スーザン・ケイン『内向型人間のすごい力』
私は内向型人間だ。
これは間違いない。
あまり友人は多くない。
休日出かけることも少ないし、自分から誰か誘うってことも少ない。
そんな自分に嫌気が差すことがよくあるのだが、その理由は社会が外向型人間向けにつくられているからだろう。
だから、内向型人間である私は、外向型でないことに負い目を感じているのだ。
さて、今回はスーザン・ケイン『内向型人間のすごい力』を紹介する。
まず、スーザン・ケインのスピーチの動画を見ていただきたい。
大人数を前に物おじすることなく滔々と話す彼女は、なんと内向型人間であるそうだ。
我々は欧米人は外向型(陽気)で、日本人は内向型(謙虚)といったイメージを持っているかもしれないが、実際、内向型なアメリカ人もいるし、外向的な日本人もいる。
スーザン・ケインもその内向型のアメリカ人の一員である。
今回は本書に書かれてあった事柄をざっくりと紹介していく。
1.外向型社会
前にも述べたが、この社会は外向型人間向けにつくられている。
就職活動なんて最たるものだ。
ハキハキとした声で自分をアピールする。そして、そのアピールの内容も、一人で成し遂げたことよりも、チームとして成し遂げたことを重視する。内向型人間ではなく、外向型人間を採用しようとする。
また、グループディスカッションに関しては、内向型人間は自分の意見があったとしてもなかなか言い出せなかったりする。たとえ、言えたとしても、声のでかい雄弁タイプのメンバーに掻き消されてしまうだろう。どれだけ内向型人間の意見が鋭いものだったとしても、なぜか最終的にその人の意見はよく判らないものといったふうになってしまうことだってあるだろう。
本書ではカリスマ的リーダーシップを神話と呼んでいる。自信たっぷりで、雄弁で、底抜けに明るいリーダー。そんな外向型リーダーこそ、理想的だといえるのか? そんな疑問に対し、本書は「否」と声をあげている。
物静か・控え目・無口・内気・寛大・温厚・でしゃばらない・良識的
優良企業のCEOは以上のような傾向があったそうだ。
つまりは、「内向型人間」である。
アダム・グラント教授(ペンシルヴェニア大学のビジネススクールの教授)はある仮説を立てた。
外向型リーダーは部下が受動的なタイプであるときに集団のパフォーマンスを向上させ、内向型リーダーは部下がイニシアチブをとる能動的なタイプであるときにより効果的だ。
内向型リーダーは能動的な人間を導くのが非常に得意なのだそうだ。
他人の話に耳を傾け、社会的地位の独占にこだわらない傾向ゆえに、内向型リーダーは助言を受け入れやすい。対して、外向型リーダーは自分のやり方にこだわりを持つあまり、他人の名案に耳を貸さず、チームのメンバーを受け身に陥れる傾向があったそうだ。良く言えば、外向型リーダーは他人を鼓舞する能力を発揮して、受動的な人々から結果を引き出すのがうまい。
とはいえ、リーダーシップを自信と迅速な決断に重きに置くことは首肯できる。積極的な人間が決定権を持つことは、他人に影響力を行使するのが仕事であるリーダーにとっては有用なスキルであるからだ。
だが、本書では「そういった真実を重要視しすぎてはいけない」とある。
実際に、多くの優良企業のCEOには「物静かで、謙虚な」スタイルのリーダーなのだから。
2.共同作業の幻想
さて、今まで私はアクティブラーニング(以下、AL)についていろいろ書いてきた。
ある時は、その活動を絶賛し、ある時は、その活動は「幻想」と批判した。
どっちが自分の意見なんだい?
そう言われそうだが、実際のところ、私は「否定的」な立場にいる。
学習指導要領では「AL」が薦められているし、受動的な学校教育のイメージを打破するために「AL」は積極的に推し進められるべきだと思っていたから、私は「対話的で主体的な深い学び」を重要な課題だと考えた。
だが、どうしても手放しで「AL」に賛同の意を示すことができずにいたのは、そういったオープンな活動に乗り気ではない生徒のことが気にかかっていたからだ。
私自身、グループ活動は嫌いだった。
声の大きいリーダーがグループを引っ張り、私は雰囲気にのまれて意見することができず、結局、グループの総意はそのリーダーによる意見にまとまる。
また、緊張して意見も言えなかったというのももうひとつの理由だ。議題が難しいとき、これは馬鹿げた意見だろうか? と不安に思って、いつも沈黙を貫いていた。
本書では「共同作業が創造性を殺す」といった禍々しいことが書かれている。
そもそも内向型は創造性に富んでいる。それも単独作業を好み、孤独は革新の触媒となりうるからだ。当面の課題に意識を集中させ、仕事と関係のない人間関係や性的な問題にエネルギーを浪費することを避ける。だから、集団での活動は向いていないというか、内向型から創造性を奪わないためにもしない方がいいのだ。
だが、現在、学校でも職場でも、集団活動が多くなされている(筆者はその活動を「新集団思考」と呼んでいる)。この現象は職場で生産性を閉塞させ、競争が激化する社会ですばらしい成果を得るために必要になるスキルを、学校へ通う子供たちから奪ってしまう。
それなのに「協同学習はビジネス社会の状況を反映しています。ビジネス社会では独創性や洞察力ではなく言語能力が評価の基盤になっています。上手にしゃべれて、注目を集められる人間でなくてはならないのです。真価以外のなにかにもとづいたエリート主義ですね」とか、「最近ではビジネスの世界がグループ単位で動いているので、子供たちも学校でそれに慣れなければならないのです」とか言われる。
単独作業が好きな内向型の生徒に「グループに調和させる」ことは果たして善意なのだろうか?
集団にうまく調和したいと願う人間がいる一方で、ひとりでいたいと願う人間がいることを忘れてはいけない。
本書ではブレーンストーミングすらも科学的には効果はないと言っている。
能力とやる気がある人々には、創造性と効率が最優先で求められる場合には単独作業をするよう勧めるべきだ、という。
とにかく、集団作業を過大評価して、個人による思考を軽視していることに、筆者は疑問を抱いている。
私も教師でありながら、「集団に溶け込む生徒」を良しとし、「集団に入らない生徒」を駄目とする風潮が嫌いだ。後者の生徒が将来的に成功することだってあるだろう。
と、さんざん集団活動の悪口のようなものが述べられてきたが、結論から言うと「集団活動」も大事であるそうだ。つまり、内向型と外向型の共生関係を積極的に追求すべきなのだ。
たとえば、とある企業では従来の外向型向けの人口密度の高い狭いオフィスではなく、内向型向けの「静けさ」のある「静粛ゾーン」「カジュアルなミーティングエリア」「カフェ」「読書室」「他人の仕事を邪魔せずに社員どうしが気軽に会話できるよう〈ストリート〉」といったものが設備されているところもあるそうだ。
こういった多様化された職場環境は内向型も外向型も恩恵を享けるのだという。
3.内向型は外向型になれる
結論から述べると、実は内向型は外向型になれるのだ。
自分が重要視する仕事、愛情を感じている人々、高く評価している事物のためならば、内向型の人は外向型のようにふるまえるのだ。
このことを筆者は「自由特性理論」と呼んでいる。
内向型の夫が愛する外向型の妻の為にサプライズパーティーを仕掛けたり、娘の学校でPTAの役員になったりするのは、この自由特性理論で説明がつく。
よくおとなしい人が、自分の好きなジャンルの話になれば、急に饒舌になるのもこの理論によるものだ。
(よく揶揄されるオタクだが、彼らは普段無口であっても、アニメとかゲームとか鉄道の話になれば、雄弁家になる)
前に紹介した「繊細さん」に似ているのだが、内向型人間が外向型にふるまったあとに「自分の回復する場所」を確保する必要があるのだそうだ。
内向型人間がいかに心から大切に思っている仕事を進めるためにしても外向型に振舞い続けていれば、それでストレスに押しつぶされてしまい、楽しいと感じられることすらも楽しいと感じられなくなってしまう。非常に危険な状態である。
だから、外向型にふるまったあとは、「自分を回復する場所」が必要になるのだ。
ひとりで読書する時間をつくるとか、ひとりでゲームする時間とか、そんな孤独な時間を用意すべきなんだろう。
4.内向型の特性
内向型はしゃべらないというイメージが強いが、実際のところ、セールスは外向型よりも内向型の方が得意だという。
とある実験がある。
五十二人の若い女性(内向型と外向型おのおの二十六人)を集め、ペアを組んで会話させる。各被験者は最初に自分と同じ性格型の相手と十分間会話してから、自分とは反対の性格型の相手と十分間会話した。それらの会話を録音して、調べてみた結果、内向型が外向型と同じくらいしゃべることがわかった。
さらに、外向型が軽い話題を選択するのに対し、内向型は学校や仕事や友情など、人生の問題や葛藤について話すことが多かった。おそらくそうした問題について話すことが多かったせいだろうが、彼女らは相談相手の立場をとる傾向があり、話題にのぼった問題についてたがいに助言した。
内向型人間には思いやりがあって、観察力が優れていて、思慮深い、そんな長所を持っている。こういった特性を考えれば、相手に優しく接せられるのは首肯できるだろう。
外向型と内向型が共存する世界。
彼らは各々の特性を理解すべきであろう。
外向型は内向型を理解できない。
それではいけない。
外向型は自分の考えの枠に内向型をあてはめようとする。
たいていの内向型はおとなしいので、外向型の言いなりになる。
これは非常に残酷なことになる。
もちろん、内向型が外向型を理解できないのもまずい。
双方、各々の特性を理解すべきなのだ。
本書では最後に、内向型の特性を磨く方法が書かれてあった。
内向型の子供のためにできること、それは「新しい体験に対応するのを助けてやることだ」。内向型は初対面の人に会ったり、知らない場所へ行ったり、はじめてのことをしたりする際に大きく動揺するものだ。
それは人間との接触を恐れているのではなく、目新しさや過度な刺激によって不安を感じているのだ。
大切なのは、新しい人や環境に子供をゆっくり慣らしていくことだ。
子どもの限界に納得がいかなくても、尊重すること。
過保護になることなく、背中を押すことなく、子供に自信を持たせるためにも、子供のペースに任せるべきなのである。
泳げない子供を無理やり海に入れたところで、その子に大きなトラウマを植え付けるほか何の意味もないように、怖がる気持ちに共感を示し、膝まで浸けるところから始める、それでいいのだ。急ぐ必要はない。ゆっくり進歩させていくのだ。
また、内向型の子供に無理に友達をつくらせる必要もない。
むしろ、少人数でいい。
専門家は、一人か二人くらいのしっかりした友情は子供の感情的・社会的発育にとって非常に重要だが、人気者である必要はないと言っている。内向型の子供の多くは、成長すればすばらしい社会技能を身につける。ただし、彼らなりのやり方で集団と関わるので、うちとけるのに時間がかかったり、短期間しかつきあわなかったりする。それはそれでいい。社会技能を身につけたり、友達をつくったりする必要はあるが、なにも学校で一番社交的な子供になる必要はない。だから、人気者になってほしいという過度な期待は子供にかけるべきではないのだ。
5.自分のこと
最後に、私について語る。
私は内向型人間である。
過去に自分は内向型だから、目立つようなことはしたくなかった。
だが、(これはアンビバレントというやつだろうか?)文化祭で体育館の舞台上に上がって劇をする同級生の姿を見て、羨ましく思ったこともある。
外向型への羨望。
いや、羨望という名の、外向型が評価される社会がもたらした劣等感。
私は本書を読んで、安心した。
内向型でいいんだ、と思った。
大学で「私、学生時代友人は二人くらいでしたが、それでも別にいいんだと思います」みたいなことを言っていた教授がいたが、私はそれを聞いて、妙に嬉しく思った記憶がある。
また、「LINEの友達の人数は三桁で、先週はこんなことをして、昨日はこんなことをして……」みたいに言う人の話を聞いて、羨望(という名の劣等感)を覚えたものだった。
私は内向型なんだから無理して外向型になる必要なんてないんだ、と自信を得た気がする。
私は教師だ。
だったら、内向型であるからこそ内向型である生徒を理解するよう努めればいいじゃないか。
多分だが、「私は学生時代遊び回っていて……」という話よりも、「私は学生時代、友人と呼べる人が数人で、暗い日々を送っていた……」という話の方が、内向型生徒にとっては興味を持つだろうし、関心を得るだろう。
本書は約450ページもあって、なかなかボリューミーだ。
やや冗長だなと思える部分もあったが、金言のようにキリリと光る言葉の連続に、私は感銘を受けた。
内向型のすごいパワーを誇りに思い、私はブログを書き終える。