石井志昂『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』
本書は子育てに関する書である。
「不登校」というワードだけで購入してしまったのだが、教員の身である私にもなるほどなと思う部分は多くあったので結果的に買ってよかったかなと思う。
本書に登場する子どもというのは基本的に小学生・中学生あたりを指していることをはじめに断っておく。
1.雑談を聞くということ
よく子どもって話をしたがる。
その話の内容はけっこうたわいのないものだったりする。
じつは、そのたわいのない、なんでもない話をし、それを聞いてくれるひとがいることで、その子どもの中に無条件の自己肯定感がはぐくまれるのではないか? と筆者は考えている。
たわいのない、なんでもない話。つまり、雑談。
雑談は、相手に何も求めない時間で、そういう時間をシェアすることで、「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを、子どもたちは受け取ることができる。
ふだんから雑談ができる関係ができあがっていることで、「どうしたの?」と聞きやすいし、子どもの方から歩み寄ってくれる可能性も高い。
本書では親子関係にフォーカスして書かれてあったが、これは教師と生徒(児童)の関係とも同じだろう。
雑談を聞いてやる、というのはとても大切な行為だ。
ゲームの話をしてきたら、「ゲームもいいけど、勉強はしっかりしなさい」と返すのではなく、「○○ってキャラクターがいるゲームだよね」といったふうに興味をもって返事をしてあげる。
子どもがしたいのは「今」の話であるそうだ。
だから、子どもに「ゲームばかりしているとろくな大人になれない」といった将来の話をしてはいけないのだ。
子どもが話し始めたら、先に立って話を先導しようとせず、あとをついていくように話を聞いてあげてください。
それが筆者の思いである。
2.傾聴の大切さ
以前のブログでも書いたのだが、「傾聴」というのはとても大切なことだ。
聴き手に徹する。子どもの話をコントロールせず、保護者の方が期待する結論に結びつけようとしたりするのはやめる。言いたくなる気持ちを抑えて、たくさん聞く。
話をきちんと聞いてもらう前に、問題を勝手に決めつけて、求めてもいない情報を提供されたら、誰でも嫌なものだ。そういう気持ちは子どもでもない大人でもわかることだ。
また、子どもが不安を抱えているとき、「気にするな」「仕方がない」という言葉は言わない方がいいそうだ。そう言われた子どもは自分が否定されたような気持になる。
だからまずは子どもの不安や葛藤にはできれば共感を示してあげる。
難しいなら共感するふりでもいい。
オウム返しでもいい。
人間誰だって自分という人間しか生きていない。
人の気持ちを完全に理解することなどできないのだから。
(前にブログで「子どもの気持ちを理解する」と書いておきながら、やっぱり「理解できないから、理解している振りをする」と開き直ったように書くのはどうかと思うが)
しかし、だからといって理解できないと突っぱねてはいけない。
理解している振りを続けることで、ほんとうに理解できるようになるかもしれない。
理解できるか、できないかは別にしても、私は共感を示し続けたい。
3.ワンクッション
子どもにアドバイスをするときに、難しいのはタイミングだ。
ここからは少し子育ての話になる。
子育て経験のないため、私は書かれている内容をできるだけそのまま陳述する。
子どもの話を聞いたうえで、「親としてできることがあるな」と思ったら、すぐに子どもに提案するのではなく、家族やご自身の友人など誰かに話して、ワンクッション置くのが言い。ひと呼吸を置く理由としては、子どもの性格や特性を理解しているがゆえに、「この子にはこっちの道がいいだろう」という親自身が思い描いている道をどうしても押し付けることになりうるからだそうだ。
(子育てに関する話ではあったが、教育現場でも使えそうだ。
生徒と接するなかで、あの生徒はこういう性格だとわかった気になることがある。だから、その生徒から悩みを告白されたら、「君はこういう性格だからこうしたらいい」としたり顔でいいかねない。しかし、これじゃあ教師の思い描く道を押し付けることになる。だから、ほかの教師と話し合ったり、保護者と話し合ったりする中で、その生徒の悩みを一度俯瞰的に見てみて、それから生徒と話をするといった「ワンクッション」が大事になる。)
また、そのワンクッションを置いたがために、その間に子どもが悩みを解決してしまったら、親として(また、教師として)はがかっかりするが、本人の気持ちを汲んだ方がいい。まず子どもが悩みを解決したことを喜ぼう、というわけだ。
4.共感的姿勢
子どもが愚痴をいいにきたらそれは信頼されている証なんだろう。
親としても、教員としても。
「学校だるいよね」という愚痴に対し、親は「そんなこといわない」と注意してしまいかねないが、やはりここでも共感が大事になってくるから、「だるいよね」と返しておけばいいそうだ。
教員の場合、「学校、めんどくさい」といわれたら、手放しに「めんどくさいよね」とは言い辛いし、「すこし休んでもいいんだよ」とも言い辛い。だからといって「もう少し頑張ってみようか」なんていってもだめ。(もう少しってどれくらい? 十分に頑張ったよ。という子どもたちは心の中で嘆くことだろう)
やはり、私が思うに教員でも別に「学校、めんどくさいよね」と返してもいいと思う。しっかり生徒の心に寄り添うことができていればそれでいいと思う。
何度もいうが「共感」が大事であり、「アドバイス」はまったく重要ではない。生徒の方から求められたら、経験的に語れることがあれば語ればいいだろうが、そうでない限り、「私はこうして乗り越えた」といってもまったく効果がない。
また、私は今の高校に勤務する前は「学校は行くものだ」という固定観念があったが、実際、勤務してからそうではないことを知った。
それがダメなことだとはじめは感じていたが、その休みがガス抜きになっているなら別にいいのではないか?と思うようになった。
一日くらい授業をさぼったって、別にいいと思う。
皆勤賞なんて言葉があるように毎日行くことが偉いとか、仕事に就いてから休まずに働くことこそが美徳だとか、そういう風潮があるみたいだが、精神的な疲弊を感じ、メンタルがもたないとなると元も子もない。
休め。
気分転換しろ。
ユニバでも行け。
とは思う。
それがまだ認められていない考え方ではあるが。
5.学校に行きたくない子どもたち
不登校とは「心がオーバーヒートした状態」のことで、モーターのスイッチが切れるように身体が動かなくなる、つまり安全装置が作動している状態であるそうだ。
不登校の定義が「年間30日以上学校を休む」であるそうだ。月換算すれば3,4日休むとそれに該当する。
それを踏まえたうえで、文科省の調査を見ると、小・中・高における不登校児童生徒数は年々増えているそうだ。
2019年度では23万1372人と過去を更新した。
また、2020年度以降の数字はでていないが、コロナ禍により不登校児童生徒の数はまた増加したのではないかと思う。
学校に来たくない理由はいろいろある。
文科省の調査によると、以下の理由があがっている。
「友人との関係」(53.7%)
「生活のリズムの乱れ」(34.7%)
「勉強がわからない」(31.6%)
「先生との関係」(26.6%)
私の勤務している学校でも不登校の理由は圧倒的に人間関係だ。
社会人でもそれが理由で辞めているのだから理解できないことではないだろう。
とくに今の時代、人との付き合いというのはとても微妙なものになっている。
SNSでのやりとりのなかにも緊張がある。
SNSは四六時中ひととつながりを持つわけだから、心身疲弊してもおかしくない。
さらにSNS上でいじめが横行することだってある。
SNS上でのいじめは見えにくい。
だからこそ、子どもとの一対一の話合いというのは大切になると思う。
目に見えていじめられているというなら、その子どもと話し合う必然性が生まれるが、見えていないいじめを受けているとなると、話合いの場を設ける必然性は生まれない。だって、いじめが起きていることに気づかないから。
だからこそ、直感的でもいいので、最近元気ないな、といった子どもの微々たる変化に気づけるようにならないといけないんだろうな。
6.逃げてもいいと思う
一時期ツイッターで話題になっていた新聞の投書。
投稿者は13歳の女の子。
逃げて怒られるのは
人間くらい
ほかの生き物たちは
本能で逃げないと
生きていけないのに
どうして人は
「逃げてはいけない」
なんて答えに
たどりついたのだろう
この投稿者の子がどういう背景があって、この投書を送ったのかはわからない。
しかし、思春期真っただ中、人間関係や家族間でのトラブルなどから、いろいろが嫌になり、逃げだしたくなったが、大人から「逃げてはいけない」と言われた……そんなストーリーをまことに勝手ながら考えた。
動物は危険を察知すると、本能的にそれを避ける、逃げると言った行動に出る。
苦しいのにその場から離れられないというのが一番危険だからだ。
学校が嫌で逃げたいと思うのは学校が危険だと心が思っているからで、だから、学校に行かないというのはある種動物的本能に従った合理的行動である。
そういった意味でも学校に行かないという選択肢はあるべきなのだ。
そして、学校から距離をいったん置くことで気持ちの整理をし、心を回復させる。
(気持ちの整理がつくというのは、学校や不登校、いじめといった言葉を聞いても、心にさざ波が立たなくなるということ。自分と他人を比較しなくなる、焦らなくなる、学校に行っていないことに罪悪感を持たなくなる、ともいえる。)
7.健全な不登校
次の動画を見てほしい。
けっきょく、子どもが不登校になって、それを理解してくれる親が必要なのかもしれない。(親ガチャという言葉が最近トレンドだそうだが)
不登校は不登校でも某ユーチューバーのように勉強もせずにサボるのはよくないと思うが、不登校期間中だからこそできることがないかを探すということはとても重要なことだと思う。
また、勉強がつらくなって不登校になってしまった子には「今は勉強に集中できる状況ではないから勉強はいったん置いておこう」といった感じで、いったん勉強との距離を置くのも有効だ。勉強から離れて、学びの面白さに気づくことだってあるかもしれない。
(伊予原新『月まで三キロ』の中に収録されている「アンモナイトの探し方」を読むと深く理解できる。受験勉強にストレスを感じ、円形脱毛症を患った小学生六年生の朋樹がしばらく環境を変える意味で田舎で過ごし、そこで化石を掘るおじさんと出会う。そんな話だ。勉強から距離を置きながら、化石を掘ることの面白さに気づくというのだが、これは暗に学校や塾で押し付けられるような勉強を批判し、ほんとうの学びというのはこういうものだよと教えているのではないかと思った。)
「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」
8.学びについて
私の勤務している学校の生徒はわりと自己肯定感が低い子が多い。
その理由として今まで褒められたい経験が少ないからだそうだ。
勉強でも素行面でも。
学校教育では自分が勉強ができないとそれが点数化されてしまう。
結果、自己肯定感が下がる。勉強したくなくなる。
この悪循環。
しかし、もしそういった子でも特定の何か学びたいと思えるものがあれば、その子にとって学びは楽しいものだと思えるようになるかもしれない。
本書では子どもたちに必要な能力は「世の中にどのような問題があるのかを見つける力、その問題をどうすれば解決していけるかを探索する力、あるいは生き方を自分で上手に探せる力」だと書かれている。
それは今の学校教育における学力とはまた違う力である。
世の中のことを見通し、問題を発見し、解決する力というのはただ字がびっしりつまった教科書と対峙していても身につかない能力だと思う。
異国で異文化に触れるとか、自然に触れるとか、そういった非日常との会合がそういった能力を涵養するのだと思う。
(私だって、学びに対してあまりモチベーションは持っていなかったのだが、今勤務している学校では、自分が高校生のときには考えられないような出来事が起こっている。私が学生時代には考えていなかったような、いろんな悩みを抱えた生徒がいる。自分の狭量な世界観が一気に転換した。それにより「学び」に対するモチベーションが上がった。子どもたちの心の問題について考えたい、という学び。
私自身、学びに対する姿勢を身につけるのが遅すぎると感じたのだが、さっきの羽生さんの「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」を知って、それでもいいんだと思えるようになった。)
9.最後に
私自身、不登校経験がない。
だから、今から述べることは正直不登校経験のあるひとを怒らせることになるかもしれない。それを承知のうえ書かせていただく。
不登校経験は、今後自分が生きていくための大きな基盤になると思う。
不登校経験があったからこそ、といえる何かを手に入れることができるかもしれない。
こういった言葉は不登校経験があるひとがいうべきだ。
わかっている。
しかし、わかってほしいのは私自身不登校をべつにおかしいことだと感じていないということだ。
芸能人のなかでもかつて不登校だったと告白するひとがいるように、学校に行けなかったからといって、人生が詰んでしまうわけではない。
学校に毎日行って、勉強をいっぱいして、いい大学に行ったにもかかわらず、いろいろあってフリーターをしているひとだっている。
むしろ、私的には順風満帆な人生を送っているひとほど危険だとさえ思っている。
私自身、挫折経験というのがあまりにない。
だから、少しでもつらいと感じてしまうと、すぐに心がぽきっと折れてしまう。
面接で語る内容もまったくといっていいほどない。
だから、教員採用試験何回も落ちている。
ね?
人より多くつらい経験、挫折経験をしているひとほど、今後強くなるだろうし、人にやさしくなれるだろう。