桑原朱美『保健室から見える親が知らない子どもたち』
Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラム)の略称で、別名「脳と心の取扱説明書」と呼ばれる最新の心理学であるそうだ。
「人間が苦しんだり、喜んだり、立ち直ったりする本質的なしくみ」「人間が変化し成長していく原理原則」など、脳の科学に基づく心理療法によって、筆者は保健室でいろんな生徒に対応してきたそうだ。
NLPについて学んできた筆者は今まで生徒対応がうまくいかない理由を理解した。
それは、「手法」で人を変えようとしていたから、という理由だ。また、感情や行動にばかり着目してしまい、相手の感情をなんとかしてあげようと考えてしまっていたこと、子どもたちが起こしている「現象」をも「問題」としてとらえ、問題を消そうとしていたということにも気づいたそうだ。
人間の「ことば」「思考」「行動」のかかわりを深く理解することなく、手法に頼ろうとしてしまってはいけないというのは筆者の大きな反省であった。
では、どうすればいいのか?
今から紹介していこうと思う。
(はじめにことわっておくと、筆者は中学校の保健室で生徒の対応にあたっていた。)
1.ケースで考える
CASE1 成績が悪いから受験できる高校がない
「進学できる高校がない」
A君は言った。
その理由は「今までもそうだったけど、ずっとこのまま」だからそうだ。
ここで大きな勘違いをしている。
それは時間の流れを「過去→現在→未来」ととらえてしまっているということだ。
人生経験の少ない子どもたちは、過去と今をもとに未来を考える。うまくいかなかった体験や認めてもらえなかった経験という、過去の延長で未来を見ているので希望を持てないのだ。そして、今の状態が、これからもずっと続くんだという勘違いをしている。
「先に未来を見る」という考え方がある。
筆者は子どもたちに未来を想像させるというやり方を用いている。
それを「back one step」と呼んでいる。
①まず、未来でどんなことを達成しているか自由に想像させる。
②次に、未来から一歩ずつ下がって、達成した未来に行くまでのストーリーや行動を体感的に確かめる。
こういったワーク。
ワクワクする未来を脳にインプットすることで、未来に希望を持たせる。
そうすれば、きっと「今までずっとできなかったから」というネガティブ思考から離れ、前向きになってくれることだろう。
(こんなにうまくいことはなくとも、「過去や現在」にとらわれて、未来を悲観的に考えてしまう子は多くいる。「過去や現在」と「未来」は関係ない、と思わせることが必要だろう。)
CASE2 自分を多重人格だと思い込んでしまう
「私、多重人格かも」
Bさんは言った。
その理由は「学校では真面目だとか素直とか言われているけど、家ではだらしなくて親に暴言も吐く」からだそうだ。
ようは、Bさんは学校での自分と家での自分の性格の乖離ゆえ、多重人格だと思ってしまったのだ。
これは前にブログでも書いた「分人主義」に通じるところがある。
ほんとうの自分はいない。
学校で見せる真面目・素直な自分と家で見せるだらしなくて暴力的な自分も「自分」。
どれがほんとうとかうそとかなくて、どっちも「自分」。
だから、どの自分はダメとかもない。
だって、それも「自分」を構成する大切な自分なのだから。
とはいえ、けっこうな子どもが「欠点がある自分は、愛されない」と考えてしまっている。「この欠点があるからダメなんだ。こんな欠点を人が知ったら、誰も受け容れなくなってしまう。だから自分の欠点の姿を見せてはいけない、見せないように生きなくては」そう考えている子が多い。あまりに生きづらい。
欠点というのは隠そうとすればするほど、まわりからは見えてしまうものだ。
むしろ、欠点なんてひけらかした方が心的にもラクだし、欠点があるから人間らしいと思えるものなのだ。
CASE3 この欠点を直したい!
「声がでかくてうるさいと注意された。この欠点を直したい」
C君は言う。
短所を長所に言い換えるというやり方がある。
有名な話だが、リフレーミングという。
しかし、あまり知られていないがリフレーミングには二つの種類がある。
前者は、「物事にはほかにどんなプラスの意味があるだろうか?」という視点でフレームを見直すこと。
後者は、特性や特徴は「ほかにどんな状況なら役立つか」という視点でフレームを見直すこと。
C君の悩みを解決するためには後者の「状況のリフレーミング」が有効だ。
「授業中はうるさいと言われているのかもしれないけど、部活や体育大会ではちゃんとプラスにできている」
そういった言葉かけをする。
欠点とか長所とか短所とか、そもそも存在しなくて、「特徴」と言い換えることができる。どの場面で使えばプラスになって、どの場面で使えばマイナスになるかを考えて使い分ければ、悩む必要なんてないのだ。
CASE4 夢がない自分にダメだし
「夢がない」
D君は言う。
・祖父に、将来の夢を聞かれて、今特にない、と答えたら、最近の子どもはどうしようもないと言われた。
・将来の職業をすでに決めている子もいるのに、自分にはそういう夢がない。
・将来の夢はこれ、と言えない自分はダメな奴なのかと考えるとおなかが痛くなった。
筆者とD君の会話を再現しよう。
(※本書では「D君」ではなく、「E君」と表記している。しかし、こちらの都合上、「D君」と書くことにする)
「D君、君の言う〈夢がある〉って、なりたい職業が決まっているっていう意味なの?」
「違うんですか? クラスのKさんは、看護師になりたいって言っていました。Y君はシステムエンジニア、H君は保育士、Oさんはミュージシャン……」
「なるほど、そんなふうに話している友だちがいると、そう感じるよね。じゃ、もし、システムエンジニアという仕事がこの世の中からなくなったら、Y君はもう夢そのものがなくなっちゃうってことなの?」
「そのときは、別の職業を探すんじゃないかな」
「でも、夢だと思っていた職業がなくなったとしたら、夢をなくした人生を生きていくってこと?」
筆者が伝えたかったことは「夢=職業」ではないということだ。職業は手段ではない。その手段を使って何がしたいのか、どんな人生、どんな未来をつくりたいのかという目的こそが大切だ。
会話中に出てきたY君はシステムエンジニアになりたいと言っていたが、その理由は「自分が作ったものを人が使ってくれて、役立つのがうれしい」からだ。
ならば、システムエンジニアという職業がこの世からなくなったとしても、その目的が明確なら、別の職業でその目的を果たすことができる。
そういったふうに考えれば、仕事に対する考え方も変わるのではないか。
CASE5 先生、絆創膏! と言って来室
「先生! けが!」
と言って来室するE子さん。
「先生! トイレ!」と言えば、「先生、トイレに行ってもいいですか?」
「先生! 見えへん!」と言えば、「先生、黒板が見えないので少しどいてもらっていいですか?」
そういった意味のことを言おうとしている。
だから、「先生!けが!」というのは「先生! けがをしたので絆創膏ください!」って意味なのだ。
筆者は「先生! けが!」と言ったE子さんにこう言った。
「先生は、けがという名前ではありません。けががどうしたの? けがをさせたの? 自分がした? それとも、させてほしい?(笑)」
ちゃんと必要なことを言わせるために、あえて察することをせずに、何をしてほしいのか具体的に説明させているのだ。
察してあげるというのは優しいことではない。
なんでもかんでも察してあげてしまったら、その子のためにならない。
言語化しなくても、察して動いてくれる人がいると、学校でも単語でものを伝えたり、態度や表情だけで相手に自分の要求を察してもらおうとするパターンを身につけさせてしまう。これじゃあ、社会に出てから大変です。
「○○さん、印刷!」なんてものの頼み方はしないだろう。
自分のことをことばで表現させる、というのはとても大切なことなのだ。
CASE6 あの子は私のことが嫌いなんだ、という妄想
「H子ちゃんに挨拶をしたら無視された。私のこと嫌いなのかな」
Gさんは言った。
どうやら、Gさんが勉強できないからH子ちゃんは馬鹿にしているのではないかと思っているらしい。
しかし、話を聞くと、実際に、H子ちゃんからGさんは勉強ができないから馬鹿にしているという話は聞いたことがない。
こういった「悩みのパターン」はけっこうあるものらしい。
子どもたちの悩みの多くは「事実」そのものより、その事実をマイナスに解釈したことによって起きている。こうした場面で、感情を受け止めるだけでは、当の本人は、自分を被害者の立場に置き続けてしまうことがあり、次の行動につなげることはできない。
ただし、そういった子に「思い込みよ」という声かけはしてはならない。
「確認質問」といった、話の内容を確認するための質問を行っていくことで、子どもたちの思い込みを排除するやり方をとるべきだ、と筆者は言う。
被害妄想という言葉がある。
被害妄想の子は「メンタルが弱い」などといわれる。
しかし、「メンタルが弱いのではなく、メンタルにマイナスの影響を与えてしまう言語パターン、思考パターンをしているだけ」と筆者は言う。ストレスを引き起こす出来事は外側にあるが、それによって、どれくらいのストレスをどのくらいの期間引きずるかは、そのひとの言語パターンや思考パターンが決めているのだという。
悩みの原因が、事実ではなく、事実をどうとらえたかという解釈が問題であるなら、事実と解釈が頭の中でごちゃごちゃになっているということだから、それを整理させてあげればいいのだ。
CASE7 LINEが既読になっているのに返事が来ない
「既読スルーに傷つく」
そういった子は多い。
無視されている感じがするのだろう。
だから、既読がついているのに返信がないのを不安に思ってしまう。
私は嫌われているの? とか思ってしまう。
既読スルーが嫌な子たちは「友だちなら、読んだらすぐに返信するべきである」
と考えているみたいだ。これはいわば「X=Y(こういうときはこうするものだという自分ルール)」が強くあるということだ。
「既読になったらすぐに返事が来る人=私を受け容れてくれる人」
そういった無意識のX=Yが成り立ってしまっている。
対して、既読スルーを気にしないひとは、「人には人の都合があり、返事の速さと人間関係は関係ない」と考えている。
既読スルーに不安を覚える子に、大人はどう対応できるか?
それは「出来事を変えることはできないけれど、解釈は変えることができる」ということを子どもたちに教えてあげることだ。
2.生きづらさを抱える子どもたちの共通点
(本書は11個あるが、いくつか割愛している)
特徴① 他人軸の子どもたちが使う独特の不幸文法
・~してくれない
・どうせ自分なんて!
・~のせいで
・~してあげたいのに!
・みんなが! いつも!(+マイナスな表現)
・自分は○○な子(マイナスな表現)
・~だから…できない / ~だから…になる
事実を話しているのか、解釈を話しているのかを、確認しながら整理してあげることが必要だ。
特徴② 人の意見=自分の価値という思考
他人軸の子どもは、〈誰かの評価(意見)=自分の価値〉と考えてしまう。
親や先生に「お前は○○だ」と言われたら、そうだと思い込んでしまう。
誰かの意見は、その子のある一面を見て言っているだけで、それはその人の意見であり、その人の感じた勝手なイメージなのだ。しかし、それを「真実」と受け止めてしまい、その結果、自分が本来持っている能力も発揮できない子が多い。
特徴③ 自分で決めることができない
成績は優秀だが、頑張っていい子を演じている傾向がある子は、なかなか質問に答えてくれない。筆者はその理由を「間違った答えを言うことで、自分のことを馬鹿に思われるのではないか? だから正解を言わなくてはならないと思ってしまっている」からと推測している。私もそうだろうと思う。
俗に世間で言われる「いい子」というのは大人の言う通りにする子だ。そういった子には「自己」がない、「主体」がない、自分の意志で行動したことがない。
(私はとあるテニスの試合でこんな子を見た。高校生の大会なので、その子は高校生なのだが、お父さんらしき人といっしょに試合に来ていて、バッグはお父さんが持ち、コートに入ってからもその子はずっとお父さんの方を見て、指示を待っている。お父さんはその子にあっちに動く、とか、コートチェンジするとかいったことをジェスチャーで指示していた。驚いた。)
特徴④ 誰かが察してくれるのを待つ
自分は被害者であり、かわいそうな自分であることを周囲にアピールする。
そういった子は誰かが察して、助けてくれるのを待つ。
逆に察してくれないと、そのひとを悪者扱いする。
めんどくさいけど、そういったひとはけっこう多い。
自分が変わろうとせずに、周りに変化を求めるのだ。
だが、残念ながら他人(あと過去)はコントロール不可能だ。
変えるのは自分しかないのだ。
特徴⑤ 事実に対するネガティブな解釈で自爆する
事実に対してネガティブに解釈し、落ち込んだりする。
「出来事は変えられないけど、解釈は変えることができる」
「一つの出来事でも、いろいろな解釈の仕方や考え方のバリエーションがある」
「その解釈によって出てくる感情は全く違う」
そういったことを子どもたちに伝える必要がある。
特徴⑥ マイナスを一般化する
「みんな」「いつも」という言葉を多用する。
こういったことを一般化という。
一般化が大きくなればなるほど、負の感情を引き出すトリガーが多くなる。
大人はそういった子たちに「具体的には?」「みんなって誰?」「いつもというのは、どれくらいの回数なの?」「例外はある?」などのことばで、その子がはまり込んでいる思考を解いていく必要がある。
3.子どもの生きづらさを増幅する大人の勘違い
近年、繊細な子が増えた結果、配慮することが増えた気がする。
それは教育現場のみならず、社会全体がそうなっている気がする。
ぺこぱのような誰も傷つけない笑いが求められているように、
「誰も傷つけない」ということが大きなテーマとなっている。
だからか、教育現場でも「優しくする」ということが求められている。
厳しい指導の結果、不登校や最悪、自殺にまで発展するケースもある。
私の勤務している学校の先生も言葉選びにかなり慎重になっている。
しかし、そういった指導の中で忘れてはならないのが、
「その対応で本当に子どもは、人間として成長できるのか?」ということだ。
子どもが自分で考え、自分で答えを出すために、大人がしっかりと向き合い、十分な時間をかけることこそは「指導」だと、筆者は言う。
また、「優しくする」中で、子どもに危ないことをさせないということで、公園から危険なアスレチックを除外したり、ボール遊びを禁止したりしている。
しかし、そういったあらゆる危険因子を排除していったら、ほんとうに楽しいことは何もなくなると思う。
それと同じように子どもに失敗経験をさせないように、前もってその危険を大人が排除すると、子どもは学びを失ってしまう。
失敗は成功の母という諺があるように、失敗することによって人は学び、成長するものだ。失敗をチャンスに変えて心を成長させるものだ。だから、失敗経験を取り払うなど、言語道断事案なのだ。
また、親が過剰に子どもを守ったり、行き過ぎると「かわいそうな子」として扱うなんてこともある。
相手をかわいそうな子だと思ってかかわると、瞬時に相手は、かわいそうな子になる。かわいそうに思うのは愛情ではない。
相手を思いやったことばであっても、かわいそうな子、助けてあげなきゃというマインドでかかわるとき、相手に届くのは「あなたは助けてもらう人」「君は問題児だ」という非言語なメッセージなのだ。
「君は○○」というレッテルはりに気を付けなければならない。
4.まとめ
本書はまだ3章残しているのだが、ここでは割愛する。
最後に、本書の最終章に書かれていたことが面白い発想だなって思ったので、それを紹介して終わろうと思う。
多くの子どもたちが、他人軸になってしまう根本的な原因は「自己受容」の低さである。自分を受け容れられないから、自分を消して人に受け容れてもらおうとする。人の評価が必要以上に気になる。自分の中にいる受け容れられない自分を隠そうとする、排除しようとする。さらには、それをごまかすために、自分以外の何かになろうとして、たくさんの鎧をつけて生きようとする。様々な問題の大元の原因が、そこにあると考えられる。
私たちの肉体は一つだが、いろんな自分が存在する。
いろんな自分が集まって自分というものを形成する。
この集合した自分を筆者は「チーム自分」と呼んでいる。
チーム自分の中にはいろんなメンバーがいるが、その全部を好きになる必要はない。どうしても好きになれないメンバーもいる。でも、自分の中にある大切な自分の一部だから、ここにいてもいいよと存在を認めてあげることだ。
受け容れてもらうために、ほんらいの自分の姿を否定し、受け容れてもらえそうな自分ばかりを演じていく。その自分が受け容れられないと、今度はもっと違う自分をつくるという悪循環が生まれる。自分がどんどん複雑になって来る。そうなってしまうと「自分って何?」って思うようになってしまう。
チーム自分をよりよくするためには「排除」ではなく「受容」なのだ。
これは筆者のたとえではないのだが、たとえば、14人いる野球チームで、監督がこいつらは気に入らないと言って、5人追放してしまったら、残りの9人だけで試合をしなければならなくなる。そうなると、パフォーマンスが下がってしまうことだろう。そうではなく、14人いるなかで監督が気に入らないメンバーがいたとしても、欠点ばかりに着目するのではなく、「こいつは声が大きくて、チームの士気をあげてくれる」などといったチームを貢献する何かを見出してやることで、そのメンバーを受け容れる。そうすることで「最高のチーム」を作り上げる。ということなのだろう。
最後に筆者の言葉を引用して締める。
どんな自分も、あなたそのものではなく、そしてどんな自分も大切な自分です。そして本当のあなたは小さい自分(チームメンバー)を越えたもっともっと大きな存在なのです。