく。そうすることで、相手の心情のひとつやふたつは推測できそうだ。

 

4.相手の気もちをいったん受け止める

 

 相手の話を聞いたら、すぐに批評したりせず、相手の気もちをいったん受け止めます。賛同できても、できなくても、「受け止めたよ」と相手に伝えることが大事なのです。

 

 相手の話を聞いて、もっとこうすればよい、という聞かれてもいないのにアドバイスをするのはまずい。

 そんなことを筆者は言っていた。

 まさにこれは以前に紹介した『傾聴の基本』においても書かれていたことだ。

 相手が求めているのは、話を聞いてもらいたいということだ。これにきちんと応対せずに、気の利いたことを言おうとしても、それは自己満足にすぎないのだ。

 だからこそ、相手の気もちを受け止めよ、ということなのだ。

 

 約二年前、米津玄師がニュースzeroのインタビューでこう語っていた。

「自分が思っていることと全く真逆のことを考えている人間が対岸にいたときに、その対岸にいる人の主義主張みたいなものを一回引き受けてみる。それくらいの余裕は絶対に持って生きたい。調和をもって生きていかなければならない。人間はひとりで生きていくことはできないので。」

 この言葉のとおりだと私は思う。

 

5.親切にされたら必ず「ありがとう」と言う

 

 どんなことに対しても「ありがとう」と感謝の気持ちを返すこと。親切にしてくれた人もうれしくなり、気持ちが通じ合う。

 

 これはもはや説明不要だと思う。

 けれど、「ありがとう」という言葉を言っておけばいいやってことにもならない。

 「ありがとうございました」は万能薬ではない。

 仕事のミスを指摘されて、「ありがとうございました」と言えば、逆に嫌味に聞こえることだってある。「何が『ありがとう』なの?」と思われかねない。

 だから、なんでもかんでも「ありがとう」と言えばいいわけではない。

 でも、まあ、「ありがとう」と言うとき、そこに感謝の気持ちがきちんと乗っていればそれでよいのかもしれない。気持ちがきちんと乗っていたら、きっと相手にはその思いが伝わるはずである。

 

6.相手を価値ある人として接する

 

 年齢、性別、出身あらゆる属性にかかわらず、誰に対しても「価値ある人」として敬意をもって接する。人を見下したり馬鹿にしたりすると、相手は離れていく。

 

 私は、自分の人生に比べれば、みんなはもっと濃密な人生を生きてきたんだろうなと思いながら生きている。

 かなり卑屈だが、マジである。

 だから、どんな人間に対しても基本的にリスペクトをしている。

(リスペクトはしているが、「どーなん?」と思わざるを得ないときもある)

 家庭環境劣悪な中育ってきた自分よりも七歳も離れた年下に対しても敬意を表するようにしている。

 こういう感覚は年をとるごとに消えてしまいそうで怖い。

 

 極端な話、

 東大出身の官僚が悪事を働いたとする。

 世間は彼(彼女)をバッシングする。

 しかし、私はバッシングしようという思いが出るまえに、

 

 彼(彼女)は東大出身だということは自分よりも何百倍も努力して東大に入学して、官僚になったんだな、自分が何度生まれ変わってもそんなエリート街道を行ける気がしないわ(笑)

 

 なんて考えてしまう。

 うーん、これはリスペクトというより「自分下げ」だな……。

 

7.自分の気もちをよく知る

 

 相手の気もちに気づくには、自分の気もちもよく知っておくことが大切だ。

 

 怒りがこみあげてきたら、6秒数え、深呼吸をする。

 そうすることで怒りは和らいでいく。

 不愉快なこと、怒りに支配されないようにするためには、どんなときに不愉快に思い、怒りがこみあげてくるのか、自分自身を見つめることが大切である。

 つまり、客観的な視点に立って、内面を見るということである。

 

8.読書で視野を広げる

 

 読書は、多様な考えや体験を知るかっこうの手段。

 小説の主人公や歴史の出来事などを通して人間を知り、視野を広げることで、自分のなかの差別や偏見に気づくことができる。

 

 最近、SFとかではなくヒューマンドラマ系の小説を読んでいるのだが、その読書理由がそんなふうにいろんなひとの気もちや主義主張を知るためだったりする。

 なかには「何こいつ? 理解できないんだけど」と言いたくなるような登場人物の言動を見ることもあるが、だからといって「この小説リアルではない」と思うのではなく、むしろ、「なるほど、こういう考え方もあるのか」といったふうに思うようにしている。

 事実は小説より奇なり

 その言葉が示す通り、現実にはもっと理解不能な人間がいる。

 そんなときに「リアルではない」という主張は通用しない。

 リアルだから。

 ま、そんなときも、

「なるほど、こういう考え方もあるのか」ぐらいの余裕をもった考えをしていきたい。

 

9.1%でいい、誰かのために生きる

 

 人助けは人に強制されてするのではなく、自発的に自分の意思で始めるものだ。まずは自分を大切にし、苦しい自己犠牲ではなく、幸せをほんのり少し分ける。

 

 幸せは自分のためだけに生きたときには得られない。

 人が喜んでくれた時にオキシトシンが作用して、幸せを感じる。

 だから、100%自分のために生きるのではなく、1%でもいいので相手のために生きる。それを筆者は推奨しているのだ。

 

 私は誇張抜きで、できるなら、「みんなが幸せなら自分はどうでもいい」と思っているところがある。

 ちょっと前までは他人の幸せのためには自分は何もしない方がいいのでは、と思っていた時期があったが(まさにエヴァに乗れなくなった時にシンジくん的発想)、最近では「他人の幸せのために自分は援助したい」と思うようになった。具体的な行動には出ていないが。

 宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくるように、東西南北人助けのために奔走する人間でいたい、と思えるようになった。(ちなみに「雨にも負けず」は賢治の死後、彼の部屋で見つかったものである。このことから、その詩を収入のためではなく、ほんとうの自分の思いであることがうかがえる。……関係ないが、宮沢賢治の父親が主人公の小説『銀河鉄道の父』、おすすめです)

 自己犠牲とまではいかないにしても他人の幸せのために自分が尽くす。

 それを「教員」として、その役割を果たしていきたいと思う。

 

 以上です。

 

この本の表紙を見て、meijiのTHE Chocolateを思い出した自分に驚いたんだよね。

 

……まあええや。