大江健三郎『個人的な体験』

 大江健三郎『個人的な体験』を読んでまず思ったのは、意外にも少年漫画的だなといったものだった。少年漫画的というのは、あくまで私の直感による曖昧な比喩表現にすぎない。だが、「文学」っぽくはなかったのだ。いや、もちろん、大江健三郎ノーベル文学賞を受賞しているほどの大文豪だ。しかし、『個人的な体験』に関しては(といっても、大江氏の小説はこれで初めてだ)、「文学」っぽくないと感じたのだ。

 調べてみると、三島由紀夫がこんなことを言っている。

「暗いシナリオに『明るい未来を与えなくちゃいかんよ』と命令する映画社会の重役みたいなものが氏の心に住んでいるのではあるまいか? これはもっと強烈な自由を求めながら実は主人持ちの文学ではないだろうか?」

 さらに三島は『個人的な体験』を芸術小説ではなく道徳小説と捉えた。

 自分がうまく言語化できないことを文豪はたやすく言葉にしてくれる。そこにしびれる、憧れる。

 正直、『個人的な体験』の結末はあまりに普通だ。今から恐ろしいものを見せてやるぞと引っ張っておいて、いざ幕を開けば使い古されたようなハッピーエンド。大衆小説でありがちなラスト。

 私はこの小説を読んで、かなりゾクゾクしたものだ。鳥(バード)と火見子の非道徳さに狂気を垣間見、ヘドロのようなドロドロとした深甚な恐怖に溺れる鳥の感情に戦慄し、火見子の性的冒険家の姿に一種の嫌悪感を抱きながらも寂莫としたものを見出し、鳥の妻の健気さに同情した。その登場人物たちの歪みを大江氏はどう処理していくのか、とページを捲った。それだけに、期待していただけに、「あっさり」とした突然のハッピーな結末は私に倦怠感をもたらしたのだ。

 とはいえ、私は、村上龍の描く登場人物のように闇の中で全力で駆け希望の光を非道徳的な方法で見つけ出すといったスタイルや、中村文則の描く登場人物のように暗澹とした感情の中で切なげな光の粒を拾い上げるといったスタイルで、《希望》を見出す事こそが文学だ、と勝手に思っていたこともあり、『個人的な体験』で見られる直接的な《希望》の書かれ方はある意味新鮮だった。これでいいのか、と不安を覚えつつも、これでいいんだな、と妙な安堵感を味わった。

「鳥は、獅子奮迅の活躍でした」と言う義母。

「きみは今度の不幸をよく正面からうけとめて戦ったね」と鳥を褒める教授。

    だが、やはり痛痒感はある。

 紙幅のほとんどを、畸形なかたちで生まれた赤ん坊への恐怖に囚われ、赤ん坊を見殺しにしてしまおうという非道徳的な考えの坩堝の中へ沈んだ鳥の内面の苦痛を描いていたのに、鳥がその苦痛に打ち勝つシーン(苦痛に打ち勝とうと決断したシーンはある)は丸々カットだし、畸形の赤ん坊は手術が成功して普通の赤ん坊になった。……いや、これでいいのか? また、不安を覚える。

 まあ、ともあれ、鳥にしても赤ん坊にしてもハッピーエンドを迎えたんだ。少年漫画的に言えば、「失敗したが、最終的に勝利を得た」んだ。これは祝福に値する。おめでとう。

 ただ、ふと火見子の長い長い長い台詞を思い出した。

「わたしたちがここで話しあっているでしょう、鳥。わたしたちには、まずこの現実世界が、ひとつあるわけね」と火見子は話しはじめた、鳥は新しくウイスキーを注いだグラスを子供のオモチャのように大切に掌にのせて聴き役にまわった。「ところで、わたしやあなたが、まったく異なった存在としてふくまれている、こことは別の、数しれない他の宇宙があるのよ、鳥。わたしたちは過去の様ざまな時に、自分が生きるか死ぬかが、フィフティ・フィフティだった思い出をもっているわね。たとえばわたしは子供の時分に発疹チフスで、すんでのことで死ぬところだったわ。わたしは自分が死にむかって降るか、それとも回復への坂道をのぼるかのインター・チェンジに立った瞬間のことをはっきりおぼえているのよ。そしていま現に、あなたとおなじこの宇宙にいるわたしは生きかえる方向を選んだわけ。ところがあの瞬間に、もうひとりのわたしが死を選んだのよ。そしてその赤い発疹だらけのわたしの幼ない死体の周りには、死んでしまったわたしについてわずかな思い出をもつ人たちの宇宙が、進行しはじめたわけ。ねえ、鳥? 死と生の分岐点に立つたびに、人間は、かれが死んでしまい、かれと無関係になる宇宙と、かれがなお生きつづけ関係をたもちつづける宇宙の、ふたつの宇宙を前にするのよ。そして服を脱ぎすてるみたいにかれは、自分が死者としてしか存在しない宇宙を後に放棄して、かれが生きつづける側の宇宙にやってくるのね。そこで、ひとりの人間をめぐって、ちょうど樹木の幹から枝や葉が分れるように様ざまな宇宙がとびだしてゆくことになるわ。わたしの夫が自殺した時も、そのような、宇宙の細胞分裂があったのよ。このわたしは、夫が死んでしまう側の宇宙に残されたけれども、夫が自殺しないで生きつづける向うがわの宇宙には、もうひとりのわたしがかれと一緒に暮しているんだわ。(後略)」

 これは火見子による多元的な宇宙という考えである。赤ん坊の死を鳥にあまり悲観的にならないようにと慰める意味で、彼女はこれほどの長い(後略以降もまだけっこう続く)台詞を放った。この多元的な宇宙という考え方は、「最後の死はどこにあるのか?」という問いによって崩されるに違いないものだが、火見子はそれをきれいに躱している。

 この火見子の台詞から私は考えた。もしかすると別な宇宙では赤ん坊は畸形の身体のまま死んでしまっていただろうが、作中の世界ではそれから免れたというか、大江氏が意図的に赤ん坊(と鳥)が救済される宇宙を用意したのではないか。シェイクスピアという劇作家が用意した舞台で演じるあらゆるキャラクターたちと、『個人的な体験』のラストの明るすぎで前向きな医者、義父母、鳥がふと二重写しされた感じがしたのは、もしかすると大江氏という文豪によって彼らは傀儡されていたということなのかもしれない。だとすると、これは《救済》の文学ではなく、超越的な存在(運命とか)でなくては世界はいい方向には動かせないというある意味不条理的な小説だったのではないかと考えたりもする。だが、今ちらっとあとがきを読んだ。すると、そこで大江氏自身が鳥の成長譚だとはっきり言っていた。ああ、そうか。じゃあ、私の愚考はさっさとどぶ川に捨てておくれ。

 

【参考文献】

・鈴木恵美「大江健三郎『個人的な体験』論――「赤んぼう」と《救済》(国文目白(52), 198-205,2013 2月)

 

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

  • 作者:大江 健三郎
  • 発売日: 1981/02/27
  • メディア: ペーパーバック