自我分裂
青年たちは、モラトリアム(猶予状態)を楽しみ、自由の精神を謳歌し、疾風怒濤や青春の彷徨をくり返しながら、実験や冒険をつづけ、やがては、最終的な進路、職業の選択、配偶者の決定をはじめ、そのすべてに自分固有の生き方=アイデンティティを獲得する準備をととのえるのである。
大人になるのを拒む大学生などを「モラトリアム人間」と名付けたのは小此木啓吾だ。この『モラトリアム人間の時代』は1978年に刊行された著書だ。40年以上も前である。
昔の著書だが、現在に通じることを書いている。
例えば、同書より
「青年たちは、現実社会に対して、魔術的な力をもつマスコミに同一化して自己を全能視し、既成社会の継承者であるよりもむしろ論評者であることを理想像にする。その社会の中に自分も存在しているという自己の現実を否認し、実行力を伴わぬ口先の論評にたけて批判力ばかり肥大するという、マスコミと同様の自我分裂が、青年たちにも共通した心理構造になっている。」
これ、Twitterであらゆるものに噛みついて批判する手合いに言えることではないか?
ある物事に対して粗を見つけ出して批判することは一丁前の輩。
「音楽を聴こうとイヤホンして、全然聞こえないから音量上げたんだけど、やっぱり聞こえない。周りの人たちがじろじろこっち見るから、何だろうって思ってたら、イヤホン外れててスマホから爆音鳴ってた笑」
よくある笑い話。
だが、批判しようものならいくらでも批判できる。
「周りの人に迷惑だろ。ちゃんと確認してから音楽聴けよ」
「Bluetooth設定し忘れてたならまだしも、イヤホン外れてたはありえないだろ。嘘乙」
「周りのやつら冷たいな。音鳴ってますよって誰か言ってやれよ。いつから人間はこんなに冷たくなったんだ?」
「『笑』って何? 別に面白くもない話だけど」
こんなこと言う奴らって人生楽しいん?
こういう奴らは現実では案外おとなしかったりするんかな?
まさに小此木の言うところの「自我分裂」。
ベンジャミン・フランクリンも言っている。
「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる。」
批判なんて誰でもできるんだから、それをしていい気になるなって諫言。
「マスコミ機能への同一化が、人々の心性を大幅に決定するマスコミ社会の落し子である現代社会に、既成社会に根を下ろさぬ自分たちの存在を肯定し、よりよい自己評価をもたせるようになった。」
小此木はこう書いているんだけど、まさにその通りだと思う。
社会的な立ち位置があやふやな青年たちが「自己」を肯定するための彼らなりの自己表現が様々な論評に対して批判することだった。
そう考えたらけっこうかわいいもんって思えるかな?
――んー、思えん。
『モラトリアム人間の時代』は前述したが40年以上も前の著書である。
当時の青年は今や60代である。
だが、青年の心理はそこまで変化していないことが以上に述べていたことから判る。
自我分裂。
情報化社会の病理。
「自分の感覚で知覚し考える直接的な世界にいると同時に、ラジオ、新聞、テレビの情報によって構成されている間接的な世界にいる(中略)この二つの世界それぞれで、違った感覚、判断、思考をしていることが多いのではなかろうか」
これが自我分裂の始まり。
「現実の世界では、常にお互いに一個の人格であり、それぞれの時点での発言は連続性をもつので、それら相互間の矛盾・撞着は許されない。」
「マスコミの世界では、とにかくその時点、その時点での論理的正当性があれば、個人的な制約を離れて何でも主張できる。(中略)つまりこの世界では、論理と発言の基準が、個々人の人格的な統一性と一貫性や、それを成り立たせている現実関係に即したものであるよりも、マスコミ社会特有の他人志向的な構造によって、決められてしまうのである。」
現実とマスコミという二つの世界の間のジレンマ。
このジレンマによって、ネットで何でもかんでも平気で批判できる図太い精神が生まれたんかな?(批判すべきところは批判してもいいとは思うけど)
この自己分裂を止めるためには、マスコミのような無人格性を持つ世界に「人格」を与えていかねばならない、ってことを小此木は書いていた。
なかなか一朝一夕でなせることと違う。
40年以上経った今でも、現況は当時と変わってないくらいだし。
現実の自分と、マスコミの中の自分。
この二人の自分の隔絶を埋める。
そのためには自分が言ったことに責任を持ち、それに合った行動をすること。
「有言実行」の姿勢を示していくこと。
たったそれだけのこと。
ほんとにただそれだけのこと。
これから情報化社会どころかSociety5.0と呼ばれるAIやICT、IoTなどのデジタル革新イノベーションを最大限活用して実現する未来社会に移行していっている。
「人間らしく」生きるためにも、情報化社会が残した遺産である病理にしっかりと向かわなければならない、と思う。