平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
平野啓一郎氏の提唱した分人主義について語っていきたいと思う。
実はどこの出版社だったか忘れたが、この分人主義について取り上げていた国語の教科書もあって、世間に浸透しつつあるのかな、とか、認められつつあるのかな、とか思っている。
①私とは?
「私」という存在とは別に「私ではない私」が複数いるという感覚、ある?
それはしばしば仮面とかキャラとかいう名前がつけられる。
しかし、それは違和感のあることだと平野氏は言っている。
高校内で自分のクラスにいるときは友だちも多くいて明るくなれるが、選択の授業とかで友だちがいないクラスでは暗い。
この場合、どっちがほんとうの私だと言えるか?
多くの人は「明るいときの自分」こそほんとうの自分だと言いそうである。
しかし、実際問題、明るいときの自分と暗いときの自分ってすみわけをさせているのかと尋ねられれば、そうではないと言えるだろう。
わざわざ陽気モードと陰気モードを切り替えているわけではない。
ならば、どっちも「ほんとうの自分」ではないか?
ようは相手次第で自然とさまざまな自分になる。
そもそも友だち同士と話すノリを教師や店員などと話す場で持ち込むのはよくないし(実際には多くいるのだが)、後輩と話すときと先輩と話すときではやはり違った話し方になる。しかし、それはいたって自然なことなのだ。コミュニケーションが成立するための必須事項なのだ。
だからこそ、人間は決して唯一無二の「個人(individual)」ではなく、「分人(dividual)」だと平野氏は言っているのだ。
よく表の顔とか裏の顔とか言うが、そもそも相手との相互作用によって「自分」は決まる。外面はいいけど、内面はすごい悪い。そんな人はいるが、それは自分の悪い部分を見せられる相手と、見せられない相手がいるだけにすぎない。これはまさに相手との相互作用の中で分人が生じているのだ。
よく「ほんとうの自分」を求めるひともいる。
しかし、分人はすべて「ほんとうの自分」である。
たったひとつだけの「ほんとうの自分」なんてない。幻想なのだ。
②個性とは?
個性とは、ひとりひとりの個人の特徴的な性質のことだ。
教育現場でも、個性を伸ばせとか、個性的に生きろとか言われる。
しかし、実際のところ、同じ制服を着させられたり、校則で髪型が規定されたり、それを守らなければ叱られてしまう。
理不尽なことだろうか?
いや、そもそも個性とは違う制服を着ることとか違う髪型にするとかそんなことではなくて、ものの見方とか感じ方とか考え方のことを言っているのだ。
そして、その個性と職業とを結びつけることが「個性の尊重」なのである。
自分のしたい仕事をすることこそが個性的に生きる、という意味なのだ。
個性的な人間がいることは非常にいいことだ。
しかし、大事なことを忘れてはいけない。
いろいろな個性の人間がいるから、それを活かせるような多様な職業がつくられたわけではない。その逆だ。(手紙を届けるのが得意な人がいるから、郵便局がつくられたわけではないだろう。)
職業の多様性は、個性の多様性に比べてはるかに限定的である。
「職業選択の自由」という言葉があるが、これは「職業選択の義務」にほかならない。というのは、私たち社会は、必要に応じてさまざまに機能分化し、誰かがその役割を担わなければ、不都合だからだ。農業に向いている人は農業に従事し、営業に向いている人は営業をし、教員に向いている人は教鞭を振るった方がいいのだ。
(自分を高めるために、とか、短所を克服するために、とか、そういった理由で職業を選択するひとがいるが、冷静に考えると、会社にとってメリットはないし、社会にとってもメリットはない。自分の個性をぞんぶんに発揮できる仕事をやった方が何千倍も人の役に立つ。)
しかし、だからとって「個性を発揮できる」仕事が何か自分でもわからない。
そして、自分とは何か? と考え、アイデンティティクライシスに突入する。
アイデンティティが不安だと、確固たる「ほんとうの自分」を追い求めようとする。
ただ、前にも記述したが「ほんとうの自分」などない。
「ほんとうの自分」は幻想である。そして、「分人」そのものである。
さて、「個性」を「分人」という言葉を用いて説明する。
個性とは、分人の構成比率のことだ。
誰とどうつきあっているかで、自分の中の分人の構成比率は変化する。その総体が、自分の個性となる。十年前の自分と、今の自分が違うのは、周囲の環境であったり、友人関係であったり、それらが影響し、分人の構成比率に変化をもたらしたのだ。そのため、個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。
これを利用すれば、人間はいつだって変われるということだ。
今の決断力のないひ弱な自分が嫌いなら、あえて環境を変えたり、友人関係を変えることで、自分を変えればいい。なかなか難しいことだが、理論上は可能である。
また、いじめや虐待を受けることで心に深い傷を負っているひとは、新しくあうひとに対しても「自分は愛されない人間だから」と思うことがあるが、「愛されない自分」と本質規定してはならない。なぜなら、いじめや虐待を受けた自分は、その相手との分人であって、一度区別して考えるべきだからである。
人格はひとつしかない、という考えを持つことで泥沼に沈んでしまうことがしばしばあるのだ。
③分人って?
私たちはあらゆる人格で、人生のあらゆる局面で、本音を語り合ったり、相手の言動に心を動かされ、考え込んだり、決断を下したりしてきた。そこに関わる複数の人格は、私たちの人生を築き上げたということだ。
つまり、それら複数の人格は、すべて「ほんとうの自分」にほかならない。
何度も言うが、その複数の人格こそ「分人」である。
そして、その「人格」は、コミュニケーションの反復を通じて形成される。
では、その「人格」の形成の流れについて紹介しよう。
・社会的な分人
ひとは初対面の相手に対して、まず簡単な自己紹介をして、当たり障りのない会話をする。たとえば、天気とかスポーツとか芸能ニュースとかそんな話題。多くの人が関心を共有できる話題。ここでは、これから互いに、相手に向けて分人化してゆくうえで、その方向性が手探りされている。
この最初の段階を「社会的な分人」と呼ぶ。(不特定多数のひととコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人で、日常生活の多くの場面で生きている未分化な状態)
・グループ向けの分人
社会的な分人の次の段階は、特定のグループに向けた分人だ。
一般的に人間関係は組織や集団を介して広がっていく。その場合、学校や会社、サークルといったグループ向けの分人が求められる。会社・学校のような公的な帰属先、渋谷でたむろするギャル男・ギャル界隈、5チャンネルなどのインターネットの匿名掲示板、そのなかでの話し方や独特な用語があったりする。
集団との反復的な関わりから、分人が育つ。
(Twitterで見られる「草」とか「ンゴ」とか、ネット内で言っているならまだいいが、現実世界で言っているひとを見ると忌避感を覚えるのだが、これはきっとグループごとに分人があるのに、その場にふさわしくない分人が顔を表していることを意味するのだろう)
・特定の相手に向けた分人
社会的な分人、グループ向けの分人を経て、最終段階。
長い付き合いで、お互いやりとりを交わしていくと、共に思考のクセとかテンポとかもわかってくる。いわゆる「親友」と呼ばれる存在ができたとき、「分人」が完成する。
(ごく短時間のうちにその分人化が成功することもあるそうだ)
いろんな人格を備えていることに嘆息してはならない。
そもそも私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っているのだ。会社での分人が不調であっても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。
また、人間とは、たった一度しかない人生の中で、できればいろんな人生を生きたいと思っている。できればいろんな自分を生きたいと思っている。対人関係を通じて、さまざまに変化しうる自分をエンジョイしたいと思っている。いつも同じ自分に監禁されているというのは、大きなストレスである(←わかる)。
だから、主人公の感情に移入してストーリーを疑似体験できる文学・アニメ・映画がもたらす力は非常に大きい。
④まとめ
本書を読むと、平野啓一郎氏の『ドーン』を無性に読みたくなった。
『ドーン』。名前だけ知っていた。たしか、オードリー若林も持っていたと思う。『決壊』の方だっけな? いや、たぶん『ドーン』だったはず。
ともかく、分人主義というのはなかなかいい考え方だ。
生きづらい日々を照らしてくれる希望のヒントとも言えそうだ。
ひとはしばしば「ほんとうの自分とは何か?」と思い悩むことがある。「自分は自分だ」と思える人はそれでいいが、沼にどっぷりはまってしまう人もいる。そういう人は「自分探しの旅」に出るとか言い出すはずだ。
就活前の自己分析がいけない。自分史を振り返ると、いろんな自分がいて、どれがほんとうの自分かわからなくなるからだ。だって、陰気なときもあれば、陽気になれるときもある。しかし、どちらも自分であり、どちらかが「ほんとうの自分」とかではないのだ。
そのとき相手にしているひとによって、ひとは変わる。これは表裏があるとかではなく、キャラを演じ分けているわけでもなく、自分の意識とは関係なく勝手に変化するものである。
また、個性とは「分人の構成比率」である。誰とどうつきあっているかで、自分の中の分人の構成比率は変化する。その総体が、自分の個性となる。
ならば、付き合うひと次第で「好きな自分」を築き上げることができるというわけだ。
最後に、教員として、「分人」を利用して、どう生徒に接するか、平野氏が述べていたので、それをそのまま引用する。
いい先生は、生徒一人一人に対して柔軟に分人化する。
グレた生徒とは、その生徒と最もうまくコミュニケーションが取れる分人となる。優等生とは、また違った分人で接する。そのことに、生徒が信頼を寄せる。
一方で悪い先生は、どの生徒に対しても、教師としての職業的な分人だけで接する姿が強調される。生徒というグループ向けの分人に留まっている。どんな生徒に対しても平等というのは、同じ顔で接する、ということではない。同じように相手の個性を尊重して分人化する、ということだ。
よく、人によって態度を変えると贔屓だとか言われるが、やはりひとりひとり異なる人間である以上、接し方というのは変えていくべきなのかもしれない。
また、「ほんとうの自分はどこにいるのか?」とアイデンティティクライシスに陥っていた生徒がいれば、私は「今まで自分の人生を築き上げてきた『自分』すべてが『ほんとうの自分』」と言いたい。気障っぽいけど。
そう言いたくなるほど私にとって、「分人」という概念は自分の中でしっくり来たのだ。