桐光学園+ちくまプリマー新書編集部『学ぶということ』
内田樹・岩井克人・斎藤環・湯浅誠・鹿島茂・美馬達哉・池上彰(敬称略)の7人が「学ぶということはどういうことか?」という問いについて答えてくれた本である。
3人だけご紹介する。
①生きる力を高める 内田樹
グローバル化によって海外進出を視野に入れなければならない、という昨今の風潮。
よく考えると、それは残酷な風潮であることに気づいたのは、内田樹氏の以下の言葉である。
グローバル人材育成教育というのは「そんな人間は要らない」ということです。
その理由として、内田氏は、「あなたがいなくなったら、とても困ります」と言う人がひしめいていたら海外になんか簡単に出れないから、と述べている。
海外進出と軽々しく言うが、そもそも日本で生まれ育って、そこには家族がいて、友だちがいて、恋人がいて、尊敬する人がいて、後輩がいる。そういった濃厚な人間関係を構築したにも関わらず、海外進出を強要されるのは、たしかに残酷な構図に見える。
子どもたちにはできることなら周囲の人から「あなたがいなくては生きていけない」と言われるような人になって欲しいと願っています。
内田氏はそう言う。
「あなたがいないとはいけない」というのは、「あなたでないといけない」という意味であろう。
このことから、内田氏は人間同士のつながりを重要視していることがわかる。
また、内田氏は「生きる力」を「いま持っている自分の能力を高める方向がわかる力」と定義し、それを高めるためには「出会い」しかないと述べている。
本当に生きる力が強い人は、会うべき人に出会うべきときに必ず出会う。あることを知りたいと強く願っているときに、まさにその知識を持っている人に出会う。ある場所に行きたいなと強く思っているときに、ちょうどその場所に用事があって行く人に出会って、一緒に行くことになる。そういうふうに、縁、他者の支援を自分のまわりに惹きつける力が生命力です。
きっと、いろんなことに首をつっこみ、トラブルに巻き込むくらいがちょうどいいのかもしれない。
②斎藤環「つながることと認められること」
つながることへの価値がはるかに高くなった昨今。
就職活動で何よりも大切なのが「コミュニケーション能力」だと言われている。
コミュニケーションがある人はもてはやされ、コミュニケーションがない人は負の烙印を押されることになる。
しかし、日本でいう「コミュニケーション能力」と欧米でいう「コミュニケーション能力」は異なっている。
前者は、空気を読む能力・人をいじる能力・笑いをとる能力。
後者は、ディベート能力・論理的に相手を説得する能力。
だから、世間一般で考えられているコミュニケーション能力が海外に通じないことだってある。
(いわゆるウェイ系がコミュ力の塊であるかどうか再考する必要がある。)
つまりは、コミュニケーション能力について一度その真の価値なるものを正確に理解する必要があるだろう。
もう一つ、キャラについて。
家でのキャラ、塾でのキャラ、学校でのキャラ…。
いろんなキャラが私たちの中に存在する。
(そういったキャラすべてが「自分」だという話は前にした)
そういったキャラを嫌だと思わずにしっかり「演技」をすればよい。
日本においては「空気」がその場を支配する。
つまり、教室内における「空気」の支配を受け、また、カーストなどによって押し付けられた「キャラ」というのは、価値がない。しかし、そういうキャラを「演技」しているんだと自覚することができたら、被害は最小限に抑えることができる。
(たとえば、いじられキャラを押し付けられていたとしても、自分はただそれを演技していると自覚していれば、感情的にならずに済むということだ。しかし、斎藤氏はあくまでそうすることで「被害は最小限に抑えることができる」ということであって、推奨しているわけではない。いじられキャラが嫌で反発してもいい。しかし、教室の空気が支配しているという状況下でその反発がいい方向に進むかどうかと考えると、残念なことにそうはならないだろう。私自身、最近、何においても「演じている」という感覚をもっていて、それが感情的にならないいい方法だと実感した。教師をしている中で、生徒を叱るときは「自分は教師として叱っている」と自分を客観視し、暴言めいたことを言われたときは「これは別に教師としての自分に吐かれている暴言だな」と思ったりしているし、案外、心を平穏にさせる武器として「演技」は非常に有効なのかもしれない)
③鹿島茂「考える方法」
答えのない問いについて考える力がこれから必要になってくる。
そんなこと耳にタコができるくらいに聞いた言葉だ。
そもそもひと昔前までは「直系家族」という「親・子・孫」の縦型の家族形態(いわゆるサザエさん型)が主だった。しかし、昨今では「核家族」といった「両親・子」という家族の最小にして最大の単位の家族形態(いわゆるドラえもん型)が主である。
前者では親の権威が強いために子はそれに従っていけばよかった。
「この学校があなたに一番向いている」
「この会社がいいからはいりなさい」とか。
後者ではそういったことがなく、子どもが自分の頭で考えねばならなくなった。(その核家族類型の思考法が産んだ物語の典型が『ロビンソン・クルーソー』であるそうだ。)
しかし、長い間、直系家族でやってきた日本人は、いざ「自分の頭で考えろ」と言われても、無理な話なのだ。
教育現場でも「答えのない問い」について考えさせようという風潮を出しながらも、結局、受験で課される試験が「答えのある問い」である以上、そういった答えのない問いについて考えさせる学習よりは従来のやり方の方が受験をする際は重要だし、生徒たちもそう思ってしまっている。
だからこそ、「すべてを疑え」ということなのだ。
これは学生のうちでも社会人になってからでもいい。
たとえば、今の教育がおかしいというなら、どこがおかしいかを列挙し、その改善策について考える。この「疑い」から「解決策」までのレールを敷くという作業はなかなか大変かもしれないが、これからの社会かならず必要となる。