鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』
2018年に滋賀県内で起きた実母殺害事件。
被告は母親から教育虐待を受けていたことが明らかになり、その実態は想像を絶するひどいものだった。
被告は母親から地元の国公立大医学部医学科に入学することを強く求められ、国立大学医学部看護学科に合格するまで、9年間にわたる浪人生活を余儀なくされた。その間、母親から携帯電話を取り上げられるなどして過度の束縛を受けていたという。
また、看護師としての就職内定が出たにも関わらず、母親からは助産師学校に進学するよう要求され、被告がそれを拒むと、母親は激昂し、夜通し叱責したという。
そして被告は母親を殺害し、「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と、被告はTwitterでツイートした。
新潟青陵大学大学院教授、社会心理学者の碓井真史さんは上記の事件に関して、次のように語っている。
勉強も学歴も良い就職も大切です。でも一番大切なのは、子供の幸せです。そんなことは親もわかっているのでしょうが、何が子供の幸せなのか、意見が食い違います。
努力は大切であり、努力は報われます。けれども、努力すればみんながスポーツ選手になれたり、医学部に合格できたりするわけではありません。能力差と個性があります。スポーツでも芸術でも勉強でも、好きで得意な子は親に言われなくてもやります。無理強いは、しばしば逆効果です。
誰かに相談するというSOSだけでなく、子供の時に不登校でもプチ家出でも、反抗でも、どんな形でもSOSが出せていればと思うと残念です。一生懸命子育てすることは良いことです。一生懸命に花の世話を焼くように。ただ、育てた結果どんな花を咲かせるのか、それはもう親が決められることではありません。
医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態(47NEWS) - Yahoo!ニュース
ボクの人生の主人公はボクじゃない。ボクは“RPG母さん”の2周目だ
「暗殺教室」の渚くんの言葉。
渚くんの母親はレールを敷き、そこに息子を走らせようとするタイプのひとだった。
漫画を見てもらったらわかるが、渚くんの母親はやりすぎなくらいに息子を束縛する。
そこまでではないにしても、親の束縛に苦しむ子どもたちは多くいると思う。
だったら、その束縛から逃げろ、と言われるのかもしれないが、「親の期待」に応えようとしてしまう子どもも多くいる。
鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』で、「親の期待」に応える理由をこう述べている。
・「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」
・「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」
・「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」
・「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」
・「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」
だが、そもそも「親を大切にすること」と「期待に応えること」は違う。
たとえば、娘が女性が好きで、男性と結婚する願望がないとする。娘が母親にそのことを告げると、母親はショックを受け、「絶対に普通の結婚をさせる」という。
この場合、「親の期待に応える」ことは、親の願望通り、男性と結婚するということなのだが、娘がLGBTである以上、その期待に応えることはもはや無理な相談だ。だからといって、娘が親を大切にしていないかというとそうではない。親に対して今まで育ててくれたことへの感謝の気持ちもあるはずで、その気持ちと「男性と結婚させようとする母親」に失望する気持ちは矛盾しないはずだ。
この例の場合、娘が母親に自信がLGBTであることを打ち明けているが、もし逆に「親に嫌われたらどうしよう」と不安に思い、自信の性質について話さなかったらどうなるだろう? きっと、娘はもっと心苦しい道を歩まされていただろう。女性が好きなのに、「結婚はまだなの?」とか、男性と結婚させようとしたりとか。
- ①「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」
- ②「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」
- ③「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」
- ④「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」
- ⑤「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」
①「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」
とにかく両親を怒らせまいと抵抗しなかったり、面倒くさいからといって黙って受け容れていたりすると、のちのち、大きな苦しみと後悔に苛まれることになる。
親は「なんでも言うことを聞く良い子」(良い子ではないんだろうね)とか「自分の意見がなさそうだから私が決めないと」と、どんどんエスカレートしていく。
だから、まず、何か嫌だとか、違うと思ったら、それを口に出す。
(そういう意味で、反抗期というのはとても貴重な時期なのだ。ちなみに私には反抗期がない。)
親子関係の悪化が懸念されるかもしれないが、結局のところ、お互い「落としどころ」を見つけられたらそれでいいのだ。
(親子関係以外にも友人関係、職場関係でもそうだが、「どうしても合わない人」というのはいて、そういう人とは、「なんとかやっていく方法」を考えるのだ)
日本は「みんな仲良く」同じ格好をする国だ。
同調圧力という言葉が嫌なほどに似合うのが日本という国だ。
親子関係を崩したくないあまりに「仲よくすることが一番正しい」と思い込んでしまっている。
でも、親に対し、異議があるときは、ぶつかるべきなのだ。
親に従い、親と仲良くすることが、「自分の希望」よりも大切なことなのだとみんな思いがちだ。そう思ってしまう原因は「同調圧力」だ。
価値観が多様化しつつある、現在、人それぞれが大切にすることが違ってきている。
そして、それを親に伝えなければならない。
「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」
そう思うあまり、「親の期待」の無条件で従うことはない。
反抗してもいい。
親を大切にする気持ちと親の期待に沿うことは違うのだから。
②「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」
子育てとは「子どもを健康的に自立させること」だと筆者は述べる。
目指すのは親から「健康的に自立すること」。
不幸な事故や病気を除けば、普通は親が先に死ぬ。
どんなに子どもを大切に守っていても、必ず、守り切れないときがくる。
その時、「ずっと親に頼ってきて、自分一人では何も決められない」という子どもを残して親が死んでしまうことほど悲劇はない。
(これ、マジ)
だが、世の中には、進学も就職も結婚も全部親のアドバイスに従って、子どもが生まれたら教育方針や行く学校まで親の意見に従ってしまう人がいる。
子どものころから「自分の頭で考える」という訓練を受けなかった結果だ。
また、子どもに「自分の頭で考える」ということを許さなかった親の結果だ。
(私自身、親から「お前にはこれが向いている」「これが向いていない」と言われ、選択肢を取捨選択されてきた。実際、自分が今教師であるのは、親から「お前は会社員には向いていない。教師なら一匹狼でも許されるから教師になるべき」と言われたからだ。当時はマジで自分の頭で考えるということをしていなかったので、それを鵜呑みにしてしまった。今では後悔しているのだが、結果的に教員になれてよかったと思える節はある)
「他人」と「他者」は違う。
前者は「あなたとまったく関係のない人」のこと。
後者は「あなたにとって、受け容れるのは難しいけれど、受け容れなければいけない人」であり、同時に「受け容れたいけれど、受け容れたくない人」のこと。
たとえば、母親があの子と遊んじゃいけません、という。しかし、あの子は自分にとって親友である。この際、母親は「他者」になる。「受け容れたいけど、受け容れたくない人」。このどっちつかずの状態に耐え、手探りで試行錯誤しながら生きていくことが「大人になる」ということだ。
親の言うことを「全部受け容れる」という時期のあと、「全部受け容れない」という時期と「やっぱり受け容れる」という時期を繰り返しながら、子どもはゆっくりと自我を育てていく。やがて子は親にとって「他者」になっていく。
これが「健康的な自立」なのだ。
いつまでも親の言うことをなんでも聞く聞き分けのいい子は「他者」になりきれていないのだ。それでは子どもは、親が年老いても自分で物事を判断できなくなってしまうという悲劇の一途をたどることになる。
(また、近年、毒親と呼ばれる親がいる。虐待とかももちろんそうだが、一番上に書いた肉体的な虐待ではなく教育虐待とかする親も毒親だ。また、過保護、過干渉の親もそのように呼ばれる。「おまえはくずだ」と言い放つ毒親もいる。そういった親のもとに育った子はえてして自己肯定感の低い人間に育ってしまう。そんな親から逃げてしまいましょう、というのが筆者の意見だ。
……まだ未読だが、毒親をテーマに熱かった武田綾乃さんの『愛されなくても別に』を購入した。ぜひ早く読んでみたい)
③「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」
親からの押し付けが嫌なら、自分自身で自分の人生を切り拓きたいなら、なるべく早めに「自分の目標」を見つけた方がいい。
そう筆者は提言している。
「自分の目標」が明確なら、「親の希望」に対して冷静に対応できる。
俗に言われる優等生は、親の期待、要求、顔色を優先して、自分の希望を考えないことが多い。また、自分の希望を見つけたといっても、実はそれが「親の希望」だったというケースもある。
人生の目標を見出せ、といってもなかなか難しい。
なら、逆に「何をしたくないか?」を考えるというやり方もある。
「警察官と消防士、どっちにになりたくないか?」
→警察官になりたくない
「消防士と教師、どっちになりたくないか?」
→消防士になりたくない
……という具合に。
大切なのは「考えること」と「悩むこと」をきちんと区別することだ。
考えれば、やるべきことを見出す。
しかし、悩めば、ただ時間だけが過ぎていくだけだ。
「考えること」「悩むこと」それらを区別することが大事だ。
考えて、やるべきことを見出したら、まず動きだしてみる。
自信がない、とか言っている暇はない。
そもそも自信の根拠など存在しないのだ。
誰かは「君は○○に向いている」というし、誰かは「君は○○に向いていない」という。
他人の評価など曖昧なんだし、結局、選択するのは自分自身で、自信の有無関係なく、動きださなければ何も変わらないだろう。
とにかく「考えること」が何よりも大切。
問題なのは、自分の頭を使わずに、親の考えをそのまま自分の考えだと思い込んでしまうことだ。また、親に任せて、自分が考えることを放棄してしまうことだ。
だからこそ、「自分は本当は何がしたいんだろう?」と考える訓練は必要なのだろう。
④「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」
筆者がインタビューしたひとのなかにこんなことを言った中学生がいた。
「母親が『自分は若いうちに結婚して専業主婦になったので、人生がつまらなくなった。だから、あなたには、結婚は後回しにして、できる限り仕事をして自分の人生を持ってほしい』と私にいます。別に結婚してもつまらなくないかもしれないと思うけれど、早く結婚したら失望されそうな気がする」
こういったふうに親が子の生き方を束縛するようなケースは多くある。
なぜ母親はそんなことを言ったのか?
それは、言いたいからだ。
若いうちに結婚しても人生はつまらなくなるとは限らない。
しかし、若いうちに結婚したら人生はつまらなくなる、と言いたいのだ。
どんなに不確定な情報だとしても、感情が高ぶると人に伝えたくなるってことはあるのだ。
母親が伝えたいことは「人生つまらなくなった」ということ。つまり、「私の人生はつまらない」と伝えたいのだ。
(そんな母親にはじゃあ人生を面白くするために趣味をつくればいい、とアドバイスをすればいいのかもしれないが、子からするとなかなか言い出しにくいよね)
また、世間体を気にする親の場合、自分の息子・娘がいい大学に進学したら、それを自分のステータスとして自慢することだってある。子どもにとってはいい迷惑だろう。
親の人生は親のものだし、子どもの人生は子どものもの。
自分を否定する親の期待に絶対に応えてはいけない。
親が失敗したからといって子が同じ失敗するとは限らない。
(そもそも時代が変わっているからね)
そして、やってみてそれが失敗したかどうかは、自分で判断していく必要がある。
⑤「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」
「世間」と「社会」は違う。
前者は、あなたと関係のある人たちのこと。→学校、塾、近所の人たち
後者は、あなたと関係のない人たちのこと。→同じバスや電車に乗り合わせている人たち
日本では、その線引きがはっきりしている。
顕著なエピソードがある。
これは『COOL JAPAN』に出演した外国人の証言。
駅でベビーカーを抱えている女性がいても、周りの人たちが助けようとしなかったという。
これは「日本人が冷たい」というより、相手が「知らない人」だからだ。
もし「知り合い」なら助けるだろう。なぜなら「世間」に属する人だから。
しかし、ベビーカーを抱えた女性は「社会」に属する人。あなたの知らない人、だ。
日本人は「世間」の人たちをとても大切にして、「社会」の人たちは無視をする。
(海外では「世間」というものがない。あるのは「社会」だけ、だそうだ)
「世間」には5つのルールがある。
一つめは「年上がえらい」こと。
二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。
三つめは「贈り物が大切」だということ。
四つめは「ミステリアス」ということ。(小学生はランドセルとか就活生はスーツとかいう「謎ルール」。)
五つ目は「仲間外れを作る」ということ。
(それぞれの具体例は割愛する)
「世間」があるからこそ、「みんな仲良く」とか「同調圧力」とかが生まれた。
さらには日本では親と子供が別々ではなく、ひとつに見られている。
これは有名人の子どもが事件を起こした際に、その親が謝罪をする風潮があるということからわかることだろう。
以上のような日本特有のルールがあるから、子どもは親の期待に応えないと罪悪感を抱えてしまう。
親は年上だから無条件でえらいものだから、言うことを聞かないといけない、という意識。親の言葉に逆らうと、大切なまとまりを壊してしまったような気持ちになる。
これが「罪悪感」の正体だ。
このとき、子どもは親の付属物になっている可能性が高い。
「個人」ではなく、家族の付属物にされている可能性が高い。
「罪悪感」が強ければ強いほど、家族は「世間」になっている。
これは個人の問題というより、日本の文化そのものとつながっている。
だから、罪悪感から逃れるのはなかなか難しいことなのだ。
では、この罪悪感とどう戦うか?
その方法は家族が「世間」になっているということを考えれば見えてくる。
世間のルールをもう一度書く。
一つめの「年上がえらい」こと。
二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。
三つめは「贈り物が大切」だということ。
四つめは「ミステリアス」ということ。
五つ目は「仲間外れを作る」ということ。
「年上がえらい」ことについて。
親が「親の言うことを聞け、親だから」と言うとする。
そのとき「親のアドバイス」と「親を大切にすること」を分けるという方法をとればいいのだ。
「同じ時間を過ごすことが大切」だということについて。
親は「他者」になり、それぞれが自分の目的をもって別々の時間を過ごすことが「健康的に自立する」ことだから、そんなルールに縛られる必要はないのだ。
同じ時間を過ごすことが親子の証明ではない。
「贈り物が大切」だということ。
親にいろんなものをもらってばかりでは自立できない、ということだ。
とにかくお金を稼ぎまくって、親に頼らないでよくなるまで頑張る。
親は贈り物をすることで、子を「世間」の一員につなぎとめようとするのだから。
「ミステリアス」ということ。
家庭内にある謎ルール。
私の家の場合、毎日食卓で曜日ごとに決まったテレビ番組を見ながらご飯を食べるというルールがある。
絶対に家族いっしょにご飯を食べないといけないし、テレビも絶対につけないといけない。
別に食事の時間が異なってもいいだろうし、見たい番組がなければテレビを消してもいいはずだが、それらは基本的に許されない。
もう私の家の謎ルールはそんなに悪いものではないが、家庭によっては子を不幸にさせるようなルールもあることだろう。
それについては早めに異議を呈さないといけないかもしれない。
「仲間外れを作る」ということ。
家族内で「○○さんはダメよね」と言い出したら、アウト。
筆者は部屋に逃げ込みましょうとまで言っている。
誰かを排斥することで、家族の絆を強められないなら、強めない方がいい。
(日本的だが、誰かをスケープゴートにすることで、団結力を固めようとする風潮がある。それを私は現職で見てしまっている。なんとも……)
筆者は次のようなことを言う。
あなたと親は、ゆっくりと互いに「他者」に成長していく。
あなたはあなたの人生を幸せに生き、親は親の人生を幸せに生きる。
「愛情がルール」の場合でも、「人情がルール」の場合でも、やがて「健康的に自立すること」を目指すのです。
最後に――
親の「付属物」として扱われることは楽だと思う。
でも自分は誰の人生を生きているのか?
自分の人生を生きているはずだ。
親の言いなりになって、親がするなと言ったことはしないし、親がしろと言ったことはする。そんな生き方で果たしていいのか?
親が死んだあとはどうやって生きるのか?
これは今の主体性を失っている子どもたちへの警鐘であり、まぎれもない、私自身への警句である。
はやく「個人」にならないといけない。