吉本ばなな『TSUGUMI』
つぐみ。
意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢いつぐみ。
彼女は病弱である。
病弱なキャラクターとは思えないほど、つぐみは自由気ままだし天真爛漫である。
だから、つぐみが病弱であるということを忘れてしまいそうになる。
最後まで読んで、感動した。
感動したって言っても別に涙を流したわけではないけど、ジーンとした。
今回、別に『TSUGUMI』について感想を書こうというわけじゃない。
つぐみの次の台詞に、心を打たれたのだ。
書かねばならぬという使命感に駆られたのだ。
「(前略)食うものが本当になくなった時、あたしは平気でポチ(=犬の名前。つぐみの家の近くに住んでいた田中さんという家の犬)を殺して食えるような奴になりたい。もちろん、あとでそっと泣いたり、みんなのためにありがとう、ごめんねと墓を作ってやったり、骨のひとかけらをペンダントにしてずっと持ってたり、そんな半端な奴のことじゃなくて、できることなら後悔も、良心の呵責もなく、本当に平然として『ポチはうまかった』と言って笑えるような奴になりたい。(後略)」
つぐみの内実が語られている。
ほかにも、いつも自由奔放に振舞う彼女がふいに見せる〈弱さ〉が描写されているシーンはいくつかある。
前に挙げたつぐみの台詞も彼女の〈弱さ〉を見せたシーンの一つだと思う。
前の台詞から、つぐみは、決して心のないような、薄情な人間ではないことがわかる。
しかし、社会というものは、薄情な人間の方が生きやすいものだ。
情なんてものが、その人の手かせ足かせになってしまうことが多々ある。
食うものがなくなった状況下で、可愛がってきた犬が眼前に現れた場合、サイコパスでもなければその犬を食べようという気にはならない。なかには泣く泣くその犬を食べるという決断を下す者もいるだろうが、罪悪感を抱えるものである。
しかし、目の前に今まで自分が可愛がってきた犬があらわれ、それを躊躇なく食べることができる人間がいれば、傍から見ればドン引きものだが、その人からすれば気持ち的に何の葛藤も悲しみもないため、苦しさなんぞいっさい感じないのだろう。
私はあれこれ気にする人間だ。
人の目を気にする。人の顔色をうかがう。被害妄想も激しく、加害妄想も激しい。
だから、厚顔無恥に振舞える人間が羨ましかったりする。
さすがに犬を食って、うまかったと言えるようなメンタリティの人間に憧憬は抱かないが、機嫌の悪いひとに容赦なく話しかけることができるような人間にはなりたい。
(しかし、それは一歩間違えれば、衆目が集まる場で迷惑行為をしても何とも思わない人間にもなり得るのであって、それはそれで社会的に批判の対象になるのだが……。)
つぐみがちょうど、
「わけわかんない奴。いつもまわりにどこかなじめないし、自分でも何だかわかんない自分をとめられず、どこへ行きつくかもわかんない、それでもきっと正しいっていうのがいいな」
と、言うように、
私も、そんな人間だったらよかったと思う。
そんなことを思ったのは……きっと、夜のせい。