内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』
子どもたちが勉強をしなくなっている。
一概にそう言ってしまうのはよくないかもしれない。
勉強をする子どもたちもいるし、勉強をしない子どもたちもいる。
PISA(学習到達度調査)のデータを参照する。
PISAとはOECD(経済協力開発機構)加盟国を中心として実施される試験で、内容は「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の三分野に分かれている。
試験には15歳3か月以上16歳2か月以下の学校に通う生徒が対象となり、日本では高校一年生が該当する。
調査の結果だが、日本は2000年時点ではなんと読解力8位、数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位だった。
しかし、2019年では数学的リテラシーは6位、科学的リテラシーは5位と上位をキープしている(とはいえ低下はしている)が、読解力は15位と低い。ちなみに一位は三分野とも中国(北京、上海、江蘇、浙江)だった。
以上のデータから、子どもたちの学力は低下していると言っても差し支えはないだろう(もちろん、本来ならばもっと実証的なデータを提示し、論を裏付けるべきだろうが、それは私の仕事ではない)。
その学力低下を憂え、筆を執った人物がいる。
内田樹。
今回紹介する『下流志向』の著者だ。
『下流志向』は「第一章 学びからの逃走」「第二章 リスク社会の弱者たち」「第三章 労働からの逃走」「第四章 質疑応答」の四章で構成されている。
その中で、第一章と第三章を重点的に要約していきたい。
1.学びからの逃走
子どもたちの学力低下
大学生は勉強しない。
そんなことがよく言われている。
大学の通俗的なイメージは、夏は海に行き、冬はスキーに行く、そんなイケイケ(古い?)な人たちによる、最後の青春謳歌の場だといっても過言ではないかもしれない。
もちろん、みんながみんなそうではないし、むしろそういった層の方が少ないかもしれない。
だが、そんなイメージが根を張っているのも確かだ。
本書によると、そこそこの偏差値の大学生の英語力は中学二年生程度に相当するとあった。そして、「かなり努力しないとそこまで学力を低く維持するのはむずかしい」なる皮肉の言葉もあった。
学力低下、と言うが、ここで考慮しなければならないのは、子どもたち自身の学力についての自己評価がかなり不正確だということである。学力が集団的に落ちているので、学力が低下していることを本人はそれほど痛切に自覚できないでいるのだ。
大学受験と言うのは、相対評価であるので、競争相手の学力が低ければ、自分の学力が低かろうが、彼らよりも少々点数が良ければ、合格できる。そういうシステムだから。
極端な話、みんなが一時間しか勉強しないなら、二時間勉強すればいいのだ。
漢字が書けない子どもたち
本書では、大学生が「矛盾」を「無純」と書いたことに内田氏は衝撃を受けたそうだ。しかも、正しい意味でそれを書いていたことが何よりの驚きだったそうだ。
「どうしてこの学生は『矛盾』という文字をこれまでの二十年間の人生、読まずに済ませてきたのか?」
内田氏はそう頭を悩ませたそうだ。
氏の得た答えは、こうだ。
「その文字を読み飛ばしているから」だそうだ。
ページを開いて、ぱっと見たとき、その読み方がわからない、意味がわからない単語があったときに、それを軽々とスキップする。スキップしてもぜんぜん気にならない。辞書で調べたりなんてしない。「わからないまま」にしておくことに抵抗がないのだ。
つまり、彼らはわからない言葉やわからない概念がそこらじゅうに散らばっている、そんな穴だらけの世界を生きている。そういうわけである。
だけど、彼らはそんな世界を難なく生きている。意味が判らないことにストレスを感じていないのだ。そういう独特な感受性の構造がここ最近の若い世代に根付いてしまったのだという。
渡辺淳一の『鈍感力』ではないが、若者たちはまさに「鈍感になる能力」を得てしまったのではないか。英単語を知らないとか、論理的思考ができないといったことを、多少なりとも自覚しながらも、それを特に不快だと思わなくなってしまったのではないか。
内田氏はまさにそれこそが「学力低下の危機的な要素である」と指摘している。
彼らは「自分の知らないこと」を「存在しない」ことにしている。
(私自身、意味の知らない語に出くわしたらなるべく調べるようにしている。
内田氏はわりと難しい語を使いたがるので、本書だけでも「惻隠の念」「弊履」「瀰漫」といった言葉は出くわした瞬間に、スマホで検索をかけた。(順に、「同情心」「やぶれた草履」「広がること」という意味)だが、「繋縛」「モータリーゼーション」といった何となく意味が理解出来そうなものはそういう意味だろうなと脳内で補ったりはしていた。)
無知のままで生きている子どもたちはそれに不安を感じていない。
氏はそう指摘する。
【余談】
私は現教師として、某高校で働いている。
いわゆる低学力層の生徒たちが集まる学校だ。
彼らはまったく漢字を書けない。
「注文」「都市」「身分」などの漢字を書けない。
これらは日常生活においてよく触れる語句だと思う。
それなのに漢字を正しく書けないのは、何となく言葉を把握してしまっているからなのだろう。意味を理解していれば、それでいい。読みさえ分かっていればそれでいい(現に、読みに関してはわりとみんなできる)。そんなふうに捉えているのだろう。それに加えて、スマホにおける漢字の変換機能。きっと、氏が指摘する「読み飛ばし」以外に、そんな言葉に対して真摯に向き合っていないことも、漢字が書けなくなってしまった要因ではないかと私は推察する。
オレ様化する子どもたち
「私語をやめて、話を聞きなさい!」
「聴いているよ!」
いやいや、聴いていないじゃん。
そんなことを言う生徒は少なからずいる。
実際に見たことがある。
そういった生徒はなぜ事実を現認しているにもかかわらず、「そのようなことはなかった」と自らの悪事を否認するのか。
初めから「すいません」と言えばいいものを、なぜ「やってない」と突っぱねるのか。
諏訪哲二氏の推論(本書に記載)が次の通りだ。
彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな「等価交換」にしたいと「思っている」。(…)そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを「なくす」か、できるだけ「小さくする」道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす「事件」の展開はこれと同じものになる(今でもそうである)。
学校では生徒たちは教師に教育サービスの対価として貨幣を払うことはできない。
代わりに「不快」という貨幣を支払っているみたいだ。
五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとって苦役でしかないが、その苦役と言う名のサービスに対し、生徒たちは「不快」という貨幣を支払おうとする。それが「等価交換」である。子どもたちの中に消費者マインドがあるというのだ。
教室は不快と教育サービスの等価交換の場である。
で、五十分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになる。
授業の価値が「十分間の集中」と対価であると判断されると、五十分の授業のうち十分程度だけは教師に対して視線を向け、授業内容をノートに書くのだが、残りの四十分間分の「不快」はこの教育サービスに対する対価としては「支払うべきではない」ものだから、その時間は、私語やゲームに興じたりする。
「私語をやめて、話を聞きなさい!」
「聴いているよ!」
生徒はほんとうに怒っている。
決められた時間以上授業を聴かないように必死の努力をしているのに、どうしてそれを単なる怠惰や不注意のようにとらえるのか……、と。
また、煙草やカンニングのような問題行動に関してもそうだ。
「吸ってねえよ」「(カンニングは)してねえよ」
そう否定することで、「やった」という事実の信頼性が揺るぐなら、否定しても損はない。
否定しがたい事実であっても、とりあえず否定することで、わずかなりとも事実性を値切ろうとする。そこにも子どもたちの消費者マインドが根を張っているわけだ。
想定外の問い
「先生、これは何の役に立つんですか?」
学問は何の役に立つのか? 永遠の問いとも思える難しい質問。
(「微分積分なんて一体何の役に立つんだよ。時間の無駄だろうが」
東野圭吾『容疑者Xの献身』。
数学教師石神に、一生徒の森岡はそう言った。
石神はバイク好きの森岡の為にこんなふうに答えた。
「レーサーたちは一定速度でバイクを走らせるわけじゃない。地形や風向きに応じてだけでなく、戦略的な事情から、たえず速度を変えている。どこで我慢し、どこでどう加速するか、一瞬の判断が勝負を分ける。わかるか」
「この、加速する度合いというのが、その時点での速度の微分だ。さらにいえば、走行距離というのは、刻々と変化する速度を積分したものだ。レースの場合は当然、どのバイクも同じ距離を走るわけだから、勝つには速度の微分をどうするか、というのが重要な要素になってくる。これでも微分積分は何の役にも立たないか?」
(森岡の「レーサーはそんなこと考えてない」という言葉に対し、)
「もちろん彼等はそうだろう。だけどレーサーをバックアップしているスタッフはそうじゃない。どこでどう加速すれば勝てるか、綿密にシミュレーションを繰り返し、戦略を練り上げる。その時に微分積分を使う。本人たちに使っている意識はないかもしれないが、それを応用したコンピュータソフトを使っているのは事実だ」
(森岡の「だったら、そのソフトを作る人間だけが数学を勉強すればいい」という抗弁に対して、)「そうかもしれないが、森岡がそういう人間にならないともかぎらないだろ」
「森岡じゃなくても、ここにいるほかの誰かがなるかもしれない。その誰かのために数学という授業はある。いっておくが、俺が君たちに教えているのは、数学という世界のほんの入り口にすぎない。それがどこにあるかわからないんじゃ、中に入ることもできないからな。もちろん、嫌な者は中に入らなくていい。俺が試験するのは、入り口の場所ぐらいはわかったかどうかを確認したいからだ」
長い引用だ。ご容赦いただきたい。書く必要のないことも書く。書きたいから書く。ただそれだけのことです。
石神は数学を勉強する意味を「数学の世界の中に入ろうとする者のため」であるとしている。
私はかつて数学を勉強して役に立つのは、将来数学教師になる者だけだとしたり顔で吹聴したものだが、当時は若くとにかく見識が浅かった。)
私は勉強をする意味は、生きていく上で必要な思考力を伸ばすためにあると考えている。『羅生門』を読むことで、読解力を鍛え、微分積分を勉強することで、数学的思考力を鍛える。思考力の鍛錬のための『羅生門』『微分積分』だと思う。
それはさておき、内田氏はどういう意見を投げたのか。
「どうして教育を受けなくちゃいけないの?」という問いに対して、「絶句する」のが当然の対応である。
え?
それでいいの?
って思ったけど、以下の論で腑に落ちた。
「人を殺してはいけないのはどうしてか?」という問いは「自分が殺される側の可能性」を勘定に入れていない。同じように、「どうして勉強をするのか?(教育を受けなくちゃいけないのか?)」という問いは、「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性を」を勘定に入れていない。
(amazarashiの「アノミー」に以下の歌詞。これを思い出した。
物を盗んではいけません あなたが盗まれないために
人を殺してはいけません あなたが殺されないために )
つまり、自分が享受している特権に気付いていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのだ。
(と、まあ、理屈はそうかもしれないが、実際に子どもたちにそんな想定外の問いを投げつけられ、絶句していたら、「この人も理解できていないじゃん。じゃあ、勉強って何の意味もないじゃん! じゃあ、やめよう」って思われてしまうかもしれない。)
だが、学びに対して有用性がどうとか考えてしまうような気障な子どもたちに対して、唸らせるほどいいアンサーがある。
それは「母語の学習を始めたときは、これから何を学ぶかということを知らなかったでしょう?」
はい、一蹴。
一蹴からのゴールシュート。
じゃないですか?
母語と言うのは起源的な意味での学びである。
それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まっている。その当の事実こそが学びを動機づけている。
内田氏は学びをわかりやすくゲームで喩えた。
気がついたらすでにゲームが始まっていて、自分はそこにプレイヤーとして投げ込まれている。
そのゲームがいつ始まり、どういうルールで進められているのか、自分はまだわからない。でも、とりあえず誰かが僕にボールをパスしてくるし、パスされたボールを「こっちへよこせ」と目で合図してくるプレイヤーがいたりする。あるいは、血相を変えて襲いかかってくるプレイヤーがいるので、とりあえず逃げる……そういうことを繰り返しているうちに、だんだんとどういうふうにすればゲームが先に進むのかだけはわかってくる……。
学びとは、そういうものである、と。
学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことである、という。
自分探しをする子どもたち
「自分探しの旅」に出かけた若者は最終的に何を見つけるのだろうか?
それはともかくとして内田氏はこの「自分探しの旅」の目的を「私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないか」と述べている。
なるほど、確かに、「俺はこんなところにいていい人間じゃない」と不当な評価を受けているとして、自分を評価してくれる他の場所に居場所を求めるのも「自分探し」の類型だ。
だが、「自分探し」というのは本来、「私自身を含むネットワークはどのような構造を持ち、その中で私はどのような機能を担っているか?」という問いのかたちをとるはずなのだ。
苅谷剛彦氏はこう語る。
人びとが何かを行おうとするとき、その行為の動機がどれだけ個人の心の内側から発するものか。教育心理学の用語を使えば、「内発的に動機づけられているか」どうかによって、私たちの社会はその行為を価値づけることに慣れ親しんできた。打算や利害によるよりも、自発性が尊ばれる。金儲けや権力・名声の獲得といった、自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる。個性を尊重する社会では、自己の内側の奥底にある「何か」のほうが、外側にある基準よりも、行動の指針として尊ばれる。
オレ的に見て、有用性があるんだったらあるんだよ!
傲岸のかのジャイアンを想起せられるフレーズだが、まさにそういった手荒な価値づけがあらゆる場面で行われているのだ。
もちろん、オレ的に有用性がないと判断されたら、それは棄却される。
エゴイズムの真骨頂。
そんな態度じゃ教育の崩壊の一途をたどってしまうよ。
悲嘆の声が、内田氏から聞こえてきそうである。
自立するということ
本書で、私はとある言葉に瞠目した。
「自立」というのは属人的な性格ではない。
「自立」は名乗りではなく、呼称です。周りの人から「あの人は自立した人だ」という承認を受けるということです。
「孤立した人間」を「自立した人間」として自己形成のロールモデルに掲げるということが四十年前くらいに日本社会全体で合意を得ることになった。
しかし、この「孤立した」状態は「学びからの逃走」における初期症状であった。
自分自身の価値観を学校システムに対等なものとして対峙させる。「これを勉強することにどんな意味があるのか?」という問いを突き付ける。自分にとって「価値がある」と理解できないものについては、これを学ぶことを拒否する。孤立化。しかし、彼らはある意味えらいのである。自分の尻を自分で拭いているのである。自分で学ばなことから生じるリスクを自分で引き受けるという自己決定に至ったのだから。
自己評価の高い、勉強ができない子どもたち
勉強をすれば孤独になると聞いたことがある。
勉強をしなければ楽観的になるという持論もある。
どちらも確証のない言葉かもしれないが、実際はどうだろう?
刈谷氏は「自己能力感と学習時間の相関」について調査していたところ、ある驚くべき結果を得られたという。
それは以下の通りだ。
生徒たちは単に「学校でよい成績を取ることは人間の価値と関係ない」という学校神話への否定にとどまらず、さらに踏み込んで「学校で悪い成績を取ることは人間の価値を高める」という反―学校神話に同意し始めているということだ。
悪いことをするのはかっこいい。
そんな風潮に似ている、いや、そのものずばりかもしれない。
相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、「将来のことを考えるより今を楽しみたい」と思うほど、「自分には人よりすぐれたところがある」という〈自信〉が強まるのである。
だが、この自信というやつが厄介で、「自信を持つ」というのはそのひとが属する社会集団において支配的な価値観に合致する場合だけだ。
小学生時代、足が速いやつが自信たっぷりだったのは、その集団が「足が速い人」こそ評価されるからであった。
だが、中学・高校になると、勉強ができる者が評価されるようになるので、多くの賢い人たちは自信たっぷりだった。
そういうことだろう。
(私自身、中学は自信たっぷりだった。高校は撃沈)
また、「自信を持つ」という目的は所属する社会集団の価値観や行動準則に同一化することでしか達成できないのだ。
だからこそ、自信というのは厄介なのである。
自信の虚弱性が露わになったところで、さて、「労働からの逃走」の章に入ろう。
2.労働からの逃走
自己決定
自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない、と著者は言う。
つまり、これはひとはつねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではなく、「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢をもたらす心身のダメージをカバーできる限り、自己決定は有用である、ということなのだ。
つまりは不条理なのである。
選択を強制されながら、その選択に責任を持たされる。
ニートはそういった文脈で生まれてきたのだ、と氏は推理している。
青い鳥症候群
青い鳥を探して、若者は旅をする。
いわゆる、青い鳥症候群である。
モーリス・メーテルリンク作の童話『青い鳥』の中で「チルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい仕事が見つかる」などといった現実を直視せずに、根拠のない「青い鳥」を探し続ける人たちを揶揄する言葉。
別に「青い鳥」を探すこと自体は悪くはないのだ。
みんながみんな青い鳥を探しに行ったらどうなるんだ? という話なのだ。
内田樹氏は『村上春樹にご用心』でも、述べていたことなのだが、社会を維持するためには「雪かき仕事」が必要だと言っている。
突然だが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を引用する。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。
この「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対に必要だ、と氏は言うわけなのだ。で、この「キャッチャー」仕事はイコール「雪かき」なのである。
共通点は、「人間世界の秩序を引き続き保ち続ける役職」であり、「感謝されない仕事」でもあり、「世の中に存在することを想像されない仕事」でもある。
「雪かき仕事」をするひとは朝早くから起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道端に寄せておく。起き出した人々がその道を歩いているうちには、もう雪かきをしたひとはいない。だから、誰がそれをしたのかは知らないし、当然感謝される機会もない。でも、その雪かき仕事をするひとがいなければ、道路は凍り付いたり、車が通れなかったりするわけだ。だから、そういった仕事をきちんとやるひとが社会の要所要所にいないと、世の中は回ってゆかない。
ライ麦のキャッチャーもそうだ。子どもたちが崖に落ちそうになったところをキャッチしても、彼らは感謝をせずに、またどこかへ駆け出すだろう。だが、そのキャッチャーがいなければ、子どもたちは続々と死んでいく。
そういった仕事が世の中にはたくさんある。
だが、「青い鳥」を求めるひとたちには、この「雪かき仕事」「キャッチャー仕事」に対する敬意が欠けている。むしろ軽視しているともいえる。そういった仕事はほかのひとに任せて、自分たちは「クリエイティブで、やりがいのある仕事」を求めている。
氏は別にみんながみんな「雪かき仕事」をしろと言っているわけではなく、「自分の成功を求める生き方」と「周りの人にささやかな贈り物をすることを大切にする生き方」の、そのどちらも社会にとっては必要で、両方のタイプの人がいないと社会は成り立たないと述べ、メディアで煽動される「自己利益の最大化」思想へ警鐘を鳴らし、「まわりのひとの不利益を事前に排除していくような」目立たない仕事も人間が集団として生きていくうえで不可欠の重要性を持っているということがあまり大々的にアナウンスされていないことに嘆いているわけなのだ。
転職を繰り返す思考
転職を繰り返している人について内田氏はこう述べている。
現に転職を繰り返している人を見ると、仕事がつまらないから、職場での人間関係に投資しない、仕事の質を上げる努力も怠る、その結果、勤務考課が下がり、つまらない仕事しか与えられなくなり、耐えきれずに転職する……という悪循環に陥っている人が多いように思われます。
やっている仕事に嫌気が差して、仕事を変えることを「成功」と見做した場合、「やっている仕事に嫌気が差して、仕事を変えなければいけない状態」に立ち返ることを無理やり望ましい状況として受け入れなければならないわけだ。辻褄合わせ。
自ら職場内での人間関係を悪化させ、働きにくくなる環境をつくりだし、「辞めて正解だった」という状況をつくりだしてしまうと、また次の職場でもその「正解」をつくりだしかねない。
あくまで「転職したくなるような仕事」を選んだのは、自分自身なのだ。
失敗の責任を他人に押しつけて、自分には何の過誤もなく、自分のやったことはすべて正しかったということにすると、その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。
自縄自縛。
「青い鳥」を求め続け、「今、ここでベストを尽くすこと」を拒否し、周囲のせいにしていたら、ほい、完成『ニート』! ということなのだ。
3.最後に
いろいろ述べてきて、まとまりがないなと自分でも思う。
(実際、本書には消費者マインドがどうとか、時間がどうとか、まだまだ語られている。
正直、難解な部分もあるので、繰り返し繰り返し読む必要があると思う。)
以上に書いてきたのは、とくに感銘を受けた部分で、そのセグメントを無秩序につらつらと述べてきたのだから、まとまりがないのはご容赦いただきたい。
まあ、このブログを読んでいるひとなんてもういないだろうけど。