変身譚として読む『砂の女』(大学のレポートで提出したもの)

1 はじめに

 

 安部公房は一九二四年、東京に生まれ、十六歳まで満洲奉天で過ごす。一九四三年に東京帝国大学医学部に入学する。一九四八年に大学を卒業するも、医師にはならずに、創作活動に勤しむ。一九五一年に『壁――S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞し、六二年に発表した本研究作品である『砂の女』は読売文学賞を受賞、及び、フランスで最優秀外国文学賞を受賞する。さらに映画かもされ、六四年にカンヌ映画祭賞を受ける。文学以外にも、『友達』などの戯曲を発表したり、演劇集団『安部公房スタジオ』を立ち上げて俳優の養成に取り組んだり、『お化けが街にやって来た』などのラジオドラマの製作を行なったりと、多方面で活躍した。海外での評価も高く、ノーベル文学賞に最も近かった作家とされた。九二年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員になる。九三年、急性心不全で急逝する。

 安部公房が創作活動を行うにあたり、埴谷雄高荒正人ら七人が創刊した文芸雑誌『近代文学』や評論家の花田清輝、画家の岡本太郎らが発起した研究会『夜の会』に参加する。花田清輝カフカの影響を受け、シュルレアリスムの影響を受け、前衛的な手法で、不条理や人間疎開といったテーマの作品をてがける。

 

2 「砂の女」について

 

 昭和三〇年八月のある日、男が休暇を利用し、新種のハンミョウを採集するために砂丘の村に来た。そこで村の老人に、部落の中の民家に滞在するよう勧められる。その家にはやもめが住んでいて、家を守るために砂掻きに追われていた。男は翌朝、外に出るための縄梯子がなくなっていることに気付き、それとともに、男は自分がこの砂丘の底に閉じ込められたことを知る。男は女と同棲生活を営みつつ、脱出をはかるようになる。その末、砂丘の底からの脱出に成功するも、砂地で溺死しそうになるところを村人に助けられ、また家に連れ戻される。男は脱出を諦め、やがて、溜水装置の研究が彼の日課となる。女が子宮外妊娠で町の病院に運ばれ、縄梯子がそのままになっていたが、男は溜水装置のことを村人に話したい衝動に駆られ、逃げる手立てはまた翌日にも考えればいいと思った。

 『砂の女』のあらすじは以上であり、本作品は日常の理不尽さを描き、その中で自己の存在を問いかけるものとなっていて、世界からも評価も高い。本研究はこの『砂の女』の解釈を踏まえた上で、安部公房の作品でテーマとされやすい「変身を通して、訴えかける自己の存在」(『デンドロカカリヤ』、『壁――S・カルマ氏の犯罪』、『赤い繭』など)の「変身譚」を『砂の女』でも見出し、論じていこうと思う。

 

3 安部公房作品に見られる変身譚

 

 安部公房の作品の特徴として挙げられるのが、変身という装置を用いて、社会に問いかけるというスタンスである。例えば、『デンドロカカリヤ』では主人公がデンドロカカリヤという植物に変身する。『壁――S・カルマ氏の犯罪』では、主人公が一枚の成長してゆく壁に変身する。『赤い繭』では行き暮れた主人公が赤い繭に変身する。これらは当然、何の前触れもなく変身するのではないし、安部公房自身思いつくがままに主人公を変身させたのではない。この変身には、意味があるものである。

 『デンドロカカリヤ』は安部の変身譚の第一作にあたるもので、松原新一が『否定の精神――安部公房小論』(『作家の世界 安部公房』番町書房、一九七八年)において、『人間の植物化イコール自己喪失』、「なんらかの共同体に帰属することが、「政府の保証」つきのような「平穏」を個人にもたらすとしても、それと引きかえのようにして人は自己を失わなければならないというわけだ。」と論じている。作中で、コモン君が「植物病」の原因が「抑圧階級の圧制」にあると気づくことから、「自己喪失」は抑圧階級の圧制(既成秩序)にあるということになり、安部はそれに対抗するよう呼び掛けている。つまり、『デンドロカカリヤ』は「自己喪失」の原因である社会に対抗しようというのである。

次に『壁――S・カルマ氏の犯罪』について、この作品ではまず主人公が名前を失う。後に論じる『砂の女』における「名前」の在り方にも関わってくる。

 安部のエッセイ『無名詩集』(自費出版、一九四七年)で「私の真理を害ふのは常に名前だつた」とあり、また、同じ『無名詩集』に「名前を与えられて了えば総べては人間の理解可能な属性の中に圧縮されて了うが、既に怖れも驚愕も失って了う。」ともある。さらに「異端者の告発」(『次元』、一九四八年)には「フロイドの説を信頼し、〔名づける〕ことが存在の征服であることを武器としている君達」とあり、そして、「映像は言語の壁を破壊するか」(『群像』、一九六〇年)における「サルトルは『嘔吐』(ただしくは、むかつきとでも訳すべきものだろう)という小説の中で、まだ、名づけられないもの(=実存)が人間にあたえる衝撃と苦悩をえがいた。名づけ、言語の秩序の中にくりいれることで、人間は外部の存在を服従させ、安全なものにし、家畜化することができたのである。」という言葉がある。安部公房は「名前」は社会秩序の中に組み込まれることで、初めて存在として認められる、という主張が見えてくる。これは、裏を返せば、「名前」を失えば、社会秩序から排斥され、存在を征服されていない立場に追いやられるということになる。「壁―S・カルマ氏の犯罪」では、主人公の「ぼく」は「名前」を失い、社会秩序から脱落し、「壁」に変身した。なぜ「壁」に変身したのか、「犬」や「虎」などでは駄目なのか、と議論をする余地はあるが、それについては「安部公房文学の研究」(著:田中裕之、和泉書院、二〇一一年)の第六章『S・カルマ氏の犯罪』論に、

 

 「名前」を失った「ぼく」は、既成秩序から脱落していたわけであるから、ここでの「壁」とは、部屋を取り巻く単なる物質としての「壁」ではなく、既成の秩序体系を構成している既成価値・既成概念を意味しているといえよう。

 

 とあるので、それに従うことにする。

 さて、同書に「人間は、既成価値・既成概念によって構成された秩序体系の中に身を置いていれば、自己の存在権を保証され、安心感を得ることができる。しかし、それらの価値や概念が固定化し、秩序体系が堅固のものとなると、それは内部の人間を規制し拘束するものとして、重くのしかかってくる。」とある。自己の存在権の保証されるために「名前」があり、それに逃げられた主人公は既成価値・既成概念としての性質をもつ「壁」に変身する。いわば、自己のレゾン・デーテルの獲得である。そこで「世界の果」を発見したことから、これは新たな秩序の獲得でもあるといえる。『デンドロカカリヤ』を踏まえれば、それを読み手(自己喪失に陥った人々)に「新たな秩序」を手に入れに行こうと呼び掛けているともとれる。

 最後に、『赤い繭』についてだが、こちらも『壁――S・カルマ氏の犯罪』と同様に、何者でもなくなった主人公が変身を遂げる話で、やはり自己の喪失をテーマとしている。自分の家、つまり、帰属させる場所を見出せなくなった主人公が、赤い繭になる。『安部公房論』(サンリオ選書、一九七一年)において著者の高野斗志美は「赤い繭」の主題を「プロレタリアートにおける人間発見」としている。「壁―S・カルマ氏の犯罪」の主人公が平凡賃金労働者であったように、『赤い繭』の主人公は素性こそ明らかではないが、そもそも彼自身、自分が何者かを理解していないようだが、疎外状態にある彼は「赤い繭」になることで新たな生き方を見出した。

 変身譚三作品の共通点は、前述したとおり、「自己喪失」それが引き金となっての「変身」である。それぞれ、その変身をカフカ的な不条理として描きつつも、その作品の底意には前向きな姿勢が隠見している。『デンドロカカリヤ』のコモンくん、『壁――S・カルマ氏の犯罪』の「ぼく」、『赤い繭』の「おれ」には申し訳ないが、彼らが理不尽にも変身してくれるによって、読み手はその変身から意味を見出す。

 さて、『砂の女』について、主人公仁木順平は最後まで彼のままで、変身しない。しかし、私はこの作品を、前に挙げた三作品と同じく、「変身譚」として読んでいきたい。そして、主人公が何に変身し、その変身にどんな意味があるか、以降で論じていく。

 

4 「仁木順平」の変身

 

 『砂の女』の主人公は仁木順平であり、その名前を知るのは第十一章における《姓名、仁木順平。三十一歳。‥‥‥》とあるところである。また、一番最後の「失踪に関する届出の催告」においてもその名前が記されている。しかし、物語の語り手は彼を「男」と呼んでいる。これについて、木村功『「砂の女」論――〈仁木順平〉から〈男〉へ――』(『宇部短期大学学術報告』、一九九七年)はこう書かれてある。

 

 物語られる「現在」において仁木順平の〈死亡の認定〉(一)がなだれ、彼が法的に存在せず、名前を失った一個の「男」でしかないことを示し‥‥‥

 

 前章3で述べたが、「名前」は自己の存在権を保証するもので、物語上の現在、「仁木」は世間から隔絶された場所の砂の中にいるのだから、彼はその存在を保証するものを持ち合わせていないうえ、民法第三十条によって、死亡の認定を受けている。このことから、「仁木」ではなく、「男」と語り手は記している。二十章において(映画版では冒頭部にある)、「あらゆる種類の証明書‥‥‥契約書、免許証、身分証明書、使用許可証、権利書、認可証、登録書、携帯許可証、組合員証。表彰状、手形、借用証、一時許可証、承諾書、収入証明書、保管証、さては血統書にいたるまで」と、自分が自分であることを証明するための紙切れを列挙している。これは自分を保存するための息苦しさを表しているのではないか。「デンドロカカリヤ」で言うところの「抑圧階級の圧制」を言明しているのではないか。ここで松原新一の「なんらかの共同体に帰属することが、「政府の保証」つきのような「平穏」を個人にもたらすとしても、それと引きかえのようにして人は自己を失わなければならないというわけだ。」という言葉が生きてくる。「政府の保証」つきのような「平穏」というのは、教師としての「仁木順平」や同僚の「メビウスの輪」など、大きな共同体の中に住まう人々が先ほど列挙した証明書の数々によって、「個人」を守っている事実がある反面、それにより、彼らは自己を喪失してしまっているということを指している。しかし、「仁木」は政府に保証された生活、いわば、砂の穴で生活する以前の生活について、あまり満足はしていなかったようだ。

 日常生活に退屈を覚えていた「仁木」は流動する砂に心を奪われていた。また、砂地に生きる虫は競争圏外に逃れた生き物として認識していて、それを採集しながら、心の中に砂を描き、彼は自分自身が流動し始めているような錯覚を覚えさえする、という。ところが、そんな彼は砂の穴の生活を拒み、共同体を欲そうと脱走を試みる。このことから、「仁木」は社会に埋没した自己を失った人間であると言える。

 前述したが、「仁木」は民法第三十条によって、死亡の認定を受けている。つまり、彼は法的には存在しない人間で、そのため、語り手は彼を「男」と呼んでいる。つまり、「仁木」は自己を喪失した男である。安部公房が筆者ということを考えれば、「仁木」がこのことが引き金となって、変身を遂げても何ら不思議はないはずである。しかし、彼は変身をせず、人間のままであった。

 私は『砂の女』を変身譚として読む。『デンドロカカリヤ』でも『壁――S・カルマ氏の犯罪』でも『赤い繭』でも「自己喪失から変身」の構図を経てきているので、『砂の女』でもその流れを受け継ぐものだと考える。

 では、「仁木」は何に変身したか。それは「砂の男」である。「仁木」の世界観は大きく変化した。『「砂の女」における流動と定着のテーマ』(鶴田欣也、『芥川・川端・三島・安部・現代文学作品論』桜楓社 一九七五年)では「仁木」の微視的視野が巨視的視点を得て、今まで見えなかったことが見えてきたと書かれ、次にこのようにある。

 

 安部的に言えば、物事の関係が見えてきたことは、穴だったものが高い塔になり、乾燥した砂が水になり、人間が虫になり、加害者が被害者になり、流動が定着になり、死が生になったりすることなのだ。

 

 このことを鶴田は「物事の中間に人工的に建てられた壁が崩れたわけである」と述べた。つまり、「仁木」は砂の穴の生活を経て、彼の中の「壁」が崩れたということだ。その「壁」というものは、人間だれしも持っているもので、共同体の中で暮らしていると、その「壁」が崩壊することはない。しかし、「仁木」のように特殊な環境に身を置いて、初めて、その「壁」の存在に気付くと同時に、その「壁」が崩れる。その「壁」が崩れると、あらゆるものが変身する。その「壁」の持ち主だった人間である「仁木」は「砂の男」となり、「奇妙な砂の女」は「人間」となり、「メビウスの輪などの同僚」は「虫」になる。そう考えると、「走れメロス」で言うところの邪知暴虐だった王が改心するといった、心が変わったという単純な説明で済ませられるようなものではなく、もっと大きな変化、これこそ、カフカの『変身』のようにグレゴールが毒虫になったり、中島敦の『山月記』のように李徴が虎になったり、するような「変身」ではないか。また、あらゆる人物が変身をするという意味では、オウィディウスの『変身物語』のようにあらゆるものが変身を遂げる話だと言ってもよいだろう。

 

5 「砂の男」とは

 

 前章で「砂の男」という語を使ったが、『「砂の女」における流動と定着のテーマ』において、同様の表現がある。これと、私の用いるところの「砂の男」は本質的には同じであるが、鶴田の語をそのまま用いているのではないことをここで断っておき、私の用いる「砂の男」が何たるかをはっきりとさせておく。

 男は砂の穴からの脱出を試みることなく、そこで溜水装置の研究に勤しむようになる。これは「砂の女」と同じ砂の穴での暮らしを享受したことを意味する。

そして「溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえない。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。」とあるように、「仁木」は敵愾心を向けていた村の人達に、溜水装置の発見を教えてやりたいと思っていることから、多少なりともその発見をしたことにより、村人よりも上の位置に立とうという姿勢は見られるが、彼らに対し仲間意識のようなものを抱いていることが分かる。妻や同僚などは「仁木」を束縛する存在として描かれ、それは、彼らに対する仲間意識が希薄であったことを指す。つまり、仲間意識に乏しかった「仁木」が砂の穴での生活、溜水装置の研究を通し、それを獲得する。

 以上のことから、「仁木」を「砂の男」と表している。

 

6 安部公房自身の変身

 

 実際、一般的に『砂の女』は変身譚としては読まれてはいない。『メタファーとしての変身:安部公房砂の女』まで』(北川透笠間書院、一九九二年)では、この作品を変身譚と取っていないことを踏まえた上で、『壁――S・カルマ氏の犯罪』や『赤い繭』のような行き暮れた主人公による変身譚と異なる点を挙げている。

 

「明らかに異なる文体をもっている。」

「小説全体が非現実のメタファーとして成立しているとしても、それを構成している細部の仮構は緊密なリアリズムに近い。」

「リアリズムの仮象をもち、首尾一貫した物語の文脈をもっている」

 

 『砂の女』をリアリズム小説に近いものとして述べている。これまでの安部の変身譚は、到底リアリズムと呼べるような代物ではなかった。ところが、『砂の女』は変身譚としての系譜(「自己喪失」をテーマの底に沈めている)をとりながら、なぜ、従来の一目瞭然の変身譚としなかったのか。

 まず、安部の初期の「変身譚」を見てみる。『デンドロカカリヤ』ではコモンくんがデンドロカカリヤとして標本にされる。『壁――S・カルマ氏の犯罪』は成長してゆく壁になり、『赤い繭』は玩具箱に入れられる赤い繭になる。どれも人間とは大きく離れた存在である。では、『砂の女』の主人公が「砂の男」に変身することにどんな意味があったか。

「仁木」が「砂の男」となるにあたり、彼から定着観念が取り除かれる。『『砂の女』論――その意味と位置――』(田中裕之、一九八六年、十二月)の言葉を用いると「己の希求する自由の出発点に立つことができた」というわけである。私は「「仁木」が砂の穴で過ごしながらも、溜水装置の発見により、脱走であったり、砂の穴に残ったりとあらゆる選択肢を見つけ出した」ということを指すと解釈した。今までの安部の変身譚は、人間とは大きく離れた存在になることにより、「自由」を得られなかった。ところが、『砂の女』では、最後に「仁木」は自由を手に入れたのだ。

 ここに安部公房自身の変身も絡んできている。

『チチンデラヤパナ』という作品がある。これは『砂の女』に先立つ短編で、一九六〇年に発表されている。いわば、『砂の女』の原形である。『砂の女』の第七節(「男」が村の策略にはまったことを知り、女に問い詰めるところで終わる)までを描いている。『砂の女』と『チチンデラヤパナ』の違いについて、すべてを挙げるとなると、きりがないため、顕著なものだけ挙げることにする。前者の主人公は教師であり、後者の主人公は労働課に勤める職員である。そして、もっとも注目に値する箇所がある。それは『砂の女』にはなく、『チチンデラヤパナ』にある次の文である。

 

 砂の壁‥‥‥無限にくずれ落ちる、実体のない砂の壁‥‥‥砂がおれを裏切ったのだ‥‥‥しかもこの向うには、まだ裏切られない人間もいる‥‥‥それまで彼は、砂はいつも人間の向うにだけ立ちはだかっているものだと思っていた‥‥‥しかし、いまはちがう‥‥‥砂の向うに、人間が立ちはだかっているのだ‥‥‥

 

 ここで「砂がおれを裏切ったのである」という一文に注目する。小泉浩一郎の『『砂の女』再論―研究史の一隅から』(『國文学 安部公房 ボーダーレスの思想』第四十二巻九号 學燈社 一九九七年)で『砂の女』における砂を「その無限定性・流動性は、それ故にこそ作者安部公房に切実なるものとして現実(世界)認識変革への問いかけの根源的対象たりえたのであるし、「流動する砂」に象徴される資本主義的現実の圧倒的量感、融通無礙性、その潜在的可能性―凡なるものを腐蝕する砂は、その内部に元来「水」(希望)を秘めたものである」とある。つまり、「流動する砂」は社会のことを指していて、それが「裏切った」ということは、社会が裏切ったということである。『チチンデラヤパナ』の主人公は砂(=資本主義社会)に裏切られたと思っている、そして、安部公房自身、「砂」に裏切られたと思っている。安部公房自身、砂に憧れを持っていて、その証に『砂の女』で次のような文がある。

 

 たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存にとって、絶対不可欠なものかどうか、定着に固執しようとするからこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか。もし、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争もありえないはずである。

 

ここで、安部が『チチンデラヤバナ』を執筆する以前を振り返ってみる。

 

 一九五〇年‥‥‥日本共産党に入党する。

 一九五一年‥‥‥『壁――S・カルマ氏の犯罪』発表

 一九五六年‥‥‥東欧へ訪問。翌年『東欧を行く――ハンガリア問題の背景』を刊行。

 一九六〇年‥‥‥『チチンデラヤパナ』発表

 一九六一年‥‥‥共産党に除名を受ける。

 

 『壁――S・カルマ氏の犯罪』では、安部の「新たな秩序の獲得」を描いていると3章で述べた。田中裕之の『『砂の女』論――その意味と位置――』によれば、共産党に入党したのは、既成秩序を破壊し、永久革命の可能性を見ようとしたためだという旨が書かれ、田中によると、「実際に党の内部に入って、党の方針を内側から眺めることになると、彼の思い描いていた党の姿と、そこに在る党の姿との間に、徐々にズレが生じてきた」とし、そのズレが次第に大きくなり、一九六〇年の安保闘争によって、決定的となったとしている。いずれにせよ、安部が憧憬していた流動する「砂」を「裏切りの対象」と見做すところには、彼の思いが強く反映していることは確かで、「砂」が資本主義社会のメタファーというならば、その裏切りは社会に対してである。安部は『東欧を行く――ハンガリア問題の背景』で共産党との乖離を予感させ、後に批判的な立場をとったことで、共産党から除名されている。

 『チチンデラヤパナ』において、安部は共産党を取り巻く社会に対し裏切られたと主張し、田中の言葉を借りればこの作品で、安部は「共産党の決別宣言」をしている。共産党員として、国家権力に抗おうとしていた彼は、共産党から降りることで、希求するものを失う。つまり、自己喪失である。安部お得意の「変身」の引き金である。そして、『砂の女』で、「仁木」は砂の穴で「自由」を手に入れたことから、安部自身も己の希求する「自由」を手に入れる。その条件として、今までは国家権力への対抗であったが、『砂の女』では大きな仲間意識や共同体意識が対向の的であることが、本作でうかがえる。『砂の女』に続く、『他人の顔』や『燃えつきた地図』では、『砂の女』と同じく、定着観念からの解放、及び、共同体への戦いなどを匂わしていて、安部は完全なる変身を遂げたと言えよう。

 

7 まとめ

 

 『砂の女』は、『デンドロカカリヤ』、『壁――S・カルマ氏の犯罪』、『赤い繭』のような変身譚で変身の装置として用いられる「自己喪失」が底流に潜んでいる。しかし、それにも関わらず、「仁木」は変身をしなかった。しかし、ある意味において、「仁木」は「砂の男」に変身し、同様に彼を取り巻く人物(砂の女や妻や同僚)も変身をした。これは「仁木」が砂の穴の生活で、微視的な視点から巨視的な視点を手に入れたことにより、今まで見えなかった事柄が見えてきたことを意味する。そして、「仁木」は「砂の男」として、溜水装置を発見し、村に対する仲間意識を獲得する。この「仁木」の変身を描くうえで、筆者である安部公房も変身をしていた。『壁――S・カルマ氏の犯罪』などで見られたのは、共産党員として、国家権力を攻撃の的としていたが、『チチンデラヤパナ』で流動する「砂に裏切られた」とあるように、彼は共産党を取り巻く社会に裏切られたと思い、共産党を離党する。そして、『砂の女』で見られるように、安部は定着観念から解放され、新たな発見、自由を手に入れたことがうかがえる。そして、その条件は、攻撃の対象を「仲間意識」とすることだ。そういった意味において、安部自身が変身したと言えるだろう。

 

 

砂の女 (新潮文庫)

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