内田和俊『10代の「めんどい」が楽になる本』

 昔はよかった、という言葉をよく聞く。

 

 私自身、そう思っているところもある。

 

 まず人付き合いに関して、スマホの普及から、人との距離が遠くなったように思う。

 月並みな意見だけど。

 SNSの普及により、ひとは承認欲求モンスターと化し、現実世界を生きているのかネットワーク上の世界を生きているのかその境界があいまいになっているのではないか。

 それに加えてネットワーク上の顔の見えないひとたちがあれこれと物申すことができるため、ちょっとしたことでも炎上にしたてあげようとする風潮がある。

 小室圭さんの件だってそうだ。

 髪を後ろに束ねようが、ワイヤレスイヤホンをしていようが、ポケットに手をつっこもうが、別にいいだろうが、と思う。皇室の人間としてふさわしくない、となぜ無関係の人間がはやし立てることができるのか?

 ということで、とにかく、自分とは無関係なものになんでもかんでも首を突っ込むことができ、それについて好き勝手意見を言うことができる世の中になった結果、そういった炎上を怖れ、人同士に距離感を生じさせた。

 まさにソーシャル・ディスタンス。

 

 教師も、ここ最近のデジタルチルドレンである生徒たちを怖れている気がする。

 厳しい指導をした結果、その生徒が自殺をするといったケースもあるし、知らない間に録音されていて、これは行き過ぎた指導ではないかと訴えられることもある。

 

 私は、そういった現代の状況から、昔はよかったと思う。

 ガラケーが普及していた時代が、ひととひととの距離がちょうどよかったような。

 

 と、考えるのも、もちろん記憶が美化されている。

 当時は、当時でメールを送ったけど返信がないことに対し、不安感を覚えるような子どもが多くいた。メールからLINEが主流になった今もそれは変わっていない。

 

 また、もっと時代を遡る。

 昭和のことは知らないので、今回紹介する著書『10代の「めんどい」が楽になる本』の著者、内田和俊さんの話を拝借すると、次の通りであるらしい。

 

 

価値観や行動規範に関する選択肢が少なく、非常に息苦しく窮屈でした。特に性別と中高生の振る舞いに関する決めつけには、ひどいものがありました。

 

 今でこそ性差やLGBTへの理解であったり、外国にルーツを持つ人への理解だったりが求められているが、ようやくそういった問題が明るみになって問題視されている。昔は男尊女卑は当たり前で、男は男らしく、女は女らしくといった性的マイノリティの根本を否定するような考えが横行し、外国人への偏見(日本人の名前なのに見た目が黒人であることへの違和感とか)はすごいものだったのだろう。そして当時はそれらを問題と考えていなかった。

 そういった昭和の価値観、規範意識を考えると、今はマイノリティの声が届くようになって、そういったひとにとっては優しい世界になりつつあるのかもしれない。

(ちなみに私の勤務している高校の先生の話では、昭和の高校で、体育の先生は体育教官室で酒を飲みながら生徒にあれこれ指示をしていたのだという。今では考えられない振る舞いだ。そういった今では考えられないようなことが昭和では横行していた。体罰は当たり前だし、いじめもあった。だが、体罰を受けるのはたるんでいるからだ、とかいじめられている方に問題があるとか、そういった被害者を責めるような言葉が行きかっていただろうに。これはあくまで推論だが)

 

 今の時代は、様々な分野で、固定観念の枠が壊され、価値観や行動規範の押し付けも、ずいぶんと緩くなった。

 

 内田さんは語る。

 たしかにそのおかげで今までは「何だそれ?」と思わていたようなものが社会で認められつつある。

 一昔前ならアニメオタクは迫害対象であったのが、今では一般ピーポーでもアニメ好きはいるし、むしろそれを肯定する風潮もある(最近、テレビでは鬼滅を持ち上げているし、声優さんだっていろんな番組に出演している)。

 ユーチューバーなんて職業ができたのも、時代の流れのおかげだ。

 言ってしまえば、未開拓の分野を切り開くことができれば、ヒカキンのような億万長者になることも夢ではない時代になっている。(先行者利益ってやつ)

 

 ようは、選択肢が増えたのである。

 

 一昔に比べ、なくなった職業もあるが、増えた職業もある(というか増えた方が多いんじゃないかな?)。

 また、生き方も多様になった。

 従来は小学校、中学校、高校、大学といったふうに進学するのが当たり前で、その流れに乗れなかった不登校生徒は憂き目にあっていたが、今では通信制の高校という選択肢もありだし、フリースクールに行くのも全然OKな時代だ。

 

 社会のレールからはみ出てしまった者が、損をする時代は終わった。

 むしろ社会のレールに乗り続けることに疑義を呈する人がこれからの社会を切り拓いていくのだと思う。

(もちろん、そんなひと一握りの人間である)

 

 本書は、そんなマイノリティに属する子どもたちに寄り添う内容になっている。

 

 内田さんはこう言います。

 

 

仮に今、あなたが何らかの少数派に属していたとしても、何も恥ずかしいことなんかありません。法に触れるような悪いことをしているわけでもありません。堂々と生きていいんです。

 そして今後、もしあなたが、自分の努力ではどうにもならない事情によって少数派に属することになってしまったとしても、それによって、あなたの価値が低下するわけではありません。

 負い目を感じることもないし、ビクビクしながら生活する必要もありません。

 自分の努力でどうにかできる勉強やスポーツや趣味に、正々堂々と打ち込めばいいのです。

 

 

 ということで、今回は本書の内容を徒然草的に紹介する。

 

 

 

1.性格について

 性格に三つの要素がある。

「思考」「気分や感情」「行動」の3つ。

 たとえば、近所で野良猫にエサをあげているおばさんを見かけたとする。

 それを慈悲深い(思考)と思い、ほっこりする(気分や感情)ひともいれば、無責任だ(思考)と思い、怒る(気分や感情)ひともいる。さらに怒ったあと、何もしない(行動)ひともいれば、わざわざそのおばさんに抗議しにく(行動)ひともいるだろう。

 3つの要素にはひとそれぞれ異なる組み合わせやパターンがあり、それを私たちは性格と呼んでいる。この3つの要素は連動するものだ。どれか一つが何らかのきっかけでプラスの方向に向かうと、残り二つもプラスに向かい、一方で、どれかひとつでもマイナスの方向に進めば、残り二つもマイナスの方向に向かう。

 

 3つの要素である「思考」「気分や感情」「行動」を2つのカテゴリーに分類する。

①自分の意志で変えられるもの

②自分の意志では変えられないもの

 

 ①は「思考」「行動」で、②は「気分や感情」だ。

 うれしい、楽しい、哀しいという感情は自分ではコントロールできないことから、「気分や感情」が②に該当するのは理解できるだろう。

 しかし、さっきも述べたがこの3つの要素は連動する。

 つまり、自分の意志で変えられる「思考」「行動」をプラスに変えていけば、「気分や感情」もプラス方向に向かわせることができるということだ。

 

 だから、自分の意志で変えられない「気分や感情」をどうこうするのではなく、「思考」「行動」に意識を向けることで、生きやすくすればいいのだ。

 

 2020年のセンター試験の国語の一問目で「レジリエンス」がテーマの文章が出題された。河野哲也『境界の現象学』が出典である。そこにはこうある。

 

 レジリエンスとは、自己のニーズを充足し、生活の基本的条件を維持するために、個人が持たねばならない最低限の回復力である。/生命の自己維持活動は自発的であり、生命自身の能動性や自律性が要求される。したがってケアする者がなすべきは、さまざまに変化する環境に対応しながら自分のニーズを満たせる力を獲得してもらうように、本人を支援することである。

 

 ようはレジリエンス」とは「心の自然治癒力」のことである。

 嫌なことがあれば、つらいと感じ、心は削られる。

 そのダメージを受けた心は、やがて修復し、もとの状態に戻る。

 その恢復する力こそ「レジリエンス」なのだ。

 

 内田さんは「レジリエンス」はやり方次第で高めることができると言う。

「コントロール可能な『思考』か『行動』をプラス方向に変えることで、間接的に『気分や感情』もプラス方向に変えることができ、その結果としてレジリエンスが高まる」

 そう述べている。

 

2.人それぞれ

 内田さんは性格を構成する3要素のひとつである「思考」を「人生脚本」と呼んだ。人生脚本とは「自分はこういう人間であり、他人や社会とはこういう性質のものであり、自分の人生や人間関係は今後、こんなふうになっていくだろうという人生の予言書」のようなものだと言っている。当然、その人生脚本は人それぞれ異なっている。

 だが、多くの人たちが、脚本は自分のものしか存在せず、その脚本が全国共通、万人に共通だと思い込んでいて、これが衝突やイライラの原因になっている。

 まず、人それぞれ異なった人生脚本を持っていることを理解すべきである。自分の価値基準を絶対視したり、万人に共通するものだと思い込むことは、こりかたまった一方通行の考え方だ。その本人だけでなく、その人と接する周囲の人たちまで、息苦しさを感じてしまうのだ。

 

 内田さんも紹介しているのだが、志茂田景樹さんのツイート

 

 

 みんなが違う考え方や独自の表現方法を持っている。それは「正しい」とか「正しくない」とかではない。

 とにかく大事なのは「人それぞれ」だということを理解すること。

 

 自分と同じ考えであることを他人に求めるから不幸になるのだ。

 人それぞれ、というのを魔法の言葉のように持つべきなんだろう。

(だからこそ、本を読む必要はあると思う。小説でもいいし、ノンフィクションでもいい。そこに登場するあらゆるひとの主義主張なんかに触れ、こういった考えもあるんだとか、こういった性格のひともいるんだと発見できるいい機会になると思う)

 

3.目標って

 まず「目的」と「目標」の違いについて。

 目的とは、漠然としていて、抽象的なものだと言える。

 たとえば、ビックになりたい、とか。

 目標とは、目的であるゴールまでの道のりに点在するマイルストーンのようなものだ。

 ビックになりたいという目標のために、「一芸を磨く」とか「芸能界に入る」とか、そういった明確で具体的なものだ。

 いわゆる、目標というのは目的を達成するための手段である。

 目的を「自分軸」と言うこともできる。

 目的は人生の目指すべき方向である。

 対して、目標はその目的に進むための中間地点のようなものだから、自分軸がぶれない限りは別に目標がころころと変わっても構わない。

 なんだったら、目的さえ明確であれば、中高生の段階で目標がなくたって大丈夫なんだ。

(日向坂46の『青春の馬』にて、「夢が叶うか 叶わないかは ずっと先のことだ」という歌詞がある。ここでは「夢」=「目的」という意味なんだろう。自分の夢というのはずっと先にあって、だから今はただ何も考えずに我武者羅に突き進めばいい、という熱いメッセージ。)

 

4.サードプレイスを見つける

 

 サードプレイスということばがある。

 サードがあるから「ファースト」「セカンド」もあるのだが。

 ファーストプレイスは自宅。

 セカンドプレイスは学校(大人なら職場)

 で、サードプレイス、それは「様々なプレッシャーから解放され、創造的な交流が発生する場」のこと。アメリカの社会学者、オルデンバーグが提唱した概念だ。

 サードプレイスの特徴は「インフォーマルでパブリックな集いの場」。

 インフォーマルというのは「堅苦しくない」ということ。

 パブリックとは「公的」、つまり、ひとりではなく他者との交わりが発生するという意味。

 つまり、「インフォーマルでパブリックな集いの場」というのは「誰からも強制されず、自分の意志で参加できる場所」のことである。

 

 話は急に変わるが、最近、小野寺史宜『ひと』を読んだ。

 主人公の柏木聖輔は高校生のときに父親を亡くし、大学生のときに母親を亡くした。

 いわゆるファーストプレイスを失ったわけだ。

 母親の死により、大学を辞めることを余儀なくされ、これによりセカンドプレイスも失ってしまった。

 彼は孤独になった。

 そこで惣菜屋さんで働くことになって、さまざまなひとと出会う。職場のひとのほか、お客さんや、大学生時代の友人、高校生時代の友人。

 そして、そういったいろんな人との出会いや触れ合いの中で、主人公は成長する。

 最後の方で主人公はこんな結論を得た。

 

 大切なのはものじゃない。形がない何かでもない。人だ。人材に代わりはいても、人に代わりはいない。

 

 この文章を読んで、この小説は人の「孤独」を癒すのは「人」なのだと理解した。

 

 本書に戻るが、人は人によって癒されるが、別にその人の数はさほど重要ではないそうだ。一人でも味方になってくれる人がいれば、それでいいみたいだ。

(友だちの多さと幸福度は比例しない)

 

4.自信のつけ方

 

 自信をつけるためには約束を守る必要がある。

 誰との約束?

 それは「自分」との約束だ。

 他人と約束すれば、それを守らなければ信用を失ってしまうし、迷惑をかけてしまうが、自分との約束は破ったとしても誰にも迷惑をかけないし、誰に何も文句言われない。だから、自分との約束を軽んじている人はけっこう多い。

 だが、他人との約束を破ることで信用を損ね、好感度が下がり、評価も下がるように、自分との約束も守らなければ、自己信頼や自己評価は下がってしまう。

 自分との約束を破るという行為は、自分自身への背任であり、裏切りである。

 逆に自分との約束をきっちりと守っていれば、自己嫌悪せずに済み、自信もつくのではないか?

 そういうふうに内田さんは言う。

 また、自分との約束を破ってしまったとき、フォローも大事だ。

 他人との約束を破ったら、おごったりしてフォローするみたいに、自分との約束を破ってしまったら、漫画やゲームを我慢して、課題に取り組むとか、そういった方面でのフォローをしよう。

 そういうふうに内田さんは言う。

 この話は、本書を読んでいて、特になるほどなと思ったところである。

 

5.まとめ

 ちょっとここ最近、こういった子どもの心に関する本を読んでいる。

 それも手軽に読めるような本。

 本書はまんがも載っていて、非常にわかりやすい文体で書かれている。

 まさに中高生向けといった本。

(そういった読みやすい本はいつもkindleで購入している。)

 こういった本を読むのはやはり私のような大人ではなく中高生なんだと思う。

 10代の子たちはあらゆることに悩みはするが、私が思うに、その悩みを解決してくれるのは「言葉」だろう。

 たとえば、話が合わないことにイライラする人がいるが、本書にあった「多くの人たちが、脚本は自分のものしか存在せず、その脚本が全国共通、万人に共通だと思い込んでいる」という記述は、イライラを軽減させる効力があると思う。

 本を読んで「そうだったのか!」と思える記述に出会うことで、人は生きやすくなると思う。

 生きやすくなるための方法を知ることができるし、自分の悩みや苦しみを言語化してくれるような文章に出会うことができる。

 だから、私は10代の子はいろんな本を読むべきだと思う。