太田肇『「承認欲求」の呪縛』

 承認欲求という言葉が最近いろんなところで使われている。

 特に若い子たちの間で使われている気がするのは気のせいだろうか?

 正月に「おもしろ荘」という番組がやっていたのだが、そこに出てきた「ぱーてぃーちゃん」、今風のトリオだなとか思いながら、何となくはまっている自分に気がついた。

(一世を風靡して、さっと散り行く姿も描けそうではあるのだけど。)

 で、何の番組か忘れたけど、別番組でそのぱーてぃーちゃんが出てて、真ん中の男性が「承認欲求の権化」というツッコミ(?)をしていて、「承認欲求」ってもはや一般的な言葉なんだなとか思った。

 ということで、今回は「承認欲求」についていろいろ書いていこうと思う。

 新潮新書の太田肇『「承認欲求」の呪縛』をベースに述べていきます。

 

1.承認とは?

 そもそも承認とは何か?

 それは、相手の意思によるものである。

 自分がいくら認められたいと思っても、いくら努力しても、相手が認めてくれなければ承認欲求は満たされない。そして、いくら大きな権力や経済力があっても、力ずくで承認を引き出すことはできない。逆に、自分が望まなくても、相手から一方的に承認される場合もある。

 つまり、承認は他人に依存する欲求である。

 この欲求に縛られる日本人は多くいる。

 それは日本の組織・社会は、人間関係が濃密で、人々の共有する「空気」が濃いからである。

 

 人は認められると、大きく変わる。

 褒められたらうれしくなるし、自己効力感・自己肯定感は上がるし、自分の存在意義を見出せることだろう。さらに次の仕事なり勉強なりのモチベーションアップにもつながるし、いいことづくめ。

 日本人は自己効力感、自己肯定感とか自尊感情が他国に比べて低めである。

 これはつまり自分に自信が持てなかったり、自分自身を認めることができていないということだ。だから、日本人は承認を求めて、それが得られないことを深く嘆く。

 そもそも自己効力感とは何か?

 それは「やればできる」という自信である。

 この最大の要因は成功体験である。実際にやってみて、成功したら自信がつく。しかし、同じことを成し遂げても自分自身ではその価値がわからない場合がある。そんなとき他人からほめられると、「やればできる」という自信がもてるようになる。それが新たな意欲を掻き立て、また不安を和らげることにもつながる。

 勉強面でもそうだ。生徒の立場で、教師から成績をほめられると、モチベーションアップにもつながる。

 だが、承認欲求が満たされなくなってしまったら、どうだろう?

 羨望や嫉妬、それに意地や面子といった屈折した形であらわれてしまう。勉強ができるようになった友だちを気に入らなくなった理、仲のいい同期生が先に昇進したら口をきかなくなったりする。

 とにかく「承認欲求」はかなり強力である。

 マズローの欲求階層における最上位の「自己実現欲」よりも断然「承認欲求」の方が存在感がでかいと思える。

 この承認欲求について、かのパスカルも触れている。

 

「人間の最大の下劣さは、栄誉を追求することである。だが、これこそまさに、かれの優越の最大のしるしである。なぜなら、人はいかに多くの物を地上で所有しても、いかに健康や生活の安定をえても、他人から尊敬されないかぎり、満足しない」

 

 

 かのホッブズも、人間のもつ誇りが争いの一因だと喝破していて、とにかく承認欲求は私たち日常生活レベルだけでなく国家間の関係まで、存在感を発揮していると言える。

 

「承認欲求」は複数の要素からなる。

 マズローのいうように、承認欲求は、他人から認められたい、自分が価値のある存在だと認めたいという欲求である。それは実生活においていろんな形であらわれる。

 出世したい、名誉や名声が欲しいという欲望であったり、自分の存在感をアピールしたいという自己顕示力であったり、はたまた日常的に自分の個性や能力・努力を認めてほしいといった感情としてあらわれたりする。

 そして、認められたいという欲求が直接満たされない場合には、他人に対する羨望や嫉妬、意地のような屈折した形で表面化することもある。

 もう一つの特徴としては、承認はほかの欲求を満たしたり、いろんな目的を達成したりするための手段になることがあげられる。たとえば、承認されることによって自己効力感が得られるし、仕事や活動が楽しくなり、内発的モチベーションが高まる。

 承認とはたとえていうと「鏡」だ。鏡をとおして自分の顔や姿を見ることができるように、他人や周囲から認められてはじめて自分の実力や実績を知り、それらがどれだけ価値のあるものかを理解できる。さらに他人から認められると、他人への発言力や影響力も大きくなり、やりたい仕事ができるようになる。さらに他人を支配したいという支配力、異性を引きつけたいという欲も満たせる。

 そして承認されれば、金銭が得られるようになり、衣食住に関わる生理的欲求や安全欲求も充足できる。それだけではなく、社会的に認められることで自己実現、すなわち自分の潜在的な能力の発揮にもつながる。

 社会の役に立ちたいという思いをもった人も、看護や介護を通して、その相手から感謝の言葉をかけられることで、努力が結果として報われなかったりすることへの無力感、徒労感から救われる。ここでは感謝や尊敬という形で承認を受けることになる。

 

2.承認をめぐるトラブル

 

 だれでも能力、実績、容姿、学歴、社会的地位など自分が誇りに思っているところを認められたいものである。

 以上のことは別に他人に迷惑をかけたり、法を犯しているわけでもないので、別に構わないが、ときには「承認欲求」による行動で一線を越えてしまうときもある。

 たとえば、SNSで注目されるためにアルバイトの店員が食品にいたずらをしたり、わざわざ危険な行為や破廉恥な行いをして動画サイトに投稿したり、といった行為だ。

 さらには神戸連続児童殺傷事件や秋葉原通り魔事件など、これらの犯人の背景にあったのも承認欲求だった。

 このような世間から注目されたい、存在感を示したいという動機による事件は枚挙にいとまがないほど存在する。

 

 芸能人や有名人の子が事件を起こすときがある。

 親が偉大だったり有名だったりすると、その子はどうしても親と比較されるので、少々頑張っても注目されないし、賞賛もされない。(なんなら結果を出しても、親のおかげだとか言われてしまう)

 そういったふうに世間で認められないのに、家庭内においても存在感が希薄になってしまう。親の存在が大きすぎると、自分がどれだけ収入を得ても経済的な貢献には寄与することにはならない。偉大な親をもった子は、承認される機会が乏しいのだ。

 だったら、まっとうな方法で承認が得られないなら、奇抜な行動をとってやろう、というわけなのである。

 バカッターとかもそうだ。隠れた承認欲求、それも自分自身を知りたいという素朴な欲求が、彼らを反社会的な行動に駆り立てているのだ。

 

3.承認欲求を満たすために

 

 承認欲求を満たすためには叱るよりも褒める方がいい。 

 端的に言えばそうなのだろうが、一概にはそうも言えない。

 教育現場では子どもたちの自己肯定感や自尊感情の低さが問題視され、児童・生徒をほめて育てようという気運が高まっているが、その効果には副作用もついてくる。

 ずっと無遅刻無欠席を続けてきた男の子がいて、親はそれが何よりの自慢だったそうだ。しかし、それが負担に思えて、欠席が増えてしまったというケース。水泳大会で勝ち続けてきた女の子がいて、その子はコーチに期待されていたのだが、女の子はコーチのためにがんばっているような気がしてしまって、泳ぐことの楽しさを失ってしまったというケース。幼い頃から絵が得意だった子が、先生にほめられることで、ほめられることを意識してしまい、個性が消えてしまったケース。

 ほめることで、それがプレッシャーになってしまったり、ほめられることを意識してしまったりと、「ほめる」という行為は時に悪い結果をもたらす。

 成績がいい子をほめていけば、比例的に成績が上がっていくわけではない。そこに期待が加わり、成績を落としてしまうかもしれない。このプレッシャーをもたらす一つの要素が「認知された期待」である。その期待は実績に応じて高くなる。よく「慣れたら大丈夫」と聞くが、それを上回るほどの周囲の期待が大きくなれば、ストレスはかえって大きくなるのだ。

 

4.なぜ承認にとらわれるのか

 承認によって得られたものの多くは、承認されなくなったら失われる。

 承認されることによって、内発的モチベーション、自己効力感・自己肯定感、評価・処遇への満足度の向上、仕事の成績の向上…以上のような結果がついてくる。

 承認を失うと、以上のものすべてを失う。

 さらに、他人を思うように動かしたいという支配欲、豊かで安定した生活を送りたいという安全・安定の欲求、異性を引きつけたいという欲望なども承認によって満たされるケースが多い。そのため、それらも失う可能性が高い。

 承認されなくなることへの恐怖があるからこそ、歪が生まれる。

 歪。

 たとえば、大人社会でもあるのだが、子ども社会ではびこる「いじめ」。

 多くの子どもにとって、学校は最も重要な「世間」でえあり、その中心はクラスや友だちのグループである。そこで同じメンバーが長く過ごすうちに、自然と独自の掟や慣行が生まれる。

 そのなかで子どもたちは徐々に自分のキャラが受け入れられ(あるいは周囲によってつくられ)、自分に対する周囲の評価も定まっていく。そして、仲間との人間関係のなかで演じるべき役割もおのずと決まっていく。

 集団のなかにある掟や慣行、仲間内での評価基準には、大人が気づかないほど微妙なものや、大人の視点からは滑稽に思えるもの、あるいは危険なものも含まれている。いずれにしても、子どもの世間における評価と大人社会のそれとは、尺度も重みも大きく異なる。

 一方で子どもは家族の一員でもある。家族内からは「明るく元気な子」といった評価を受けているとすると、子どもはそうだと受けとめる。ところが、その子が学校内ではいじめられているとする。果たして、「明るく元気な子」という評価をもらっている家族に、仲間からいじめられたからといって助けを求めることができるだろうか。

 助けを求めるということは、築いてきた高い評価や尊敬、すなわち承認をすべて失うことになりかねない。だったら、いじめられるのを我慢した方がましだと思うわけだ。

 また、いじめている方にフォーカスしてみると、実はその集団の中に分別を備えた人間がいたりする。しかし、集団のなかで認められるには、いじめる側に立たなければいけない。集団のなかで認められたいという承認欲求がここでは働いている。

 

 承認欲求は「尊敬・自尊の欲求」である。

 他人からの承認と自分自身の価値を認める自己承認や自尊感情とが密接な関係にあることを意味する。したがって他人からの承認を失えば、自分の存在する価値が感じられなくなる。自分が自分でなくなる。

 こういった承認欲求の特徴を勘案すれば、子ども世界におけるいじめの心理が見えてきそうである。

 

5.社会にはびこる承認欲求

 

 ブラック企業

 労働時間を超えて働くという現況が社会問題となっている。

 また、有休を消化しないという人も多くいるそうだ。

 その理由として、「休むと職場のほかの人の迷惑になるから」とか「職場の周囲の人が取らないので年休が取りにくいから」とか「上司がいい顔をしないから」という回答がある。多くの人が上司や同僚への気遣い、換言すると消極的な形で「周りから認められるために」残業したり、休暇をとらなかったりしているのが実態だ。

 さらに「やりがい搾取」なるものも問題だ。

 仕事の中で自己実現をしようとする心理を職場に埋め込んだ構造のことだ。

 認められ、期待されることを意気に感じる心理を利用して報酬と不釣り合いな責任を持たせたり、貢献を引き出したりするのは「承認欲求の搾取」だと言える。

 また、うつ病適応障害も問題になっている。

 うつ病の発症に関する研究では「どんなに厳しい状況でも、課せられている役割や周囲の期待は裏切られないという考え」と述べられている。ここにも承認が絡んでくる。「認知された期待」と自己効力感のギャップが大きいほど、そしてギャップを強く意識するほどプレッシャーは大きくなる。うつになりやすい人は「期待を裏切れない」と強く依里記するだけに、承認がかえってうつになるリスクを高めてしまいかねないのだ。

 他人からの期待は、「彼ならどんなに無理をしてもやってくれるはずざ」といったふうに、人格や人間性にまで及ぶ。どれだけ貢献したら「返済」がすむという明確な基準もない。それだけ人格や人間性への浸透性、粘着性が強いわけだ。

 したがって期待によるプレッシャーは、お金や物などの「借り」よりもいっそう、うつになるリスクを高めるといえる。

 過労自殺に至るまでのプロセスがここに詰まっている。

 

 実は過労自殺した人の特徴とひきこもる人の特徴はきわめて似ている。

 ひきこもる人は、社会から逸脱する反体制的なタイプではなく、人一倍、逸脱を嫌う傾向がある。また学校にまじめに出席して、まじめに授業を受け、まじめに宿題をするという行動形式がみられること。そのため「学校に行かなくてもいい」「成績が悪くてもいい」「いじめのない集団に移動する」といった選択肢が封じられる。それがひきこもりを生み出す。

 バーンアウトする人にも共通点がある。バーンアウトの問題として俎上にあがるのは、看護師や教師などのヒューマンサービスに携わる人たち。患者や児童・生徒から頼りにされ、感謝される。だからこそ、自我関与の高い人、自分自身の問題と受け止めやすい人ほど、期待に応えたい、信頼を裏切りたくないという意識が強く働く。

 その結果、ついつい無理をしてしまったり、望ましい結果にならなかったときに深く落ち込んだりする。心をこめて精一杯努力したのにダメだった。自分はなんて無力なのだろうと感じるわけである。

 うつ、ひきこもり、バーンアウト

 どれも、外からの期待や自分の行動基準を容易に下げられない人、つまり、容易に開き直れない人だ。

 

 エリートと呼ばれる人がいる。

 彼らもまた承認欲求の被害者である。

 昔から「学校の勉強ができるのと、仕事ができるのは違う」と言われてきた。しかし、昔は高度な仕事においても受験秀才は力を発揮した。豊富な知識があれば、答えの決まっている問題を解く能力があれば、多くの仕事は問題なくこなせたからだ。

 しかし、最近は、価値の源泉がソフトウェアになり、定型的な業務や単に知識を応用すれば済むような仕事はアウトソーシングするか、ITのシステムがこなすようになった。さらにITが進化し、AIやIoTが普及しつつある今日、論理的な思考力や問題解決能力さえ、それらが人間にとって代わろうとしている。

 いまの時代の最先端を行く仕事で求められているのは、勘やひらめき、直感、感性、独創性、創造性などである。それらの能力や資質はITに代替されにくく、教育で身につかせることも難しい。

 だから、仕事で求められる能力や資質と、受験秀才型人材の秀でているそれとの間の隔たりが大きくなり、その現実を受け入れざるを得なくなったとき、エリートはドロップアウトしてしまう。エリートは経験上、努力によって積み重ねてきたという過去を持っている。しかし、社会におけるあらゆる不確定な事柄と対峙したときに、そのような環境を経験していないため、戸惑いを覚えてしまう。しかし、周囲を失望させたくはないと思い、期待を下げることはできない。身の丈を超える大きな期待を下げれば少しは楽になるものの、プライドがそれを邪魔をする。そして期待に応えられないと自己効力感は低下して、その結果「認知された期待」と自己効力感のギャップはますます拡大する、という負のスパイラル!

 

「認知された期待」と「自己効力感」、そして、そのギャップが大きくなり、それを問題であるかどうかを捉える「問題の重要性」。

 この三つが承認欲求の呪縛の三要素である。

 

6.呪縛を解くカギ

 

 日本人は「期待」に潰されやすい。

 承認欲求の呪縛に陥るのは、「認知された期待」と「自己効力感」のギャップが大きいとき、すなわち期待の大きさを実感している一方で、それにこたえられる自信がないときである。そして、「問題の重要性」、つまり期待にこたえられないことを本人が深刻な問題として意識していた場合、本人は潰されてしまう。

 呪縛から逃れるために「認知された期待」を下げ、「問題の重要性」を下げる仕組みを備えなければならない。

【「認知された期待」を適正な水準まで下げる】

 一つめの方策。

 大きくなりすぎる期待を自らコントロールし、自分のキャパシティに見合った水準にまで下げることだ。ただ、期待をかけるのは周囲なので、「認知された期待」をコントロールできるのも周囲。

 たとえば、成績優秀者に賞金を渡すシステムだと過度な期待を与えかねないが、「君の過去の貢献に感謝したいだけ。将来の貢献を期待して表彰したわけではない」と声をかけるだけで、過剰なプレッシャーを与えないだろう。こういったことができるのは周囲だ。

 ほかの期待の重みから解放する役立つツールは、「金銭」である。承認は「無形の報酬」であり、ほめてもらうことじたいに価値がある。しかし、ほめるだけで満足させようとするのは「承認欲求の搾取」だと批判を浴びる恐れもある。そのため、貢献には金銭で報いるべきだというのは筋が通っている。また、金銭には人間を人格的な服従から解放する機能があると、ジンメルが説いている。

 しかし日本人はお金よりも「承認」を重要視する。経済的損失と引き換えに承認を得ようとする。お金よりも名誉の方が大切だ。(会社の隠ぺいを手伝うとか)

 ならば、承認と引き換えにわざと経済的損失をこうむるような行為をさせないこと、すなわち経済原則を徹底し、会社との間に「貸し借り」をなくさせることで「承認欲求の呪縛」から働く人を解放できるはずである。

 筆者は、純粋な「成果主義」に近い報酬制度を取り入れることができれば、期待の重荷から解放されると述べている。ならば、自ら成果を落として、それに応じた報酬を受け取ると言ったスタイルならば承認欲求の呪縛にもとらわれることはない。

 

【「自己効力感」のアップ】

 二つ目の方策。

 自己効力感、すなわち「やればできる」という自信をつけるのに最も大切なものは成功体験である。その成功体験をする機会が乏しいことが自己効力感を抱けない一因である。

 背景にあるのは、社会や組織の構造。

 ゼロサム型の組織や社会(※ゼロサムとは「一方が利益を得たら、他方は同じだけの損をして、全体としてプラスマイナスゼロになること」。)のもとでは誰かが活躍すれば、誰かがそのしわ寄せを受けるので、必然的に「出る杭は打たれる」体質の風土になりやすい。こういった風土のもとで戦い抜くには「周囲との競合を避ける」ことが大事だ。閉ざされた組織の中でも、一人ひとりの目標やキャリアが競合しなければ、他人の足を引っ張る動機は生まれない。組織のなかで出世したい人、専門職を目指す人、ゆとりのある生活を送りたい人など、それぞれが自分の道を歩めばいいからだ。

 また、日本人の自己効力感が低いのは、承認が不足しているところにも原因があるといえる。そこからくるプレッシャーが数々の個人的・社会的な問題を引き起こしているとしたら、事は重大である。それだけ意識的に認めたり、ほめたりすることが大切なのである。

 どうほめるか?

 能力や成果をほめるのではなく、努力をほめる、と教育現場で言われる。

 能力や成果をほめると、期待を裏切らないため、そして自信をなくすのが怖いため、失敗のリスクをともなうのに挑戦しないようにするからだ。

 かといって、努力をほめるとなると、「がんばらないといけない」というプレッシャーで学校に行けなくなったりするかもしれない。

 

 じゃあ、どうすればいいのか?

 具体的な根拠を示しながら潜在能力をほめるのだ。

 潜在能力をほめることは、「やればできる」という自信をつける。すなわち自己効力感に直接働きかけることを意味する。自己効力感が高まれば挑戦意欲が湧く。かりに成果があがらなくても、潜在能力に自信があれば、成果が上がらないのは努力の質か量に問題があるからだと受け止められる。そして、改善への努力を促すことができる。

 また、他人のために役立った、そして認められたという経験は、それだけ大きな自信につながる。成功体験に裏打ちされた自信があれば、期待に潰されにくくなるのは確かである。

 

 また、とある荒れた中学校で保育園と連携して、生徒たちの自己肯定感・自尊感情を高めるプロジェクトを実施したという事例がある。生徒たちは、どうすれば園児たちを楽しませたり役だったりできるかを計画し、それを自分たちで実践する。そういった活動を通し、園児から頼りにされるという経験を得、自己肯定感・自尊感情が上がり、学力も上昇したという。

 他人のために役立った、そして認められたという経験は、それだけ大きな自信につながるわけである。成功体験に裏打ちされた自信があれば、期待に潰されにくくなる。

 

【「問題の重要性」を下げる】

 問題を相対化させる。

 たとえば、大学受験の際に、「〇〇大学」に絶対に合格するといった大きな目標を掲げてしまうと、周りからのプレッシャーに押しつぶされてしまうかもしれないが、「偉大な科学者になる」といった将来の夢を持てば、そこへ辿る道筋はひとつではないことがわかってくるし、受験だって何度でもチャレンジすればよいという大きな気持ちになれる。すると結果的に受験のプレッシャーは軽くなる。

 また、失敗体験も大切である。

 エリートは今まで大きな挫折を味わったことがない。そのため、社会に出てあらゆる問題と対峙して、それにやられてしまう。

 教育現場でも、「成功体験」の大切さばかりが強調されてきた。たしかに自信をつけるのに成功体験は大切だが、「失敗体験」を積んでおくのも大切だ。そのためにはいくら実力がついても、失敗するリスクをともなう高い目標にチャレンジし続ける姿勢を忘れてはならない。

 また、「楽しむ」という姿勢も大事だ。

 こんな記事がある。

 日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち - 海外サッカー - Number Web - ナンバー (bunshun.jp)

 

 この記事にも少し関連するけど、「楽しむ」姿勢は大事である。

 仕事を真剣にこなすのは大切なことかもしれないが、周囲の期待や評価とは関係なく、その仕事を「楽しむ」。楽しんでやれば、仕事に対するプレッシャーを感じなくなるのではないだろうか?

「楽しむ」ことの効用はそれだけではない。人間は一つの活動に没入している「フロー」状態のときに潜在能力が最大限に発揮される、と心理学者のチクセントミハイは言う。「楽しい」、つまりそれこそ「フロー」状態である。

 

 また、「もう一つの世界」をもつことで、問題を相対化できる。

 サードプレイスと言う言葉がある。

 家庭(第一の場)でも職場・学校(第二の場)でもなく、第三のとびきり居心地のいい場所のことだ。学校でも家庭でも居場所を感じられなくなったら、校外やクラブや塾などに所属するか、SNSなどで外部の人たちとネットワークを築いておく方がいい。そうすることで自分を守れるし、承認欲求の呪縛からも解放される。組織や集団への依存度を下げることで、「認知された期待」と「自己効力感」のギャップが大きくても、強いプレッシャーを感じずに済むのだ。

 しかし、SNSをめぐる問題もある。

 自ら暴走運転や奇行をしてそれをネットに投稿したりするということである。承認欲求を満たしたいがための異常な行動。リアルな世界で認められていたらリスクを冒そうとまではしなかったであろう。

 このことから、ネットというバーチャルな世界と、リアルな世界とが代替する、あるいは補い合う関係になればよいのである。

 その意味では、二つの世界がかぶらないことが大切で、学校で問題になっているSNSによりいじめなどは、たいていがクラスの仲間か、学校内の先輩・後輩とかの間で起こっている。かりにSNSが学校と無関係ならいじめは起きなかっただろうし、たとえいじめられてもリアルな世界に戻ればよかったのではないか。

 もっとも、リアルな世界に居場所が見いだせないからこそ、ネットの世界にそれを求めた人が多いのも事実だ。それなら、せめて複数のSNSを使い分けるようにすれば「承認欲求の呪縛」を軽減できるはずだ。SNSは青少年を非行に導くなど、別のリスクも潜んでいるが、だからといってSNSの利用を禁止するのではなく、学校や家庭では身を守る方法や正しい使い方を教えておけばよい。

SNSは批判の的になるが、このようにつながりを感じられる居場所であるということも考えると、いい役割を担っている感じがする。実際、YouTubeで「死にたいときに聴きたい曲メドレー」みたいなタイトルの動画のコメント欄を見ると、生きづらさを抱える子どもたちが多くコメントを残していて、自分と同じような気持ちの子どもたちが多くいることに安堵している子もいる。)

 

7.最後に

 

 承認欲求にとらわれることで苦しむ人が多い中、この本はその呪縛から説くカギについて語られていた。

【「認知された期待」を適正な水準まで下げる】

【「自己効力感」のアップ】

【「問題の重要性」を下げる】

 この三つを胸に刻むことで、少しは承認欲求の亡霊から逃れることができるかもしれない。

 だが、どれも考え方に依拠するものであり、自分自身が考えを改めようとしない限りは、承認欲求から逃れることができないのは確かだ。

 考え方を改める。

 これほど難しいことはない。

 まさに言うは易く行うは難し、だ。