打ち上げろ!
火葬場の煙突から、ところどころにきらめきを宿しているように見えるこの清澄な青空に、一条の煙が揺蕩いながら立ち昇っている。光沢のない黒い服を身に纏った貫太はそれをぼんやり眺めていた。
「おい」
貫太の後頭部に声がぶつかる。振り向くと、そこには健ちゃん、あおいちゃん、愛ちゃんが立っていた。彼らもまた貫太と同じように喪服風の姿をしていた。
「急に呼び出したりして、話って何だ? 抜け出すの大変だったんだぞ」
陽に焼けた肌が印象的な健ちゃんが、少し怒気を帯びた表情で言った。
「バルーンを飛ばすんだ」
貫太は服のポケットから膨らむ前の状態の赤いバルーンを取り出しながら、言った。葬儀の間、ずっと泣きじゃくっていたせいか、彼の声はすっかり枯れてしまっていた。それでも、せいいっぱい快活な声を出そうとしていた。
「こいつをこれで」
そう言いながら、ズボンのポケットから手動式のバルーンポンプを取り出し、それをバルーンの口に突き刺した。
「膨らませる」
貫太がポンプを押したり引いたりしているうちに、バルーンはみるみると大きくなっていった。
「これに‥‥‥描いて」
貫太は持っていたマジックペンでそのバルーンの表面に何やら描きだした。キュッキュというペンの音が響き、その音に吸い寄せられるかのように、三人は貫太の近くに集まった。
「完成!」
貫太はバルーンに描いた絵を三人に見せた。
「「「さるぼぼ」」」
三人は、ほぼ同時に声をそろえた。
「あとは、これを空に送るんだ。キヨばあちゃんのいる空に」
貫太はぎこちない笑顔を三人に見せ、言った。そして、持っていたバルーンをみんなに配った。
「全部、赤なの?」
貫太の用意したバルーンはすべて赤色だった。愛ちゃんはそれを疑問に思ったのだろう。
「だって、赤色のさるぼぼって夫婦円満、子供の成長祈願を意味するんだよ」
愛ちゃんは、なるほど、といった顔をしていた。その隣で健ちゃんがバルーンに挿入したポンプを押したり引いたりしていた。あまりに空気を入れてしまって、バァンとバルーンが破裂してしまった。貫太はそのバルーンの破片が飛び散っていく様子を見て、あの一夜の花火のことを思い出していた。
※ ※ ※
暑気を切り裂くような蝉の声。肌を焦がすような強い陽射し。遠方の山の稜線から生えるように伸びる積乱雲。夏の要素がうんと詰め込まれたきょうという日は、貫太たちにとって小学生最後の夏休みの始まりの日でもあった。
終業式を終えた学校を出た貫太たちは一目散にキヨばあちゃんの家に向かった。
「キヨばあちゃん! ただいま!」
貫太はキヨばあちゃんの家の玄関口で大声を放った。彼に倣って、他の三人も、ただいま、と口々に言った。しばらくすると、キヨばあちゃんはガラガラと引き戸を開け、温和な顔で貫太たちを出迎えた。
「おかえり。スイカ冷えてるわよ」
「やったー」
貫太たちは玄関から伸びる廊下を歩いて、すぐ左にある部屋に入った。そこは元々、キヨばあちゃんの夫の和秀さんの部屋だったが、今ではすっかり貫太たちの遊び場と化していた。その部屋にある机の上には、丁寧に四人分に切り分けられたスイカが皿に載って、並べてあった。
「スイカ、どれにしようかな?」
愛ちゃんはどのスイカが一番大きいか、選んでいるようだった。
「オレ、これもーらい」
「あ、健ちゃん! あたしがそれ選ぼうと思ってたのに」
「残念でしたー! 早いもん順ですー」
「はいはい、ケンカしないの。もう六年生でしょ? 来年、中学生じゃないの」
キヨばあちゃんは柔らかい声で、健ちゃんと愛ちゃんを注意した。
「ほんと、しっかりしなさいよ」
叱られて肩を落とす二人に冷ややかな目線を送りながら、あおいちゃんは言った。
「何、まじめぶってんだよ。いつも、宿題手伝ってぇ~とか泣きついてくるクセに」
健ちゃんは落としていた肩を上げ、鋭い声をあおいちゃんに突き刺した。
「な、い、今はそんなこと関係ないでしょ」
あおいちゃんは熟れたりんごのように真っ赤な顔をして、声を荒らげた。
「お前らが騒いでるあいだに、オレが全部食べちまうぞ」
貫太はニヤリと口角を吊り上がらせ、意地悪く言った。
「「「だめー!」」」
ふと、貫太がキヨばあちゃんの方を見てみると、彼女は優しい面持ちでこちらを見守っていた。
キヨばあちゃんは、三年ほど前に、五十年側にいてくれた和秀さんを肺がんで亡くし、それ以来この家で一人暮らしをしている。キヨばあちゃんに初めて出会ったのは、今からだいたい二年前、貫太たちがまだ小学校四年生だったときのことだ。
ある日、貫太たち四人が遊び疲れて、四阿(あずまや)で涼んでいたら、腰を丸めた優しそうなおばあちゃんがアイスキャンディーを持ってやって来た。その人が、キヨばあちゃんだった。
彼女は四人に、「去年ちょうど君たちくらいの年齢の孫が病気で死んじゃったんじゃ。君たちを見ていたら、その孫のことを思い出してね」と話しかけたのだ。それから四人はキヨばあちゃんの家に足繁く遊びに行くようになったのだ。
今では、貫太たちにとって、キヨばあちゃんはほんとうの自分たちのおばあちゃんのような存在であった。
「あ、さるぼぼがいっぱい!」
スイカを口に含んだ愛ちゃんが、書棚にきれいに並べられた色とりどりのちりめん細工のさるぼぼを見て、言った。
「愛ちゃん、よく見つけたね。あんたたちにプレゼントしてあげようと思って、作ったんじゃ」
そう言って、キヨばあちゃんはそれらをこちらに持ってきた。手作りとは到底思えないほど精緻で、それらをずっと見つめていると、なんだか魂を吸い取られてしまいそうな感覚に囚われた。
「色によって、効果が異なるんじゃ」
「よし。じゃあ、オレはこれ」
健ちゃんが少々乱暴に黄色のさるぼぼを攫った。
「金運上昇じゃ」
「やったー。お小遣いアップ!」
「あたしは‥‥‥これ!」
愛ちゃんは悩んだ末、ピンク色のさるぼぼを選んだ。
「恋愛運アップ」
「れ、れんあい?」
愛ちゃんは顔を赤らめ、貫太に少し目線をやっていた。
「あおいだから、青で」
あおいちゃんは優しく青いさるぼぼを指で挟んだ。
「勉強運アップじゃな」
「ちょうど良かったじゃねえか」
健ちゃんがからかうように言った。それに対し、あおいちゃんは、うるさい、と一喝していた。
「貫ちゃんはどれにするんだい?」
キヨばあちゃんがいつもの優しい顔をして、訊いた。しかし、その顔つきのどこかに、脆くて弱いものが隠されていて、それがこれから彼女の身に不穏なことが起きる予感めいたものを知らせているように、貫太には見えた。
「どうしたんだい?」
「あ、いや、何でもない。ええと、どれにしようかな。‥‥‥これにしよう」
そう見えたのはきっと気のせいだ、と、貫太は思うことにした。
残念なことに貫太の瞳は正しかった。キヨばあちゃんが脳梗塞で倒れたのだ。
夏休み四日めの昼、貫太たちはいつものようにキヨばあちゃんの家に遊びに行った。玄関口で何度声をかけても、反応がなかったので、不審に思い、申し訳ない思いを抱きつつ、引き戸を開けた(キヨばあちゃんは無用心にも普段から玄関の扉にカギをかけていなかった)。中に入り、廊下を進むと、一番奥の部屋でキヨばあちゃんが倒れていたのだ。
貫太たちは狼狽の色を顔全体に浮かべながらも、彼らは各々役割を分担し、大人の人を連れてきたり、救急車を呼んだりと、今自分たちがしなければならないことをできる限り尽くした。
甲斐あって、キヨばあちゃんは何とか一命をとりとめたのだった。
「キヨばあちゃん、来たよ」
愛ちゃんがキヨばあちゃんのいる病室のドアを開け、言った。
「おや。みんな、すまないねえ」
愛ちゃんに続いて、貫太と健ちゃん、あおいちゃんが入る。貫太は枯れ木のように痩せ細ったキヨばあちゃんの姿を見て、心が締め付けられるような気持ちになった。
「はい、これ! ママがこれを持っていきなさいって」
愛ちゃんは、赤、オレンジ、黄色と彩り豊かな花束を渡した。彼女の声は、キヨばあちゃんを心配する気持ちを隠そうとしたのか、やけに溌溂としたものだった。
「あら、きれいなお花。何という名前のお花かしら?」
「ガーベラ! 花言葉は『希望』だって。お見舞いのお花として有名なんだって。ママが言ってたの」
「ああ、そういえば、愛ちゃん家、花屋だもんな」
貫太が呟いた。それに対し、愛ちゃんがあいまいな表情を彼に見せ、コクリと首を振った。
「なんか、この花、花火に似てるよね」
あおいちゃんがガーベラの花束に指差し、言った。彼女はその花束から一本取り出した。ヒュルヒュルと言いながら、茎をがくのところまでひとさし指でなぞり、指ががくまで達すると、手をパーにして、バァーンと大きい声を出した。
ね? と、あおいちゃんはしたり顔を見せた。おお、と、貫太は眼を見開いた。
「いや、『花火』って名前なんだから、花みたいなのは当たり前だろ」
健ちゃんがあきれるように言った。そういえばそうだったな、と、貫太は思いながらも、彼の中には、ガーベラと花火がやけにきれいに結びついていた。
「え? あ、そ、そういえば」
「花火師の娘だってのに、そんなことも気づかなかったのか?」
「それ、関係ないし! 何か、あんた、わたしにだけあたり強くない?」
あおいちゃんは持っていたガーベラの花を花束に戻しながら、言った。彼女は動揺のためか、花を入れそこない、床に落としてしまった。それを拾おうと、しゃがみこんだら、今度は腰につけていたウエストポーチの中身が雪崩のようにどしゃっと落ちていった。床には財布、ケータイ、メモ帳、キヨばあちゃんが作ってくれたちりめん細工の青いさるぼぼなどが散乱した。
何やってんだ。
大丈夫? あおいちゃん?
うん、大丈夫。
三人の声が聞こえなくなるほど、貫太はその小さなさるぼぼをじっと見つめていた。
しばらくして、「あ、花火といえば! 今年、御岳花火大会いつだっけ?」と思い出したように言った。
御岳花火大会とは貫太たちの住む御岳町の小さな花火大会だ。
「ちょうど来週だよ。だから、今、父ちゃん、準備とかでだいぶ忙しそうにしてる」
あおいちゃんが答えた。
「そんな忙しい中、申し訳ないんだけど、あおいちゃんの父ちゃんにお願いが‥‥‥」
と、貫太が言ったところで、キヨばあちゃんを後目に見た。
「でも、ここでは話せないから、いったん外で話そう」
貫太は、疑問符を頭上に浮かばせている三人を病室の外に連れ出した。
「あおいちゃんの父さんに頼んで、さるぼぼの花火を夜空に打ち上げさせて欲しいんだ」
「さるぼぼの花火?」
健ちゃんが訝しげに言った。
「うん。キヨばあちゃんに見せたいんだ。さるぼぼ花火を」
真剣な表情で貫太は三人を見た。彼の表情が伝染したかのように、三人の顔は引き締まった。
「ここから、花火見えるのか?」
「見えるよ」健ちゃんの一抹の不安を愛ちゃんが振り払った。「あたし、昔、この病院の近くの公園で花火見たことあるもん」
「わたし、父ちゃんにそれができるかどうか聞いてみる。色はどうするの?」
「色は緑」
と、貫太はキヨばあちゃんからもらったちりめん細工のさるぼぼをポケットから取り出し、言った。「緑は、健康運。早く病気が治りますようにってね」と、付け加えるように、言った。
病室に戻ると、キヨばあちゃんが何の話をしてたんだい? と、訊いてきたが、みんなは口をそろえて、何でもない、と、しらを切り、その場をやり過ごした。
翌日の昼、貫太たちはあおいちゃんの家に来ていた。あおいちゃんの父ちゃんがさるぼぼ花火を打ち上げていいと言ってくれたのだ。
あおいちゃんの父さんが玄関で貫太たちを出迎えてくれていた。陽に焼けて、真っ黒な顔が特徴的で、頭にはタオルを巻きつけていた。筋肉隆々で、格闘家のようにも見える。華奢な体つきのあおいちゃんからは想像のできない、お父さんだった。
「入院しちまった清本のおばちゃんへのサプライズプレゼントだって? おばあちゃん思いだね。ほら、この紙に夜空に描きたい『さるぼぼ』の絵ってのをデザインしてくれ。あまり複雑すぎるとたいへんだから、なるべく簡単なデザインで頼むよ」
あおいちゃんの父さんが健康的な白い歯を見せながら、色紙くらいの大きさの紙を貫太に渡した。
「あんたたちは運がいい。最後の一発の花火が、今年から一段階大きな花火玉を使えるようになったんだ。五号から六号だ。そのトリがあんたたちの花火だ。気持ちとしては尺玉を使ってあげたいところだが、予算が足りねえ。そこは勘弁してくれ」
洟をすすりながら、おどけた感じで笑った。
貫太は御岳花火大会には毎年のように行っている。最初は小さな花火が立て続けに夜空をきらめかせ、しばらくして、ちょっと大きめの花火が上がる。次に柳のような花火が打ち上げられる。最後は、大きな花火が一発、空に咲き、優しい余韻をそこに残しつつ、終える。花火大会ができた当初から、その流れは変わっていないらしい。
「最後の一発‥‥‥」貫太はそんな大事なところで打ち上げられるとは思っていなかったので、驚きと緊張と喜びが混ざった表情を顔に貼り付けていた。
「じゃあ、描こっか」
と、貫太のそんな様子に意を介す素振りも見せない健ちゃんは黒いペンを強く持ち、絵を描こうとしていた。
「ストップ。なんであんたが描こうとしているの。しかも、下描きをしないなんて無計画すぎ」
あおいちゃんが健ちゃんを睨み据えた。
「大丈夫。成績表で、図工が『たいへんよくできました』だったから」
「そういう問題じゃなくて。これは責任重大の作業なの。もうペン貸して」
「やだ」
また始まったよ、という顔をして、貫太と愛ちゃんは二人を見ていた。
二人の諍いを嘲笑うように、窓枠に吊るされた風鈴がチリンと音を鳴らした。
結局、あおいちゃんのお父さんが貫太たち四人の下描きを見て、誰が書くかを判断することとなった。審査結果、一番シンプルでかつ、輪郭だけでさるぼぼだと一目瞭然で分かるデザインを施した貫太のものが選ばれた。
貫太は下紙に、その下描き通りのさるぼぼの絵を慎重に描いた。描いている最中、責任の二文字が彼の背中に圧し掛かって来た。この花火がトリに打ち上げられること、キヨばあちゃんに見てもらうこと。そんな責任のプレッシャーに抗いながら、彼はなんとかミスをすることなく描ききった。
健ちゃん、あおいちゃんの嫉妬の眼差しと愛ちゃんの嘆賞の眼差しが貫太を絡めた。あおいちゃんの父さんも彼を褒めた。彼は有頂天の沼に浸ってしまい、そのせいか、彼はさるぼぼ花火の色を緑にするよう、あおいちゃんの父さんに告げることを完全に忘れてしまっていた。
花火大会前日の夕方、貫太、健ちゃん、愛ちゃんはキヨばあちゃんのお見舞いに行った。
「あら、あおいちゃん、きょうはいないんだね」
「あいつは今、夏休みの宿題中。なかなか進まないって、泣いてた」
健ちゃんが意地悪い笑顔をして、言った。
「キヨばあちゃん! 明日の夜、楽しみにしててね!」
貫太がそう言うと、愛ちゃんが貫太の口調を真似て「しててね!」と続けた。
「明日の夜?」
キヨばあちゃんは窓に差し込む夕陽に容赦なく染め上げられ、彼女の輪郭を溶かしていた。何だか、彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうな弱弱しい像として映った。貫太は違う、違う、と強くかぶりを振り、その像を頭から追い出そうとした。
キヨばあちゃんが倒れた前日に似た感覚を今、味わっている。恐怖感が心の深奥からじわっと外へ滲み込んできているのが分かる。ガーベラの花言葉を信じるのだ。緑色のさるぼぼの効果を信じるのだ。心の中でそう呟いた。
ん? 緑色のさるぼぼ‥‥‥。
貫太は思い出した。あおいちゃんの父さんに、さるぼぼ花火の色を指定しなかったことを。
貫太はすぐさま待合室に向かった。廊下を走り、階段を下りた。その間、鼓動の音がうるさく、貫太の中に響いていた。
待合室の隅に、公衆電話があった。
「あおいちゃんの家の電話番号は確か‥‥‥」
貫太は、あおいちゃんを始め、健ちゃん、愛ちゃんなどの仲の良い友達の家の電話番号を諳んじていた。
「もしもし、駒田です。申し訳ありませんが、両親は今‥‥‥」
しかつめらしくも、幼さが隠しきれていない声が電話口で聞こえる。
「もしもし、あおいちゃん? あおいちゃんの父さんに、さるぼぼ花火を緑色にするよう伝えてくれない? 言いそびれていたんだ!」
「え? あ、ほんと? い、今すぐ、父さんに伝えに行ってくる」
貫太の必死な声にせっつかれ、あおいちゃんはすぐに通話をきり、家を飛び出したようだった。
それから、一時間が経って、あおいちゃんがキヨばあちゃんのいる病室に現れた。夜の闇を吸い込んだような暗い顔をしていた。そして、彼女は貫太に耳打ちをした。
「もう遅いって」低く沈んだその声は、貫太の心臓を強く衝いた。「準備のこともあるから、今更、変更はできない。さるぼぼっていうから、てっきり赤色だと思ってた、だって」
貫太の顔から血の気がひき、真っ白な顔になった。
「‥‥‥キヨばあちゃん、赤いさるぼぼって、どういう効果があるんだっけ?」
貫太は動揺の中、声が震えているのに気づきながら、尋ねた。
「夫婦円満、子供の成長祈願じゃが、貫ちゃん大丈夫かい? 顔色が悪いようじゃが」
キヨばあちゃんは、不審な様相を呈している貫太を心配しているようだった。夫婦円満、子供の成長祈願。この両者は夫と孫を亡くしたキヨばあちゃんにとって、禁句ともとれるものだ。
そんな効果のある赤いさるぼぼをキヨばあちゃんに見せようとすることに対し、申し訳ない思いが、貫太の中に堆く募っていった。
「縁結びの効果もあるのう」
キヨばあちゃんがほほえみながら、言った。
「縁。あんたたちに会えたのも何かの縁じゃ。夫も孫も失ったけれど、あんたたちに会えたから、こうして一人にならずに済んでいるんじゃ。あんたたちに会えなければ、とっくの前に孤独死してたかもしれないのう。そんな、あんたたちに出会えた縁に感謝しなくちゃいけないねえ」
柔らかい、優しい声。すっとすぐに消えてしまいそうだけど、どこか強い生命力を感じさせる声。その声は貫太の胸に響いた。その胸の中につっかえていた鉛のようなものがストンと落ちる音を聞いた。
「さるぼぼっつったら赤色だもんな」
と、健ちゃんが貫太の肩を軽くたたき、そう小さく言った。
「そうだよ。そうだよ。キヨばあちゃんは、赤いさるぼぼ花火でも喜んでくれるよ」
愛ちゃんが健ちゃんに便乗するように言った。愛ちゃんの隣にぼうっと立っていたあおいちゃんの顔から翳りが消えたように見えた。それに連鎖するように、貫太の顔もガーベラのように明るい色に変わった。
『希望』の色に。
夕陽が沈み、やがて夜となった。
「もう夜だ。そろそろ帰るね、キヨばあちゃん」
貫太は窓を見ながら、言った。他の三人もそれぞれキヨばあちゃんにお別れを言い、病室を出ようとした。キヨばあちゃんは小さな手のひらを振り、また明日ね、と、か細い声を出し、彼らを見送った。
花火大会は夜の七時からだが、貫太は朝起きたときから妙に緊張していた。その日の朝は、何をするにつけても、心ここにあらずといった感じだった。早く夜になってくれという思いと、時間よ進むなという思いがせめぎあっていた。
本来ならば、みんなで夕方六時にキヨばあちゃんの病室に集合する予定だったが、いてもたってもいられなくなった貫太は、まだ正午にもなっていないのに、病院に行った。キヨばあちゃんのいる病室に向かうと、扉に『面会謝絶』の四文字が書かれた紙が貼られていた。
貫太にはその言葉の意味が理解できていなかった。近くを通り過ぎようとしていた看護師をつかまえて、これどういう意味ですか、と尋ねた。すると、その人は少し俯いて、こう言った。
「ああ、清本さんね。きのうの夜に、容態が悪化して、せいいっぱい治療を施したんですが‥‥‥、その‥‥‥」
そう言葉を濁しながら、その『面会謝絶』と書かれた紙をビリっと破り取った。貫太の耳には、それが、貫太たちとキヨばあちゃんの間に結ばれた縁が引きちぎられる音に聞こえた。
あっけなく、空しく、悲しい音。
「亡くなったの」
看護師がそう言い切ると、貫太は世界がぐにゃりと歪んだ感覚に陥った。
自分が今どうやって立っているのかが分からない。
平衡感覚が消える。
そんな感覚。
「そんな‥‥‥そんな‥‥‥」
貫太の中のどこかで、近いうちにこうなることを予感していた、覚悟を決めていた。
それなのに、いざキヨばあちゃんの死が現実となると、こうも悲しいものなのか、辛いものなのか。
貫太は目頭が熱くなるのを感じた。そして、涙をこぼした。
時刻が七時を指した。貫太、健ちゃん、あおいちゃん、愛ちゃんは病院の屋上にいた。
「ほんとに死んじゃったんだね。キヨばあちゃん」
健ちゃんが虚空を見つめながら、言った。
ああ、と貫太が頷いたと同時に、夜空に小さな花火たちが咲き乱れた。咲いては、散り、咲いては、散る。貫太にとって、そんな花火に美しさを見い出せないでいた。
「花火って、散るために生まれてきたのかな」
貫太がつぶやく。
花火は夜空に一瞬のきらめきを映し出すと、後ははかなく消えていく。
「人間も死ぬために、生まれてきたんだ」
また、貫太はそう言った。
四人の間に会話はない。彼らの沈黙を埋めるように、花火は爆音を鳴らしている。彼らの心情を考えることなく、花火は無邪気に咲き続けている。
今度は少し大きめの花火が打ち上げられた。赤、オレンジ、黄色‥‥‥。まるでガーベラの花のようだった。きれいに咲いた。そして、むなしく散った。
「花も散るために生まれてきたのかな」貫太がそう言うと、健ちゃんがすごい剣幕で彼に近づいた。
「いい加減にし‥‥‥」と、健ちゃんがそう言いかけると、それを遮るように愛ちゃんが「いい加減にしてよ、貫ちゃん!」と怒鳴った。
花火の爆音にも負けない力強い声だった。彼女のこんな声、貫太は初めて聞いた。
「花火は散るために生まれてきた? 人間は死ぬために生まれてきた? 花は散るために生まれてきた? 違う! 違うよ!」
愛ちゃんの頬が花火の鮮やかな色に染まっていた。目から流れる一筋の涙が見えた。
「ママが言ってた。花はいろんな人に笑顔になってほしいから、きれいに咲こうとしているんだ。散ってしまうその瞬間まで、誰かに笑って見てほしくて‥‥‥。花火だってそう。いろんな人に笑って見てほしい。そう思っているはずだよ」
柳のような花火が空に咲いていた。今、あの花火はきっとたくさんの人に笑顔で見てもらっているのだろう。
「人だってそう。誰かに笑顔を送りたいから生きてる。キヨばあちゃんは、あたしたちにたくさんの笑顔を届けてくれた。届けてくれた‥‥‥」
愛ちゃんは小さな嗚咽の中、そう言った。
「だから、貫ちゃん! そんなこと言わないで。あたしたちは、散るために生まれてきたんじゃない。散ってしまう、その最後まで、せいいっぱい咲いて、きれいに咲いて、そして、その姿をいろんな人に見てもらって、その人たちを笑顔にするため、生きてるんだよ‥‥‥」
「ごめん、愛ちゃん。オレ‥‥‥」
その瞬間、貫太は胸に優しい温もりを感じた。
夜気すらも溶かす優しい温もりを。
愛ちゃんが貫太を抱きしめたのだ。愛ちゃんのその強く、そして優しい力を、貫太は体の芯から感じていた。
「あ、あのう、そろそろ、さるぼぼ花火が‥‥‥」
と、気まずそうにあおいちゃんが言った。
ヒュルヒュルヒュル パァーン
夜空という黒いキャンパスに、赤いさるぼぼがはっきりとした輪郭で描かれた。
夢のように美しく、強い、大きな花火。貫太の胸の奥を揺らすほどの爆音を放ち、優しい余韻を残しながら、散っていった。そのきらめく残滓たちがみな満足そうに消えていくように、貫太は見えたのだった。
※ ※ ※
「健ちゃん、何してるの?」
あおいちゃんが侮蔑を込めた声で、そう言った。
「悪い、悪い、空気入れ過ぎた」
四人全員がバルーンの空気を入れ終えると、みんなそれにさるぼぼの絵を描いた。
「この絵って、あおいちゃんお家で描いた、みんなのさるぼぼ花火の下描きのボツ案じゃん」
貫太は三人の絵を見て、噴き出した。
「ボツ案って言うな。というか、いまだに少し嫉妬してるんだからな」
健ちゃんが笑いながら、そう言った。
「バルーンに絵を描いたことだし、空に打ち上げるよ」
貫太は言った。愛ちゃんが、花火じゃあるまいし、と小さく微笑みながら言った。
「発射まで五秒前。五、四‥‥‥」
健ちゃん、あおいちゃん、愛ちゃんも、貫太のカウントに続けて、
三、二、一、発射!
キヨばあちゃんの煙が立ち昇る横で、四人のバルーンは夏の青い空に向かって飛んでいった。
どちらも、どこまでも高く昇っていってほしい、貫太は心の中で何度もそう願った。
何度も、何度も。
「キヨばあちゃん。天国で和秀さん、お孫さんに会えたらいいね」
愛ちゃんが柔らかい笑顔でそう呟いた。
「会えるよ。きっと」
夏空の底で、貫太は、脳裏でキヨばあちゃんの笑顔をきらめかせながら、確信に満ちた強い声でそう言った。