上田岳弘『ニムロッド』
ビットコインはナカモトサトシという謎の人物によって投稿された論文に基づき、2009年に運用が開始されたインターネット上で取引や新規発行ができる仮想通過のことだ。政府や中央銀行に管理されず、発行元がいないというのが大きな特徴だ。
まあ、ビットコインに関しては以下のサイトに詳しく書いてあるので、そちらに委ねることにする。
https://coincheck.com/ja/article/20
さて、上田岳弘さんの小説『ニムロッド 』はビットコインについていろいろ書いてある。
「ビットコイン」と「文学」。
なんだか親和性の悪そうに思えるが、なるほどこれがこれからの文学の在り方なのかもといったふうに思えた。
だが、テーマとしては安部公房の時代からさほど変わっていないように思えた。それを進歩していないととるか、不易なものだと捉えるかはこの際置いておく。
いわば『ニムロッド』はオートマティックされる世界の中を生きる人間の虚しさを説いていると言ってしまえば、安っぽく聞こえるが、だいたいそんなところだ。
都市化され、人間たちが個性を失う。
そんなテーマを掲げられたのは、五十年以上も前のことだろうか。高度経済成長期あたり。
その頃と今も変わらない不易のテーマ。
この世界についていろいろ思考をめぐらすと虚無感に襲われる。
まだ全部は読んでいないが『ホモサピエンス全史』で、人類が集団で生活していく上で宗教や会社といった目に見えない「虚構」が重要な役割を果たしたといった旨が書かれている。経済なんて概念は原始時代にはなかったし、道徳なんて概念も人間が勝手に作った幻想だ。そんなことを考えると、「なぜこの世界を生きているんだろう」とか思ってしまうので、深くは考えてはいけないのだ。その領域に足を踏み入れたら、しばらくは暗夜を彷徨うことになるのだ。
で、『ニムロッド』の主人公の友達荷室ことニムロッドはその領域に足を踏み入れた。彼の思考を吐露したシーンがあるので、そこを引用する。
「(前略)仮想通過はソースコードと哲学でできている」
「きっとさ、君本人でなくても誰かがビットコインの採掘を続けるよ。世界中で、無数のコンピューターが、君のロジックに則って稼働しているのは何も資産が欲しいからだけじゃない。社長の言う通り、一種のシステムサポートなんだ。あの社長もたまにはまともなことを言うんだな。コンピューターに電力を送り続け、帳簿を書き続けることで、ビットコインの存在が証明される。書いているのは単なる取引履歴だけど、実際にそれで価値が生み出され、日本円やドルにもなる。つまり、資産となって人や世の中を動かすことができる。僕は思うんだが、それって小説みたいじゃないか。僕たちがここにこうして、ちゃんと存在することを担保するために我々は言葉の並び替えを続ける。意識や思考もまた脳を駆け巡る電波信号に過ぎず、通り過ぎてしまえばそれがあったこと自体夢か幻みたいだ。世界中にいる無数の名無したちの手が伸びてくるから成り立っている。その手がなくなってしまえば、君が掘り出した大切な変則Bは君の手元から真っ逆さまに、どこまでも下に落ちていく――」
そもそもビットコインは無から無をつくりだしているのだ。硬貨は実体がなく「無」であり「虚構」である。だが、ビットコインに「信用」を与えることで、それ自体に意味があるものへと変化した。「価値」が生まれた。
小説も同じで言葉を紡いでいくことで、本来「無」であった世界に「意味」を持たせようとする。小説のみならず、私たち人間の人生もそうだ。「生きる意味」なんて本来あるはずないのに、無理やりそれを求めようとしている。
僕が言葉を紡いでいくことで、人々の精神に何かを書き込む。遺伝子に誰かが書いたコードみたいに、ビットコインのソースコードみたいに、僕が誰かの心に文字を通じて何かを記載することで、それが世界を支える力になる。そう思っていた。でもそうではなかった。いや、あるいは僕に才能がなかっただけかな。
だとしてもさ、ねえ、ナカモトさん。そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃない。それは、誰も心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっと空っぽの世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽだと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。表現するだけの気力が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。
……なんとも、切ない言葉だろうか。『ニムロッド』は芥川賞を受賞した作品だ。そこで受賞か否か選考が行われたわけだが、そこで繰り広げられた議論はいわば「空っぽ」なんだろう。文学自体「虚構」で、何がいいとか何が悪いとかそんな基準は本来存在しない。それなのに鹿爪らしく議論が繰り広げられ「文学とは……」と語られる。
私たちには感情がある、伝えたい気持ちがある、それを声、文字、絵画などを通して、世界に向かって表現する。その瞬間が、「人間の営為」の神髄ではないかと思う。
なんでもWikipediaで調べるのが癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちたいてのことは書いてあるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。27クラブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipediaにしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている。だから、僕はそれ以外の、例えば田久保紀子が抱いている心情や、ニムロッドが小説を書く動機なんかを考えることに脳を使うべきなんだろう。
まさに「僕」の言う通りではないか。現代を生きているうえでたいていのことはインターネット上に存在する。判らない言葉があれば、調べればすぐ見つかる。こんな社会だからこそ、人間のつながり、つまり人間の心情とかに頭を使うべきなんだと「僕」は思っている。そういった感情(どうしてその感情になったのかは考えない)について、思索することはまさに「人間の営為」を虚しく感じることない、唯一の抜け道なのではないか?
ニムロッドは高い塔で駄目な飛行機に乗って、太陽へ目指す。
それが大きな意味で「飛翔」を指すのだろうし、それこそがニムロッドなりの導き出せた答えだってことは何となくだけど判った。
だが、悲しいことに、駄目な飛行機コレクションに乗って、太陽に目指すニムロッドは「イカロス」を想起させる。
失墜だ。
最終的にニムロッドは失墜してしまう。
その示唆が本作全体に不安定さや儚さをもたらしているのだろう。
Amazonレビューがあまりよろしくない本書ですが、少なくとも私はかなり(久々に)考えさせられる純文学作品だなと思った。
『ニムロッド』と同時受賞した『1R1分34秒』はなかなか読むのがしんどかった(筆者の町屋良平さんは『しき』がほんのり温かくて面白かったよ。きっと、少年たちの青くて淡い日常を描くのが得意なんだろうし、できればそっち方面のものを書いて欲しいと思っている私です)が、こちらはすっと読めるうえに人間の営為とは何かといったことを考えさせられた。