池上彰『なんのために学ぶのか』
高校までの教育と、大学の教育の違いとは何か。
学習者のことを、小学生は「児童」、中・高校は「生徒」、大学に入ると「学生」と呼ぶ。
小・中・高の教育は文部科学省が定めた学習指導要領に基づいて行われる。
教科書は出版する教科書会社は異なれど、どれも学習指導要領に沿って作られ、文部科学省が検定して文部科学省検定済みの教科書として学校に届けられる。
しかし、大学教育には学習指導要領は、教育は各大学の独自性に任される。教科書なるものも教授が指定することはあるが、それは文部科学省の検定とは無関係だ。
そもそも学生とは、自ら学ぶ生き方をする人間だ。大学の独自性に任されるということは、教育が画一化されていないということである。教授が指定するテキスト類の主張が大学によって異なるなどザラであるということだ。
これは授業で習うことすべて正しいと思い込むのは危ういというわけだ。
だからこそ、大学は自ら学び、自ら考えることを要される。従順に一から百まですべて鵜呑みにするのは、大学教育ではよくないということだ。
で、この「自ら学び、自ら考える」教育が小・中・高に入り組もうとしているわけであるが、この教育は現場において中途半端な形で存在している(言い方が悪いな。端境期と言った方がいい)。
そもそも、この主体的な学びを受けてきたことないひとが教員になっているのだから、現場に混乱がもたらされるのは必至である。
主体的な学び!
自ら学びを得ろ!
なんてこと言われても、そもそも「学び」とは何か? なぜ人は学ばなければならないのか? そんな疑問が先行する。
なぜ学ぶのか?
結論から述べると、「すぐに役に立つことばかり考えるのではなく、いまおもしろいこと、知りたいことを一生懸命学ぶ。それがいつか必ず、何らかのかたちで生きてきます。」というわけである。
これは大学教育の意義について述べた文章だが、実際、「学び」の本質も同じではないかと私は思う。
たとえば数学が苦手なのに無理やり勉強させられても、そこに「学び」は生まれないと思う。やっぱり、戦国時代の武将が好きなひとが戦国時代について調べたり、パソコンが好きでプログラミングに興味を持ち、PHPに触れてみる、そういった先立った興味があって、初めて確かな「学び」が生まれるものだろう。
なぜ学ぶのか? という疑問に答えてないじゃないか! と言われそうだ。
だが、実際、その疑問に答えられている。
「学び」は、これから自分の人生に生きていく「何か」を得るためにするのである。
「何か」って抽象的すぎないか? と思われそうだが、実際そんなのひとによって違うんだから具体的なことは言えないに決まっている。
スティーブ・ジョブスは大学を中退しても「カリグラフィー」(アルファベットをどのようにデザインするかという学問)の授業にこっそり出席していたそうだ。ただおもしろいと思ったから、授業に出ていたのだ。それがのちのiPhoneの開発に生かされた。
こんなふうに、興味あるものを「学び」(そこに目的などない)、それが何らかに生かされる。
さて、小・中・高で行われる「主体的な学び」は本来の意味で「主体的」に学べるのだろうか? 算数・数学嫌いの子が主体的に取り組むことができるだろうか?
私は総合学科の学校の教師である。
総合学科では、系列授業というものがあり、あらゆる講座を選択することができる。(ホームページを作る授業だったり、看護系の勉強ができたり、日商簿記の授業だったり)
こういった選択授業は自分の興味からその講座を選択するのだから、学びの本質に合っていると思う。
だが、大学進学を視野に入れる学校ではそんな選択授業などない。大学受験のための勉強を三年間行うだけだ。そんな環境の中で「主体的な学び」を! と言われても、矛盾しか感じない。大学受験のための科目に縛られ過ぎて、主体的な学びは生まれにくいように思える。
……まあ、学びというもののありがたみというか尊さというか、そういったものは社会に出てから見つかるものなのかもしれない。