黒川祥子『県立!再チャレンジ高校 生徒が人生をやり直せる学校』

 これはA県立槙尾高校(仮称)という学校にまつわる話。

 槙尾高校は学力下位校であり、めちゃくちゃ荒れている。

 そこに勤務する教員は早くこんな高校から出たいと思っている。

 そんな惨状の学校を改革しようといろんな教員が奮起する物語だ。

 別に進学校にしようという方向性ではない。

 槙尾高校に通う生徒たちは一見「困った生徒」のように見えるけれども、実は「困っている生徒」なのだということを理解した上で、教職員が全力で、身体を張って生徒たちを支えようとする。子どもたちの背景にある、貧困、生活保護、虐待、ひとり親などの問題に対峙しながら、生徒たちに手を差し伸べる。そういったことを積み重ね、生徒たちの人生をやり直させる学校づくりを行うのだ。

 

 ストーリーがあるのだが、それをかいつまんで述べるのは苦手だから、話の中でなるほどなあと思った部分だけを引用し、それについて言及するスタイルをとることにする。

 引用した部分は作中に登場する教員の考えであり、一応、その教員の名前を付記しておく。

 

【山本】

 

 ひとり親の家庭、生活保護家庭の子が多い。上履きを持っていないのは家庭が困窮しているからだった。挨拶ができない、お礼を言うなど基本的な生活習慣ができていない生徒に話を聞けば、小さいときからひとりで放っておかれてきたという。親に何も教えられていないのだ。問題だとされる行為や行動の多くが、家庭に原因があることがわかってきた。

 いろいろ手を尽くしたが、クラスで五人の生徒が二年に進級せずに学校をやめた。

 あの子を何とか、救えなかったものか。外側から見ているかぎりでは、普通の家庭だと思っていたけど、親子関係は破綻していた。だから、あの子は家があるのに帰れず、ストリートチルドレンのような状態になってしまった。現実にそういう子どもがいるんだ。家庭が子どもの足かせになるってことを、この年で初めて知った。今、このオレがこの子たちに何をしてあげられるんだろう。

「とにかく話を聞くことだ。粘り強く話して、何とか学校に目を向けさせよう」

 

 私の経験をもとに述べるが、一見、普通にみえる生徒が実は複雑な家庭を持っているケースは多い。この子が親に暴力振るっているの? とか、この子が虐待を受けているの?とかそういったこと。

 また、素行不良の生徒の家庭が崩壊していることを知ると、だから、あの子はあれほど反抗的なんだと腑に落ちることもある。

「とにかく話を聞くことだ。粘り強く話して、何とか学校に目を向けさせよう」

 私の勤めている学校の生徒の多くは学校に気が向いていない。欠席、遅刻は当たり前だし、体育祭、修学旅行などの行事にも参加したがらなかった。

 まず、学校に行きたいと思わせるためには、その生徒としっかり向き合い、その子がなぜ学校に気が向かないのかを見極める必要があると思う。

 生徒の家庭が複雑ならば、どういった支援を学校側ができるかといったことも併せて考える必要があると思う。

 その大前提にあるのは生徒との信頼関係だと思う。

 

【水谷】

 生徒に響かない授業をやっている私って、いったい、何なの?

 三年の政治経済って、この子たち、消去法で選択しているだけ。どの科目が、ラクに単位が取れるかっていう。興味がないから、授業中、寝るのはしょうがない。生徒たちは悪くない。悪いのは、この子たちに、リアリティのない授業をしている私だ。

 じゃあ、生徒たちにとって、何が、リアリティがあるんだろう……。

 

 この悩み、わかる。

 授業をやっていて、まったくこっちの話を聞いてくれない。

 一応、私の授業がつまらないからだと思うようにはしているが、工夫を凝らしてやってみても食いついてくれないときは生徒のせいにしてしまっている。

 リアリティのある授業をしたいとは思っている。

 受験勉強が視野にない生徒たちに勉強に気を向かせる方法は学習と生活を連関させることだと思う。

 私の担当教科は国語だ。現代文ならば取組をいろいろ考えられそうだが、古文はどうやってすればいいんだ?

 そんな疑問にはまってしまって、一時期、古典不要論を振りかざしていた時期もあった。でも、古典だって生活と結びつけようと思えば、できるものだと思う。自分の技量のなさを観たくないために、古典はいらないと言ってしまうのは恥ずかしいことだ。

 一時期、情報科に憧れたこともある。

 情報科はPCの扱い方や情報リテラシーの学習など、今の時代に合った学習を行うことができる。SNSの扱い方の注意事項なども教えることができるし、そういった授業は生徒たちも食いつくだろうなと考えたこともある。

 てか、今も考えている。

 でも、そういうのはまず自分の担当教科の国語でやるべきことを果たしてからにしないといけないなと考えている。

 

【水谷】

 生徒一人一人は気が弱く、自分に自信がない。地域から「とんでもない生徒」とレッテルを貼られ、教員が外に出ないように閉じ込めておく子たちだけど、内面はとても脆い。

 だからこそ、この子たちに、何よりもまず自信をつけさせたい。そのためにも、地域の理解ある事業所に受け入れてもらうことが、どれだけ大きな力となることか。

 どの生徒も、大人たちに親切に迎え入れてもらう喜びを知った。それは、生徒たちの人生にとって初めてと言っていいことだった。

 大人って優しいんだ、親切なんだ、信頼していいんだっていう体験を、あの子たち、やっと味わうことができた。きっと、初めてなんじゃないかな。地域の大人に大切にされたのは。

 これ、子どもたちにとってはものすごい宝物になると思う。

 

 うちの子たちに最も足りないのは、自分が大事にされるという経験。

「自分が大事にされている」という感覚を持つことで、少しでも自分への自信につながれば、今よりはきっと前向きになれる。

 

 

 もともと工場見学のようなことをキャリア教育の一環として行っていたのだが、それだと受け入れ先が限定される上に、生徒たちが遊び半分ではしゃいで騒いで、受け入れ先から「もう来ないでくれ」と言われるようになってしまった。

 そこで会社見学ではなく、職場見学にシフトチェンジしたところ、以上のように、生徒たちは大人たちに親切に迎え入れられ、大人への信頼度を高めたというのだ。

 両親に愛されなかった子どもというのは、きっと大人を信用しなくなる。それは教師への信頼度も同じ。教師にSOSを出しても、それに気づいてくれなかったら、生徒は教師への信頼を失うだけでなく、大人全体への不信感を募らせる。

 あんまり断定的なことは言えないのだけど、世間で蔓延る殺害事件の加害者というのは大人に裏切られてきた経験をしてきたんだと思う。だとすると、その加害者はいわゆる被害者である。だとすると、教育現場の人間は、家庭内で愛されなかった子どもたちに対してはいっそう手厚く守っていかないといけないのではないか? 親っていうのは子どもが生まれてしまったら必然的になるものだけど、教師というのは気がついていたらなっていましたというケースはない。ある程度の使命感はもってなるものだと思う。だからこそ、教職員は子どもたちを守るという姿勢を見せていかないといけないと思う。

 

【吉岡】

 独特の接近法に、独特の距離感。乳幼児期に、母親などの養育者からたっぷりの愛情をもらえなかった一つの証とする心理学の学説もある。養育者との間に「愛着」という信頼の絆を育むことができなかった子どもは、暴力衝動を抑えられなかったり、他者との適切な距離がわからずべたべたと近づいてきたり、落ち着きがなく不安定だったりと、さまざまな「障害」を抱えてしまうことが往々にある。

 

 オレたち教員っていうのは、なんだかんだいっても学校への適応力が高かった人種だ。ちゃんとした家庭に、それなりに成績優秀できた人間が多い。だから、どんなベテラン教員も、槙尾に来れば頭を抱える。なぜなら、これまでの経験がほとんど通用しないからだ。普通、こう言ったらわかるだろうと思うことが、うちの生徒にはなかなか通じない。なにしろやつらの挨拶は、「傘、貸して」なんだから。

 

 吉岡は道中で自分の学校の女子高生に「傘貸して」と言われたのだ。それに対して吉岡はふつうに傘を貸そうとする。しかし、女子高生に「本気にしてんの」と笑われる。

 つまり、「傘貸して」というのはただ教員と接近するためのコミュニケーションの一種であって、その言葉自体には意味がないのである。

 人懐っこい生徒は、家庭内で愛されていない可能性があると聞いたことがある。確かにそういう傾向は強いと思う。やけに元気というかボディタッチしてくるとか、そんな生徒はいる。コミュニケーションの取り方が変な生徒もいる。育っていくために必要な愛着がきちんと定着していない例なのかもしれない。

 私はそういった事実を知らずにずっと生きていた。

 教員になるような人間の多くは、それなりにいい学校に行って、それなりに勉強ができていただろう。私だってそうだ。手前みそだが、それなりに勉強はできたと思うし、学校生活に適応してきた。だからこそ、教育困難校のような学校に来て、たくさん驚いた。驚いたと同時に、多くの学びがあった。日陰に隠れていた子どもたちを見出したというか。正直な話、素行不良の生徒の背景に崩壊した家庭があるという事実を自分は知らなかった。自分が悪い、という自己責任論を振りかざしていた。でも、自己責任論を振りかざされたら、そういった子どもたちが可哀そうではないか。私はそう思うようになった。

 

【吉岡】

 発達障害の子は確かにいる。オレは特別支援教育をやらないと言っているわけじゃない。だけど、その発達障害の子だって、家庭の状況が複雑に絡んでいたり、外国籍でなじめなかったり、それぞれがいろいろな困難を抱えているわけだ。すべてが単純に、医学的な診断名だけで判断できるわけじゃない。でも、特別支援教育の発想は『発達障害か、そうでないか』の二分法に近いんだよ。

 純粋な医学的規定、診断名のみで児童生徒を判断するなよ。教育というものは本来、『障害』という医学的モデルからではなく『本人が困っているものは何か』から出発しないといけないんだ。子どもを、医学的診断名だけで理解できるわけがない。親の考え一つにだって子どもは左右される。単純にはいかないんだ。個々の子どもそれぞれの事情をみていかないと。それが教育というものじゃないか! 診断名からは、本人が困っているものは何かは出てこない。

 

 言葉が出ないとか、『~がない子ども』『~ができない子ども』という観点から子どもを捉えてはいけないんだ。うちの子も言葉が出ないのは現実だけど、サイン言語のようなほかの手段を使って生きようとしている。だから『目が見えない』『耳が聞こえない』じゃなくて、子どもは懸命に何かになろうとしているわけだから、それをこっちは一緒に考えていかないと。何に困っているのかなと考えると、ちゃんと伝わる。人間だから。だから、困っている生徒と一緒に考えていくスタンスを常に持っていないといけない。これが、オレの考える支援教育の基本だ。

 

 実体験から得た確信だった。「何に困っているのかな」という目線で子どもと接すれば、子どもが困っていることが見えてくる。それがその子の「教育的ニーズ」であり、それは一人一人違う。それぞれの課題に応じた働きかけをしていくことが、吉岡が提唱した「支援教育」という理念だった。

 

 あの子はADHDだとか、あの子はLDだとか、そういった診断が必要なケースもある。でもなかにはADHDだろうと思われる生徒が自らその検査を拒むケースがある。生徒自身だけでなく、保護者がそれを拒むケースもある。

 でも、重要なのはその生徒の持つ障害の名前ではないのだと思う。まさに上記にある通り、「教育というものは本来、『障害』という医学的モデルからではなく『本人が困っているものは何か』から出発しないといけないんだ。」ということなんだろう。

 私はある先生からこんなことを聞いた。発達障害を持つ生徒に対しての支援の仕方についての話。

「できないことが多い生徒だから、『できないこと』にフォーカスするんじゃなくて、『できたこと』を褒めていきましょう」

「できないこと」に焦点を当てても仕方がない。「できないこと」の方が多いのだから。逆に「何ができるのか」ということを探し、見つけ、そこを褒めて伸ばしやる。それが支援教育としての一番大きな働きなのだろうと思う。

 

【原田】

 生徒指導の「肝」について…

 生徒の心をつかむことだ。これに尽きる。問題行動を起こす生徒は大抵、これまでの不遇な経験で、大人への反発や根強い不信感を持っている。だから、教師に対して攻撃的になるのだ。そうじゃない、大人を信用していいんだ、おまえのことを真剣に考えているんだと正面から向き合うことで、頑なに凝り固まっている心が少しずつほぐれていく。そうやって心をつかみさえすれば、どんな子でもまっとうな世界に戻ってくる。だって、子どもはみんな、自分を大事に思ってくれる大人に、心をつかまれがたっているのだから。

 

 底辺校にしか入れなかった劣等感や絶望感、人生の敗残者ではないかという不安から、生徒たちは「どうせ、何をやってもダメだ」とあきらめている。学校への嫌悪、授業からの逃避、学校秩序への反抗。ひたすら遊ぶという刹那的な状態も、「こんな人生なんか嫌だ」という生徒なりの抗議なのではないか。

 当時、一般に議論されていた「高校教育改革」と称する中身は、問題のある生徒を中退という形でどんどん学校から「排除」し、「生徒」を入れ替えて、「いい学校」に変えていくことだった。

「こういう子どもたちが生まれるのは、もう避けがたいんだよ。排除するんじゃなくて育成だよ。子どもたちは中学までで、めちゃくちゃ傷ついている。その子たちを問題児として、学校から退場させていくのは違うんじゃないの? 違う学校づくりがあるんじゃないの? こういう子どもたちが集える『居場所としての学校づくり』を追求しようよ。高校に、育成するという機能があってもいいんじゃない?」

 

 

(高校における学校間格差の構造や社会の階層構造を拡大再生産する方向に働いているという現実について言及して…)

 

 だからこそ、彼らにとっての居場所としての高校を作らないといけない。経済的に厳しい家庭だ。親に余裕がなく、家に居場所がないのかもしれない。小中学校では粗暴だ、勉強ができないなど学校から疎外されてきた子どもたちだ。この子たちが抱えるさまざまな問題を、高校が日常的に支援できるようにしていかないといけないのではないか。高校こそ、そうした機能を担うべきなのではないか。「排除」ではなく、「支援」という機能を高校に持たせないといけないのだ。

 

 厳しい頭髪指導をして、生徒をガンガン締めつけて、一体、何が残る? 教員への警戒心と不信感を強めるだけだ。生徒は表面だけ従順になるかもしれないが、もう、教員には心を開かない。殻にこもるだけだ。家に居場所がなくて、小中でも疎外されてきた子を、高校で厳しい頭髪指導をして、最終的に学校という場所から追い出すって? じゃあ、彼らはどうなるの?

 

 子どもたちが自分の苦しさを吐露できるような雰囲気をつくるには、見かけから攻めちゃいけないんだ。がんじがらめの生徒指導で締め上げたらほんとうの支援は機能しない。

 

 先日、とんでもないツイートを見かけた。

 教育困難校ができる意味がわからない。悪いことをしたやつを退学していけばそんな学校はできないはず。

 文面はこの通りではなかったと思うが、こんな感じのことを書いていた。

 ようは「危険因子を排除しよう」という考え方であるらしい。

 じゃあ、排除された彼らはこれからどういう人生を歩めばいいのか?

 よっぽどなことがない限り、まともな道を歩くことはないだろう。

 上に「居場所としての学校づくり」と書いていたが、まさにそういったことは推し進めてしかるべきだと思う。家庭内で居場所がない子どもたちにとってのセカンドプレイスを居心地のいいものにしてやらないといけない(セカンドプレイスも居心地が悪いものになれば、トー横キッズみたいな子たちが産まれてしまう)。

 

 最後に校則について触れていたが、この問題は難しい。たしかに厳しすぎる校則は生徒が学校に気が向かない要因にもなりえるが、自由過ぎるのもよくないと思う。髪型自由、髪色自由にすると、それなりの進学校ではある程度の限度を弁えるだろうが、教育困難校の生徒はやりすぎを超えてしまう可能性がある。それでもいいじゃないかと思われるかもしれないが、日本人は世間の目に厳しい国であり、髪色や髪形が派手過ぎると忌避される傾向がある。だから、ある程度の髪型指定は仕方ないことなのかもしれない。

 

【岡田】

 ただ生徒指導で上から締め上げているだけじゃない。先生たち、驚くほど、個々の生徒の事情をしっている。気になる生徒に出会うたびに私は、担任の先生に『どういう子ですか?』って聞いていたんだけど、どの先生も、家庭の状況も本人のこともしっかりと把握している。先生たち、ちゃんと生徒の話を聞いて、その子、その子の事情をわかっている。すでに教育相談的アプローチを、槙尾では各担任がしていました。

 

 たいてい最初は、「どうしようもない困った生徒」から出発する。「なんで、この生徒は。どうしようもない」と。しかし、そこで終わるのではなく、「どうしたんだ? 何か、大変なことがあるのか?」と横並びになって事情を聞けば、「先生、親があまり帰ってこなくて」と胸の内を少しだけ見せる。事情や背景がわかれば、その「困った、どうしようもない生徒」は、「困っている生徒」だとわかってくる。

 この転換こそ、支援の第一歩なんだ。大人にとっての「困った生徒」ではなく、生徒自身が「困った」ことを抱えている「困っている生徒」だとわかれば、一緒に考えようとするスタンスへと転換していく。さっきの担任だって、「一緒に将来を考えている」と言ってたじゃないか。これこそ、まさに支援じゃないか。だから支援教育の始まりは、やっぱり「対話」なんだ。対話に尽きる。それには教員が上からものを言うのではなく、生徒と横並びの関係にならないと「困っている」ことが見えてこない。それを、槙尾の教員たちは実行している。生徒をちゃんと見て、理解しようとしているんだよ。

 

 

 あの生徒は困ったやつだ。

 なんでそんなことをするんだ?

 あいつは仕方ないやつだから何を言っても無駄だ。

 そんなことを言って、生徒側の気持ちを理解しないのはよくないことだ。

 生徒の問題行動に対して呆れるくらいのことは誰でもできる。でも、大切なのはその先の問題行動の裏側にあるものを見極めるということだろう。そのために必要なのは「対話」である。対話によって、生徒の見えなかった部分を見るのだ。それをするのが教員の使命なんだろう。

 

【三浦】

 高校生が一人暮らし? そんなことがあるのか? ありえないよ。高校生というのは親といっしょに暮して、親に面倒を見てもらって学校に通う存在のはずだろう? そうじゃない高校生がいるなんて、オレは思いもしなかった……

 あいつらの環境は、なんて理不尽なものなのか。あいつらには何の責任もないというのに。

 

 ふつうの高校生を考えると、両親が健在で、毎日、部活をして、家に帰るとご飯が用意されていて……というイメージ。自分がそうだったから、そんなイメージが定着しているのだ。でも、それがふつうではない高校生もいる。そのことを知ったのが、恥ずかしながら、教師になってからのこと。

 

スクールカウンセラー

 対象生徒には非常に大きなトラウマがあって、心の発達がどこかで止まっているのかもしれません。先生方に対していろいろと逸脱行為を起こすのは「自分はここにいてもいいのか」と、試しているのだと思われます。ですから、指導は「規範意識を育てる」などという大きな目標を持つのではなく、具体的で、彼女が意識すればできそうなことから始めるのがいいと思います。

 

 目標は具体的であろう方がいいという話は有名だ。

 一か月でやせるというあやふやで抽象的な目標を持つのではなく、一か月で五キロ減量するとかそういった具体的な目標。

 子どもたちにも目標を持たせる際に参照したい。

 

【佐野】

 そうか、これまで生徒指導で関わってきたやんちゃなヤツらも多分、メンタルな部分に問題を抱えていた。そうだ、あいつらみんな生きにくさを抱えていた。だから衝動的な行動に出たり、荒っぽいことをしていたんだ。ああ、あいつら、ほんとは苦しんでいたんだ。オレにはそういう概念がなかったから、何も見えてはいなかった。

 

 なんだ、これは。荒れているというより、疲弊している。学校なんてどうでもいいやって、生徒は諦めている。だからなのか、前ほどやんちゃな悪さをする子は少なくなっているのに、退学率が高いっていうのは。なぜだ。子どもと学校との信頼関係が、どうもイマイチなのか。

 

 私の勤務校には「ヤンクミ」のようなヤンキーがいっぱいいるわけではない。むしろ、元気がない生徒が多くいる。疲弊している。学校なんてどうでもいいやって、生徒は諦めている。その感覚がとても理解できる。

 その原因は何か? 上記にある通り、子どもと学校との信頼関係がいまいちなのか、正直わからない。

 学校よりもスマホに夢中、っていうのもあると思うけど。

 

【三浦】

 ひとり親家庭の多さ、生活保護世帯もかなりある。

 書類上だけでも「普通」とくくられる生徒は、ごく一部だった。

 

 オレが今まで「普通」と思っていたのって、いったい、何だったんだ。こんな現実を抱えている高校生がこんなにもいるってことを、オレもそうだったけど、世の中、知らなすぎるよ。高校生なのに1~2歳の弟や妹がいる子が多い。たいていは母親と再婚相手との子だ。それはいいが、なんで、その子の面倒を高校生が見なきゃいけないんだ? まず、自分を育てないといけないのに。世帯主の母親が精神的に不安定という理由で、生活保護を受けている子どもは多い。

 

「普通」という言葉はなるべく使わないようにしている。

 普通の15歳とか普通の子どもはとか、そんな何気ない言葉で、その普通の枠から外された子どもたちは心に傷を負うかもしれない。

 自分の経験をもとにイメージした「普通の高校生」から逸脱する生徒を「普通じゃない」とは言ってはいけないし、思ってもいけない。

 何よりも大切なのは生徒との対話を通して生徒個人を知るということであり。そして、生徒ひとりひとり個性を認めていけば、「普通」がどうとか言わなくなるだろう。

 

【渡辺】

 いくら「勉強しろ」って言われたって、あれじゃ、できるわけがないよ。家に、机一つないんだから。かわいそうだよな。

 子どもにとって一番大事なのは、どういう家庭で育ってきたかだ。愛情が人を育てるものだが、肥料といっしょであげすぎてもダメだけど、なくてもダメ。

「愛情をもらえていないから、甘えたい。オレは厳しいことも言うけど、でもそれが守れたら、『よく、がんばったね』って褒めるから。そういうのが、あいつら、欲しかったんだと思う」

 

 もちろん、褒めてばかりではいけない。

 先日、なんでもかんでも褒める自動車学校がテレビで取り上げられていたが、なんとも気持ち悪かった。褒めることばかりではなく、厳しく指導することも大切だ。どんなに過酷な家庭環境を背負った子どもでもいち生徒であり、非行に走れば、指導をしないといけない。でも、ここでその生徒の背景にあるものを理解し、そして、生徒に愛情をもって、指導を行う必要がある。で、厳しい指導をしたら、今度は、その生徒が成長したシーンを見せてくれたら「褒める」のだ。ここで初めて「褒める」という行為が効力を持つ。なんでもかんでも「褒める」のはその生徒にもならない。

 

【吉岡・原田】

 ふたりが向いているのは常に生徒であって、教育委員会じゃない

 

 言わずもがな。

 

【佐野】

 たぶん、子どものときから話しかけてもらっていないんだろう。だから表現する力がない。抱きしめられていない、親の笑顔を見て育っていない。おまけに小学校から中学校まで、学校でかまってもらったことがない。だから、自尊感情がとてつもなく低い。この低さを、どう底上げしていくか。ここがオレたち教師に、もっとも問われている。「お前が大事なんだよ」というメッセージを3年間、発し続けるしかない。

 

愛着障害」ということばがある。愛着とはそもそも、乳児期の子どもと母親の間に築かれる心理的な結びつきのことで、「愛着障害」とはそこに何らかの問題を抱えている状態を指す。愛着がスムーズに形成されるために大事なことは、十分なスキンシップとともに、母親が子供の欲求を感じ取る感受性をもち、それに速やかに応じる応答性を備えていることである。子どもは、いつもそばで見守ってくれ、必要な助けを与えてくれる存在に対して、特別な結びつきをもつようになる。求めたら応えてくれるという関係が、愛着を育む上での基本である。

(出典 岡田尊司愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(光文社))

愛着障害」の子どもは自尊感情が低かったり、対人能力が低い傾向がある。

 だから、まずその子の自尊感情を高めようとしたり、大人は信用ならないという考えを払拭させたり、積極的にかかわっていかなければならないと思う。

「お前が大事なんだよ」というメッセージはもちろん大事。そう言ってやることが大事じゃなくて、それを言い続けることが大事。口先ならいくらでも言える。でも、そう言ったからには本気でその子を守ってやらないといけない。言葉には責任を伴うのだから。もし、途中でその子に対してぞんざいな態度をとってしまったら、そこでその子との信頼関係も終わりだし、その子を守ることができなかったという状況にもなり得る。

 行動をもって、言葉の信憑性を保障する必要があるだろう。

 

【佐野】

 教員になったときからずっと思っていることがある。「おまえのこと、わかってるよ」なんて、そんな簡単に口に出せるわけがないと。自分は大学へ行き教員になり、それなりの収入もあり、子どももすくすく育ち、親だったまだ健在だ。そんな自分がどうして、目の前の苦しい子どもに「わかる」なんて言えるだろう。だから言ったこともなければ、思ったこともない。

 

 私が講師になってから思うようになったこと。

 他人の気持ちを理解するのはとても難しいこと。

 よく人の気持ちを理解しろと言われるが、人によってものの捉え方は異なるのだから、完全に人の気持ちを理解するなんてできないこと。

 そもそも、私は漢字が覚えられないひとを理解することができないし、英語をすらすら話せるひとのことを理解することができない。

 なんでそんなことができないの?

 なんでそんなことができるの?

 私にとって、他人はいろんな「なぜ?」に構成されている。

 それと同じように、私は母子家庭の子どもの心境を理解できないし、一人っ子の気持ちも理解できないし、虐待を受けている子どもの心を理解できないし、不登校になってしまった子どもの心の中を理解することもできない。

 私自身にその経験がなかったから。

 私は親から虐待を受けた経験がない。だから、虐待を受ける「本当のつらさ」は理解することができない。それにも関わらず、「虐待を受けるつらさ、わかるよ」と言ってしまうのはとても非常にまずい。共感すると言っても、経験上ないことを、「わかるよ」と安易に言ってしまうのは絶対にダメなことだと思う。

 だから、「わかる」なんて言わなくていいんだ。

 いや、言ってはダメなんだ。

 

【川上】

 学習って何だろう。専門学校や短大での座学でもいいが、最初から丁稚奉公のように、見よう見まねで仕事を覚えていくのも悪くない。現に、彼女たちはどんどん仕事を吸収して変わっていっているではないか。

 

 私は勉強なんていつでもできるのだから、今は勉強ができなくたって別に構わないと思っている。運動が苦手な子がいるように、勉強が苦手な子がいたって別にいいだろう。

 でも、勉強が苦手ならば、何かをカバーする分野があればいい。

 私の勤務している高校では、勉強が苦手だからこそ運動を頑張るといった生徒や、勉強が苦手だからこそさっさと就職したいと言っている生徒もいる。

「学ぶ」の語源が「まねぶ(真似ぶ)」であるという説がある。

「まねぶ」。つまり、「まねをして、得る」という意味。

 仕事は基本的に「まねぶ」ことによってできるようになるものだろう。

「学ぶ」のが苦手なら「まねぶ」方にシフトしていけばいい。

 むしろ、「まねぶ」ことがうまい人こそ社会をよりよく生き抜くことができるだろう。

 私はいち早く社会に出て働く高卒の人たちを尊敬している(嘘ではない)。

 なぜ世間が高卒に厳しいのか理解に苦しむ。

 誰よりも早く社会に出て、社会に貢献している人をなぜ忌避しているのか?

 私は彼らをすごいと思っているし、人生の選択として何も間違ってはいないと思う。