モラトリアム人間の苦悩
前回に引き続いて、同じ「モラトリアム」についてのお話。
大学を卒業し、モラトリアム期間を終えた俺。
終わってから気付くモラトリアム期間のすばらしさ。恋しさ。
俺が好きな小説、映画の話。
記憶に残る作品。
鮮やかな色どりを持った記憶として残っているし、これからも残り続けると思えるような素晴らしい作品。
これらすべて若者の葛藤を描いた作品である。
まさに「モラトリアム人間」ゆえの悩みが緻密にあらわれている。
青年たちは、モラトリアム(猶予状態)を楽しみ、自由の精神を謳歌し、疾風怒濤や青春の彷徨をくり返しながら、実験や冒険をつづけ、やがては、最終的な進路、職業の選択、配偶者の決定をはじめ、そのすべてに自分固有の生き方=アイデンティティを獲得する準備をととのえるのである。
「自由の精神」、「青春の彷徨」、「実験」、「冒険」などが詰まっている青春小説・映画を紹介かつ考察する。
・『青が散る』
新設大学のテニス部員椎名燎平が主人公。彼は金子に誘われてテニス部を設立する。安斎や貝谷といったメンバーを部に呼び込む。また、燎平は夏子という同じ大学の女子に一目ぼれしている。
テニスに人間関係に自分の人生に悩みながら生きる若者の青春群像。
俺は、どんな世界でも、覇道が好きや
貝谷の台詞だ。えぐい回転をかける老人のプレイに魅了されて、王道なテニスよりも覇道なテニスに彼は憧れたのだ。
この台詞は燎平の心をとらえる。
王道が周りと同じ生き方ならば、覇道は周りと違った生き方を指す。
大学生ならば一度は考えそうなことだ。
普通の生き方ではなく人と違った生き方をしたい。
まさに青春の彷徨。
最終的には人と同じように足並み揃えて生きていくと決断を下しても、そういった彷徨は後にいい経験になるのではないか。
「覇道」という生き方を志向できるのもモラトリアム人間の特権だ。
『青が散る』の中に、ガリバーという青年が登場するが、彼はそういった「覇道」の道を選んで生きようとしている。
野球選手になることを突然諦め、ミュージシャンを目指し始めた青年である。
彼の歌う「人間の駱駝」という歌。
歌詞は以下の通り。
摩天楼の陽炎にひたって
人間の駱駝が生きていく
汗も脂も使うべき時を失い
瘤は栖を離れて心にもぐりこんだ
原色の雑踏にまみれて
ラクダはあてどなく地下に還る
生きていたいだけの人間の駱駝
小此木啓吾は『モラトリアム人間の時代』でヒッピーや全共闘運動についてこう語っている。
他動的・受身的にわれわれを「モラトリアム人間」化する、現代社会のもの的な動向を“言葉”にし、能動的・主体的なものに選び返す一つの表現行為、一つの象徴的実現であった。またそれは、「モラトリアム人間」の存在権を、この社会に確立しようとする先駆的努力をも意味していたのである。
燎平は「全共闘のアジテーターと、白樺でうごめく駱駝と、どこがどう違うというのかという思いがした。結局同じではないのか。」と思っている。
※「白樺」は喫茶店の名前。一階と地下一階がある。
人間の駱駝は「モラトリアム」の中、懊悩する青年たちを象徴的に表した歌であることが歌詞からうかがえる。
瘤をなくした人間の駱駝は将来生きる希望を失ったことを意味する。
地下(白樺)はガリバーにとっての居場所であり、どこへ行くでもなくそこに戻ってしまう。
されど、「生きていたい」と思っている。
「生きていたいだけ」と。
まさに「モラトリアム人間」。
・『砂漠』
鳥瞰型の北村。軽薄で女好きの鳥井。パンクロック好きの小太り西嶋(関係ないが『青が散る』の金子とダブる)。大学内一の美少女東堂。シャイで超能力じみた現象を起こせる南。この五人が織りなす物語。
『砂漠』の魅力は一番最後。
卒業後のこと。
四月、働きはじめた僕たちは「社会」と呼ばれる砂漠の厳しい環境に、予想以上の苦労を強いられる。その土地はからからに乾いており、愚痴や嫌味、諦観や嘆息でまみれ、僕たちはそこで毎日必死にもがき、乗り切り、そして、そのうちその場所に馴染んでいくに違いない。
鳥井たちとは最初のうちこそ、定期的に連絡を取るけど、だんだんと自分たちの抱える仕事や生活に手一杯で、次第に音信不通になるだろう。
僕は、遠距離で交際を継続することに疲労を覚え、鳩麦さん(僕の恋人・アパレル店員)と半年もしないうちに別れるかもしれない。そして、さらに数年もすれば、鳥井や西嶋たちと過ごした学生時代を、「懐かしいなあ」「そんなこともあったなあ」と昔に見た映画と同じ程度の感覚で思い返すくらいになり、結局、僕たちはばらばらになる。
なんてことはまるでない、はずだ。
「なんてことはまるでない、はずだ。」
そうだ。俺だってそう信じたい。
西嶋が一年生のときに言った台詞。
「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」
『砂漠』はずるい小説だ。
大学生活で物語を締めるなんて。
果たして西嶋は「砂漠」に「雪」を降らせたのか?
社会と呼ばれる「砂漠」に。
「モラトリアム人間」ゆえの豪語
なんてことはまるでない、はずだ。
「モラトリアム人間」はいつかその身分証を捨てる日が来るが、そのときに抱いた精神は忘れるべきではないと思う。
だから、こうやって、ギリギリモラトリアム人間である俺がブログに残している。
なんてことはまるでない、こともない。
・『ソラニン』
実は今日見た。2020年4月5日。
ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジアンカンフージェネレーション)、通称「アジカン」の『ソラニン』は知っていた。同名の漫画があることは知っていたし、それが映画化されていたことも知っていた。だが、見たことはなかった。
で、今日見た。
サイコー
泣いた。
冗談抜きで泣いた。
『ソラニン』の主人公井上芽衣子は種田というフリーター男と同棲している。OL二年目だった芽衣子は仕事に限界を感じて辞めてしまう。そこから物語が始まる。
大学6年生の加藤や実家の薬局で働いているビリーなど個性的なキャラクターが登場する。
芽衣子は仕事を辞めたし、種田は新聞社の下請けでバイトをしているし、加藤はまだ大学生でい続けていているし、ビリーは実家を継いで働いている。
彼らは全員、大学生時代同じ「軽音サークル」だった。
種田も加藤もビリーもみな音楽が好きで、定期的にスタジオを借りてバンドの練習を続けている。
いわずもがなみな「モラトリアム人間」。
加藤以外大学生ではないが、「モラトリアム人間」。
就職をしても仕事をしても、その職業に就いている自分、働いている自分を「本当の自分」とは思わず、別の何者かになるべきだ、もっと素晴らしい何かになるはずだと思いながら、日々を過ごしている人間。
芽衣子も種田も加藤もビリーも「何者か」になろうとしている。
芽衣子は仕事を辞めたがその後のプランは立てていない。
種田も音楽は好きだがそれを仕事にしたいのかどうか判っていない。
加藤は大学生を延長しているだけで何になりたいか判っていない。
ビリーは身分上職には就いているがそれでいいのかどうか葛藤しているように思える。
これらはあくまで序盤での話である。
モラトリアム人間は何者かになろうとする。
これは別に悪いことではないと思う。
常に夢を追いかけ、何者かになろうとすることはすごくいいことだ。
だが、何者になりたいのか判っていなくちゃいけないと思う。
何になりたいか決めて、そこに向かって筋を立てる。
結果的に彼らはある事件をきっかけに「自分が何をしたいのか」を見つけ、それに向けて走った。その健気な姿の俺は感動した。『ソラニン』の歌詞を見返して感動した。
最後に、芽衣子の言葉をここに。
ふと思った。
こんな幸せをあたしはあと何回感じることができるんだろう?
種田だってわかっているはずだ。
今、この瞬間はいろんな現実から目を背けた上になりたっていること。
これからはどんな些細なチャンスも決して無駄にできないことも。
だからこの一瞬を、限られた人生を消費する日々から作り上げる日々へ。
『青が散る』にしても『砂漠』にしても『ソラニン』にしても、若者たちの葛藤は社会に対して人間関係に対して起こっている。
『砂漠』のラスト、校長がサン=テグジュペリの「人間の土地」から「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」という言葉を引用している。
芽衣子が「この穏やかな景色の中でみんなといっしょにいられればそれでいいかな」と思っているように、「仲間の存在」はとても大切なんだなって再確認。
「モラトリアム人間」が「脱モラトリアム」するために、生きていくうえで自分のそばに誰かがいることを忘れないことで、うまく「大人になっていける」はず。
そんなことを思う。
不安でしかない未来に向かって、俺は今、頼りない一歩目を踏み出した。