池澤夏樹『スティル・ライフ』の冒頭

 池澤夏樹の『スティル・ライフ』という小説。

 冒頭が美しい。

 

 

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

 

 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。

 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。

 たとえば、星を見るとかして。

 

 

 この小説自体はけっこう前に読んで、文章の流麗さには目をひくものがあったが、肝心な内容の方はあまり覚えていない。

 やけに哲学的だったのは憶えている。

 物語に起伏はない。

 まあ、純文学とはそういうものである。

 

 とはいえ、前に引用した冒頭は美しい。

 この小説は芥川賞受賞作であり、選考委員の開高健からは「冒頭にたいそう突ッ張った文体の宣言文があり、つづく本文に水と油みたいな効果をあたえている。この部分は私にはまったく余計なものと感じられる。」と苦言を呈され、三浦哲郎からは「冒頭の前説を切り捨てる勇気が持てさえしたら、今後が楽しみな新作家だと思う。」と暗に冒頭部は不要だと言われている。

 しかし、私はこの冒頭が好きだ。

 たとえ、それが物語に水を差すようなものであっても。

 

 世界というの理不尽なものだ。

 世界が自分を救ってくれるなどという妄念は早めに取り払った方がいいということなのだろう。なぜなら世界というのは我々がリアルに生きている「外の世界」以外にも自分の中にある「内の世界」がある。

 その「内の世界」なら自分次第でうまく生きられるものなのかもしれない。

 文学的な考え方ではないが、言ってしまえばポジティブ思考をすることで、「内の世界」を楽しいものにさせることができるかもしれない。

 しかし、「外の世界」と「内の世界」の間に大きな溝ができてしまっては都合が悪い。

 その乖離によって非行に走る人は後を絶たないことは歴史が証明している。

 だから、その防止策として、「外の世界」と「内の世界」の調和をはかるというのだ。

 その方法として挙げられているのが「星を見る」。

 なんとも詩的で美しい。

 最高だ。

 

 私は自然を見るのが好きだ。

 自分の中にあった靄がすっかり晴れ、心が軽くなるような感覚を得る。

 それがもしかすると「外の世界」と「内の世界」の調和の瞬間だったのかもしれない。