宮口幸治『どうしても頑張れない人たち』
あの『ケーキを切れない非行少年たち』の著書・宮口幸治氏が著した本。
『どうしても頑張れない人たち』
『ケーキを切れない非行少年たち』では、認知機能が弱く、感情統制ができず、融通が利かず、自分の評価が正確にできず、対人スキルが著しく低く、不器用な、そんな子たちが、頑張っても、結果が出ずに、むしろ周りから馬鹿にされ、そして非行に走ってしまう、そんな子どもたちについて書かれた本であった。
本書も『どうしても頑張れない人たち』というタイトルからわかるとおりに、そういった「頑張っても、結果が出ない」そんな子どもたちがクローズアップされている。
1.「頑張らなくていい」は本当か?
最近よく「頑張らなくていい」「頑張らない生き方」「もう我慢しなくていい」というキャッチコピーを耳にする。こういう言葉を聞いて、心が楽になる、みたいな声もある。私も「死ぬ気で頑張れ」と言われるよりは「もう頑張らなくていい」と言われる方がうれしい。
しかし、「頑張らなくていい」という声かけは、これまでいっぱい頑張ってきた人に対して、これ以上無理して頑張らなくていい、自ら犠牲にしてまで我慢して頑張らなくてもいい、という意味を込めて使われる。
だから、これまで何の努力もせずに頑張ろうとしないひとに「頑張らなくていい」と言ってしまうのは、何の意味もないことなのだ。むしろ、これから頑張るかもしれないという可能性をその子から奪いかねない。
(私はこの本を読んで、はっとさせられた。たしかに耳障りのいい「頑張らなくていい」という言葉を安易に使ってしまいそうなときがある。いや、使ったことがあるかもしれない。自分が言われて、心が楽になるなあと思って、よかれと思って、使いかねないのだが、確かに相手がめちゃくちゃ頑張っているのに、「頑張らなくていいよ」なんて言われたら、「せっかく頑張っているのに」とか思いかねないな)
「頑張らなくていい」という言葉以外にも「そのままでいいよ」という言葉の取り扱いにも注意だ。たとえば、不器用な子がいるとして、その子に「不器用なままでいいよ。みんなちがってみんないいんだから」などと言ってしまった場合、もし仮にその子が不器用なところを直そうと努力していたとしたら、その声かけはマイナスに働いてしまうだろう。
つまり、本人自身もそう希望する場合に限り、「そのままでいいよ」といった声掛けをするべきなのである。周りの大人が子どもの気持ちや可能性を確かめず、一方的にそう考えて、今できることすらさせなければ、子どもの可能性を潰し、障害を作りだしてしまう可能性もあるのだ。その被害者はまぎれもなく子どもたちである。
(安易な言葉かけには注意しないとな、と思いました。深く深くそう思いました)
子どもに過剰な負担をかけ、無理をさせてしまうのは避けなければいけない。
しかし、それは「頑張らせない」とは意味が違う。
生きる上で努力は必要である。
だから、「無理をさせる」と「頑張らせる」を取り違えてはいけないのだ。
- 「頑張らなくてもいいよ」「もう我慢しなくていいよ」とは十分に我慢して頑張ってきた人たちへの労りの言葉であり、まだ頑張っていない人への言葉かけではない。
2.頑張ってもできない人たち
頑張ったら支援する。
という何気ない言葉には、
頑張らなかったら支援しない。
という意味が隠されている。
そもそも頑張るとは何か。
仕事もせずにゲームにふけっている人は頑張っていないのだろうか?
世間的にはそうだろう。
いくらゲームがうまくても、頑張っていないと言われるのは、お金を稼いでいないからだ。
しかし、その人がプロゲーマーになったらどうだろうか?
今まで、頑張っていないと評価されていたのに、今まで、ゲームを頑張ってきたというふうに評価されるようになる。
(世の中結果だ。かのスティーブ・ジョブズは小学生のころ教師の椅子に爆薬をしかけたことがあるらしい。成功する人は昔から変わり者が多い、なんて言われている。しかし、もし犯罪者が、実はこの人小学生のころ、教師の椅子に爆薬をしかけたことがあると言われたら、きっとほとんどの人が「犯罪をするやつは昔からその兆候がある」などと言うことだろう。結局、結果なのである。結果次第で過去の評価も変わる。)
しかし、プロゲーマーになれるひとなんてほんの一握りの人間だ。
だから、たいていの人はゲームを頑張ってもプロゲーマーにはなれない。
つまり、頑張れることでは生活できない。
つまり、好きでないことをしなければならない。
つまり、やる気が出ない。
つまり、頑張れない。
こういった「〈頑張れない〉の悪循環」により、生きづらさが生まれる。
頑張れない人にとって、この社会はとても生きにくい世界である。
対して、頑張ってもできない子もいる。
(個人的にこの手の人が一番かわいそうである。教育困難校には真面目な生徒もいる。授業をきっちり聞いて、宿題もちゃんとやって来て、質問もしに来る、そんな学習に対して積極的な生徒。しかし、テストの点数(かなり易しい)は散々なものである。そういった人がやはり一番残酷である)
()内に「テストの点数は散々なものである」と記したが、よく人はこういった数値で「頑張った」「頑張っていない」を判断する。
テストの点数が高いと「頑張った」
テストの点数が低いと「頑張っていない」
()内でも述べたが、頑張ってもテストの点数が低い子はいる。
そういった子がまさに「いくら頑張ってもできない子」なのだ。
そういった子は、見る、聞く、想像するといった力が弱いために(認知機能の弱い)、いくら頑張っても入って来る情報にゆがみが生じてしまい、結果が不適切な方向に向いてしまう。やがて、そういった子は、さっき述べた「〈頑張れない〉の悪循環」にはまってしまう。
また、認知機能の弱さは不適切な自己評価にも影響する。自分の問題や課題に気づくことができず、「自分には問題がない」と思ってしまう。自己の姿を適切に評価できていないから、自分を変えようという気も生じないのである。
しかし、そんな子たちを放棄するわけにもいかない。
そういった子を「頑張ってみよう」と思わせるために、どうすればいいか?
それは「見通し」を持たせることである。
漢字を覚える → ほめられる → やる気が出る → テストでいい点がとれる → いい学校に行ける → いい仕事につける
これくらい「見通し」を持てるといいのだが、
漢字を覚える → ほめられる
までしか「見通し」が持てない人もいる。
「見通し」を持てないと、上の例で言うと「ほめられない」と「漢字を覚える」
ためのモチベーションが上がらないのである。
つまり、頑張ってみようという動機付けにはある程度の見通しが必要なのである。
認知機能が弱いとこういった見通し力が弱く、そのために頑張れなくなるのである。
(そして、この「見通し」を持てないと、犯罪を起こしてしまいかねない)
目標設定については、上のブログで紹介している。
そこでは自分の能力に合ったレベルで目標を設定するべきであるといったことを書いた。
『どうしても頑張れない人たち』でも似たことが書かれている。
等身大の現実的な目標であれば、頑張れば実現することは可能です。それが自信となり、次の目標と頑張りに繋がっていきます。しかし現実離れした目標は、頑張っても実現は困難で、多くが途中で挫折します。そうすると、その度ごとに自信を失い、もう頑張れなくなってしまうのです。ここにも認知機能の中に含まれる先を見通す力の弱さが関係しているのです。
- 「見通し」を持たせる。
- 等身大の目標を設定し、やる気を生まれさせる。
3.やる気を奪う言葉
頑張れ、という言葉はひとのやる気を奪う。
こういった話はよく聞く。
同じように、
「もっと頑張って勉強しろ」
といった言葉も禁句である。
これまで頑張って来たのに、まだ頑張るの? どれくらい頑張ればいいの?
そう思わせてしまいかねない言葉かけである。
また、「もっとできるよ」といった過剰な期待をかけるのはただのエゴであり、相手のやる気を奪う言葉なのである。
「だから言ったとおりでしょ」
という言葉かけも禁句。
何かにチャレンジして失敗して、そういう言葉をかけられたら、もうたまったものじゃないだろう。
何かにチャレンジして失敗した場合、一番つらいのはその子ども自身のはずである。もし「だから言ったとおりでしょ」と言われたら、もう泣きっ面に蜂だ。やる気を失わせることになる。
じゃあ、褒めればいいのか?
と、言われるかもしれないが、そんな簡単な話でもない。
場違いな褒め方は逆効果だ。
自分が嫌いな人から「君は素晴らしい」と言われても嫌味にしか聞こえないだろうし、保護者が「うちの子はこんなに大変なんです」といった感じで子どもの相談をした際に、「○○くんはとてもいい子ですよ」とむやみに褒めたとしても、保護者からすれば「この先生は息子のことを何もわかってくれていない」と不信感を持つだろう。
(嫌いな人から「君は素晴らしい」と言われても響かないが、好きな人、尊敬している人から「君は素晴らしい」と言われれば心に響くだろう。つまり、教員というもしかすると生徒から好かれた方がいいのかもしれない。(嫌われ役を買うより)ここでいう「好かれる」というのは、甘やかすとか機嫌をとるとかではなく、子どもに笑顔で挨拶する、名前を憶えている、最後まで話を聞く、子どものやったことをちゃんと覚えている、そんな人と人との基本的な関係が築くことができているということだ。「うちの子はこんなに大変なんです」と言う保護者は子どもについて具体的な相談をしたいというより、まずは子どもの状態について共感してほしい、自分のしんどさ、大変さをわかってほしい、といった思いを持っているのかもしれない。だから、教員はそういった保護者の気持ちを汲み取り、共感的姿勢を示すべきなのである。ここらへんの話については、以下のブログで書いてある。
)
相手がどんな状態で、支援者にどんな心証を持っているのかということを考えないまま一方的に″褒める″ことで、逆に相手を深く傷つけてしまうこともありうるのだ。
4.支援者はどうすればいいのか?
支援者はどうすればいいのか?
単刀直入に言うと、
「頑張れない行動の背景を考え、付き合っていく」
これは理想であり、実現はなかなか難しい。
しかし、この方法を踏まえ、どうすれば少しでも支援者が効果的に気もちよく支援ができるか、といったポイントを、心理的な側面からいっしょに考えていければいい。
では、この方法で相手のやる気をどうやって引き出すか?
それは以下の三つだ。
・安心の土台(家族のありがたみ)
・伴走者(信用できるひとと出会えたとき)
・チャレンジできる環境(将来の目標が決まったとき)
【安心の土台】
ひとが困っているときに助けてくれる存在のこと。
ただ、誰かの安心の土台になっているつもりでも実はなっていない場合もある。(支援者の立場)
安心の土台となりうるかどうかのポイントは
・不安や不快に気づけるか
・相手が頼りにできる支援者になれるか
といったところだ。
また、安心の土台には、ずっと支援し続けるといった姿勢も不可欠である。
これがなかなか大変だ。
あるときは助け、あるときは助けない。
これを繰り返していたら、相手は不信感を抱くことになるのは火を見るよりも明らかだろう。
【伴走者】
頑張れない人たちがチャレンジできるように見守る人のことである。
心に寄り添う人のことである。
頑張れない人にとって、何かにチャレンジすることは勇気のいることで、大きな不安を伴うことであろう。しかし、伴走者の存在がその子に勇気を与える。
そしてチャレンジの結果、相手に達成感をもたせ、自信ややる気につなげようとする。しかし、この際に適切な承認の機会も用意しなければならない。例えばの話。100点満点のテストで30点だった場合、「30点しか取れなかった」ではなく、「勉強が苦手なのに30点も取れた」と発想の転換を図り、承認するといったことが大切なのだ。
(私の勤務している学校のベテランの教員の話。とある教育困難校に勤めていた際に、マラソン大会があったのだが、生徒だけでやらせるとほとんどが真面目に走らないので、教員もいっしょに走ったそうだ。文字通り、伴走者だな。しかし、生徒と同じことをいっしょにやるという行為は、けっこう効果的だ。生徒だけ苦しい思いをするのではなく、教員もいっしょにすることで、理不尽さは感じないし、「先生も頑張っているんだから、俺も頑張らないと」という思いになる。)
(今度は自分の話。部活で試合があれば、引率義務のない試合でも教員は試合を見に行く。賢い学校ではそんなことをしない。教育困難校というか自己肯定感の低い生徒の通う学校では、試合を見に行くのは効果的である。日々の練習の頑張りの成果を披露する場を見守ることで、支援者(教員)への信頼度が高まる。)
【チャレンジできる環境】
安心の土台と伴走者の存在があって、チャレンジしたいって思いが生まれる。
しかし、チャレンジする場だけが与えられ、あとは頑張れといったふうになると具合が悪い。しかし、少年院や刑務所を出た後、そういう状態になってしまっている。
チャレンジする場。
例えば、就労の場だとしよう。
新たな環境で仕事をするとなった際、頑張れない人はどうすればいいか?
正直な話、仕事なんて最初はうまくできるもんではない。
だから、頑張れない人はまず「親切になれ」、これに尽きる。
よく「他者からの評価なんて気にするな」というフレーズを耳にするが、だからといって自己中心的な行動をとってしまっては逆に自分の首を絞めて行動できなくなってしまう。それにこの社会は他者からの評価がすべてなのだから、人からよい評価を受けないと生きづらくなってしまう。だから、評価を上げる必要がある。そこで、評価を上げるために「親切になれ」ということなのだ。
・相手としっかり向き合う
・相手のために何かする
・挨拶する
・話しかける
……そういったことを続けていれば、相手も自分に好感をもってくれることだろう。
また、対人マナーを高めることも重要となってくる。
・挨拶
・謝罪
・お礼の仕方
・うまい断り方
・適切な相手との距離
・視線の向き
・声の大きさ
世の中、不要なマナーというものがごまんとあるが、だからといってマナーすべてが悪いわけではない。最低限のマナーを身につけることは大切だ。自分がどんなに頑張っても成果を出せないという人間でも、最低限のマナーを身につけることくらいはできるだろう。
……あと、「親切になれ」「マナーを高めろ」と言うが、支援者側も言っているばかりではなく、自分もそうであるべきである。
そして、何よりも「笑顔を忘れずに」。
表情が悪いと、相手は警戒してしまう。
(私は今年度からポジティブに生きようと思っている。ポジティブに考えると、自然と楽しくなってくる。楽しくなってくると笑顔の数も増える。笑顔の数も増えると生徒も寄って来る。一年前は不安ばかりで自然と怖い顔になっていたり、おどおどとしていたが、今ではそこそこ堂々とふるまえるようになった)
- 安心の土台/伴走者/チャレンジできる環境
- 親切になれ
- 対人マナーを高めろ
5.最後に
学校現場に障害を持った子に配慮を求めるクレームがある。
もちろん、そのクレームの意図はノーマライゼーションといった理念が底にあるのだろう。しかし、社会に出たら、みんながみんなそういった障害について理解があるわけではないし、障害のことを「やる気の問題」と一蹴する頭のかたい人だっているだろう。つまり、そういった無理解なひとは社会にいっぱいいるということを考えると、配慮配慮とクレームをつけて解決を図ろうとするのは賢明ではないのかもしれない。
子どもが困難を抱えている現状をしっかり見つめ、その子がその困難の壁を乗り越えるよう支援するというならば、そういったクレームはせずに、子どもを見守るという姿勢を貫くことも必要となっていくのではないか。
これは保護者への要求であるが、教員も同様だろう。
頑張れない子に対し、配慮配慮ばかりしていても、その子のためにならない。
頑張れない子に「頑張れ」は禁句であるかもしれないが、「頑張らなくていいよ」と言葉かけをするもの間違っているように。
そこだけ履き違えないようにしたい。