お悧巧さんの憂鬱
ミステリー仕掛けの、切ない物語。
好きなセリフがある。
「姉さん、あの緑のリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛てて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」
妹のセリフ。
なんと悲しいセリフだろうか。
「姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎだ。」
ここ。
すごくきつい。
女でもない、病気でもない自分がいうのは少し憚れるのだが、私自身も後悔していることがあって、それはクソまじめに生きすぎたということだ。
勉強なんてほどほどでよかったはずなのに、勉強ばかりしていたこと。
浪人せずに現役で大学に行けばよかったのに、身の丈に合わない大学を受験したこと。
人に言われたことを反抗することなくこなしてきたこと。
勉強さえしておけば、世間的に認められる。
勉強は生き抜くための免罪符。
人の言うことを聞いておけば間違いない。
そう思っていた。
でも、勉強ばかりしていたところで、はたからみれば「お利巧さん」かもしれないが、「生きる喜び」を得たかどうかというと得ていない気がする。
同じく人の言われたことを聞いていたところで、それが自分の幸せにつながるかどうかはわからない。
ほんと可哀そうなんだよ、自分の「手」「指先」「髪」、とどのつまり「身体」が「生きる喜び」を知らないことが。
ほんと、行儀のいい、お利巧さんにはなるべきではなかった。
そう小さいときの自分に伝えたい。
※
太宰治『トカトントン』ではないが、太宰の織りなす鋭い文章がふいに思い出され、しんどくなることがある。そこに書かれていることが自分のことのように思えてくるから。そこに書かれていることが自分の射程になくなるようになれば、きっとうまく生きられるはず。