齋藤孝『新しい学力』

 これからの時代、「生きる力」が求められている。

 

 文部科学省は「生きる力」について以下のように定義づけている。

 

・基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力

・自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性

・たくましく生きるための健康や体力 など

 

 変化が激しく、新しい未知の課題に試行錯誤しながらも対応することが求められる、複雑で難しい時代を担う子どもたちのための「生きる力」。

 

 この「生きる力」をはぐくむために、「主体的・対話的で深い学び」が大事だと明言されている。

 いわゆるアクティブラーニングというやつだ。

 

 このブログでも紹介したが、学力の低い高校では、アクティブラーニングを授業で取り入れるのは難しい。

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

 まず、教師が適切に指導するのが難しい。

 生徒全員が課題に対して意欲的であるならばいいが、関係のないお話をしていたり、話し合いに参加しなかったり、もはやグループワークの態をなしていない場合、その都度指導をしなければならないので身が持たない。

 馬鹿の一つ覚えみたいにアクティブラーニングを授業に積極的に取り入れたところで、生徒側が意欲的でないならば、だらだら話し合いをするだけで終わってしまい、何も身につかないという現象が起こってしまうのだ。それなら、従来の一斉授業を行った方がましだ。

 

 つい最近、高校生クイズという番組を見た。

 私の記憶では高校生クイズといえば、化け物級の賢い高校生が化け物みたいな問題を解いていくといった知識の格闘番組、といった印象があったのだが、今ではそういった知識を要しない「創造性」を重視したクイズを行っていた。

 

 創造性という言葉を聞いて、私の親は感心した。

「これからはこういった力が必要だ」と。

 そして、「今までの知識詰込み教育はよくない」といったことを言っていた。

 世間でもそういったことを言っている人は多いのではないか?

 また、親は、

「知識ばかりあっても意味がない。今の政治家は知識ばかりあって創造性がない」

 みたいなことも言っていた。

 このように知識詰込みが得意な(記憶力のある)方々が東大という肩書を持って今の国会に腰を据えているという状態を憂いている人は多いのではないか?

 官僚の賢さとか能力とか、そういった問題はさておき、「東大=記憶力のいい人に有利」という構図ははたして正しいのか?

 

 2020年度東京大学の入試問題「地理歴史」の問題を提示する。

 

 

次の(1)~(5)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1)842年嵯峨上皇が没すると、仁明天皇を廃して淳和天皇の子である皇太子恒貞親王を報じようとする謀反が発覚し、恒貞親王は廃され、仁明天皇の長男道康親王文徳天皇)が皇太子に立てられた。以後皇位は、直系で継承されていく。

(2)嵯峨・淳和天皇は学者など有能な文人官僚を公卿に取り立てていくが、承和の変の背景には、淳和天皇恒貞親王に仕える官人の排斥があった。これ以後、文人官僚はその勢力を失っていき、太政官の中枢は嵯峨源氏藤原北家で占められた。

  (中略)

(5)清和天皇貞観年間(859~876)には、『貞観格』『貞観式』が撰定されたほか、唐の儀礼書を手本に『儀式』が編纂されてさまざまな儀礼を規定するなど、法典編纂が進められた。

 

設問

 9世紀後半になると、奈良時代以来くり返された皇位継承をめぐるクーデターや争いはみられなくなり、安定した体制になった。その背景にはどのような変化があったか、5行以内で述べなさい。

 

 

 以上の問題を読んで、どう思うだろうか?

 暗記が得意だからといって解ける問題ではない。

 また、重箱の隅を楊枝でほじくるような難問というわけでもない。

 

 東京大学の出題の意図は以下の通りだ。

 

 問題はいずれも、①日本史に関する基礎的な歴史的事象を、個別に記憶するのみならず、 覚えた事実を互いに関連づけ、統合的に運用する分析的思考を経た知識として習得しているか、②設問に即して、受験までに習得してきた知識と、設問において与えられた情報とを関連付けて分析的に考察できるか、③考察の結果を、設問への解答として、論理的な文章によって表現できるか、を問うています。歴史的な諸事象が、なぜ、どのように起こったのか、相互の間にどのような関係や影響があったのか。それを自ら考えつつ学んできた理解の深さと、自らの理解を論理的に表現する力を測ろうとしています。(東京大学「『地理歴史(日本史)』の出題の意図」2021年)

 

 こういった能力が問われているというのに、東大の問題は化け物級に暗記が得意な人が合格できるなんて烙印を押されているのが不憫でならない。

 出題の意図から、論理的思考力や文章には明記されていないが問題解決能力が求められていることがわかる。

 以上が「東大=いっぱい知識があれば有利」という間違った構図への批判だ。

 

 じゃあ、東大が論理的思考力や問題解決能力だけを求めているのかといわれれば、そうでもない。基礎的な知識もそれなりに必要である。それは上の出題意図からも読み取れる。上記の日本史の試験を見る限り、奈良時代の歴史的背景をそれなりに理解しておかなければ、問題は解けないことがわかる。

 

 つまり、「基礎的な知識+論理的思考力・問題解決能力」が必要だということだ。

 

 新学習指導要領における学習評価は「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点で整理されている。

 ここからも基礎的な知識に加え、「思考力・判断力・表現力」といった「考える力(まさに論理的思考力!)」、「主体的に学びに取り組む姿勢」などがこれからの学習で必要となってくるということがうかがえる。

 「思考力・判断力・表現力」の向上のために、「主体的に学習に取り組む態度」を育むために、主体的・対話的で深い学びを授業で取り入れることが教育現場では求められているのだ!

 確かに昨今の時代の潮流を踏まえると、さもありなんという感じだ。

 しかし、どの教科においてもどの学校においても「主体的・対話的で深い学び」を求めるというのは酷だと思う。

 新学習指導要領の理念から言えば「基礎的な知識」も必要事項である。しかし、この「基礎的な知識」すらまったく身につけていないような子がいるという事実を忘れてはならない。

 アクティブラーニングが「基礎的な知識」を身につけていない子たち同士が行っても、まったく意味がないように、「基礎的な知識」すら定着していない子たちに「主体的・対話的で深い学び」の授業の実践をしても意味がない。

 

 私の勤務している学校では「漢字」をまともに書けない(「鼻」とか「道」とか、そういった小学生の漢字でも間違える。漢字を書き写すことすらできない。また、文章を書かせば「てにをは」はめちゃくちゃ。自分の思いを言語化できないため、まともな意見文は書けない。それなのに、3観点の評価を求められる。

 

 よく悪く言われることが多い「知識詰込み授業」も大切だ、と私の勤務している学校の先生は言っている。

 まず基盤がしっかりしていないのだから、それを固めるための知識を教授する必要があるということだ。

 

 また、「主体的に学習に取り組む態度」という評価観点があるが、そもそも私の勤務している学校の生徒の中には、家庭にいろいろ事情があったり、精神的に不安定だったりと、カウンセリングを必要とし、もはや勉強どころではないといった子や、多動性、学習障害言語障害を有する子たちがいて、そういった「主体的に学習に取り組む態度」を持てる状況ではないといったリアルがある。前者の子たちは、学校に来るだけで偉いとされ、後者の子たちは、席に座り続けるのが苦痛に感じたり、勉強しても成績が伸びないために勉強が楽しくないと思ったりする。子ども一人ひとりに相応の支援をすれば、そういった子たちの学習をサポートできるかもしれないが、いかんせんそういった子たちの数が多すぎる。

(ついでに言うと、オンライン授業なんてできるはずもない。そもそも自分を律することが難しい子たちだから、決められた時間にPCを開いて、授業を受けるといったことができない。それどころか、家庭の経済状況的にPCなど持っていないといった生徒が多くいる。)

 

 つまり、私が何を言いたいのかというと。

 

 昨今の「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けての取組は、その目的としては立派なものだが、だからといって、基礎的な知識すら定着していない子たちにも、そういった取組を求めるというのは違うと思う。

 それぞれの学校の生徒の状況にあった授業というものがあるはずだから、どの学校にも同じように「主体性!」「創造性!」といったものを求めるのではなく、それぞれの学校の生徒が必要とされているものは何か見極めたうえで、授業のプログラムを組んだほうがいいと私は思う。

 精神的に不安定ならば、カウンセリングを充実させ、勉強面はさておき、学校に来るという習慣をつけ、社会に出るまでのサポートをできる限りにおいて学校側が支援すればいいと思う。

「主体的・対話的で深い学び」とか言っていられない学校があるという事実を忘れてはいけない。学校ごとに状況は異なるということを踏まえたうえで、学校ごとに教育方針を変えていくべきだと私は思う。

 

 基礎的な知識が欠如している生徒がいる学校では、主体的・対話的で深い学びの実現は難しいという話をしてきたが、今度は「じゃあ、基礎的な知識をどうやって身につけさせることができるか?」を考えてみよう。

 

 その方法は「学ぶ意欲」を持たせることだと思う。

 学ぶ意欲さえ持たせることができたら、「学びたい」という気持ちを芽生えさせ、学びに向かわせることが可能になる。

 進学校にいる生徒たちはいい大学に受かりたいという気持ちから、勉強をしなければならないものだと思っているため、否が応でも勉強をする。だから、正直教師側が生徒に学ぶ意欲を掻き立てることなく、彼らは自発的に勉強をする。

 

 しかし、進学校ではない、学力の低い学校では、別に勉強はできなくてもいいと思っているため、教師側が生徒に学ぶ意欲を掻き立てる必要がある。

 学ぶ意欲といっても、「これから国際社会になっていくのだから英語は勉強しないといけない」と言っても、彼らには何も響かないだろう。

 進学校の生徒で、将来、海外進出を視野に入れているなら、「英語は必要」と勝手に思ってくれるだろうが、そうでないと英語を学ぶ意義を見出せず、勉強しようという気持ちを引き出すことはできない。

 

 自分の領域内にあれば学ぶ意欲は生まれる。

 自分の領域外にあれば学ぶ意欲は生まれない。

 

 たとえば、Aくんはゲームが好きだったとする。

 すると、ゲームに関する知識は一生懸命に吸収しようとする。

 たとえば、Bくんはお金が好きだったとする。

 すると、お金に関する知識は一生懸命に吸収しようとする。

 

 自分の関心・興味の有無によって、知識欲が生まれるか生まれないかが決まるということだ。

 

 じゃあ、学校で学ぶ教科も関心・興味で決まるものなのか、と落胆してはいけない。

 

 自分の領域内にあれば学ぶ意欲は生まれる。

 自分の領域外にあれば学ぶ意欲は生まれない。

 

 自分の領域というのは自分が生活するうえでという意味も内包している。

 進学校の生徒が勉強する理由が大学受験である。大学受験は別に関心・興味ではなく、自分の人生に関わる話である。

 このように学力が低い生徒に対しても、勉強が自分の人生に関わる話であることに気づかせることで、学ぶ意欲を掻き立てることができそうだ。

 

 つまり、当事者意識を持たせるというやり方だ。それによって「学ぶ意欲」を掻き立てることはできそうだ。

 

 たとえば、生物という教科でウイルスについて勉強することに興味を持つ人は以前に比べて増えたことだろう。その理由は新型コロナウイルスである。新型コロナウイルスは自分の生活圏内にある大きな出来事で無関心を貫くことのできない問題である。当事者意識を持てば、ウイルスについて学び取ろうと思うことができる。

 

 このように当事者意識さえ持つことができれば、勉強する意欲はわく。

 

 古典に興味を持てないひとが多い理由としては、当事者意識を持てないからだと思う。

 

 しかし、古典は、人々にいろんなことを教えてくれる。

(具体的な話についてはまたいつか)

 いい知恵やいい知見を与えてくれる。

 それは実生活にも影響を与えてくれる。

 そう実感出来たら、古典もまた当事者意識を持って学び取ることができるかもしれない。

 

 自分の人生の中でかかわりを持たなそうなものでも、突き詰めてみればけっこうかかわっているものがある。

 その「見えないつながり」みたいなものを、教師は生徒に気づかせることが求められるのだろう、たぶん。

 

〈まとめ〉

・これからの時代、「生きる力」が求められている。この「生きる力」をはぐくむために、「主体的・対話的で深い学び」が大事だと明言されているが、授業で取り入れるのは難しい。

・「東大=いっぱい知識があれば有利」というのは間違った認識。「基礎的な知識」に加えて、「論理的思考力・問題解決能力」を求めている。

・アクティブラーニングが「基礎的な知識」を身につけていない子たち同士が行っても、まったく意味がないように、「基礎的な知識」すら定着していない子たちに「主体的・対話的で深い学び」の授業の実践をしても意味がない。

・それぞれの学校の生徒の状況にあった授業というものがあるはずだから、どの学校にも同じように「主体性!」「創造性!」といったものを求めるのではなく、それぞれの学校の生徒が必要とされているものは何か見極めたうえで、授業のプログラムを組んだほうがいい。

・基礎的な知識をどうやって身につけさせるために「学ぶ意欲」を持たせることが求められる。学ぶ意欲さえ持たせることができたら、「学びたい」という気持ちを芽生えさせ、学びに向かわせることが可能になる。

・学力が低い生徒に対しても、勉強が自分の人生に関わる話であることに気づかせることで、学ぶ意欲を掻き立てることができそうだ。(当事者意識を持たせる)

・自分の人生の中でかかわりを持たなそうなものでも、突き詰めてみればけっこうかかわっているものがある。その「見えないつながり」みたいなものを、教師は生徒に気づかせることが求められる。

 

 ※ おまけ

 

 実は今回の話は齋藤孝さんの『新しい学力』を読んで思ったことなのです。

 しかし、今回の内容は本書の内容を踏まえてというより、わりと個人的な意見を書き連ねた感じです。

 後の話は、本書を読んで、なるほどなって思った部分を書こうかなと思います。

 主体性を求める昨今の教育事情を踏まえたうえでの言及です。

 

 

優れた経営者を育てようとする発想の背景には、イノベーションのできる人材を育てようという期待がある。新しいアイディアを出し、成功を収めることができる人物を育てることを期待している。

 これは単純化すれば、アップル社を作ったスティーブ・ジョブズのような人間を出すことを目指しているといっていい。世界になかったものを創り出し、強烈なリーダーシップでビジネスとして具体化し、世界のスタンダードにする。このような力を持った人間がいれば、日本経済も活性化することが期待できる。

 しかし、ここには疑問がある。はたして、スティーブ・ジョブズは教育によって生み出されたのだろうか。スティーブ・ジョブズはアクティブラーニングやケーススタディ的な教育を受け、優秀な成績を修めたから、あのようなイノベーションを起こすことができたのか。ジョブズの中にある使命感や美的な感性は、彼のイノベーションを起こす力の根本的なものであったが、そうしたものを「新しい学力観」は柱に据えているのか。

 そもそも、みんながジョブズになることは望ましいことなのだろうか。全員がジョブズであった場合、はたしてアップル社は現在のような業績を上げることができただろうか。ジョブズはエレベーターでたまたま一緒になった社員と会話をし、それが気に入らないとすぐにクビにしたともいわれているが、はたしてそのような人間性は目指されるべきものなのか。こうした疑問は次々に浮かぶ。

 

 

 ここ最近、インフルエンサーたちがスティーブ・ジョブズみたいになれ、とか、個人の力を高めよ、とか、そんな言葉を言っている。

 しかし、本書にも書いてある通り、みんながジョブズであった場合、アップル社はいまのような業績を上げるかといわれれば無理であろう。アップル社が成功の陰には、ジョブズの無茶ぶり(言葉は悪いか?)にこたえ続けたエンジニアたちがいたということを忘れてはならない。

 それなのに、ジョブズを崇め、ジョブズみたいに創造的な人間になろうと躍起になっているひとがいる。みんながみんなジョブズになれば、間違いなくやばい(語彙力)。

 

 主体性を目指した教育を行うのは結構だが、就職して、組織の中でなんでもかんでも主体性をもってあらゆるものに働きかけるというのはもはや自分勝手になってしまうのではないか?

 自分の意欲・関心に従う、100%の主体性を持って活動することで、組織の中をかき乱すようなことは企業に悪い影響を与えるばかりである。

 

 以前、このブログで「働くとは何か?」という題で仕事について考えた。

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 そこで「仕事は誰かの役に立つこと」と書いた。

 誰かの役に立とうとすれば、自分の主体性を抑えなければならないときだってあるし、創造性に蓋をしないといけないときだってある。

 

 また、内田樹『期間限定の思想 「おじさん」的思想2』で、

 

 仕事を通じて私たちがしようとしているのは「パスを出す」ことである。

 

 というように、組織の中で与えられた仕事をくるくると回していくということがそこで働くひとに求められている。この運動性の中に、「主体性」は時と場合によっては邪魔になるだろう。

 

 ※

 

 学問をする上で、それぞれの学問を学び、その学問を心から素晴らしいと思ったのでなければ、学習者の意欲を火につけることは難しい。学問ははじめから面白いとは限らず、地道でつまらないとも思える勉強を経て、学問がわかるようになり、そして自在に応用できるようになってはじめてそのすごさ、面白さがわかってくるものである。教師は、その面白さがわかるようにするために、粘り強く自らが情熱をもって教えなければならない。

 

 教師側がその学問に熱心でないのに、生徒にその学問に興味を持てというのは無理難題ということだ。

 私の勤務している学校の先生に

「自分が好きだって思っていることを熱心に話していれば、生徒も興味を持って話を聞いてくれるよ」

 と。

 

 たしかに楽しそうに話をするのを聞いていたら、自然と「面白い」と思うものなのだろう。それと同じように情熱をもって授業をすれば、生徒はその熱意に答えてくれるものなのかもしれない。

 

 私は今、古典をそこまで好きだと思えてない。

 ならば、情熱をもって授業ができないだろう。

 私はまず古典について学習するよりも、「本気で好き」にならないといけないのかもしれない。