『舞姫』『普請中』はなぜ書かれたか ~エリーゼという女性をめぐって~(大学のレポートで提出したもの)

舞姫』『普請中』はなぜ書かれたか ~エリーゼという女性をめぐって~

 

. はじめに

 

 『舞姫』は、一八九〇年一月、『国民之友』に、『普請中』は、一九一〇年六月、『三田文学』に発表された小説である。『舞姫』は鴎外の代表作と言ってよい作品である。そして、『普請中』は、しばしば、その『舞姫』の後日譚として読まれる作品だが、身体的特徴などで『舞姫』のエリスと『普請中』のドイツ人女性は異なる人物だと分かる。また、エリスのモデルとなったドイツ人女性は、昭和五十六年、週刊英字新聞記載の船客名簿により『エリーゼ・ヴィーゲルト』だと判明した。しかし、調査が進むにつれ、その名前は確かではないかもしれない、とされるようにもなった。しかし、本研究では、彼女の名を『エリーゼ』とする。エリーゼは悲劇なヒロインである。そうさせたのは鴎外自身である。では、なぜそんな自分に非難が集中しそうな『舞姫』『普請中』といった作品を鴎外は書いたのか、考察していく。

 

2 エリーゼヴォーゲルトとは

 

 鴎外の恋仲であったドイツ人女性の実像をめぐって、鴎外の家族の中でも一致しないものであった。それほど、鴎外の恋人は謎に包まれた存在であった。今野勉『鷗外の恋人 百二十年後の真実』(NHK出版 二〇一〇年、十一月 頁十六、十七)に次のような文がある。

 

 ‥‥‥そのドイツ人女性の実像をめぐっては、鷗外の家族の間でも「路頭の花」説と「永遠の花」説が対立していた。

 「路頭の花」説は、鷗外の妹・喜美子の主張だった。ドイツ人女性の帰国について交渉した夫の小金井良精からドイツ人女性のことを伝え聞いていた喜美子は、自らの見解として「路頭の花」という言葉でドイツ人女性を推断した。

 (中略)

 それに対して、鷗外の長男・於菟や次女・杏奴は「永遠の恋人」説をとっていた。

 (中略)

 昭和四十九年には、小金井良精の日記の一部が公開され、昭和五十年には、ベルリンで共に過ごし、帰途も一緒だった、鷗外の上司・石黒忠悳の日記も公表され、鴎外がベルリンで恋人を持っていたことや、鷗外の帰国後すぐ、その恋人が日本にやってきたことは確実となった。彼女が帰国したのは、明治二十一年十月十七日、乗った船はドイツ船籍のゲネラル・ヴェルデル号であることもわかっていた。』

 

 

 前書は後に、それなのにそのドイツ人女性の素性が明らかになっていない、といった旨が書かれている。過去の文献をあたってみると、エリーゼユダヤ人だ、といった憶測やエリーゼは娼婦だ、といった憶測が行き交っている。どれも推測の域を出ないものである。

また、前書に記述された「路頭の花」「永遠の花」については、本研究では詳しく取り扱う内容ではないが、前者は「卑賎の女」、後者は「淑やかな女」とだけ簡易な意味説明を添えておく。

 さて、「舞姫」において、太田豊太郎は二十五歳の青年で、モデル自体は軍医の武島務いう人物だと言われているが、鴎外自身も豊太郎の人物に自分を投影していただろう。豊太郎の「太郎」は森鴎外の本名・森林太郎の「太郎」に由来すると言われ、また、鴎外自身と豊太郎がベルリン滞在していたときの年齢が合致している。以上の理由から、鴎外という人物像が、豊太郎の人物像の輪郭を象ったといってもよいだろう。また、エリスについてはどうか。エリスは『エリーゼ』がモデルだと言われているが、年齢が合致しなかったり、父や母の職業が合致しなかったりするが、近年の研究でエリスのモデルは『エリーゼ』であることは確たるものとなってきた。

 

3 『エリーゼ来日事件』とは

 

 「舞姫」では、エリスは豊太郎が日本に帰ることを相沢に伝えられ、発狂した。そんなエリスをベルリンに置いて、豊太郎は日本に帰った、という描写で物語を終えている。では、「舞姫」の後日譚として読まれる「普請中」はどうか。主人公・渡辺参事官が精養軒ホテルで、あるドイツ人女性を待ち、そして逢瀬する。しかし、渡辺はその女性に対し、冷淡に対応し、国に帰らせる。そういう話だ。「舞姫」を読んでなかったり、また、鴎外に関する知識がなければ、一体何の話かは分からない。しかし、この名前の与えられていないドイツ人女性が「舞姫」に登場するエリス、または『エリーゼ』であると考えると、どうだろうか。

 まず、『エリーゼ事件』とはどういったものか。小平克『森鴎外論―「エリーゼ来日事件」の隠された真相―』(おうふう 二〇〇五年、四月 頁十三)にこうある。

 

 「エリーゼ来日事件」とは、鷗外森林太郎一等軍医が、四年間のドイツ留学を終えて、陸軍省医務局次長石黒忠悳軍医監とともに明治21(一八八八)年9月8日に帰国しているが、その四日後の12日に横浜港に到着したドイツ人女性ミス・エリーゼ・ヴォ―ゲルトが10月17日出国するまでの三六日間、森家親族を周章狼狽させた家内騒動のことである。

 

 つまり、鴎外には婚約者候補がいて、エリーゼが来日することで、事態は面倒なことになってしまうので、森家親族は何とかエリーゼを帰国させようとした。エリーゼが来日して、帰国するまでの間を『エリーゼ来日事件』と呼ぶ。

 

4 『小山内日記』の中で見る『エリーゼ来日事件』

 

 『エリーゼ来日事件』の事実経過を記述する小山内良精の日記が息子の星新一により、公開された。以下が日記の内容である。この日記の原文と簡易な解釈を以下に載せる。

 小山内良精は東京大学医学部教授で、ドイツ留学時代にドイツ人女性との交際経験がある。そのため、ドイツの事情や風俗、文化に精通していた。また、彼は鴎外の娘喜美子の夫である。

 

【日記(原文)】(小平克『森鴎外論―「エリーゼ来日事件」の隠された真相―』(おうふう 二〇〇五年、四月 頁六十二~六十四)から引用)

 

九月 八日(土)  (前略)八時頃帰宅、おきみハ林太郎本日帰朝ニ付千住エ行キシガ同時ニ帰リ来ル

 九月一二日(水)  おきみ千住エ行ク、少時シテ帰リ来ル

(この日エリーゼが横浜に到着した)

 九月一四日(金)  午後四時帰宅シ千住エ行ク九時帰宅

 九月一七日(月)  午後四時教室ヲ出テ、石黒忠悳子去ル八日帰朝ニ付見舞フ面会ス                                                                       

 九月二四日(月)  今朝篤次郎子教室ニ来リ林子事件云々ノ談話アリ夕景千住ニ到リ相談時ヲ移シ十二時半帰宅

 九月二五日(火)  午後三時半教室ヨリ直ニ築地西洋軒(原文ママ)ニ到リ事件ノ独乙婦人ニ面会種々談判ノ末六時過帰宿

 九月二六日(水)  (前略)三時半出テ、築地西洋軒ニ到ル愈帰国云、篤子モ来ル共ニ出テ、千住ニ到ル相談ヲ遂ケ九時半帰宅

   九月二七日(木)  (前略)五時半過出テ、築地西洋軒ニ到ル、林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル

   十月 二日(火)  後三時半教室ヲ出テ、長谷川泰君ヲ訪フ不在是ヨリ築地西洋軒ニ到ル模様宜シ六時帰宅

   十月 四日(木)  午十二時教室ヲ出テ、築地西洋軒ニ到ル林子ノ手紙ヲ持参ス事敗ル、直ニ帰宅

   十月 五日(金)  午後築地ニ到

   十月 七日(日)  午後おきみ携テ団子坂辺エ散歩ス   

   十月一四日(日)  (前略)是ヨリ築地ニ到ル林子在リ、帰宅晩食千住ニ往キ十一時帰ル

   十月一五日(月)  午後二時過教室ヲ出テ、築地西洋軒ニ到リ今日ノ横浜行ヲ延引ス帰宅晩食シ原君ヲ見舞フ

   十月一六日(火)  午後二時築地西洋軒ニ到ル林子来リ居ル二時四十五分発汽車ヲ以テ三人同行ス横浜糸屋ニ投ス篤子待受ケタリ晩食後馬車太田町弁天通ヲ遊歩ス

   十月一七日(水)  午前五時起ク七時半艀舟ヲ以テ発シ本船General Werber迄見送ル、九時本船出帆ス、九時四十五分ノ汽車ヲ以テ帰京十一時半帰宅、午後三時頃おきみト共ニ小石川辺ニ遊歩ス

 

 

 

【日記(解釈)】(注:日記の原文、日記の解釈は、小平克『森鴎外論―「エリーゼ来日事件」の隠された真相―』(おうふう 二〇〇五年、四月 頁六十二~六十四)を参考)

  

 九月八日に鴎外は石黒と一緒に横浜港に到着した。そして、その四日後十二日にエリーゼは来日したという。もともと、鴎外には赤松登志子という婚約者候補がいた。十四日、小金井が森家に訪ねたのは、登志子の縁談の相談ではないか、と言われている。森家親族が、エリーゼが東京の築地精養軒に滞在していることを知ったのは九月二十三日である。九月二十四日の「談話」が『エリーゼ来日事件』についてのものであるという旨を、小平氏は述べている。

 九月二十五日、小金井はエリーゼと交渉したということが日記でうかがえる。そして、さらに翌二十六日には、鴎外の弟篤次郎が同席し、いよいよ帰国交渉が本格的になったことが分かる。

 だが、翌二十七日、小金井が築地精養軒を訪れた際、鴎外がすでにいたというふうに書かれている。これは小金井にとって意外なことで、また、このエリーゼの帰国交渉は鴎外に伝えらえていなかったことも日記からうかがえる。また、鴎外は小金井らに隠れてエリーゼと面会していたのでは、という推測も出てくる。

 十月二日の内容から、交渉は順調だと分かるが、二日後の四日は、「林太郎の手紙を持参して、事敗し、すぐに帰宅する。」といった内容が書かれ、鴎外の手紙を見たエリーゼは態度を変えたのか、交渉が決裂してしまった様子がうかがえる。

 十月七日について、小金井が記したのはこれだけだが、『石黒日記』には以下のように記述されている。

 

  一〇月 七日(日) 朝森林太郎母並弟妹来ル

 

 つまり、鴎外の母・峰子、息子の篤次郎、娘の喜美子を連れて、石黒に面会したということが分かる。小平氏はこの面会を異例な面会と称して、森家親族にとっての異常事態を表している、という旨を書いている。続いて、小平氏は『石黒と鷗外に関わる重大事が発生したので、その善処を上司の石黒に懇願した』と推測している。この異常事態は十四日には収束している、ということが、十五日の記事の「今日ノ横浜行ヲ延引ス(エリーゼを連れて、横浜港に送る)」から分かる。

 十月十六日、鴎外と小金井とエリーゼは精養軒を出て、新橋停車場から汽車に乗って、桜木町横浜駅へ着いて糸屋(汽車問屋兼旅館)に宿泊する。そこに篤次郎が待ち受けていた、ということが書かれている。夕食が済んで、おそらく四人で馬車道通り、太田町通り、弁天町通りを散歩した、という。

 最後に、十七日、早朝五時に起きた四人は、横浜港から艀(はしけ)に乗った。そして、エリーゼをGeneral Werder号に乗せて、九時に船は出発し、彼女と別れる。

 なぜエリーゼが態度を変えて、国に帰ろうと思ったのかなどの仔細について、分かっていないことがあるが、以上が『エリーゼ来日事件』の流れである。

 

 5 『舞姫』『普請中』はなぜ書かれたか。

 

前述したが、『舞姫』では身ごもったエリスという女性を置いて、豊太郎が帰国する、という終え方をしている。『舞姫』は言ってしまえば、倫理的に疑念を抱く作品で、読み手はおそらく主人公の行動を非難するだろう。その主人公には鴎外という書き手自信が投影されているのは確かだ。では、なぜ、鴎外は自らの悪い過去を晒すかのように、『舞姫』を書いたのか。その答えの導きとなるものを清田武文『森鷗外舞姫』を読む』(勉誠出版、二〇一三年、四月、頁二十二)の『坂井健『『舞姫』はなぜ書かれたか?』に以下のように書かれている。

 

 

‥‥‥『舞姫』は二重性をもっている。つまり、エリス事件についてなんらかの「噂」を知っている軍関係者と、そのような「噂」とは、まったく関係のない一般読者との両方に向けて書かれているのだ。前者は、鷗外がモデルになっていることを前提に読み、後者は、まったくのフィクションとして読むのである。

 いや、二重性どころではない、『舞姫』は、森家の家族に対しても向けられている。それは、野口寧斎が「名誉の奴隷となる」と認定したように、太田豊太郎は、出世欲のためにエリスを捨てたものとして描かれている。森家の人々に対して、鷗外は、エリスを捨てたのは自分の名誉欲のためなのだ、と宣言しているのだ。さらに、それはやむを得ぬ選択であったと自分を慰めているのである。つまり、三重、四重の意味を持っているのである。

 

 

 「噂」というのは、「鷗外がドイツでドイツ人女性と同棲していたらしい」「エリスが日本に来ていて鷗外が取り扱いに困っている」「残してきたエリスへの送金に苦労しいている」といったことである。また、前書において、エリスはエリーゼを指すことを断っておく。

 また、『石黒日記』において、明治二十一年(鴎外がベルリンから帰国した年)七月五日、以下のような文が書かれていた。

 

  

車中森ト其情人ノ事ヲ語リ爲ニ愴然タリ後互ニ語ナクシテ假眠ニ入ル

 

 

 『其情人』はエリーゼのことを指す。『愴然』とは、悲しみに心を傷めること。つまり、鴎外自身、エリーゼを置いて、帰国したことに対し、罪悪感のようなものを抱いていたのだ。

 以上を踏まえて、私は『舞姫』を鴎外のエリーゼに対する罪滅ぼしのため、書いたのではないか、と考えた。鴎外の内側に溜め込めたエリーゼに対する謝意を吐き出すかたちで、『舞姫』を書いた。また、自分のした罪とも言える行為を書き出すことで、罪悪感を払拭しようとしたのではないか。また、同時に自身の行為を正当化しようとしたのではないか。これが私の考えた『舞姫』の解である。

 次に『普請中』について考えてみる。『舞姫』で鴎外が抱いていた感情を、『普請中』における男女(渡辺参事官とドイツ人女性)のやり取りの中で吐露している。前に述べたように、『普請中』も鴎外自身のエピソードにのっとって、作られたものである。『舞姫』で、鴎外は自らの行為に罪悪感を覚える一方、自らの行為を正当化しようとした。罪悪感に関しては、先に述べたように、鴎外の内側に溜まっていた罪悪感を自らの感情を言葉に変換し、文章にすることで、吐き出そうとしていた。自らの行為を正当化しようとしていた。山根宏の『森鴎外の『普請中』をめぐって』に次のような文がある。

 

 『普請中』(1910年)は、東京の西洋レストランでの日本人の男とドイツ人女性との短い邂逅を述べている。女は明らかに、ドイツ留学中の男の恋人だが、二人の逢瀬を取り巻く状況は、ドイツのときとは大違いである。「キスをしてあげても好くって」と聞く女に、男は素っ気なく「ここは日本だ」と答える。その瞬間に、給仕がドアをノックもせずに入ってくる。ノックという西洋の礼儀を知らない給仕と、日本という社会の約束にうといドイツ女と―そこに東と西の世界の差が象徴される。

 

 日本人の官吏としての渡辺はドイツ人の恋人の間には国籍の壁や文化の壁があって、それぞれ異国の地に住まう二人は結ばれることはない、ということを言っている。つまり、鴎外がエリーゼを置いて、帰国したのは、二人の間の壁を感じたから、仕方ないことだ、と鴎外は主張しているのではないか。自らの行為を正当化しようというのではないか。

 実際、鴎外がエリーゼとは築地精養軒でこっそり面会し、鴎外の婚約者候補がいるという理由で、小山内らはエリーゼに帰国交渉をした。そういった背景を加味すると、『普請中』の話に違和感をもつ。というのも、『普請中』ではまるでドイツ人女性の帰国を促し、女性はすんなり帰国する。当然、その中にも二人の間に葛藤があったが、それでもすんなりといきすぎである。実際、何がエリーゼの帰国に導いたかははっきりしていない。ただ、エリーゼの帰国交渉に小山内や喜美子などの多くの人が関わっていた。それなのに、『普請中』では渡辺、もとい鴎外一人でドイツ人女性、もといエリーゼを帰らせたみたいに描かれている。しかし、鴎外自身、この問題は二人の問題だと捉え、その問題を解決するのはその二人でなければならないと考えたのだろう。そのため、作品内でこのように表したと考えられる。

 

 6 まとめ

 

 鴎外はベルリン留学時にエリーゼという女性に出会い、彼女を置いて日本に帰った。ここまで、『舞姫』のモデルとなったエピソードである。また、鴎外の帰国後、後を追うようにエリーゼは日本にやって来た。鴎外には登志子という婚約者候補がいて、エリーゼという女性は、邪魔な存在となると考えた小山内らは彼女に帰国交渉に踏み出る。結果、エリーゼは帰国を余儀なくされた。この俗にエリーゼ来日事件と呼ばれるこの流れを基に『普請中』が生まれた。鴎外はエリーゼのことを確かに愛していた。彼女との離別を惜しんでいた。『舞姫』『普請中』を前提知識なく読めば、主人公の冷淡さばかりが先行してしまう。だが、鴎外のエピソードを加味すると、この二つの作品は鴎外の内側に隠し持っていたエリーゼに対する罪の意識を吐露し、罪悪感を和らげようとするため、また、自らの言動を正当化させようとするために執筆された、と私は考える。

 

 

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