松本俊彦『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』

 小学生の頃にリストカットを繰り返す女の子がいた。

 当時の自分がどう思っていたのかはもう覚えていない。

 かわいそう、という思いよりも、なんでそんなことするの? と思っていた気がする。

 大学生のころにひょんなことからSNSのTLにリスカ跡の写真が流れたのを目撃し、眉根をひそめた記憶がある。

 自分つらいですアピールじゃん、そんなことを思った気がする。

 

 ようは私はリスカに対して不快感情を募らせるような人間だったのだ。

 だが、今は教師という立場上。今後生徒の中でリストカットに走る生徒がいたら、どう対応すべきなのかということを考えないといけない。

 ということで、本書を手に取り、読んだ。

『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』

 自傷行為をする人のための本だ。

 筆者の松本俊彦さんは精神科医の先生で、たくさんの心の傷を持った子どもたちと接してきたという。

 いったい、自傷する人たちはどんなことを考えているのだろうか。どんな言葉がけをすればいいのだろうか。そんなことを考えながら、読んだ。

 

 

 

1.自傷とは

 まず、自傷の方法について。

 以下のような例が挙げられる。

・刃物で皮膚を切る

・火のついたタバコなどで自分にやけどをさせる

・自分を殴る

・自分の身体を噛む・かじる

・鋭利なもので皮膚を刺す

・手や指をホチキスで傷つける

・頭を壁にぶつける

・硬い家具などに身体の一部をぶつける

・注射器で瀉血する

 自傷する身体部位については、手首と腕が多い。「掌」「手の甲」「太もも」「脛」「胸」 「腹」などもある。道具については「カッター」「カミソリ」がオーソドックスで、「ナイフ」「壁」「コンパス」「筆記用具」「爪」「歯」などが挙げられ、どれもいのちに関わるような方法ではない。ここが自殺とは違うところだ。自殺の方法は「縊首」「飛び降り」「乗り物に飛び込む」などの一瞬で死ねる方法が一般的だろう。

 自傷は「死ぬという目的を成就させるには効率の悪いもの」である。つまり、「死んでしまいたい」という思いから自傷に走るわけではない。だから、「ほんとは死ぬ気なんてない」というの正しくて、むしろ、自傷する人自身、死ぬことはないと予測して自傷しているのである。

 では自傷する理由は何だろうか?

 よく「つらいアピール」だとか「かまってちゃん」だと言われる。関心を集めるために自傷をしている、と。果たしてそうだろうか?

 研究によると、繰り返される自傷の約96%はひとりぼっちの状況で行われるということがわかった。そして自傷を行ったことは誰にも報告されないのだ。

 つまり、自傷は周囲の関心をひくのではなく、むしろ、周囲の目を避けて行われるものであると言えるだろう。

 では、今度は自傷行為の理由について述べていく。

 筆者の調査によると、約6割の人が「不快感情をやわらげるため」と挙げている。

 不快感情とはつまり、「激しい怒り」「不安感」「緊張感」「絶望感」「名状しがたい感情」など、自分では手に負えないつらい気持ちのことで、こういった感情を吐露する人は少ない。つまり、誰にも助けを求めない、相談しない。自傷とは周囲へのアピールというより、孤独な対処法だと言える。

 相談しない理由は何か?

「自分には価値がない」「自分は生まれてくるべきではなかった」「自分なんか生きてちゃだめだ」という思い込みが彼らにはあるからだろう。誰かの時間を自分のために費やせてはいけないと考えている可能性もあるし、過去に助けを求めたが、何も助けてくれなかったという過去があるのかもしれない。

 筆者のもとにたずねてきた患者さんの中には、「自傷は安定剤」とか「血を見て安心する」と言う人もいるという。

 自傷がもたらす、苦痛が和らぐ感じ、安堵感・解放感と思う、それくらいに毎日の日常がつらいのではないか?

 筆者はそう思っている。(ここに自傷の危うさがあるのだが、これについては後で言及する)

 実は自傷する人の中にはアピールをする人もいる。

 筆者の調査によると、2割ほどが〈ひとにわかってもらいたい、気づいてもらいたい〉〈誰かに自分のつらさを思い知らせたい〉〈誰かの行動を変えてもらいたい〉といった思いを持って自傷をしているそうだ。

 他人の存在を意識した自傷

 これは人に言葉で伝えるのが苦手で、自傷の方が楽だと考えているからだろう。

「自分には価値がない、自分は誰からも必要とされていない」

 そう思っていたら、周囲が自分の意を汲んで動いてくれる状況をうれしいと感じる。

 自分はここにいてもよいのだと思うようになる。

 自分がつらい状況にあっても言葉で人に助けを求められないという人ならば、自傷することで助けが得られる可能性もある。

 だが、もともとは「不快感をやわらげるため」に自傷していたはずだ。

 アピール的な自傷はあくまで孤独な対処策としての自傷エスカレートする中で、二次的に派生するものであり、本質が「孤独な対処策」であることに変わりはない。

 自殺が「最終的な唯一の脱出口」だとすると、自傷は「正気への再入場口」だ。

 自殺は苦しみから逃れられる方法である。意識活動を終わらせれば、今抱いている苦痛や悩みから逃れることができる。それはちょうど出口を巨大な岩石でふさがれた暗い洞窟の中でやっと見つけた一条の光に似ている。その光の差し込む穴は外界に続いている。その穴を掘り広げれば、光に満ちた安心できる場所に行ける。意識の視野は〈死という脱出口〉に向けて収斂し、ほかは一切目に入らない。周囲の声かけや心配の声も届かなくなる。これが自殺であり、自殺者の心理である。

 対して、自傷は〈正気への再入場口〉である。

 死にたくなっても、つらいと感じる意識状態を変化させることができるのだ。

 冷静さを取り戻すための行動。激しい感情をコントロールするための行動。周囲に自身の苦境を伝え、援助を要請する行動。それが「自傷」。

 意識状態の変化と同様、一時的に困難を解決もしくは緩和する効果が期待できる。

 ただし、死ぬためにリストカットする人もいることも忘れてはならない。

 また、小学生や10代前半などの、今まで大きなけがや病気をしたことがなく、どれくらい自分のからだを傷つけたら生命的な危機に瀕するかが十分に理解できていない子たちは、客観的には軽傷の傷であっても死ねると思っている。この場合は自殺だと言えるだろう。

 以上のことから自傷と自殺の区別は「生きるため」が「自傷」、「死ぬため」が「自殺」だと言えよう。

 最後に自傷の定義について。

 

 自傷とは、自殺以外の目的から、非致死性の予測をもって、故意に自らの身体に直接的に軽度の損傷を加える行為のことであり、その行為が心理的に、あるいは対人関係的に好ましい変化をもたらすことにより、その効果を求めて繰り返される傾向がある。

 

2.心の痛み

 飲酒・薬物乱用・ギャンブルがやめられない理由は「そうした行動が本人に何らかのメリットをもたらす」からである。

 メリットとは、快感・陶酔感・痛みや不安、不眠、つらい感情、苦痛をやわらげるといったものだろう。

 同じように自傷も何らかのメリットがあるからやめられないのだ。

 典型的な自傷の理由は「不快感情をやわらげる」ためであった。つまり、見方を変えると、「自傷は鎮痛薬のようなもの」だと言えそうだ。

 過去のつらい記憶(思い出したくない記憶)に縛られ、振り回されている人にとっては、自傷は頼りになる頓服薬である。パニックを自傷によって落ち着きを取り戻すのだ。

 

 自傷する人の信念は以下のようなものである。

 

「人に助けを求めても無駄だし、人なんかあてにならない。というのも、人は必ず私を裏切るからだ。でも、リストカットは決して私を裏切らない。カッターナイフさえあれば、私は何があっても自分を見失わず、自分をコントロールできる」

 

 自傷する人にとってつらい記憶は蓋をされている状態にある。その出来事は自分の生活史から削除されてしまっているのだ。だから、その出来事は自分のなかで意味づけがされていないし、現実か夢かすら定かではないのだ。まさに意味不明の情景。その情景は心を凍りつかせ、パニックに陥れる。自傷する人が切っているのは皮膚だけではなく、意識の中で、つらい出来事や記憶やつらい感情の記憶も切り離し、何もなかったことにしていると言える。

 

 ここで「心の痛み」と「身体の痛み」について述べる。

「心の痛み」とは「自分では説明できない、そして、コントロールできない痛み」のことだ。それは一刻も早くその痛みから意識をそらさないと、混乱した自分が何をしでかすのかわからない、いますぐにでも死にたいという衝動に駆られかねないものである。

 そんなときに身体の痛み=自傷が役に立つ

 同じ「痛み」という強い刺激によって意識をそらすことができるようなのだ。

 この身体の痛みには、心の痛みには違いがある。

 それは「自分で説明することができ、コントロールできる痛み」であるという点だ。

 

3.自傷と他者

 

 自傷をしてしまった、という子にどんな対応ができるか?

 前述した通り、自傷するのは、少なくともその瞬間の苦痛を潜り抜けるのにほかによい方法、解決策がなかったからだ。だから、やむなく自傷をするわけで、死ぬよりはましな行為だと言える。

 だから、「自傷なんてやめろ」という声かけではなく、むしろ自傷をしたことを告白したことを評価してあげるべきだろう。

 だからといって、これから長い人生、つらいことがあればそのたびに自傷をするなんていう生き方はよくないことだろう。それは根本的な解決ではなく、一時しのぎだからだ。

 自傷をすることで一時は生き延びることができても、つらい現実が変わることはないのだから。

 

 そもそも皮膚を切るメリットとはなんだろう。

 皮膚を切ることで、つらい出来事やつらい感情の記憶も切り離すと述べた。

 切るメリット、それは短期的にも困難な現実を生き延びることを可能にするということだ。ただ、「短期的」。長期的に見れば、本人を取り巻く現実はかえって過酷なものになる。自傷エスカレートしやすいもの。麻薬と同じだ。同じところばかり切ることでやがて痛みを感じなくなる。そして刃は次なる傷のないきれいな皮膚を抉り取る。そうなってしまうと「切る」ことに慣れ、心の痛みから意識をそらすのに自傷が役立たなくなってしまう。そうなると、今度はカッターではなく、コンパスをぶっさすとか、火のついたタバコを押し付けるとか、新たな痛みを求めるようになる。

 自傷で自分をコントロールするつもりが、自傷に自分がコントロールされてしまっている事態。主客転倒。

 自傷が目立つようになると、やがて周囲をコントロールするようにもなる。「大丈夫?」と声をかけてもらえるようになるかもしれない。これまで攻撃してきた人は攻撃を躊躇するようになり、厳しい人が優しくなるかもしれない。そのとき自傷は武器として働く。こうなると、自傷している人はこれまで「自分は誰からも必要とされていない」と自己肯定感が地を這うレベルに低かったのが、「自分は誰かから必要とされているかもしれない」と考えが転換するようになるだろう。「消えたい」「死にたい」「いなくなりたい」という思いがふわっと消え、もう少し生きてみようかと思えるようになる。

 だが、自傷に慣れがあるように、周りも慣れてしまう。すると、「またあいつ自傷しているよ」的なリアクションに変わる。めんどくさ、とか思うようになる。武器が武器ではなくなる。

 そうなると危機だ。

 やっと「自分は誰かから必要とされている!」と思えたのが、急転直下。「生きるための」自傷が「死ぬための」自傷に変容する。危険な状態だ。

 以上のことから、自傷行為「死への迂回路」と言える。

 

 次に、自傷と他者の関係性について考えていきたい。

 自分を傷つける関係性について。3つある。

 まず、①否定される関係性。

 人はだれしも自分を否定される体験を繰り返しすると、自分を嫌いになりやすく、その結果、自分を大切にできなくなる。自分の身体を傷つけることに対するハードルもどんどん下がっていく。その意味では、そのような相手を否定する人との関係を続けること自体、自傷的である。

 褒めてほしいのにダメだししてくるとかそういった相手、といえばわかりやすいだろう。

 

 次に、②支配される関係性。

 自分の意見の主張を許さないタイプのこと。自分が相手の意見とは異なるものを突き付けてしまったとき、相手は不機嫌になる。そして、ものすごい勢いで反論する

 最終的に自分は相手に屈服してしまう。

〈否定+屈服・服従・隷属〉の構図。

 支配される関係性の相手は、しばしば嫉妬深く、束縛が強い人だ。

 他者からの支配を受け容れるということは、自分の感情や欲求を押し殺して、相手に合わせることを意味する。それはそのまま「つらい環境に過剰に適応するために、身体の痛みで自分の感情に蓋をする」という自傷と同じ構造だと言える。

 

 最後は、③本当のことをいえない関係性。

 否定されたり、支配されることで、最終的にそれらは人を嘘つきにする。

 嘘とは、自分を守ること。

 問題は、いつも嘘をつかないと維持できない関係性にとどまり続けることだ。

 はたしてそのような関係性は、あなたにとって安全で、安心できる関係といえるのか?

 ほんとうの自分を見せたら嫌われるのでは? と不安を口にしない

 自傷するひとのなかには恋人から優しくされると、裏があるのでは? と思う。

 いつか自分を裏切るのでは? と思う。優しくされるのに慣れていない

 ほんとうに自分を大切に思っているのか、どこまで自分を受け容れ、許してくれるのかを確認しようとわざとわがままをいったり、相手の嫌がることをしたりする。

 どうせこいつも私を捨てるのだと思い込み、ふられるくらいなら降った方がましと唐突に別れ話を切り出す。

 カウンセラーに対してもそう思う傾向があるそうだ。

 どうせこの人も自分を見捨てる、と。

 自分のような価値のない人間は優しくされる資格はないし、きっとこの人も迷惑だろう、そんなことを思うそうだ。

 孤立している女性は、自分を否定し、支配するような「問題を抱えた危険な男性」に引きつけられ、吸い寄せられてしまう傾向がある。

(トー横キッズというティーンエージャーが最近話題だ。量産型女子とか地雷系女子とかそういった系統の女子が多くたむろしている。ホストに大量の金を貢いだりしているそうだが、その異常性に気づくことなく、彼女たちはトー横を心を落ち着かせるサードプレイスだと思ってしまっている。彼女たちの生育環境の悪さも彼女たちをそうさせているのかもしれない。そして、そういった女子の中にはリストカット常習者も多くいる。そういった子たちがホストにはまる……「問題を抱えた危険な男」に引っ掛かる。)

 

4.自傷の観察

 

 自傷は「死への迂回路」と述べた。

 さて、今度は「迂回して稼いだ時間を使って、どうやって生き延びるか」ということを考えていきたい。

 

 まず、自傷の状況を観察するということ。

 

 自傷の動機は前向きであると述べた。(苦痛から意識をそらして、いまを生き延びるために、感情の暴発を押さえ、自分をコントロールするというメカニズム)

 一番の問題は、何よりも本人を取り巻く、自傷せざるを得ない現実の状況や環境であり、そのような状況や環境に激しく揺さぶられている、本人自身の不安定な感情の状態。

 まずは、自傷に対するコントロールを取り戻していかなければならない。

 だからまずは自傷の状況を観察するのだ。

 何がつらくて切ったのか、何が苦痛の原因なのか、が当の本人にもわからないことが少なくない。自傷する人は皮膚を切るのといっしょに、つらい出来事の記憶やつらい感情の記憶を意識のなかから切り離し、「なかったこと」にしている。また、そのようにして、いわば「心の痛みに蓋」をしてきたせいで、「悲しい」「さびしい」「ムカついた」といった感情語が退化している。表現する言葉がなければ、私たちはその感情を自覚することはできない。だから、言葉を探すのだ。感情の正体を具体的につきつめるのだ。

 

 最初に着手すべきは情報収集。

 自身の自傷を観察し、その特徴に関するデータを集める。

 まず、傷つける部位。

 腕だったら「イライラを抑えるため」とか「不快感情をやわらげるため」とかいう理由がある。習慣性もあって、解離(記憶が飛ぶ)もある。

 対して、手首の場合、習慣性や解離はさほど目立たない。が、これまで自傷した回数が比較的少な傾向がある。つまり、死ぬことを目的にしている可能性が高いということだ。

 服で隠れる部位への自傷と服で隠れない部位への自傷の二パターンがあるが、後者の方が深刻だ。混乱した状態だと言える。人に見られるかも、とは思い当たらないのだから。

 

 次に、どのような方法で自傷をするか。

 カッター カミソリ タバコ ライター 壁 硬い家具 コンパス シャーペン

 次は、どういったふうに?

 切る 突き刺す やけどさせる 硬いものに身体の一部をぶつける

 

 傷つける前にみられる考えや行動はどうか?

 

 自傷のきっかけ:怒り・絶望・恥辱感

 認知:仲間外れにされている 私は汚い 私の存在は迷惑

 

 衝動を自覚してから実行までの時間は?

 自傷したいと感じてから実際に切るまでの時間はどのくらいか?

 短ければ短いほど、自傷に対するコントロールを失っている。

 学校で嫌なことがあっても、自傷にいたるのはだいたい自宅だろう。

(学校で自傷をするとなると、かなり深刻だと言える。)

 

 傷つけたあとの気分・感情の変化はどうか?

 不快感情がやわらいだかどうか 自責の念を感じていないか

 

 以上のようなことを観察し、言葉にして記録しよう。

自傷日誌」だ。

 自分の力で自傷をコントロールするには、自分がどんなきっかけ(トリガー)で、自傷してしまったのかを十分に把握する必要がある。だが、トリガーを同定するのは難しい。自傷の理由として何らかのつらい感情を自覚していた人も、自傷が習慣化するにしたがって、自傷のトリガーとなった出来事や、そうした出来事によって生じた苦痛を自覚しにくくなってしまうからだ。

  実際、習慣的に自傷を繰り返している人に、そのきっかけを聞くと、「何か強い感情に襲われて、急に『切らなきゃ』って考えで頭がいっぱいになってしまう」と説明する。

 だからこその自傷日誌だ。

 

「行動記録」「時刻」などの項目がある。

 行動記録:一日の状況を記録。

 時刻:何をしていた? 誰といっしょにいた? 自傷をしたくなったかどうか(また、自傷をしたか)→自分を大事にしない行動

 そして、「1セットごとの切る回数」なんていう項目もある。

 

 本人がどのような状況で、どんなことをした後に、あるいは、誰と会ったり話したりした後に、自傷したいという衝動に駆られたり、実際に自傷におよんですまうのか――つまり、自傷のトリガーが明らかになる

 1セットごとの切る回数から、さまざまなトリガーのなかで、特に自分に強い影響を与えるトリガーが何であるのかも、明らかになる。

 トリガーが同定されれば、どのような場面や状況を避けた方がいいのかが見えてくる。

 同時に、どんな状況ならば自傷したいと思わず、また、実際に自傷しないですむのかも見えてくる。さらに、トリガーに遭遇した場合には、自傷の衝動から気持ちをそらす試みに挑戦することが可能となる。

 

 自傷日誌により、トリガーを探すことが可能になる。

 浴室・トイレで自傷したとなると、それはひとりになれる空間を求めていることになる。感情が不安定なときはなるべくひとりにならないようにするという対策を立てることができる。また、深夜に自傷をしているとなると、朝型に切り替えるという対策が立てられる。

 そのとき自分がどんな感情を抱き、どんな考えにとらわれていたのかを思い起こしてみる。おそらくそのなかで、何が自分にとってつらいのか、何が自分を傷つけるのかが見えてくるはずだ。

 

 次にアンカーもさがしてみよう。

 自傷していない時間帯・場所・状況・いっしょにいた人物を探すのだ。

 そういった情報から「自傷の衝動から気をそらしてくれる」効力のあるものを探し出すことで、少しでも自傷を遠ざける努力はできそうだ。

 

 以上のように客観的に自分を見ることで、自傷行為をやめる方法であったり、自分が何に対して悩んでいて、何がつらいのかといったことを理解することができる。

(思うに、結局、つらい気持ちって言葉にすることで救えると思う)

 

 次は置換スキルについて。

 自傷行為の置換。

 自傷以外におきかえるということはほかの方法で気持ちを切りかえるということだ。

 感情の波から一時的に意識をそらし、置換スキルによってその強烈な感情をあなたに扱える程度に小さくするということでもある。

 置換スキルには二つある。

 まず、刺激的置換スキル。

・思考ストップ法(トリガーに遭遇したら心の中で「ストップ」と叫ぶ)

・スナッピング 手首に輪ゴム 輪ゴムでパチン

・香水をかぐ

・紙や薄い雑誌を破る

・氷を握り締める

・腕を赤く塗りつぶす 血を見るとほっとするタイプ

・大声で叫ぶ

・筋トレ

 

 もう一つは鎮静的置換スキル。

 これは過去や未来へのとらわれを離れ、自分が『いま、ここに』存在していることに集中している状態(マインドフルネス)を得ることを目標とする。

①筋トレをしながら深呼吸

②深呼吸をしながら瞑想

③気持ちを文章にしてノートに書く、絵を描く、楽器を演奏する、音楽を聴く

 以上のような方法が本書には書かれている。

 

 最後に、いろいろ対処してみたけど、結局切ってしまったらどうするか? 考えてみる。

 まずは早急に手当だ。

 だが落ち込まなくていい。

 最初からうまくいくわけではない。それよりも、すぐに自傷してしまうのではなく、ほかの方法を少しでも試そうとしたということは、それだけで確実に回復へと近づいている。まずは最初の一歩を踏み出した自分のことを褒めてあげよう。

 

5.自傷からの回復

 現在の生活を見直すことについて。

 自傷の背景にある過去から連綿と続く問題を、時間を遡ってひとつひとつしらみつぶしに解決していくのは不可能だ。過去のつらい体験やつらい感情の記憶は、蓋を開けようとして開けられるものではないし、強引に蓋を開ければ、その強烈な痛みのせいで、これまでなんとか生活をしてきたのに、できなくなってしまうかもしれない。

 過去にさかのぼっての根本的な解決には、時間とタイミングが必要だ。

 しておくべきなのは、現在の状況を整備すること。

 脳と心のコンディションを整え、生活の状況を安全で、安心なものにすること。

 これに尽きる。

 

 自傷するひとにがんばり屋が多い。

 自傷する人は褒められ依存症の傾向があるのだが、それは「周囲の期待を裏切ってはいけない」「期待を裏切ると、自分の居場所がどこにもなくなる」という切迫した気持ちがあるからだ。それによって、どんどん自分で自分にプレッシャーをかけることになる。なかなか難しいかもしれないが、60~70%くらいの力で、もっとエコに仕事や勉強をこなすくらいの心持になれたらいい。

 

 人付き合いはどうするか?

 まず、嫌な人に対して。

 怒りを感じるのは当たり前。

 逆に怒りの気持ちを押さえつけ、何も感じなかったことにしてしまうのはイケナイし、そんな「悪い感情」を抱いてしまった自分に罪悪感を抱いたり、自分を責めたりすることこそ、異常で不健康だ。

 怒ることはきわめて健康的な行為だ。

 

 苦手な人に対して。

「褒められ依存症」が顔を出し、「こんなに頑張っているのに全然褒めてくれない」と、内心腹を立てるとともに、「私はあの人を失望させているのだろうか」という不安も抱いていて、それが苦手意識として自覚されている。

 だから苦手な人を同定し、その理由を自分で分析してみよう。そういったふうに客観的に相手を見て、心にゆとりをもつが何よりも大事なのだ。

 

 SNSを見ても気分が沈む

(これはわかるわ)

 きれいな写真、楽しそうな写真というのは「おしゃれ」で「はなやか」なものだったり、「仕事・私生活の好調ぶり」が遠慮なく写し出されていて、見るだけで辟易する。そして劣等感に苛まれる。

 しかし、だ。それらの写真は現実を公平かつ客観的に反映したものではない。多くの人たちが、インスタグラムなどで発信している情報は、本当の現実ではなく、明らかに「盛った」現実、自分の生活の中で人に自慢するに足る題材、自分の幸せさをアピールできる一場面だけを慎重に厳選して投稿している。少なくともTL上では、みじめなエピソードや失意の体験、平凡で退屈な日常は、周到に隠蔽され、最初から存在しなかったことにされているのだ。

 そう思ったらどうだろうか?

 気持ちは少し楽になるだろうか?

 

 SNS関連でもう一つ話がある。

 自傷を売りにするSNSはやめた方がいい、ということだ。

 理由は、「周囲の期待にこたえることが自傷になるから」だ。

 自傷の写真、自傷する様子を克明に記録した動画や。自傷を礼賛するブログはみない。

理由は、自傷したい衝動を刺激するから、だ。

(私はかつてTwitterリスカを毎日載せている人のツイートを目撃したことがある。不特定多数の人間が見るTwitterでそんな投稿をしているのを見ると、正直不快感はあった。だが、リスカをしてしまった人たちからすれば、助けて、のSOSのサインをインターネットの海に投げ出したのかもしれない、と今なら思っている。)

 

6.最後に

 最後は周囲の人間へ。

 

・「自傷をやめなさい」はやめる

 自傷する人は、誰かから頭ごなしにいわれたり、決めつけられたりするのが苦手である。管理的・支配的な発言が苦手なのだ。あくまでも対等的な立場で、そして本人が体験している苦悩に関心を抱いていることが伝わるような姿勢で「何があったのか?」と静かに尋ねていこう。

※初めて、その子が自傷をしていると知ったとき、難しいことだが、驚いたり、怖がったり、怒ったり、拒絶的な態度をあまりとらない方がいい。なるべく医学的な反応――外科医のような態度を見せないといけない。つまりは、冷静に対処せよってこと。難しいけど。

 

・「正直に話してくれてありがとう」

 自傷の本質は「誰にも相談せず、誰にも助けを求めずに、感情的苦痛を緩和すること」にある。自傷を繰り返す人は援助希求能力が乏しく、自傷経験のある人が将来における自殺志望のリスクが非常に高いのは、自傷そのものが原因ではなく、つらいときに誰にも助けを求めないという行動パターンが原因である。

 自傷を告白するということは「自分を傷つける生き方」から一歩前進するということだ。だから、自傷を告白されたら、「正直に話してくれてありがとう」と言おう。

 

自傷の肯定的な面を確認したうえで共感 

 自傷の効果的な作用(前述)を認め、承認する。

「そうやってつらい毎日を過ごしてきたんだね」と言ってあげる。

「困難を生き延びてきたこと」に肯定に力点を置くのだ。

(共感は人を救う)

 

自傷エスカレートする懸念を伝える

 自傷の効果的な作用を認めたとしても、自傷を続けていいとはならない。

「あなたのことが心配だ」と伝えよう。

 自傷で一時しのぎを続けることの危険性を伝えるときは、謙虚に伝えよう。

 自傷の効き目が弱くなって、自傷エスカレートすると、「身体の痛み」で「心の痛み」に蓋をすることを続けることになり、感情語が退化して、ますます消えたいとか思うようになる。死んでしまいたいと考えてしまう。

 あなたがそうなったら、心配だという意志をしっかりみせよう。なるべく謙虚に

 

 自傷とのかかわり方というのは、教育者の立場からすると、押さえておきたい事柄なので、ここまでなるべく丁寧にまとめてみた。

 だが、本書にはまだまだ細かい話がずらりと載っている。難しい話もけっこうあったので、また本書をじっくり読み返さないとな、と思った。

 

 

 

第166回直木賞予想

今週、166回芥川賞直木賞の候補作が発表されるということで!

候補作の予想をしてみようと思います。

もちろん全部読んでません。

全部読んでないのに候補作の予想をするという蛮行をどうか許してください。

 

予想①

一穂ミチ『パラソルでパラシュート』

 

一穂ミチさんといえば、前回『スモールワールズ』で候補作にあがりましたね。

BL作家としてしばらく活動をしていた作家さんで、どういった評価が下されるのか心配でしたが、けっこう好評だったそうです。『スモールワールズ』は持っています。BLの形も影もない、読みやすい小説でした。「魔王の帰還」はとても笑わせていただきました。

今回も一穂さんの作品が候補にあがるのではないかと推測しています。

 

予想②

今村翔吾『塞王の楯』

 

今村翔吾さんといえば、第160回直木賞候補作『童の神』、第163回直木賞候補作『じんかん』と二度候補にあがっています。さらに『八本目の槍』で吉川英治文学新人賞を受賞されていますし、『じんかん』で山田風太郎賞を受賞されています。そんなふうにめきめきと頭角をあらわしている作家さんで、選考委員の受けも大変いいということで、受賞されるのではないか? と思っています。

 

予想③

早見和真『笑うマトリョーシカ

 

早見和真さんってわりと文学賞と無縁の人だと思っていたんだけど、『ザ・ロイヤルファミリー』で山本周五郎賞を受賞している。早見さんの作品といえば『イノセント・デイズ』だろう。私も読んだが、とても軽く読めた。テーマはけっこう重いのに。でも、それもけっこう前の作品。だからここ最近の早見さんの作品は目を通していないため、適当なことは言えない。山本周五郎賞を受賞されているくらいだから、実力派になりつつあるということだろう。しかし、直木賞候補にあがったことは一度もない。今回であがるか?

 

予想④

葉真中顕『灼熱』

 

葉真中さんといえば、吉川英治文学新人賞で二度候補にあがっている。選考委員からの評価はあまり芳しくない。

だが、本書のあらすじを読むと、「沖縄生まれの勇と、日系二世のトキオ。一九三四年、日本から最も遠いブラジルで出会った二人は、かけがえのない友となるが……。第二次世界大戦後、異郷の地で日本移民を二分し、多数の死者を出した「勝ち負け抗争」。共に助け合ってきた人々を駆り立てた熱の正体とは。分断が加速する現代に問う、圧倒的巨篇。」と、壮大。クライムノベル。前回、佐藤究『テスカトリポカ』が直木賞受賞したこともあり、候補としてあがるのは何もおかしくないだろう。

 

予想⑤

米澤穂信『黒牢城』

 

山田風太郎賞受賞作。

『インシミテル』とか『氷菓』の作者で、文芸よりかと思えば、なんと歴史×ミステリーのハイブリッド! こりゃ受けるわって作品。読んでないんだけどね。直木賞候補に最後にあがったのが、2015年だから、もし候補にあがれば6年越しのリベンジができそう。

 

予想⑥

小田雅久仁『残月記』

 

ごめん、存じ上げない方!

でも、今までかなりネームバリューのある方たちなのでここはひとつ伏兵をって感じで。

評価の高い作品だそうで、直木賞候補にあがるかも?

(同じ伏兵という意味で『同志少女よ、敵を討て』(逢坂冬馬)の線も?)

 

ほかにも貫井徳郎の『邯鄲の島遥かなり』とか柚月裕子の『ミカエルの鼓動』も候補作としてあがりそうかなって思ったけど、数打ちゃ当たる戦法はあまり好きじゃないので、以上の6作にとどめる。果たしてどうだろうか?

 

ついでに芥川賞の方も予想

 

乗代雄介『皆のあらばしり

砂川文次『ブラックボックス

島口大樹『オン・ザ・プラネット』

松尾スズキ『矢印』

永井みみ『ミシンと金魚』

李龍徳『石を黙らせて』

 

いろんな方の予想の継ぎはぎです。

乗代さん、砂川さん、松尾さん、李さんは存じ上げてますが、それ以外のご両人は存じ上げない。

すみません。

 

 

正しさの享受

自分のこと正しいと思ってるんやろ!

と言われたのですが、

人間誰しも自分のことを正しいと思っているはずです。

誰かにとっての正しさと誰かにとっての正しさがぶつかることで喧嘩は生じる。

だから、価値観の異なる人間同士が共存するために、お互いにとっての正しさをお互いが受け入れることだと思います。

よくよく考えたら、この主張も、私にとっては正しいことだけど、誰かにとっては正しくないのかも。

朝井リョウ『武道館』

 

 朝井リョウ『武道館』。

 一気呵成。

いちご同盟』以来ではないか、ここまで一気に読み終えた小説は。

 実は、私は小説を読むのが苦手だ。

 というのは、初めて小説を読んだのは大学生のときで、それまで読書をしたことがなかった(それを誇りに感じていた時期があった)。

 そのため、読書訓練をせずに、やって来たもんで、だから、ほかの読書家に比べて、小説を読むのが遅かったり、感性が鈍かったりする。登場人物を取り違えて読んでしまうこともしばしばある。

 そんなもんだから、私は一気呵成に小説を読むことがめったにない。

 しかし、『武道館』はあまりの面白さに一気に読んだ。

 まあ、『武道館』はアイドルが主人公だから、坂道シリーズ好きの自分にとっては、とても読みやすい題材だったのだが。

 ともあれ、朝井リョウはすごい。

 アイドルを主人公に置くことで、物語はライブとか握手会とかスキャンダルなど、そういうことに触れるだろうなと予期していたが、それらが使い古されたちゃちい物語になることなく、文学的な要素をきちんと残している。さすが直木賞作家。

 

『武道館』で一番感銘したセリフがある。

 それが以下(この言葉について詳らかにすると、小説のネタバレになってしまうため、多くは語らないことにする)

 

 正しい選択なんてこの世にない。たぶん、正しかった選択、しか、ないんだよ。

 

 何かを選んで選んで選び続けて、それを一個ずつ、正しかった選択にしていくしかないんだよ

 

 これはアイドルメンバーの碧という子のセリフ。

 

 

 人の生き方は良い悪いではない

 目の前の分かれ道の選択に悩みこそすれど

 それを不正解と言ってしまう選択こそ 最も不正解なのだ

 

 

 amazarashiの『ナモナキヒト』とダブる。

 

 私たちは今までいろんな選択をしてきた。

 そして、その選択が正しかったか間違っているかなんて正直わからない。

 なぜなら、碧が言うように、「正しい選択なんてこの世にない。たぶん、正しかった選択、しか、ないんだよ。」だからだ。

 つまり、選び続けてきた結果を、後で振り返ったとき、それが「正しかった」と言えるようであれば、それでいい、といった清々しさを感じさせるくらいのことを言っているのだ。

 だから、一番ダメなのは、その選択を「正しくなかった」と悲観することだろう。

 それこそ「不正解」だ。

 

 人はあらゆる場面で選択を強いられる。

 その数多くの選択で選び取った結果で「今」である。

 過去は変えられない。

「今」を享受するしかない。

 そして、そんな「今」を楽しむためには、過去での選択たちを「正しかった」と認める必要がある。

 私の場合、浪人してしまった過去を「正しかった」と認めることだろうか。

 浪人したことで出会えた人もいるし、経験できたこともある。

 そのおかげで今の自分がいるなら、それでもいいのかもしれない。

 

 これこそ、もしかしたらよりよく生きるための思考法なのかもしれないな、と。

 

 

鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』

 2018年に滋賀県内で起きた実母殺害事件。

 被告は母親から教育虐待を受けていたことが明らかになり、その実態は想像を絶するひどいものだった。

 被告は母親から地元の国公立大医学部医学科に入学することを強く求められ、国立大学医学部看護学科に合格するまで、9年間にわたる浪人生活を余儀なくされた。その間、母親から携帯電話を取り上げられるなどして過度の束縛を受けていたという。

 また、看護師としての就職内定が出たにも関わらず、母親からは助産師学校に進学するよう要求され、被告がそれを拒むと、母親は激昂し、夜通し叱責したという。

 そして被告は母親を殺害し、「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と、被告はTwitterでツイートした。

 

 新潟青陵大学大学院教授、社会心理学者の碓井真史さんは上記の事件に関して、次のように語っている。

 

 勉強も学歴も良い就職も大切です。でも一番大切なのは、子供の幸せです。そんなことは親もわかっているのでしょうが、何が子供の幸せなのか、意見が食い違います。

 

 努力は大切であり、努力は報われます。けれども、努力すればみんながスポーツ選手になれたり、医学部に合格できたりするわけではありません。能力差と個性があります。スポーツでも芸術でも勉強でも、好きで得意な子は親に言われなくてもやります。無理強いは、しばしば逆効果です。

 

 誰かに相談するというSOSだけでなく、子供の時に不登校でもプチ家出でも、反抗でも、どんな形でもSOSが出せていればと思うと残念です。一生懸命子育てすることは良いことです。一生懸命に花の世話を焼くように。ただ、育てた結果どんな花を咲かせるのか、それはもう親が決められることではありません。

 

 医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態(47NEWS) - Yahoo!ニュース

 

 ボクの人生の主人公はボクじゃない。ボクは“RPG母さん”の2周目だ

 

暗殺教室」の渚くんの言葉。

 渚くんの母親はレールを敷き、そこに息子を走らせようとするタイプのひとだった。

 漫画を見てもらったらわかるが、渚くんの母親はやりすぎなくらいに息子を束縛する。

 そこまでではないにしても、親の束縛に苦しむ子どもたちは多くいると思う。

 だったら、その束縛から逃げろ、と言われるのかもしれないが、「親の期待」に応えようとしてしまう子どもも多くいる。

 

 鴻上尚史『親の期待に応えなくていい』で、「親の期待」に応える理由をこう述べている。

 

・「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

・「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」

・「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」

・「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」

・「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」

 

 だが、そもそも「親を大切にすること」と「期待に応えること」は違う。

 たとえば、娘が女性が好きで、男性と結婚する願望がないとする。娘が母親にそのことを告げると、母親はショックを受け、「絶対に普通の結婚をさせる」という。

 この場合、「親の期待に応える」ことは、親の願望通り、男性と結婚するということなのだが、娘がLGBTである以上、その期待に応えることはもはや無理な相談だ。だからといって、娘が親を大切にしていないかというとそうではない。親に対して今まで育ててくれたことへの感謝の気持ちもあるはずで、その気持ちと「男性と結婚させようとする母親」に失望する気持ちは矛盾しないはずだ。

 この例の場合、娘が母親に自信がLGBTであることを打ち明けているが、もし逆に「親に嫌われたらどうしよう」と不安に思い、自信の性質について話さなかったらどうなるだろう? きっと、娘はもっと心苦しい道を歩まされていただろう。女性が好きなのに、「結婚はまだなの?」とか、男性と結婚させようとしたりとか。

 

①「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

 とにかく両親を怒らせまいと抵抗しなかったり、面倒くさいからといって黙って受け容れていたりすると、のちのち、大きな苦しみと後悔に苛まれることになる。

 親は「なんでも言うことを聞く良い子」(良い子ではないんだろうね)とか「自分の意見がなさそうだから私が決めないと」と、どんどんエスカレートしていく。

 だから、まず、何か嫌だとか、違うと思ったら、それを口に出す。

(そういう意味で、反抗期というのはとても貴重な時期なのだ。ちなみに私には反抗期がない。)

 親子関係の悪化が懸念されるかもしれないが、結局のところ、お互い「落としどころ」を見つけられたらそれでいいのだ。

(親子関係以外にも友人関係、職場関係でもそうだが、「どうしても合わない人」というのはいて、そういう人とは、「なんとかやっていく方法」を考えるのだ)

 

 日本は「みんな仲良く」同じ格好をする国だ。

 同調圧力という言葉が嫌なほどに似合うのが日本という国だ。

 親子関係を崩したくないあまりに「仲よくすることが一番正しい」と思い込んでしまっている。

 でも、親に対し、異議があるときは、ぶつかるべきなのだ。

 親に従い、親と仲良くすることが、「自分の希望」よりも大切なことなのだとみんな思いがちだ。そう思ってしまう原因は「同調圧力」だ。

 価値観が多様化しつつある、現在、人それぞれが大切にすることが違ってきている。

 そして、それを親に伝えなければならない。

 「親を喜ばせたい。がっかりさせたくないから」

 そう思うあまり、「親の期待」の無条件で従うことはない。

 反抗してもいい。

 親を大切にする気持ちと親の期待に沿うことは違うのだから。

 

②「親が一番自分のことを分かってくれていると思うから。親は自分のためを思っているのが基本だと思うから」

 子育てとは「子どもを健康的に自立させること」だと筆者は述べる。

 目指すのは親から「健康的に自立すること」

 不幸な事故や病気を除けば、普通は親が先に死ぬ。

 どんなに子どもを大切に守っていても、必ず、守り切れないときがくる。

 その時、「ずっと親に頼ってきて、自分一人では何も決められない」という子どもを残して親が死んでしまうことほど悲劇はない。

(これ、マジ)

 だが、世の中には、進学も就職も結婚も全部親のアドバイスに従って、子どもが生まれたら教育方針や行く学校まで親の意見に従ってしまう人がいる。

 子どものころから「自分の頭で考える」という訓練を受けなかった結果だ。

 また、子どもに「自分の頭で考える」ということを許さなかった親の結果だ。

(私自身、親から「お前にはこれが向いている」「これが向いていない」と言われ、選択肢を取捨選択されてきた。実際、自分が今教師であるのは、親から「お前は会社員には向いていない。教師なら一匹狼でも許されるから教師になるべき」と言われたからだ。当時はマジで自分の頭で考えるということをしていなかったので、それを鵜呑みにしてしまった。今では後悔しているのだが、結果的に教員になれてよかったと思える節はある)

 

「他人」と「他者」は違う。

 前者は「あなたとまったく関係のない人」のこと。

 後者は「あなたにとって、受け容れるのは難しいけれど、受け容れなければいけない人」であり、同時に「受け容れたいけれど、受け容れたくない人」のこと。

 たとえば、母親があの子と遊んじゃいけません、という。しかし、あの子は自分にとって親友である。この際、母親は「他者」になる。「受け容れたいけど、受け容れたくない人」。このどっちつかずの状態に耐え、手探りで試行錯誤しながら生きていくことが「大人になる」ということだ。

 

 親の言うことを「全部受け容れる」という時期のあと、「全部受け容れない」という時期と「やっぱり受け容れる」という時期を繰り返しながら、子どもはゆっくりと自我を育てていく。やがて子は親にとって「他者」になっていく。

 これが「健康的な自立」なのだ。

 いつまでも親の言うことをなんでも聞く聞き分けのいい子は「他者」になりきれていないのだ。それでは子どもは、親が年老いても自分で物事を判断できなくなってしまうという悲劇の一途をたどることになる。

(また、近年、毒親と呼ばれる親がいる。虐待とかももちろんそうだが、一番上に書いた肉体的な虐待ではなく教育虐待とかする親も毒親だ。また、過保護、過干渉の親もそのように呼ばれる。「おまえはくずだ」と言い放つ毒親もいる。そういった親のもとに育った子はえてして自己肯定感の低い人間に育ってしまう。そんな親から逃げてしまいましょう、というのが筆者の意見だ。

 ……まだ未読だが、毒親をテーマに熱かった武田綾乃さんの『愛されなくても別に』を購入した。ぜひ早く読んでみたい)

 

③「特に自分に目標があるわけではないから。他に選択肢がないから」

 親からの押し付けが嫌なら、自分自身で自分の人生を切り拓きたいなら、なるべく早めに「自分の目標」を見つけた方がいい。

 そう筆者は提言している。

「自分の目標」が明確なら、「親の希望」に対して冷静に対応できる。

 俗に言われる優等生は、親の期待、要求、顔色を優先して、自分の希望を考えないことが多い。また、自分の希望を見つけたといっても、実はそれが「親の希望」だったというケースもある。

 

 人生の目標を見出せ、といってもなかなか難しい。

 なら、逆に「何をしたくないか?」を考えるというやり方もある。

「警察官と消防士、どっちにになりたくないか?」

 →警察官になりたくない

「消防士と教師、どっちになりたくないか?」

 →消防士になりたくない

 ……という具合に。

 

 大切なのは「考えること」と「悩むこと」をきちんと区別することだ。

 考えれば、やるべきことを見出す。

 しかし、悩めば、ただ時間だけが過ぎていくだけだ。

「考えること」「悩むこと」それらを区別することが大事だ。

 考えて、やるべきことを見出したら、まず動きだしてみる。

 自信がない、とか言っている暇はない。

 そもそも自信の根拠など存在しないのだ。

 誰かは「君は○○に向いている」というし、誰かは「君は○○に向いていない」という。

 他人の評価など曖昧なんだし、結局、選択するのは自分自身で、自信の有無関係なく、動きださなければ何も変わらないだろう。

 

 とにかく「考えること」が何よりも大切。

 問題なのは、自分の頭を使わずに、親の考えをそのまま自分の考えだと思い込んでしまうことだ。また、親に任せて、自分が考えることを放棄してしまうことだ。

 

 だからこそ、「自分は本当は何がしたいんだろう?」と考える訓練は必要なのだろう。

 

④「自分たちのようになってほしくないと言われるから。お金に困るような人生を送ってほしくないと言われるから」 

 筆者がインタビューしたひとのなかにこんなことを言った中学生がいた。

「母親が『自分は若いうちに結婚して専業主婦になったので、人生がつまらなくなった。だから、あなたには、結婚は後回しにして、できる限り仕事をして自分の人生を持ってほしい』と私にいます。別に結婚してもつまらなくないかもしれないと思うけれど、早く結婚したら失望されそうな気がする」

 こういったふうに親が子の生き方を束縛するようなケースは多くある。

 なぜ母親はそんなことを言ったのか?

 それは、言いたいからだ。

 若いうちに結婚しても人生はつまらなくなるとは限らない。

 しかし、若いうちに結婚したら人生はつまらなくなる、と言いたいのだ。

 どんなに不確定な情報だとしても、感情が高ぶると人に伝えたくなるってことはあるのだ。

 母親が伝えたいことは「人生つまらなくなった」ということ。つまり、「私の人生はつまらない」と伝えたいのだ。

(そんな母親にはじゃあ人生を面白くするために趣味をつくればいい、とアドバイスをすればいいのかもしれないが、子からするとなかなか言い出しにくいよね)

 また、世間体を気にする親の場合、自分の息子・娘がいい大学に進学したら、それを自分のステータスとして自慢することだってある。子どもにとってはいい迷惑だろう。

 親の人生は親のものだし、子どもの人生は子どものもの。

 自分を否定する親の期待に絶対に応えてはいけない。

 親が失敗したからといって子が同じ失敗するとは限らない。

(そもそも時代が変わっているからね)

 そして、やってみてそれが失敗したかどうかは、自分で判断していく必要がある。

 

⑤「期待に応えないと罪悪感を覚えるから」

 「世間」と「社会」は違う。

 前者は、あなたと関係のある人たちのこと。→学校、塾、近所の人たち

 後者は、あなたと関係のない人たちのこと。→同じバスや電車に乗り合わせている人たち

 日本では、その線引きがはっきりしている。 

 顕著なエピソードがある。

 これは『COOL JAPAN』に出演した外国人の証言。

 駅でベビーカーを抱えている女性がいても、周りの人たちが助けようとしなかったという。

 これは「日本人が冷たい」というより、相手が「知らない人」だからだ。

 もし「知り合い」なら助けるだろう。なぜなら「世間」に属する人だから。

 しかし、ベビーカーを抱えた女性は「社会」に属する人。あなたの知らない人、だ。

 日本人は「世間」の人たちをとても大切にして、「社会」の人たちは無視をする。

(海外では「世間」というものがない。あるのは「社会」だけ、だそうだ)

 

「世間」には5つのルールがある。

 一つめは「年上がえらい」こと。

 二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。

 三つめは「贈り物が大切」だということ。

 四つめは「ミステリアス」ということ。(小学生はランドセルとか就活生はスーツとかいう「謎ルール」。)

 五つ目は「仲間外れを作る」ということ。

(それぞれの具体例は割愛する)

「世間」があるからこそ、「みんな仲良く」とか「同調圧力」とかが生まれた。

 さらには日本では親と子供が別々ではなく、ひとつに見られている。

 これは有名人の子どもが事件を起こした際に、その親が謝罪をする風潮があるということからわかることだろう。

 

 以上のような日本特有のルールがあるから、子どもは親の期待に応えないと罪悪感を抱えてしまう。

 親は年上だから無条件でえらいものだから、言うことを聞かないといけない、という意識。親の言葉に逆らうと、大切なまとまりを壊してしまったような気持ちになる。

 これが「罪悪感」の正体だ。

 このとき、子どもは親の付属物になっている可能性が高い。

「個人」ではなく、家族の付属物にされている可能性が高い。

「罪悪感」が強ければ強いほど、家族は「世間」になっている。

 これは個人の問題というより、日本の文化そのものとつながっている。

 だから、罪悪感から逃れるのはなかなか難しいことなのだ。

 

 では、この罪悪感とどう戦うか?

 その方法は家族が「世間」になっているということを考えれば見えてくる。

 世間のルールをもう一度書く。

 一つめの「年上がえらい」こと。

 二つめは「同じ時間を過ごすことが大切」だということ。

 三つめは「贈り物が大切」だということ。

 四つめは「ミステリアス」ということ。

 五つ目は「仲間外れを作る」ということ。

 

「年上がえらい」ことについて。

 親が「親の言うことを聞け、親だから」と言うとする。

 そのとき「親のアドバイス」と「親を大切にすること」を分けるという方法をとればいいのだ。

 

「同じ時間を過ごすことが大切」だということについて。

 親は「他者」になり、それぞれが自分の目的をもって別々の時間を過ごすことが「健康的に自立する」ことだから、そんなルールに縛られる必要はないのだ。

 同じ時間を過ごすことが親子の証明ではない。

 

「贈り物が大切」だということ。

 親にいろんなものをもらってばかりでは自立できない、ということだ。

 とにかくお金を稼ぎまくって、親に頼らないでよくなるまで頑張る。

 親は贈り物をすることで、子を「世間」の一員につなぎとめようとするのだから。

 

「ミステリアス」ということ。

 家庭内にある謎ルール。

 私の家の場合、毎日食卓で曜日ごとに決まったテレビ番組を見ながらご飯を食べるというルールがある。

 絶対に家族いっしょにご飯を食べないといけないし、テレビも絶対につけないといけない。

 別に食事の時間が異なってもいいだろうし、見たい番組がなければテレビを消してもいいはずだが、それらは基本的に許されない。

 もう私の家の謎ルールはそんなに悪いものではないが、家庭によっては子を不幸にさせるようなルールもあることだろう。

 それについては早めに異議を呈さないといけないかもしれない。

 

「仲間外れを作る」ということ。

 家族内で「○○さんはダメよね」と言い出したら、アウト。

 筆者は部屋に逃げ込みましょうとまで言っている。

 誰かを排斥することで、家族の絆を強められないなら、強めない方がいい。

(日本的だが、誰かをスケープゴートにすることで、団結力を固めようとする風潮がある。それを私は現職で見てしまっている。なんとも……)

 

 筆者は次のようなことを言う。

 

 

あなたと親は、ゆっくりと互いに「他者」に成長していく。

 あなたはあなたの人生を幸せに生き、親は親の人生を幸せに生きる。

「愛情がルール」の場合でも、「人情がルール」の場合でも、やがて「健康的に自立すること」を目指すのです。

 

 

 

 最後に――

 親の「付属物」として扱われることは楽だと思う。

 でも自分は誰の人生を生きているのか?

 自分の人生を生きているはずだ。

 親の言いなりになって、親がするなと言ったことはしないし、親がしろと言ったことはする。そんな生き方で果たしていいのか?

 親が死んだあとはどうやって生きるのか?

 これは今の主体性を失っている子どもたちへの警鐘であり、まぎれもない、私自身への警句である。

 

 はやく「個人」にならないといけない。

 

 

お悧巧さんの憂鬱

 太宰治の作品でいちばん好きなのは『葉桜と魔笛』だ。

 ミステリー仕掛けの、切ない物語。

 

 好きなセリフがある。

 

「姉さん、あの緑のリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛てて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」

 

 妹のセリフ。

 なんと悲しいセリフだろうか。

 

「姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎだ。」

 

 ここ。

 すごくきつい。

 

 女でもない、病気でもない自分がいうのは少し憚れるのだが、私自身も後悔していることがあって、それはクソまじめに生きすぎたということだ。

 勉強なんてほどほどでよかったはずなのに、勉強ばかりしていたこと。

 浪人せずに現役で大学に行けばよかったのに、身の丈に合わない大学を受験したこと。

 人に言われたことを反抗することなくこなしてきたこと。

 

 勉強さえしておけば、世間的に認められる。

 勉強は生き抜くための免罪符。

 人の言うことを聞いておけば間違いない。

 そう思っていた。

 でも、勉強ばかりしていたところで、はたからみれば「お利巧さん」かもしれないが、「生きる喜び」を得たかどうかというと得ていない気がする。

 同じく人の言われたことを聞いていたところで、それが自分の幸せにつながるかどうかはわからない。

 ほんと可哀そうなんだよ、自分の「手」「指先」「髪」、とどのつまり「身体」が「生きる喜び」を知らないことが。

 

 ほんと、行儀のいい、お利巧さんにはなるべきではなかった。

 そう小さいときの自分に伝えたい。

 

 

 

 太宰治トカトントン』ではないが、太宰の織りなす鋭い文章がふいに思い出され、しんどくなることがある。そこに書かれていることが自分のことのように思えてくるから。そこに書かれていることが自分の射程になくなるようになれば、きっとうまく生きられるはず。

 

石井志昂『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』

 本書は子育てに関する書である。

不登校」というワードだけで購入してしまったのだが、教員の身である私にもなるほどなと思う部分は多くあったので結果的に買ってよかったかなと思う。

 

 本書に登場する子どもというのは基本的に小学生・中学生あたりを指していることをはじめに断っておく。

 

1.雑談を聞くということ

 よく子どもって話をしたがる。

 その話の内容はけっこうたわいのないものだったりする。

 じつは、そのたわいのない、なんでもない話をし、それを聞いてくれるひとがいることで、その子どもの中に無条件の自己肯定感がはぐくまれるのではないか? と筆者は考えている。

 たわいのない、なんでもない話。つまり、雑談。

 雑談は、相手に何も求めない時間で、そういう時間をシェアすることで、「あなたはそこにいていいんだよ」というメッセージを、子どもたちは受け取ることができる。

 ふだんから雑談ができる関係ができあがっていることで、「どうしたの?」と聞きやすいし、子どもの方から歩み寄ってくれる可能性も高い。

 本書では親子関係にフォーカスして書かれてあったが、これは教師と生徒(児童)の関係とも同じだろう。

 雑談を聞いてやる、というのはとても大切な行為だ。

 ゲームの話をしてきたら、「ゲームもいいけど、勉強はしっかりしなさい」と返すのではなく、「○○ってキャラクターがいるゲームだよね」といったふうに興味をもって返事をしてあげる。

 子どもがしたいのは「今」の話であるそうだ。

 だから、子どもに「ゲームばかりしているとろくな大人になれない」といった将来の話をしてはいけないのだ。

 

 子どもが話し始めたら、先に立って話を先導しようとせず、あとをついていくように話を聞いてあげてください。

 

 それが筆者の思いである。

 

2.傾聴の大切さ

 以前のブログでも書いたのだが、「傾聴」というのはとても大切なことだ。

 聴き手に徹する。子どもの話をコントロールせず、保護者の方が期待する結論に結びつけようとしたりするのはやめる。言いたくなる気持ちを抑えて、たくさん聞く。

 話をきちんと聞いてもらう前に、問題を勝手に決めつけて、求めてもいない情報を提供されたら、誰でも嫌なものだ。そういう気持ちは子どもでもない大人でもわかることだ。

 

 また、子どもが不安を抱えているとき、「気にするな」「仕方がない」という言葉は言わない方がいいそうだ。そう言われた子どもは自分が否定されたような気持になる。

 だからまずは子どもの不安や葛藤にはできれば共感を示してあげる。

 難しいなら共感するふりでもいい。

 オウム返しでもいい。

 人間誰だって自分という人間しか生きていない。

 人の気持ちを完全に理解することなどできないのだから。

(前にブログで「子どもの気持ちを理解する」と書いておきながら、やっぱり「理解できないから、理解している振りをする」と開き直ったように書くのはどうかと思うが)

 しかし、だからといって理解できないと突っぱねてはいけない。

 理解している振りを続けることで、ほんとうに理解できるようになるかもしれない。

 

 理解できるか、できないかは別にしても、私は共感を示し続けたい。

 

3.ワンクッション

 子どもにアドバイスをするときに、難しいのはタイミングだ。

 ここからは少し子育ての話になる。

 子育て経験のないため、私は書かれている内容をできるだけそのまま陳述する。

 

 子どもの話を聞いたうえで、「親としてできることがあるな」と思ったら、すぐに子どもに提案するのではなく、家族やご自身の友人など誰かに話して、ワンクッション置くのが言い。ひと呼吸を置く理由としては、子どもの性格や特性を理解しているがゆえに、「この子にはこっちの道がいいだろう」という親自身が思い描いている道をどうしても押し付けることになりうるからだそうだ。

 

(子育てに関する話ではあったが、教育現場でも使えそうだ。

 生徒と接するなかで、あの生徒はこういう性格だとわかった気になることがある。だから、その生徒から悩みを告白されたら、「君はこういう性格だからこうしたらいい」としたり顔でいいかねない。しかし、これじゃあ教師の思い描く道を押し付けることになる。だから、ほかの教師と話し合ったり、保護者と話し合ったりする中で、その生徒の悩みを一度俯瞰的に見てみて、それから生徒と話をするといった「ワンクッション」が大事になる。)

 

 また、そのワンクッションを置いたがために、その間に子どもが悩みを解決してしまったら、親として(また、教師として)はがかっかりするが、本人の気持ちを汲んだ方がいい。まず子どもが悩みを解決したことを喜ぼう、というわけだ。

 

4.共感的姿勢

 子どもが愚痴をいいにきたらそれは信頼されている証なんだろう。

 親としても、教員としても。

「学校だるいよね」という愚痴に対し、親は「そんなこといわない」と注意してしまいかねないが、やはりここでも共感が大事になってくるから、「だるいよね」と返しておけばいいそうだ。

 教員の場合、「学校、めんどくさい」といわれたら、手放しに「めんどくさいよね」とは言い辛いし、「すこし休んでもいいんだよ」とも言い辛い。だからといって「もう少し頑張ってみようか」なんていってもだめ。(もう少しってどれくらい? 十分に頑張ったよ。という子どもたちは心の中で嘆くことだろう)

 やはり、私が思うに教員でも別に「学校、めんどくさいよね」と返してもいいと思う。しっかり生徒の心に寄り添うことができていればそれでいいと思う。

 何度もいうが「共感」が大事であり、「アドバイス」はまったく重要ではない。生徒の方から求められたら、経験的に語れることがあれば語ればいいだろうが、そうでない限り、「私はこうして乗り越えた」といってもまったく効果がない。

 

 また、私は今の高校に勤務する前は「学校は行くものだ」という固定観念があったが、実際、勤務してからそうではないことを知った。

 それがダメなことだとはじめは感じていたが、その休みがガス抜きになっているなら別にいいのではないか?と思うようになった。

 一日くらい授業をさぼったって、別にいいと思う。

 皆勤賞なんて言葉があるように毎日行くことが偉いとか、仕事に就いてから休まずに働くことこそが美徳だとか、そういう風潮があるみたいだが、精神的な疲弊を感じ、メンタルがもたないとなると元も子もない。

 休め。

 気分転換しろ。

 ユニバでも行け。

 とは思う。

 それがまだ認められていない考え方ではあるが。

 

5.学校に行きたくない子どもたち

 不登校とは「心がオーバーヒートした状態」のことで、モーターのスイッチが切れるように身体が動かなくなる、つまり安全装置が作動している状態であるそうだ。

 不登校の定義が「年間30日以上学校を休む」であるそうだ。月換算すれば3,4日休むとそれに該当する。

 それを踏まえたうえで、文科省の調査を見ると、小・中・高における不登校児童生徒数は年々増えているそうだ。

 2019年度では23万1372人と過去を更新した。

 また、2020年度以降の数字はでていないが、コロナ禍により不登校児童生徒の数はまた増加したのではないかと思う。

 

 学校に来たくない理由はいろいろある。

 文科省の調査によると、以下の理由があがっている。

「友人との関係」(53.7%)

「生活のリズムの乱れ」(34.7%)

「勉強がわからない」(31.6%)

「先生との関係」(26.6%)

 私の勤務している学校でも不登校の理由は圧倒的に人間関係だ。

 社会人でもそれが理由で辞めているのだから理解できないことではないだろう。

 

 とくに今の時代、人との付き合いというのはとても微妙なものになっている。

 SNSでのやりとりのなかにも緊張がある。

 SNSは四六時中ひととつながりを持つわけだから、心身疲弊してもおかしくない。

 さらにSNS上でいじめが横行することだってある。

 SNS上でのいじめは見えにくい。

 だからこそ、子どもとの一対一の話合いというのは大切になると思う。

 目に見えていじめられているというなら、その子どもと話し合う必然性が生まれるが、見えていないいじめを受けているとなると、話合いの場を設ける必然性は生まれない。だって、いじめが起きていることに気づかないから。

 だからこそ、直感的でもいいので、最近元気ないな、といった子どもの微々たる変化に気づけるようにならないといけないんだろうな。

 

6.逃げてもいいと思う

 一時期ツイッターで話題になっていた新聞の投書。

 投稿者は13歳の女の子。

 

 逃げて怒られるのは

 人間くらい

 ほかの生き物たちは

 本能で逃げないと

 生きていけないのに

 どうして人は

 

「逃げてはいけない」

 

 なんて答えに

 たどりついたのだろう

 

 

 この投稿者の子がどういう背景があって、この投書を送ったのかはわからない。

 しかし、思春期真っただ中、人間関係や家族間でのトラブルなどから、いろいろが嫌になり、逃げだしたくなったが、大人から「逃げてはいけない」と言われた……そんなストーリーをまことに勝手ながら考えた。

 

 動物は危険を察知すると、本能的にそれを避ける、逃げると言った行動に出る。

 苦しいのにその場から離れられないというのが一番危険だからだ。

 学校が嫌で逃げたいと思うのは学校が危険だと心が思っているからで、だから、学校に行かないというのはある種動物的本能に従った合理的行動である。

 そういった意味でも学校に行かないという選択肢はあるべきなのだ。

 そして、学校から距離をいったん置くことで気持ちの整理をし、心を回復させる。

(気持ちの整理がつくというのは、学校や不登校、いじめといった言葉を聞いても、心にさざ波が立たなくなるということ。自分と他人を比較しなくなる、焦らなくなる、学校に行っていないことに罪悪感を持たなくなる、ともいえる。)

 

7.健全な不登校

 次の動画を見てほしい。

 

 

 けっきょく、子どもが不登校になって、それを理解してくれる親が必要なのかもしれない。(親ガチャという言葉が最近トレンドだそうだが)

 不登校不登校でも某ユーチューバーのように勉強もせずにサボるのはよくないと思うが、不登校期間中だからこそできることがないかを探すということはとても重要なことだと思う。

 また、勉強がつらくなって不登校になってしまった子には「今は勉強に集中できる状況ではないから勉強はいったん置いておこう」といった感じで、いったん勉強との距離を置くのも有効だ。勉強から離れて、学びの面白さに気づくことだってあるかもしれない。

伊予原新『月まで三キロ』の中に収録されている「アンモナイトの探し方」を読むと深く理解できる。受験勉強にストレスを感じ、円形脱毛症を患った小学生六年生の朋樹がしばらく環境を変える意味で田舎で過ごし、そこで化石を掘るおじさんと出会う。そんな話だ。勉強から距離を置きながら、化石を掘ることの面白さに気づくというのだが、これは暗に学校や塾で押し付けられるような勉強を批判し、ほんとうの学びというのはこういうものだよと教えているのではないかと思った。)

 

 かの有名な棋士羽生善治さんはこう語る。

「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」

 

8.学びについて

 私の勤務している学校の生徒はわりと自己肯定感が低い子が多い。

 その理由として今まで褒められたい経験が少ないからだそうだ。

 勉強でも素行面でも。

 学校教育では自分が勉強ができないとそれが点数化されてしまう。

 結果、自己肯定感が下がる。勉強したくなくなる。

 この悪循環。

 しかし、もしそういった子でも特定の何か学びたいと思えるものがあれば、その子にとって学びは楽しいものだと思えるようになるかもしれない。

 本書では子どもたちに必要な能力は「世の中にどのような問題があるのかを見つける力、その問題をどうすれば解決していけるかを探索する力、あるいは生き方を自分で上手に探せる力」だと書かれている。

 それは今の学校教育における学力とはまた違う力である。

 世の中のことを見通し、問題を発見し、解決する力というのはただ字がびっしりつまった教科書と対峙していても身につかない能力だと思う。

 異国で異文化に触れるとか、自然に触れるとか、そういった非日常との会合がそういった能力を涵養するのだと思う。

(私だって、学びに対してあまりモチベーションは持っていなかったのだが、今勤務している学校では、自分が高校生のときには考えられないような出来事が起こっている。私が学生時代には考えていなかったような、いろんな悩みを抱えた生徒がいる。自分の狭量な世界観が一気に転換した。それにより「学び」に対するモチベーションが上がった。子どもたちの心の問題について考えたい、という学び。

 私自身、学びに対する姿勢を身につけるのが遅すぎると感じたのだが、さっきの羽生さんの「いつ始めても、いつやめてもいい。学びとはそういうものではないかと思います。」を知って、それでもいいんだと思えるようになった。)

 

9.最後に

 私自身、不登校経験がない。

 だから、今から述べることは正直不登校経験のあるひとを怒らせることになるかもしれない。それを承知のうえ書かせていただく。

 

 不登校経験は、今後自分が生きていくための大きな基盤になると思う。

 

 不登校経験があったからこそ、といえる何かを手に入れることができるかもしれない。

 

 こういった言葉は不登校経験があるひとがいうべきだ。

 わかっている。

 しかし、わかってほしいのは私自身不登校をべつにおかしいことだと感じていないということだ。

 芸能人のなかでもかつて不登校だったと告白するひとがいるように、学校に行けなかったからといって、人生が詰んでしまうわけではない。

 学校に毎日行って、勉強をいっぱいして、いい大学に行ったにもかかわらず、いろいろあってフリーターをしているひとだっている。

 むしろ、私的には順風満帆な人生を送っているひとほど危険だとさえ思っている。

 私自身、挫折経験というのがあまりにない。

 だから、少しでもつらいと感じてしまうと、すぐに心がぽきっと折れてしまう。

 面接で語る内容もまったくといっていいほどない。

 だから、教員採用試験何回も落ちている。

 

 ね?

 

 人より多くつらい経験、挫折経験をしているひとほど、今後強くなるだろうし、人にやさしくなれるだろう。