世界に山積する問題について言及することについて――九段理江『schoolgirl』
最近、マイクロアグレッションという言葉を知った。
マイクロアグレッションとは差別の一種で、社会のマイノリティに対して向けられる偏見や先入観が些細に見える言動を指す。
一見するだけでは差別だとわかりづらく、言った本人に加害の自覚がないというケースも多くある。
たとえば、外国人に見える人に対して、「どの国出身ですか?」と尋ねるといった行動は、無意識の偏見がベースに合って、マイクロアグレッションと言える。
今の社会、不用意は発言は炎上につながる。
それは芸能人・素人関係なくだ。
しかも、最近では過去の発言を掘り起こして問題視するというキャンセルカルチャーなんてものもある。
九段理江『schoolgirl』の一節。
いろいろな立場のいろいろな事情に配慮した、誰も傷つかない言葉を追求していくと、誰も自分のことなど説明できなくなる。
この一文を読んで、そうそうそれそれ、と思った。
たとえば、「私は〇〇大学出身」と言っただけで、「わたしの家庭では大学に進学するお金がありませんでした」と言われるかもしれないし、「ディズニーが好きです」と言ったら、「ウォルト・ディズニーはレイシストだった。そんなやつがつくった作品が好きだなんてお前もレイシストだ」と言われるかもしれない。
極端な話かもしれないが、最近のなんでもかんでも配慮するという風潮を突き詰めたら、以上の例のようなディストピアが完成するに違いない。
また、そう遠くない未来、「『ドラえもん』に登場するスネ夫の金持ち自慢は貧困層の子どもたちを苦しめる」とか「『クレヨンしんちゃん』のしんのすけの美人に対してデレデレする姿がルッキズムを助長している」とか言われるんだろうか? てか、言われているかもしれないな。調べたらヒットしそうだが、怖いのでしない。
今回は『schoolgirl』についての感想を書いていこうというのがメイン。
YouTubeで書評家の豊﨑由美氏が第166回芥川賞メッタ斬りで『schoolgirl』の紹介を聞いて、とても面白そうだなと思ったので読んでみた。
ここ最近の社会問題に触れていて、とても興味深く読めた。
しばらく純文学から離れていたけど、『こちらあみ子』といい『schoolgirl』といい、良質なものはやはり読んでいて面白い。
純文学は難しいところはあるけど、いつも心の中にどすんと何か大きなものを残してくれる。
『schoolgirl』は意識高い系の娘をもった母親の話だ。
時代は現在よりも少し未来の話。グレタ・トゥンベリが大人になった時代。
中学生の娘はグレタを礼賛していて、YouTubeで地球環境問題を取り上げて革命を起こしましょうと視聴者に呼び掛けていた。また、娘はいわゆるヴィーガンで、肉や卵をいっさい食べない。
そんな娘について母親はこう分析している。
娘は何も動物に対して愛着があるというのではないんです。先生はあまりご存じないかもしれませんが、工場畜産システムの抱える倫理的な問題をシェアするのが、最近のSNSのトレンドになっているんですよ。動物だけじゃなく、社会で不当な扱いを受けている……性差別だったり人種差別だったり容姿差別を受けているような人々の情報を、毎日誰かがシェアしている。ショッキングな文章や映像が娘のタイムライン上にひっきりなしに流れてくるので、それで必要以上に世の中に悲観的になっているだけです。そういう傾向は娘の世代全般に見られるものだし、べつに特別なことではないと思いますが。少し前までのブームは気候変動だったんです。
要するに、娘は『いいこと』をしたいんです。地球にとって、この世界にとって、すべての生命にとって、『いいこと』をする『いい娘』になりたいんです。動物がどうとかいう次元じゃないんです。そういう年頃というか、それがグレタ世代の世界観なのでしかたないんです。そこに私たち大人が口を挟むのは違うかなって思うんですよね。そもそも彼らは上の世代を憎んでいるわけだし
これは医者と話している母親の言葉である。
医者は母親の語りが断定口調になっていることを指摘し、さらに娘と直接向き合っていないことを批判する。
また、母親は子どもの発達心理学や親子関係に関する本をひととおり読んできたと言ったことについて医者は「あなたが本を何百冊読んだかって、僕はそんなことを訊いていないですよね。お母さんはどうもご自分の子育てがいちばん正しいと思い込んでいるところがあるな。でも言っておくけど子育てに正解なんてないからね」と言う。
このセリフを聞いて、私は太宰治の『女生徒』のワンフレーズを思い出した。(ちなみに『schoolgirl』は太宰治の『女生徒』を下敷きにしている文章があったり、後半にそれについて語られているシーンがあったりする)
本なんか読むのを止めてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。
これは主人公が自分に対して下している評価だ。
本なんて読みすぎるものではない。
それは私自身すごく思っていることである。
どれだけ自己啓発本を読もうと、自分自身が変わろうとしない限りは自分を変えることはできない。
むしり、本を読むことで自分がすごい人物になったかのように錯覚してしまうこともあって、極めて危険だ。
『schoolgirl』に戻る。
医者が「あなたが本を何百冊読んだかって、僕はそんなことを訊いていないですよね。お母さんはどうもご自分の子育てがいちばん正しいと思い込んでいるところがあるな。でも言っておくけど子育てに正解なんてないからね」と言うのは、本ばかり読んで子どもについていろいろ知った気になっている母を質しているのだから、かなりまっとうな意見なんだと思う。
教育現場でもそうだが、結局、経験が何よりも役に立つ。
経験こそ最高の武器だと思う。
もちろん経験ばかりに頼りすぎて、悪い事象が起こった際にやり方を変えようとしないのはよくないことだが、本の知識よりも経験が役に立つと私は思っている。
それでも本を読むのは、時に経験ではどうにもならないときの一助を与えてくれるからであり、知見の幅を広めてくれるからである。
まず、前者について。私の経験から述べると、『傾聴の基本』という本を読んで、私はよかったと思えることが多々あった。私は今まで人の相談に乗った経験があまりなかったし、あったとしても、なんとかアドバイスをしようと思って、自分の未熟な経験知を語っていた気がする。しかし、人の相談に乗るうえで別にこちらから何かアドバイスを送る必要性はないということをその著書から知った。ただ、話を聴いてあげる、ただそれだけでいいのだと知った。この手法は今とても役に立っている。
次に後者について。これは専門の分野の知識を深めたり、世界で起こっている出来事を知ったりするといった、経験ではなかなか得られない知を手に入れるためには本がいちばんいいだろう。これは周知の事実だ。
さっきから、本、本、本と言っているが、一応、新書とか専門書とかそういう類のものを示していたつもりだ。
じゃあ、「小説」を読むことについてはどうだろう?
『schoolgirl』の娘はこう言っている。
だって小説は現実逃避のための読み物でしかなく、人を夢の世界に引きずり込む百害あって一利なしの害悪そのもの、現実世界にとっての敵、諸悪の根源じゃないですか? 世紀の大ベストセラー小説、旧約聖書さえ存在しなければ今ごろ自然科学はもっと発展していたでしょうし、物語さえなければ宗教戦争は起こり得ませんよね。
さらに小説好きの母親のことを「小説に思考を侵されたかわいそうな人」と言い、読みたい小説があれば、あらすじとオチだけネットで調べて時間を節約したらいいとか言う。
(この「時間の節約」も最近のトレンドだよね。
ファスト映画なんてものが一時期問題視されていたが、あれに通じるものがある。
映画を倍速で観たり、長編の物語の内容をまとめた記事を読むなんてことは、物語の冒瀆にしか思えない(あくまで個人の感想です)のだが。
多分、人々はやりたいことが多すぎて、娯楽をなるべく短時間で得たいという欲求が働いているんじゃないかな?)
その娘は『女性徒』を礼賛している。
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。
こんな冒頭。
すごく特徴的なのは「読点」の多さ。
娘はこの読点まみれの文章を読んでいると、脳がいつもと違う速度で動くのを感じるという。娘はこうも休み休み、点、点、点と区切りながらものごとを考えたりしないからだそうだ。娘の頭の中には読点などないのだ。言葉は途切れることなく流れて一瞬も止まらない。そう言っている。
(インフルエンサーと呼ばれる人たちは確かにみんな早口だ。さっきの「時間の節約」の話に通じることかもしれないが、そういう人たちは短い時間でなるべく多くの情報を伝える傾向にある。たとえば、最近見ないがあのメンタリストもうそうだし、フランスに住んでいる2chの開設者もそうだ。みんな早口だ。彼らの思考はよどみなく、すいすい流れているのだろう、きっと)
娘は『女性徒』の語り手の読点まみれの文章を読んでいると、自分とは別の思考回路をもった女の子が頭の中に入り込んできて、自分を乗っ取っていく感じがすると言っている。
この感覚が、面白い。
きっと、この読点の多さは思考のブレーキを表しているんじゃないだろうか?
のべつ幕なしに語られるのではなく、語られる中にあえて隙間をつくり、そこに想像の余地を生み出しているのではないだろうか?
さっきインフルエンサーは早口といった話をしたが、彼らの話し方には隙間がない。隙間がないということは相手に想像の余地を許さないということだ。あれこれ想像させないということは、インフルエンサーの話す言葉をそのままそっくり信じさせるということである。そして、インフルエンサーの言葉を礼賛し、彼らの意見を自分の意見として掲げる。「あなたの言う通りです!」と、思考停止人間になる。
だが、『女性徒』の語り手の語り方はそうではない。読み手にいろんな想像を許す。そして、その語りは娘の話し方にも影響を与える。それが本作の希望の見えるラストにもつながっているのだが……。
「想像」と対極をなす言葉は何だろう?
きっと「現実」だと思うんだけど、私はあえて「実用」だと言いたい。
教育分野でもない門外漢の人間が古典不要論を掲げ、実用性のある学びをすべきとか言っていたり、文部科学省もなんか無理に共通テストに実用性を取り入れようと、数学で無意味な対話文をねじ込んできたり、何かと「実用」を重視するようになった。
しかし、「実用」的なものばかりを学んでどうなるんだ? と思わざるを得ない。
税金について学ぶ、保険について学ぶ、投資について学ぶ。
どれもこれも「知識」ばかりが要求させるものである。
なんだか心が貧しくなっていきそうだ、というのが個人的な感想。
実用的なものを求め続ければ、「伝統」なるものをいつか失ってしまうと思う。
初詣にしても七夕にしても、「願いごとをする」という行為自体が科学的根拠に基づかない、何の効能もないということなんてわかりきっていることだが、だからといって「実用」という観点にのっとってそれらを廃止していくというのは蛮行だろう。
それと同じように学校現場から実用でないものを排していくという行為はそれと同じくらい野蛮なことだと、私は感じている。
『schoolgirl』の娘は小説の話をする母にこんなことを言う。
「お母さん、今は、小説の話なんかしてる場合じゃないんだよ。なんでニュースを見ないの? 自分には関係ないと思っているから? どうしてそんなに世の中に対して無責任でいられるの? お母さんは、たとえ明日から戦争が始まるっていう日でも、そうやって小説の話をするつもりなの? 本当にそれでいいと思っているならお母さんはおかしいよ、お母さんは、本当に、それで」
世界の裏側では今日を生きられるのがやっとな人たちがたくさんいるというのに、私たちは平和を享楽している。
確かにそうだ。
だからといって、今のんきに過ごしている私たちはひどい現実から目を反らすなと言われる立場にあるのだろうか?
たくさん水を飲めば、水もろくに飲めない人たちもいるんだぞって言われる。
たくさんご飯を食べれば、何億との動物の命を犠牲にしているんだぞって注意される。
たくさんプリントをコピーしたら、森林破壊の現実を突きつけられる。
これは正しい指摘なのだろうか?
私たちは常に世界の抱える問題に注目して、我がごととして向き合い続けなければいけないのか?
そりゃ、世界に起きている諸問題に対して、我関せずという態度はよくないのかもしれないが、日々生きる中で、そういった問題を忘れて過ごしてしまうことはよくある。
だって、そういった大きな問題よりも、自分に降り注ぐ問題の方が大事だ。
最後に娘は改心というか、少し考えを改めるようになって、
世界にはもっと解決しなければいけない問題が山積みで、貧困や、飢餓や、強制労働から救わなければいけない人たちが何百万人というのに、最終的には私だって、自分のとったひとりのお母さんのほうがよっぽど心配で大事だ。
だと言うようになる。
見知らぬ人五人が殺されるか、自分の愛する人が殺されるか、天秤にかけられたとき、人は間違いなく、自分の愛する人を救うだろう。
ここに功利主義もくそもない。
最終的に働くのはエゴイスティックな心だ。
結局、人間は論理的ではないのかもしれない。
つい最近、朝井リョウの『どうしても生きてる』の「健やかな論理」を読んだからこそすごく思う。「健やかな論理」にこんなフレーズがある。
発生した原因に悪意の欠片も過去もトラウマも何もない、人を傷つける言葉。恵まれない子どもたちのために学校を建てたその手で握る性器やナイフ。
健やかな論理から外れた場所に佇む解しか当てはまらない世界の方程式は、沢山ある。
(朝井リョウは純文学でもいけそうな文章表現、感覚を持っていると思う。)
『schoolgirl』の娘のように、俗に言う「~しないといけない」といった使命感をもった人たちは「健やかな論理」を持ちすぎているし、それに縛られている気がする。
環境破壊が進んでいるから~しないといけない。
貧困な子どもたちが多くいるから~しないといけない。
世界にはらむ多くの社会問題に首を突っ込んでいき、そのたびに嘆き、何とかしないといけないと言い続ける。
すると、不思議と、自分が徳の高い、やさしい人間になった感じがして、そんな自分に陶酔する。
これ、ミスチルの「彩り」のフレーズにもあったよね(省略)。
でも、ほんとうに大事にしないといけないのは何か?
世界に山積する問題はきっとこれからも解決されないままだろう。
そう考えると、じゃあ、社会の問題に対峙し、なんとかしないといけないと考える自分ってなんなんだろう?
今、この瞬間には何の意味があるんだろう
『schoolgirl』の娘はそんな疑問にぶつかった。
その解決策は自分で見つけていて、それが
頭の中からできるだけ自分をなくす
という方法だ。
まず、自分じゃない誰かをひとり、集中して想像してみるんです。そして、その人は必ず、文章を書いている人、っていうのが大事なポイントで。どんな文章でもいいの、日記でもいいし、物語を書く、小説家みたいな人でも、なんでも、好きにしていいですよ、何かを書いてさえいれば。その人が、寒い雨の日に部屋の机の上で、それか混み合うカフェの席で、揺れる電車の中で知らない他人に囲まれて、ペンを持って、キーボードを叩いて、スマートフォンを握る片手で、文章を書いている。とにかくそういうふうに、強く、目の奥が痺れるくらいに強く強く、イメージし、次はこう考えるんです。私は、この私の意識を持った私は、その誰かによって書かれる文章の、登場人物なんだというふうに。私の心とか、体とか、そういうものは全部その人によって、書かれていくんだと。
娘の考えにはずいぶんと想像力が働いている。
まるで夢想家のように。
ずっと、読点のない、のべつ幕なしに社会問題を語っていた娘が、ついに想像力を駆使するようになったのだ。
これは現実逃避ではないと思う。
世界は論理的に破綻している。
そんな世界を生きるために必要なのは「~すべき」「~でしかない」「明らかに~」といった断定表現ではなく、「確かな自分を形作る」行為ではないか。
「確かな自分」というのは私の発想である。
(自分をなくすことで確かな自分に気づくということ!)
人と話すことで得られる安堵感、楽しいことに巡り会えた幸福感、人と衝突して感じた嫌悪感。そんな日常の中で得られるさまざまな感情。この積み重ねこそが自分を形作るものであると思う。ニュースを見て、本を読んで、得られる「~しないといけない」という思いは、きっと自分の器には見合っていない。だって、貧困や飢餓、環境破壊、どのニュースよりも、身近な人の身に起きた不幸の方が大きなニュースだから。
だから、等身大の自分を生きられたらいい。
それが自分を生きることであると思う。
気張って生きる必要はない。
でも、きっと、誰かによってこの考え方は「無責任」だと言われる。