榎本博明『教育現場は困ってる 薄っぺらな大人をつくる実学志向』

 最近、いろんな教育系の新書を読んでいるのだが、筆者が小学校・中学校・高校教師というひとはいまだ見たことがない。だいたいが、大学の教授である。そのため、大学の授業をベースに教育が語られることが多い(内田樹氏とか完全にそうだ)。

 だから、授業の改善策についての提唱が机上の空論だったりする。学校教育は定められたカリキュラムの中で授業が進み、その中には残念ながら自由度はかなり低い。(小学校は別かもしれないが)

 今回、紹介(紹介ではないか)していくのは、またしても筆者が大学講師である著書。『教育現場は困ってる』というタイトルだが……。まあいいや、とにかく書いていこう。

 

 

 

第1章「授業が楽しい」とは、どういうことか

 

 

 授業を楽しくするためにどうしたらいいか。

 雑談を増やすとか、ゲームを行ってみるとか、そういった発想に至るのは非常にまずい。

 実際、小学校で英語教育を行う際に、ゲーム的要素を持ち込んでいることが多いそうで、その結果、アンケート調査にて「英語の授業は楽しい」という意見が多数寄せられている。

 だが、果たしてこれでいいのだろうか? というのが筆者の意見である。

 帰国子女(英語圏からの)の児童にとっては、その英語の授業は至極退屈なものになるのではないか? 

ゲーム的な要素てんこもりの授業は勉強ではなくただの遊びだから知的鍛錬にはつながらないのじゃないか?

 そもそも、授業を「おもしろい」「つまらない」という軸にとらわれすぎているのではないか?

 そんな疑問が出てくる。

 ……

 英語教育において、以下のような通説がある。

「中学・高校・大学で英語の授業を受けても、全然しゃべれるようにならないから従来の授業は役に立たない、実用英会話にシフトすべき」

 だが、これは大いなる勘違いである。

 学校の授業というのは、単に実用のために受けるものではなく(!)、頭の鍛錬、知的発達の促進のために受けるものなのである。

 だから、従来の長文読解のような、英語を日本語に翻訳するというのは、国語力と英語力を駆使した知的格闘技のようなもので、知的刺激に溢れるものであるといえる。

 

 また、筆者は「知識受容型の教育から、主体的に学ぶ教育への転換」についても批判的な意見を呈している。

 何年も前の、知識詰め込み教育を受けてきた学生のレポートが、今の学生に比べて、レベルが明らかに高いことから、「本をよく読み、知識も多く取り込み、語彙を豊富に持つ学生の方が、抽象的な概念を駆使して思考を深めることができる」と述べている。(だが、現代の若者はスマホやゲームなどの誘惑に負けて、勉強しなくなるケースが多いので、この意見は一概に賛成できない)

 また、AOや指定校などの推薦組が大学に入ってから授業についていけないなんて事案もけっこう起こっていて、そういった意味でも昨今の知識軽視の風潮に懐疑的である。(もちろん、推薦組にだって優秀なひとはいるし、一般入試で入って来ても落ちこぼれるひとはいる。……だが、AOや指定校で、主体的に学ぶ姿勢や主体的に生きる姿勢を評価できるかといわれれば、首を傾げる)

 

 また、この章では最後に「アクティブ・ラーニング批判」をしている。

(私の勤める学校でも、アクティブ・ラーニングなんて現実的ではないという先生もいた)

 結論から述べると(それなりの怨嗟もこめて)、

 

 上の学校ではできるんだろうね!

 

 私が大学三年生のときに実習で行った中学校では、アクティブ・ラーニングが主流ではあったし、私が通っていた高校でもそういったアクティブ・ラーニング手法を用いた授業を行っていたが、もう一度言うと、

 

 上の学校ではできるんだろうね!

 

(なんか、私が行っていた高校が賢いってことを自慢しているみたいだ)

 

 そもそも、アクティブ・ラーニングの特徴は以下のようなものだ。

・学生は聞いているだけの状態よりも授業に関与している

・教師から学生への情報の伝達よりも、学生の能力開発を重視する

・学生は高次の思考活動(分析、統合、評価)に従事している

・学生は何らかの活動をしている(読書・議論・作文など)

・学生自身の態度や価値観に基づく探索活動の重要性が強調される

(山内祐平「アクティブラーニングの理論と実践」、永田敬・林一雅編『アクティブラーニングのデザイン――東京大学の新しい教養教育』東京大学出版会 より)

 

 目標が高いのである。

 

 アクティブ・ラーニングは知識があるひと同士が話し合うことで、より学びを深化させていくのがねらいである。近年、「教えない授業」がいいみたいな風潮もあるそうだが、知識のない者同士がいくら意見交換しても、議論は深まらないし、なによりも「授業代がもったいない!」よねって話。

 もちろん、議論をするために事前準備をしないといけないため、そういった準備に時間をかけて学びを深めようとするひともいるが、議論に参加するひとが全員そんなひととは限らない。思い付きで話すひともいるだろうし、積極的に意見を出さない人もいるし、逆に議論を掻き乱すようなことを言うひともいるし、関係のない話をしだす人もいるかもしれない。

(厄介なのは、思い付きでものを言うひと、議論を掻き乱すようなことを言うひとだ。彼らは議論のあとで、なぞの達成感を味わう。いい議論ができたとでも思うのだろう。グループワークに対する自信だけを身につけてしまう。これで自信満々にプレゼンするも、中身すっかすかの人間が誕生する。……僻みのようだが、本書にそう書いてあるので……便乗)

 

 つまり、なによりもまず知識を吸収する必要がある。

 アクティブ・ラーニングはそういった知識吸収の場を奪っていると言えるだろう。

 

第2章 「能動的に学ぶ」が誤解されている

 

 

 なるほどなって思った文章。 

 

 まあ、とりあえず長いんだけど、引用してみる。

 

 かつてのような変化の乏しい静的な社会では、知識の伝達が価値を持ち、「知識伝達‐知識受容」という形の教育が有効だった。しかし、これからの変化が激しく予測不可能な社会では、既存の知識の伝達の価値は薄れるため、知識の伝達‐受容といった形の教育では対応できない。ゆえに「知識伝達‐知識受容型」教育から脱して、学習者が受け身にならずに能動的に学び、学んだことを生活実践のなかに活かせるようにしないといけない――。

 このところの教育改革においては、そのような主張が盛んに言われている。

 ITの発達により私たちの生活は目まぐるしく変化し、この先にどのような社会になっていくかの予測は非常に難しい。だが、私たちがこれまで学んできた知識というのは、そんなに閉じたものばかりだろうか……。

 私は、社会の変化にどう対応していくか、あるいは社会をどのような方向に持っていくべきかを考えるにも、知識が大きな力になると思う。

 教育改革に関する議論のなかでは、もはや知識を学ぶ時代ではない、自ら考えるような学びを中心にすべきであるということが提言されたりするが、知識がないより知識がある方が思考が深まり、適切な判断ができる可能性が高いだろう。

(中略)

 最先端の技術的な知識ばかりが取り沙汰されるが、目まぐるしく変化してきた科学技術も、それを支援してきた政治体制も、思想と深くかかわっているし、人間の普遍的な欲望とも深くかかわっている。

 これからの時代に役立つ知識を学ぶ必要があるということになると、学校の勉強は実社会では役に立たない、仕事で使う実践的スキルを学ばせるべきだなどと、非常に浅いレベルでの表面的な関連を連想する傾向がある。だが、たとえばプレゼンテーションのスキルばかりを鍛えても、物事を深く理解し、考える力、想像力を飛翔させる力が鍛えられていなければ、良い仕事ができるとは思えない。これからの時代を生き抜く力、これからの時代を創造していく力をつけるための教育となると、もっと深いレベルの関連を想定しておく必要があるだろう。

 

 最近よく言われる「生きる力」を育むためには、土壌となる「知識」が必要となる。(つまり、知識注入型の授業を「悪」とみなすのはよくないということだ)アクティブ・ラーニングはそもそも基盤となる知識が生徒になければ成功しないものであるということは前の章で述べた通りだ。

 開けた学習のみならず、閉じた学習もせよということなのだ。

 これは前に紹介した『勉強の価値』に似ている。

 個人学習をすべしということなのである。

 

 

 

zzzxxx1248.hatenablog.com

 

 

 アクティブに学ぶというのは、別にグループ活動によってしか得られないものでは決してない。

 教師による授業に感化されて、それについてもっと学びたいと思って、それに関する資料をあさったりする。

 これだけでも立派な「アクティブ」な学びだろう。

 

 内面的な学びを深めていこうということなのである。

 学びを深めていけば、「わかる」につながるし、「わかる」から「楽しい」につながるのである。アクティブ・ラーニングによって、その「わかる」の段階をすっ飛ばして、「楽しい」に持って行くのは暴挙であると言うのは肯けるだろう。

 

第3章 学力低下にどう対処すべきか

 

 

 この章では前にも紹介した新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の一部を引用して、子どもたちの読解能力の欠如を嘆いている。

 

 私は国語教師なので、なかでも興味深かった「実用文中心の国語教育の先には……」というチャプターの内容をまとめていきたいと思う。

 

 2022年度から施行される新学習指導要領。

 生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書。

 こういった問題が今後の「大学入学共通テスト」で出題されるという通達が出され、教育現場は非常に驚いた。つまり、国語科は文学を学ばず、実用文に重きを置くようになった

 それは教育現場にとどまらず、日本文藝家協会出久根達郎氏も苦言を呈している。

 

 文科省は本気でそのような教科書を作るようなので、今のうちに大反対ののろしをあげなければいけないと思う。駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学が無駄であるという考えであるようだ。

 

 本書ではないが、確定申告書の書き方を学校で学ばせるとか、経済について詳しく学ばせるべき、金融について詳しく学ばせるべきとか、そういった意見もよく聞く。

 

 これに対する私の意見。

 

 つまらん

 

 つまり、実用性のある勉強を科目に据えるというなら、きっと「日本史」「世界史」「古典」とかは取っ払えってことだから、そういった科目を全部失くして「金融」「経済」「税制」といった教科名にして、新たな科目を設立する。

 

 つまらん

 

 と、思うのですが、どうだろうか。

 

 教育に「おもしろさ」を求めるのはどうかと思うと言われても返す言葉はない。

 だが、子どもたちに「おもしろくない」ことを勉強させるのはどうかと思う。

 さっき述べた「わかる」→「おもしろい」の公式が通用しないのが、確定申告のやり方だ。

 確定申告書の書き方が「わかった」→「おもしろい」になるだろうか? いや、ならないだろう。

 それに確定申告の書き方だとか、契約書の読み方だとか、やっていることがいちいち「具体的」過ぎる点もよくないと思う。

 公民の勉強で、選挙の仕組みについて学ぶことがあるが、あくまでそれはおおよその仕組みであって、細部には踏み込まない。そういった「抽象性」を帯びているからこそ、「おもしろい」授業が実践できるんだと思う。

 具体的なことをやらせる授業で「おもしろさ」を演出できるだろうか?

 

 それにこんなことを言ったらダメなんだろうけど、生徒はみんなが期待している以上に勉強をしない。

 もちろん、積極的に勉強するひともいる。

 だが、勉強は勉強、生活は生活と割り切っている部分がある(実際、テストにはでないが、一般教養として覚えておいた方がいいと言うと、みんな途端に聞くのを辞めてしまう)。

 私だって、高校生のときにエクセルの勉強をしていたはずなのだが、真面目に勉強しようと思ったのは社会人になってからだ。

 だいたい、勉強の大切さに気付くのは、だいぶ後のこと。

 勉強の大切さに気付いていない+社会人になってからのことを想像できない段階で、確定申告のやり方を授業で教えたところで、何の意味がある?

 実用性のある勉学を! と声高に叫ぶひとたちはみな大人である。

 大人になった今だからこそ、好き勝手意見が言えるのだろうけど、彼らが学生のときはもっと実用的な勉強をしたいと思っていたのだろうか?

 たしかに「こんなの勉強して何の役に立つんだよ!」といっていた人はいたが、きっとそういった人たちって、自分が勉強をしていないこと、勉強したくないことを正当化するためにいっているにすぎないのだと思う。

(私の勤務校でエクセルの授業をしていたのだが、「これを学んで何の意味があるの?」といっていた生徒がいた。このご時世、パソコンを使えるスキルはめちゃくちゃ必要なのにね)

 

 話がだいぶ逸れた。

 

 えっと、実用文を読ませる授業について、だったね。

 

 三田誠広(『いちご同盟』の筆者)は「小説を読むと地頭がよくなると、進学校はみなわかっている。私立の進学校は大量の読書をさせて、議論をさせる。ところが文部科学省が考えているのは中から下、二人に一人が大学に進学する時代になり、簡単なレポートも書けない大学生がいるので、ちゃんと実用的な論理国語を学ばせる方針だ。」と述べている。

 まあ、本を読めということだ。

 本を読めば、読解力もよくなるし、興味関心の幅も広がる。

 なぜ、そういえるのか? 

 私がいい例だ。

 学生時代、ほとんど本を読まなかった。

 読解能力もあまりよいとはいえず、興味関心の幅も狭かった。

 だが、本を読むことで、読解能力の向上のみならず、自分の視界が広がったように思った。

 あー、学生時代に本を大量に読んでいれば!

 

 経験が少ない人ほど、ほんと本は読んだ方がいい。

(ノリで生きていける人はそれでどうぞ)

 

第4章 楽しいことしかやりたくない!

 

 

 好きなことをやって生きているひとはどれくらいいるのだろうか?

 たとえば、化粧品が好きなひとが、そういった業界に就いたとしても、思っていたのと全く違う仕事をやらされるといったことが起これば、それは「好きなこと」をやれていないということになる。こういったことはたびたびおこる。

 だから、学校現場で「好きなことをやろう」と吹聴する風潮はあまりよくないと筆者は言う。(私自身、学校現場というよりも、あらゆるジャンルにおけるスペシャリスト(すなわち成功者)が「好きなことをやっていこう」と言いふらすこと自体よくないことだと思う。ユーチューバーが「好きなことで生きていく」というせいで、子どもたちが変に夢を見てしまっている

 まあ、でも学校でキャリアデザインなるものをすることがあるのだが、だいたい齢十五六の学生が将来の夢をみつけられるかどうか、はなはだ疑問ではある。

 将来の夢がないなら、まずは「好きなもの」に着目するだろう。

 だが、そもそも「好きなもの」って見つけるものなのか?

 瞬時に「好きなもの」が浮かばないなら、もうそのひとには「好きなもの」であると胸を張って言えるものがないということではないか。

 

 前に述べた、〈「わかる」→「楽しい」〉という構図。

 これをここでも適応してみよう。

「自分が成長しているという実感」→「楽しい」

 つまりは、好きなものをやるから「楽しい」ではなく、自分ができるようになる、スキルアップしている実感があるから「楽しい」のだ。

 これが筆者の提供する仕事に対する考え方だ。

 

 あと、「楽しい」は「楽」という字を使うが、「楽しい」と思える過程には当然「苦」がある。勉強で「わかる」に至るまで「苦」があるように。

 当たり前のことかもしれないが、その当たり前を忘れつつあるのではあるまいか?

 

第5章 学校の勉強は役に立つ

 

 

 結論から述べると、学問は役に立つか立たないかはどうでもいいことである、ということだ。

 就職後に実学に触れるのは遅いとよく言われる。しかし、「古典」とか「微分積分」とか「日本史」とか、その道を進むひと以外はまず学ぶことのないジャンルであるのだから、それならばせめて就職するまでの学校現場では実用性とは離れた学問を学んでもいいのではないか? 

 本書を読み、そう思った。

 やはり実学ばかり勉強するのは、どうも味気ない感じがする。

 学ぶ喜びも感じられないだろう。

(「簿記」や「ビジネスマナー」……社会では必要かもしれないが、楽しいと思える要素はまずない。「古典」や「日本史」などは、楽しいと思える瞬間があるだろう)

 

 塩野七生はこう言っている。

「人生で役に立つことがひとつだけある。それは教養を身につけることだ」

 幅広い教養を身につけることで、何か目の前に課題が生じた際に、さまざまな視点から検討し、頭の中にあるいろいろな引き出しから必要な知識を引っ張り出しながら、自分の進むべき最善の道を模索することができる。

 実学ばかりを学んでも、出来上がるのはうすっぺらな人間である。思考が浅く、知識の幅がせまい人間である。

 そもそも国語で「契約書」だとか「生徒会の取り決め」など、そんなものを学ぶくらいなら、骨のある評論文を読ませた方が読解力も向上するし、その評論のジャンルについての興味・関心の扉も開くことだろう。(絶対とは言えないが)

 

 私は従来の国語のやりかたを支持している。

 だが、それはあくまで現代文についてである。

 古典については、何とも言えない。

 あれほど大量の助動詞を学ぶ意味とか、古文単語を覚える意味とか……。

 労力がもったいないんじゃないとは思う。

 古文単語を覚えるくらいなら、英単語を覚えたほうが有意義だし。

 古文を読むために必要な土台となってくるのだろうが、わざわざ原文で読む必要はないのでは、とも思う。対して、古文は昔の日本語で書かれているのを読むからこそ味があるのだ、という意見が飛び出てくるのも予測できる。

 

 古典をめぐる論争。

 これは永遠に決着しないであろう。

 

まとめ

 

 

 本書の内容というか、本書を借りて、自分の思想をぶちまけた感じがする。

 そのため、本書の内容の三割程度しか述べていないように思える。

 本書にはもっといろんなことが書いてあるので、是非。